出会った瞬間直感した。貴方は私の、『運命』の人――





















 図書館、である。



 義妹のように読書家でもない恭也には、あまり縁のない場所でもあった。ただ、いきなり

『暇を潰してこい』と着の身着のままの状態でアースラを降ろされ、故郷に似た街に放り出

された身としては、金を使わずに暇を潰す場所として、こういうところしか思いつかなかっ

たのだ。




 街をうろついていたら、会いたくもない人間に会いかねない。図書館という場所がら、特

定のあるメガネについては会う可能性がなくもないが、彼女が出てきた場合は地獄突きでも

食らわせて逃げ出せばいい。



 あれは、そういう生物だ。世界や次元が変わっても、それくらいの扱いをしても罰は当た

らないだろう。



 時刻は午後五時。夕食はフェイトとアルフの作った物を食べることになっているから、そ

ろそろ出発しないと不味い頃合だった。



 読みかけの文庫版水滸伝をぱたん、と閉じ、読んでいない数冊を持ったまま受付まで歩い

たところで、気付いた。



 貸し出しカードを持っていないのだ。時の庭園に来た時には刀はおろか財布すら持ってい

なかったため当然なのだが、それがなければここで本を借りることはできない。持っていた

としても、同じ図書館とは言え違う世界のカードが使えるのかも分からない。



 だが、仮に本を借りることの出来るカードを持っていたとしても、読む時間を確保できる

とも限らない。戸籍の確保を頼んでおいたリンディから、何時呼び出しがかかるか分からな

いし、呼び出されたらこの世界にいない可能性が高い。公孫勝の致死軍がこの先どうなるの

か、気になって仕方がなかったが、本は逃げることはないのだと諦めるしかなかった。



 本を持った人間がカウンターに向かって歩いてくれば、貸し出し希望の人間だと思うだろ

う。その人間が本を持ったまま、受付の前で立ちつくしていれば、不審に思われるのも当た

り前だった。そんな表情を向けてくる、まだ年若い司書に、苦笑を浮かべて踵を返そうとし

た、その時である。



「あ、あの、お困りですか!」



 声量はそれほどでもなかったが、精一杯の自己主張をした声が背後から聞こえた。声をか

けられると思っていなかった恭也は、それが聞き覚えのない声であることに安堵しながら、

振り返る。



 声と同じく、見覚えのない少女だった。ただ、記憶の中の友人に似ている何かを、その少

女から感じた。気が純粋な人間とは明らかに違う。人ではない生命の気配。



(夜の一族か……)



 なれば、知り合いは限られる。それが紫色の髪となれば、心当たりは一人しかいなかった。



 だが、目の前の少女は『彼女』ではない。『彼女』は困っている『知らない』人間に手を

差し伸べられるほど、他人慣れはしていなかった。



 例え向こうがこちらを知らなくても、知人に会うことは精神衛生上避けたかった。もし会

っていたら、神速を使ってでもその場から逃げ出すくらいの覚悟を固めていた。



 だが、目の前の少女は知人の気配は感じさせるものの、知らない人間である。知らない人

間で、ましてや少女であるのなら、それほど気にする必要もない。出来るだけ普通の人間で

あることを装いながら、適当に答える。



「いえ、貸し出しカードを忘れてしまいましてね……」



 夜の一族であるのなら、目の前の少女は『彼女』の縁者なのだろうが、そうとは思えない

ほど儚い印象の少女だった。聖祥の制服。アースラで見た妹に似た生物と、それほど年齢は

変わらないように見えた。



 同級生だとしたら面倒だな、などと内心で考えながらも、それを顔には出さない。下手に

相手に会話のチャンスを与えては、この世界に無駄に繋がりを作ってしまうからだ。立場を

保障してくれたリンディには感謝しているが、知り合いに似た人間に会うかもしれないとい

う気苦労を考えると、態々この街に落としてくれた彼女には、女性とは言えども文句の一つ

も言ってやりたくはなる。



「あの、それでしたら私のカードを使いますか?」



 言うが早いか、少女はポケットからカードを取り出し、ずい、と差し出してきた。風邪で

も引いたかのように、少女の顔は赤い。瞳は泳いでいるが、こちらをじっと見つめてもいる。



 挙動不審。恭也が少女に抱いた印象は、そんなものだった。悪い人間ではないのだろうが、

社交的な人間ではない。その辺りだけは『彼女』に似ていた。ただ、目の前の少女は『彼女』

よりも、いくらか優しい。



「せっかくの申し出ですが、何時呼び出されて違う街に行くか分からんので、借りても返し

に来ることができないかもしれんのですよ。ここまで来て初めて気付きました。いや、お恥

ずかしい」

「そうですか……」



 叱られた子犬のように、少女は項垂れる。



「ですが、声をかけてくれたことには感謝します。ありがとうございました、お嬢さん」

「いえ……そんな、お礼なんて……」



 反応も奥ゆかしい。『彼女』なら踏ん反り返って謝礼でも要求しているだろう。出会った

ばかりの頃の『彼女』ならばこういう反応も出来たのかもしれないが、深い関係になった後

ではそんな幻想を抱くこともできない。



「では、俺はこいつを元も場所に戻してきます。お気をつけてお帰りください」



 顔の近くで文庫本をひらひらと振ってみせ、踵を返す――ことができなかった。少女が服

の裾をぎゅっと握り締めている。尽く、見た目と違う行動を取る少女だった。



「なにか?」



 掴んでまで引き止めた以上、何か用事があるのだろう。何か少女の気を引くようなことを

した覚えはないし、恭也自身はこの少女に覚えはない。もしかしたら、こちらの世界の恭也

の知人であるのかもしれないが、今現在の恭也と自分は見た目がそれなりに違う。



 妹に似た生物には『お兄ちゃん』と呼ばれてしまったが、他人の空似であると押し切ろう

と思えば押し切れる。実際、この世界の高町恭也は、自分と別人なのだから。



「いえ…………その、ここにいれば、また会えますか?」



 この少女は何を言っているのだろうか。女は不可思議な生物であるというのは、家族を見

ていれば解ることだったが、少女の反応は恭也の常識を超えていた。



 見た目が人を寄せ付けないものであるということは、理解している。実際、知らない人間

から声をかけられることなど、皆無と言ってもよかった。女子供であれば尚更で、特に少女

のようなタイプは近寄ってもこない。



 また会えるかと問うということは、また会いたいと思われているということ。つまり、多

かれ少なかれ好意を持たれていると考えられる。打算に裏打ちされた発言と考えられなくも

ないが、少女がそこまで汚れているとは思いたくなかった。



 何がどうなっているのか解らない。しかし、少女の瞳は真摯であるのは事実で、そんな少

女に嘘を答えることは、良心が許さなかった。フェイト達以外と交流を持つことは、精神衛

生上危険ではあったが、一人くらいならいいだろうと思わせるくらいには、少女は魅力的だ

ったのだ。



「会える、と思います。いつ、というのは約束できませんが……」

「また、会えるんですね?」

「会えます。俺がこの街に来た時には、必ずこの場所に立ち寄ることにしましょう。その時

貴女がここにいれば、また会うことができますよ」

「良かった……」



 安堵のため息。何が良かったのか理解できないが、納得してくれたのならばそれでいい。

図書館限定なら、知人に似た人間に会うことも少ない。図書館に頻繁に足を運ぶのは、恭也

の知る限りではメガネだけだ。



「では、俺は本を戻してきます。貴女はこれから帰るところで?」

「はい。家族を待たせてますので」

「なるほど。それではまた。いつかここで会いましょう」

「はい。またいつか」



 頭を下げ、少女はぱたぱたと走っていく。その背中が見えなくなるまで見送った後、本棚

へ。ぱらぱらと文庫本を捲りながら歩いていると、胸ポケットに押し込んだプレシアが微か

に声を発した。



『主様、尾行されてますわよ?』

「知っている。気配の絶ち方はそれなりだな」



 魔法技術に頼るのではなく、純然たる技能のみで気配を絶っていた。とりあえず振り向い

てみるが、視界に入るような真似はしていない。現地の人間に尾行されるような覚えはない

が、後ろの人間は明らかに自分を注視していた。人違いではないと思う。



『戦います?』

「図書館では、戦闘してはいけないという規則がある。やるのなら、外に出てからだな。

だが、何故俺を尾行するのかは気になる。締上げて吐かせよう」

『野蛮ですこと……でも、そんな主様が大好きですわ』

「俺もそんなお前が大好きだ、プレシア」



 背後の視線を意識しながら、目的の本棚の前で右折。その瞬間に神速を発動。棚をぐるっ

と迂回して、同じく右折する尾行者を視界に捉える。



「あ、あれ?」



 こちらを見失い、あろうことか声を上げる尾行者に心中で評価を下す。0点。落第だ。



「俺に、何か用か?」



 壁によりかかり、心底相手を見下したような表情を意識して浮かべ、尾行者に問いかける。

尾行者は小さく悲鳴を上げて、こちらを振り向いた。野暮ったい眼鏡に、みつあみにされた

黒髪。大人しそうで、文学少女然としていたが、身のこなしは機敏なようだった。



 見覚えのあり過ぎるその顔に、深く、深くため息をつく。



「あー、あの、何でそこに立ってるの、かな」

「お前は俺の存在にまでケチを付ける気か? どこに立っていようと俺の勝手だろう?」

「いや、そういうことを言ってるんじゃなくてね? ここを曲がった貴方が私の後ろを取る

のは、物理的に不可能なんじゃないかと……」

「俺は最初からここにいた。お前が気づかないで通り過ぎただけだ」

「そんなはずは……」

「ない、と言い切れるか?」

「うう……言い切れない」

「なら、この話はこれでおしまいだ。で、どうして俺を尾行した? 返答次第によっては、

それなりに痛い目を見てもらうことになるが」

「妹の友達が、目つきの悪い知らない男の人と話してたから、心配になって後をつけたの。

すぐに別れて帰っていったけど、変質者とかだったら困るじゃない?」

「目つきが悪くて悪かったな」



 す、と音も無く『文学少女』に対して踏み込み、デコピン。防御をする暇もない。衝撃で

首を仰け反らせた『文学少女』は、呻き声をあげながら、その場に蹲る。



「…………うぅ、痛い」

「痛くなるように打ち込んだ。そうでなければ困る」

「というか、初対面の人にこんなことするなんて、ちょっと失礼じゃない? 貴方、幾つ?」

「今年で16になる……はずだ」



 生まれてからの年数なら26年と断言できるが、肉体の年齢に関しては自信がない。こち

らの世界に来る過程で、何がどう作用したのか知らないが若返ってしまったのだ。膝も完治

とまではいかないが、気の修練をこのまま続けていけば完治するだろうくらいまでは、回復

している。最初は自分が知っている体の感覚と違うせいで、動くことにも苦労したが、最近

はようやくそれにも慣れてきたところだ。



「……はず?」

「気にするな。16だ、今年で」

「え、嘘、16歳? 高1なの? 私より年下なんだ」

「てい」



 再びデコピン。攻撃を警戒していたようだが、そんなものはお構いなしに額にヒットさせ

る。貫も徹も使っていない。技術だけで抜くことは可能だった。恭也の知っている眼鏡と比

べれば、まだまだ技量は足りていない。



 しかし、この年代だった頃と比べてみると、反応は悪くなかった。やはり、師が違うと育

ちも違うのだろう。自分の不甲斐なさを見せ付けられているようで、苛立ちも増す。



「理不尽だ……今のデコピンはどうして?」

「お前より年下という事実にムカついた。お前、何年だ?」

「高2だよ。というか年上にお前? さすがにちょっと失礼なんじゃないかな」

「喧しい。お前はお前で十分だ、それともメガネとでも呼んでやろうか?」

「それはちょっとあんまりなんじゃないかな! 私には高町美由希って名前がちゃんとある

んだから」

「メガネにしては大層な名前だ。その名前に敬意を評して、美由希と呼び捨てにしてやる」

「メガネとか呼ばれるよりはその方がいいけど……」



 普通は初対面の男に名前を呼び捨てられることなど、許容できるものではないのだろうが、

美由希は不承不承といった感じで、それを承諾した。当然拒否されるものだと思っていた恭

也は、逆に拍子抜けする。



「……どうしたの? 私、何かおかしなこと言ったかな」

「お前がおかしいのは多分、いつものことなんだろう。それより、俺なんぞに呼び捨てにさ

れて平気なのか?」

「? あー、そう言えばどうしてなんだろうね。何でだかよく解らないけど、気にならない

みたいだよ? ちょっとだけムカつくけど、君にはそう呼ばれるのが自然な気がする」

「ナンパにしては妙な切り口だ」

「…………少しだけ、君がどういうキャラなのか解ってきたよ。いじめっ子なんだね。そう

いう言葉使いも、何故か気にならないんだ。私の呼び方と一緒で、君はそうしてるのが自然

な気がする」

「……変な女だ、お前は」

「お互い様だよ」



 はぁ、とため息をつく美由希にデコピンを打ち――こめなかった。指が額に届く寸前で、

腕を掴まれた。得意そうに、美由希が口の端を上げる。心の底からムカついた。



「用事はそれだけか?」



 美由希の腕を強引に振り切り、文庫本を本棚に戻すと、返事を待たずに歩き始める。置い

ていくつもりで歩きだしたのだが、美由希は何故だかついてきて、隣に並ぶ。



「まだ! あー、本当はもう用事なんてなかったんだけど、たった今できた」

「何だ? こう見えても俺は忙しいんだ。下らない用事なら心の中にしまって、未来永劫忘

れていてほしいんだが」

「くだらなくはないよ。君の名前、教えてくれる?」

「…………なんだって?」

「だから、君の名前。私だけ呼び捨てにされるってのは、さすがに不公平だよ。私も君を呼

び捨てにするから、君の名前を教えて?」

「恭也だ」



 とぼけてやろうかとも思ったが、正直に答えることにした。


 名前を聞いた美由希は、足を止めぬまま、怪訝な顔をする。恭也、と一度小さく呟くと、

じっとこちらの瞳を見つめてくる。



 綺麗な、黒い瞳だった。鍛錬など関係なく間近で顔を見るのは、前の世界を含めても初め

てだった。義妹でも、弟子ではない。その事実が余計に、目の前の少女を客観的に評価させ

た。癪ではあるが、認めよう。こいつは、美人だ。



 そう思うと、また余計に腹が立った。



「きょうや? 恭しき也?」

「残念ながらその通りだ。だが、俺を呼び捨てにしたいなら覚悟しろ。機嫌が悪かったら、

何発でも打ち込んでやるからな」

「またまたー」

「俺は冗談は嫌いだ。やると言ったらやるぞ? それでもいいなら呼んでみろ」

「きょーうやっ」



 今度はデコピンですらなく、手刀を首筋に――突きつける。打ち込みはしなかった。それ

を見た美由希が、にやにやと見つめてくる。



「やっぱりね、君はそうなんじゃないかと思ったんだ。うちの兄に雰囲気が似てるの」

「ほう。それはまた、取っ付き難そうな兄上殿もいたものだ」

「普段は意地悪だけどね。根っこのところでは、優しいんだよ。うちの兄も、君も」

「会ったばかりの男にそういうことを言うのは、危険だぞ?」

「これでも君より人生経験はありますから」

「たった一年じゃないか……」

「いいの。一年でも先輩は先輩なんだから、少しくらいは私のこと敬ってよね」

「敬われるようなことをするのならな。そんなことがあるとも思えないが……」

「いいよ、そのうち見返してあげるから」

「まぁ、期待しないで待っておく」



 自動ドアを開け、外に出る。まだまだ続く美由希の物言いを適当に受け流しながら、遠目

に人だかりがあることに気づいた。足を止めてそれを眺めていると、美由希もそれに気づい

た。



「なにかな、あれ」

「普通ではないことが起きたのだろうな。救急車とか、そんな単語が聞こえるが」

「へぇ……この距離で聞こえるんだ。すごいね、恭也」



 彼我の距離は50メートルはある。誰でも聞こえるという距離ではなかった。



「俺は耳がいいのだ」

「それにしては良すぎると思うんだけど」

「では、凄く良いと言い換えよう。それ以上突っ込むな。しつこい女は嫌われるぞ」

「でも、お互いのことを知りたいと思うのって、悪いことじゃないと思わない?」

「思う。だが、お前に限って言えば話は別だ。ついてくるなら黙ってついてこい」

「何か、君って凄い自分上位だよね」

「俺が上位なのではない。お前が下位なのだ」

「それは嫌だなぁ……」

「嫌だったら俺の前で活躍でもしろ。そうしたら、中位くらいに上げてやらないでもない」

「君は私のお師匠様か何か?」

「師とは弟子を教え導く者だ。突き放すだけの『師匠』ではお前も嫌だろう。さっさと何処

かにいったらどうだ? どんな人間か解ったのなら、もう興味は失せただろう」

「全然。むしろ興味が沸いたよ。こんなに俺様な人、初めて見たもの」

「時間を無駄にしても知らないからな」



 美由希を無視して人だかりまで駆け寄り、囲いの中央にまで踏み込む。そこでは怪我をし

たらしい男性に、複数の人間が応急処置をしていた。知識はあるようだったが、慣れていな

いのか手際が悪い。



「どいてくれ」



 もたついていた数人をどけると、既に用意されていた道具を使って、即座に処置を施す。

手際の良さに、周囲の人だかりから疎らな拍手が上がった。



「すいません、助かりました」

「大したことではありません。それより、こんな場所で何故怪我を? 見たところ切り傷

のようでしたが」

「それが、スーツにサングラスなんて怪しい格好した男が数人がかりで女の子を連れてい

こうとしてたからさ。止めようとしたらこんな有様さ。だから大声で助けを呼んだら、そ

いつら女の子抱えて逃げやがった」

「そいつらはどの方角に……いや、誘拐されたのはどんな女の子でした?」

「聖祥の制服を来た、小さな子だったよ。多分小学生だ。ウェーブのかかった長い髪に、

白いヘアバンド――」



 男の話を最後まで聞かずに、恭也は駆け出していた。誘拐犯が逃げたらしい方向に大よそ

の検討を付けると、胸ポケットの中のプレシアに話しかける。



「索敵。さっきの女の子の気を探ってくれ。まだそれほど遠くまで逃げてはいないはずだ」

『そう仰られるだろうと思って、既に捕捉していますわ。案内はいたしますから、ご安心く

ださいませ』



 仕事の早さに、ポケットを軽く叩くことで答えた。



 自分でも誘拐犯の逃走ルートを予測して、走る速度を上げる。平日とは言え人目があるた

め、人間の常識を超えるスピードで走ってはいないが、並の人間では到底出せないような速

度で疾駆する恭也を、すれ違う人間は皆何事かと振り返る。



 プレシアの案内で、目的地は大分絞りこめてきた。都市部ではなく、山地だろう。前の世

界では鍛錬で毎日のように駆け回った地域だった。地形が変わっているのでもなければ、自

分の家の庭のように地理関係を把握している。誘拐犯が立てこもりそうな場所にも、ある程

度の検討はついていた。



 後は現場まで急行し、誘拐犯を半殺しにした後、少女を救い出して事件は解決である。



「ねぇ、誘拐犯が何処にいるか、分かるの?」



 当たり前のように併走していた美由希が、息も切らせずに問うてくる。付いて来るなとい

う意思と若干の殺意を込めて額を狙うが、走りながらでも美由希は器用にそれらを避けてい

く。



「警察に任せた方がいいとか思わない? 一応忠告しておくけど、誘拐犯のところに押しか

けるのって凄く危ないと思うんだ」

「他人を当てにするのは俺にとって最後の手段だ。直接乗り込んだ方が、女の子の安全は確

保されると判断した。誘拐犯を舐めるつもりはないが、早々遅れを取るつもりはない。解っ

たら、足手まといだから何処かに消えてくれ」

「酷いなぁ……私だってこれでも、腕に自信はあるんだよ?」

「俺よりも強いと言い切れるのなら、何をしようと構わないが」

「それは……ちょっと、自信ないかなぁ。でも、足手まといにはならないよ。それは約束す

る。私だって、女の子を助けたいんだから、協力させてよ。足手まといにならないなら、安

全に助けられる確率も上がるでしょ?」



 断られると思っているのか、美由希は焦りを滲ませた微笑を浮かべていた。走りながら喋

っていても呼吸は全く乱れていないし、走る姿勢も綺麗だった。見る限り、鍛錬は十分に積

んでいるように思える。流石に自分よりも強いとは思えなかったが、少なくとも足手まとい

くらいの実力は持っているようだ。



「足手まといだと思ったら、即座に蹴り飛ばすからそのつもりでいろ」

「おっけー、大丈夫。君の前で活躍して、見返してあげるから」

「何とでも言ってくれ。さて、プレシア。正確な場所はもう割り出せたか?」

『主様の御思いの通り、目をつけた場所の一つに立てこもるつもりのようですわ」

「重畳。聞いての通りだ美由希。俺達はそこに急行するぞ」

「…………今の声はなに?」

「味方だ」



 的確な返答をしたつもりだったが、美由希はその答えが不満のようだった。じとっ、とし

た目で更なる説明を要求しているが、答えてやる気は恭也にはなかった。放っておけば諦め

るだろうと、無視して走り続けていると、ポケットの中の相棒が勝手に言葉を発した。



『はじめまして、高町美由希さん。私はプレシア。主様のデバイスですわ。以後、お見知り

おきを』

「うーんと……デバイス?」

「『味方』という意味の隠語だ」

「でも、主様とか言ってたよね」

「そういう呼び方をする奴なのだ。断っておくが、俺が呼ばせている訳ではないからな」

「別に君が特殊な趣味をしてたとしても、私は友達止めたりしないよ?」

「心温まる言葉をありがとう、美由希。だが、特殊な趣味という解釈は間違いでしかない上、

俺はお前と友達になった覚えはない」

「酷いなぁ、恭也」



 美由希が苦笑を浮かべる。こちらはまだ呼び捨てにされることに慣れていないのに、美由

希は恭也と呼ぶことに抵抗はないようだった。向こうからすれば他人なのだから当たり前な

のだが、一方的に圧迫感を感じるのは不公平とも思う。



 だからと言って自分を納得させることの出来るような、合理的な仕返しの方法がある訳も

ない。思い出したように美由希の額に向かって手を伸ばすが、無駄に学習したのか、こちら

が打とうとすると僅かに距離を開けるのだ。



 無論、本気を出せば追えないこともないが、そんなことに熱中するというのも、負けたよ

うな気がして嫌だった。



「私を見て、どうかした? 恭也」



 これで人を食ったような笑みでも浮かべていたら、不貞腐れることもできたかもしれない。

それなのに美由希は、空気も読まずに本当に不思議そうな顔をしていた。今この瞬間、無挙

動で打ち込めば、クリーンヒットさせることは出来る。



 だが、打ち込まなかった。それだと負けのような気がしたからだ。



「別に何も。間抜けな面をしていると思っていただけだ」



 悔し紛れに憎まれ口を一つ。美由希は当然の如く文句を言ってきたが、気は晴れなかった。






























「目に見えないパワー。そういうものを信じるか? 美由希」


 目的地を発見したのは、それから十数分程度は知り続けた後だった。山中にある、名もな

い廃ビル。見覚えのあり過ぎるそれを前に、いくらか呼吸を乱している美由希に対して、問

うてみた。



 はぁ、と大きく息を吐き出して気息を整えた美由希は、ぐるりと辺りを見回す。



「もしかして、この辺に何か出るとか? 恭也ってそういうの気にするタイプ?」

「質問に質問で返すのはテストで0点だ。疑問をぶつけるのなら、問いに答えてからにしろ」

「なら信じたい、っていうのが答えかな、私の。見たことないから、見てみたいなぁ、とは

思うよ。これでも文学少女だから」

「ふむ……」

「で、私の質問の答えは?」

「この辺りに出るかどうかなど知らん。地元ではないからな。気にするかしないかというの

なら気にしない。存在のあり方に若干の差異があるだけだ。自分でないという点においては、

ここで自殺した人間の地縛霊でも高町美由希でも、大した違いはない」

「えー、生きているか幽霊かっていうのは、大きな違いじゃない?」

「自分にとって大切であるのなら、幽霊でもサイボーグでも白面九尾でも違いはない。どう

でもいいのなら、それがどうであったとしても俺には関係がない。興味があるのは、自分に

とってそれがどれだけ大切であるかということだ。その人が何であるかというのは、その人

を判断する上で重要ではないし、重要であってもならないと俺は思う」

「へー、ちょっと意外。結構真面目なこと言うんだね」

「……だが、欲を言うのなら触れられる方が俺はいい」

「すけべー」



 右手でデコピン――と、見せかけて、死角からの足払い。ものの見事に転倒する美由希を

他所に、目の前の廃ビルの分析を始める。



 かつて向こうの世界で美沙斗が風雨を凌ぎ、自分と死闘を繰り広げた、あの廃ビルである。

彼女の刀で斬られ、突かれた記憶がまざまざと蘇ってくるが、そんな場所にもう一度、また

も犯罪に関わって来ることになるのは、思いもしなかった。



 しかも、ここは異世界である。同じように見えても、全ては恭也の知っている世界と違っ

ていた。隣に立つメガネは、あれによく似た別人であって、本人ではない。絶ち振舞いにも

口調にも、ここに来るまでの間に別人である、という確証を得るほどの違いを見つけた。誰

もかも、何もかも、全てが違うものなのだ。



 そんな異世界で、またも廃ビルの前に一人立つ。数奇なめぐり合わせに、苦笑するしかな

い。



 廃ビルの周囲に人影はない。こんなにすぐに追跡されると思ってはいないのか、外を警戒

している気配もなかった。感覚の網を伸ばして廃ビルの内部を探ってみるものの、思ってい

たよりも人数は少ないようだった。



 全員、普通の人間とは違う気を持っていたが、少女の気だけは区別することができた。人

と違う割合が、他の連中よりも強いのである。その事実について少女がどう思っていたのか

知らないが、救出する立場となっては、ありがたいことだった。



「あの女の子は二階だな。一階に五人、二階に四人。二階の四人のうち一人は、例の女の子

だろう。お前には一階の連中の相手を頼む。下で騒ぎを起こしている間に、俺が二階に踏み

混んで女の子を助ける。これが計画だ。何か質問は?」

「はい、恭也先生。見たところ入り口は一つしかないみたいですけど、どうやって二階に踏

み込むつもりですか?」

「いい質問だ、馬鹿生徒。だが、お前が気にすることじゃない。俺が仕事を果たすことは確

約できるが、お前の命まで保障してやることはできない。無理だと思ったら帰ってくれても

俺は一向に構わないぞ? その方が寧ろ楽かもしれんしな」

「そっちこそ。私が駆けつけた時に人質にされてるなんてことがないようにね? そんなこ

とになってたら私、指差して笑ってあげるから」

「こっちの台詞だ。俺が連中を片付けて下りた時に、裸に剥かれていないようにしろ? 教

育上宜しくないものを、年端も行かない少女に見せ付ける訳にもいかんからな」

「そうなったら助けてやる、くらい言えない?」

「そうなるような奴に、一緒に行動してほしくはない。もう一度聞くぞ? 何か質問は?」

「ないよ、質問はね。文句はたくさんあるけど、それは全部片付いてから言うことにするよ」

「文句を言える程度のことはしろ。それでは……下手を打つなよ、美由希」

「了解。首尾よくいこうね、恭也」



 暗黙のうちに二人して拳を突き出し、軽く打ち合わせる。



 美由希が駆け出した。足音と気配に、両階の誘拐犯が同時に気づく。走りながら、美由希

が目配せをしてくる。言われるまでもない。目的は、果たす。



 美由希を遥かに凌駕する速度で助走をつけ、空中に作成した足場で踏み切る。二階の高さ

まですぐに到達した。窓の向こうに、男が三人、少女が一人。こちらを向いていた少女だけ

が気づき、目を見開いた。それにつられた周囲の男の視線まで、こちらに向く。



「プレシア、起動」



 小さく呟き、右の手にだけプレシアを現出。居合いをするように大きく体を捻り――気を

乗せて、一気に振りぬく。



 窓を枠ごと粉砕し、部屋の中に飛び込んだ。それと同時に、少女に手をかけようとしてい

た男に肉薄し、当身。一瞬で意識を刈り取られる男を適当に蹴り飛ばし、一階の様子を見に

いこうとしていた男に、飛礫を放つ。それらは正確に男の両肩と膝に着弾した。流石に打ち

ぬけはしないが、骨くらいは砕いたはずだ。



 前の世界を捨ててから、飛針は使っていない。飛礫の鍛錬はそれほど積んだ訳ではなかっ

たが、庭園で戯れにやってみた時から、それなりに使えることは分かっていた。実力が伯仲

するような者や、魔法使いを相手に使えるものではないが、この程度の相手になら問題はな

い。



 声にならない絶叫をあげ、男は廊下に倒れこむ。残るのは、一人。椅子に縛られた少女を

背後に庇いながら、残った男を見やる。



「貴様……誰の指示で動いている!」



 静かな声。打ち倒した二人の男よりは出来るようだったが、その冷静さは保身から来る物

のようで、瞳からは冷静さが消えていた。本当は大声を出したいのだろうが、容赦なく当て

られる殺気に抗することは出来ていない。



 小物か、と小さく呟き、恭也は踏み込んだ。



 叫びをあげて突き出される右腕を掴みとり、交差すると同時に床に投げ飛ばす。受身も取

れず、涎を垂らしながら転げまわる男の背中を踏みつける。掴んだ腕はそのままだ。



「暴れると折れるぞ。俺は優秀な魔法使いではないから、おかしな骨折をしても治療してや

ることはできない。自分の身が可愛いのなら、とりあえずじっとしていることを勧める」



 耳元で囁くと、男は大人しくなった。血走った目で振り返る男に、さらに顔を近づける。



「お前が何処の誰かということに、俺は興味はない。お前らにはお前らの事情があり、俺が

関与するべきものではないのだろうことは、理解しているつもりだ。だが、年端も行かない

少女を誘拐するような男を、俺は許すことはない。人目がなければ九割くらいは殺してやる

ところだが――人目があることに感謝しろ。五体満足で裁きを受けるがいい」



 首筋に手刀を打ち込み、男の意識を刈り取る。それで当座の仕事は終わった。



 廊下で痛みに呻いている男にも手刀を打ち込み、階下を覗いた。まだ戦闘は続いているら

しく、男の誰かを罵倒する声が聞こえる。



「腕は悪くないようだが、仕事が遅い」



 自分の弟子であったら寄っていって罵倒もしているだろうが、あの美由希はそうではない。

それに彼女が仕事が遅いことは、好都合であった。会わずに逃げられるなら、これ以上のこ

とはない。



「さて……お怪我はありませんか、お嬢さん」

「おかげさまで、無事です。ありがとうございました」

「礼を言われるほどのことではありません。目の前で女性が攫われたら、助けようとするの

が男というものです」

「実際にこうして助けにきてくれました」

「たまたま、俺にそういう技能があっただけです。誇るほどのことではありません」

「つまり貴方は、誘拐された女性を助けるだけの高潔な精神と、それを成し遂げるだけの力

を備えた、素晴らしい男性ということですね」

「……そう解釈していただけるのは光栄なことではありますが」

「では、そう思うことにします」



 仕事柄、礼を言われることには慣れていた。目の覚めるような美人に微笑まれ、頬にキス

をされたことだってある。



 だが、心の底から礼を言ってくれる人間は、そういない。彼女の言葉には気持ちが篭って

いた。それに表情、雰囲気が、恭也にとっては懐かしいものだった。昔、自分が風芽丘に進

学したばかりの頃のフィアッセが、まさにこんな感じだったのを覚えている。



 特に、少女に何かをした覚えはないし、フィアッセと少女に共通項があるとも思えない。

不思議と言えば不思議だったが、夜も眠れない程ではなかった。



 静かになった。下の騒動も終結したようだ。



「退くには良い頃合のようです。警察というものがそれほど好きではないので、俺はここで

失礼しますよ。後は下のメガネにエスコートさせてください。俺ほど気は利かないでしょう

が、腕は立ちます」

「貴方が残っては……くれないのですか?」

「残りたいのは山々ですが、諸事情あって残念ながら、今の俺にはこの場所に縁を残してい

く資格はないのです。お話はまた、次の機会に」



 窓枠に足をかけた。階段を駆け上ってくる足音がする。そうなる前に窓枠を蹴り、中空に

踊った。



「私はっ、月村すずかですっ!!」



 振り返ると、眼鏡の女が部屋に踏み込んできたところだった。文句を言うために口を開い

たところを、飛礫をぶつけて黙らせた。威力は弱めてある。驚いてひっくり返る女を横目に

見ながら、少女――すずかに聞こえるように叫んだ。



「俺は恭也・テスタロッサっ!! いずれまた、図書館でっ!!」



 着地して、走る。振り返らないように。遠くでサイレンの音が聞こえた。眼鏡にもとりあ

えず警察に連絡するだけの知能はあったらしい。



 廃ビルが見えなくなってようやく、歩調を緩めた。サイレンから遠くなるように走ってき

たから、元の場所からは随分遠くまで来た。気づけば太陽も沈んでいる。時計も持っていな

いから、正確な時間も分からなかった。



「夕飯には、間に合うかな……」



 誘拐された女の子を助けていたというのが遅刻の理由になるかどうかは、微妙なところだ

った。