他人に怒られることを気にしたのは、いつ以来だろうか。父親に関して、そう思ったこと

はほとんどない。あの人間は怒るよりも先に、笑いながら拳を飛ばしてくるような男だった

から。実母に関しての記憶はなく、義母は……あまり怒られたことはない。



 だからこそ、たまに怒られた時には子供心に堪えたものだった。叱られないようにしよう

と思ったのは、彼女が初めてかもしれない。



 アルフとフェイトの部屋を間近にして、恭也は背中に嫌な汗が流れるのを感じていた。



 足音は殺している。気配も断っているから、彼女らに気づかれることはないと思う。最悪、

バレないうちに逃げることも可能ではあるが、約束しておいて逃げでもしたら、二度と彼女

らに顔向けができなってしまう。


 間で誰かが取り成してくれたら、と思うが、今この世界にはそうしてくれそうな友人は一

人もいない。自分で解決するしかないのだ。頭を下げることを厭うつもりはないが、会った

瞬間悲しそうな顔をしていたら、それだけで死にたくなる。



 女性のそういう顔は、何度見ても慣れるものではない。



 部屋の前に立つ。中には気配が二つ。アルフとフェイトだ。どたどたと足音が聞こえる。

大きさからしてアルフだろう。足音にも特徴があり、フェイトはずっと、申し訳なさそうに

歩いていた。当然、足音もそれに相応しいものになる。



「キョーヤ、遅かったじゃないか」



 慌しく鍵が開けられ、ドアの向こうからアルフの顔が覗き――



 ノブを掴んで、一瞬で押し戻した。純粋な力比べでは使い魔であるアルフに分があるだろ

うが、そうされると思ってもいなかっただろうアルフは成す術もなくドアの直撃を受け、吹

っ飛ばされたようだった。



「どうしたの、アルフ!」



 ドアの向こうでフェイトの駆けて来る足音が聞こえた。やり過ぎたかと、反射的にドアを

開けそうになるが、どうしてこうしたのかを思い出し、ノブを掴んだまま堪える。



「あたしにだって分からないよ。あたしが何したって言うんだい、キョーヤ」

「分からないということは、問題だな」



 他の住人に聞かせるような話でもないので、ドアに頬を押し付けて、アルフとフェイトに

だけ聞こえるように喋る。不満そうに、アルフが唸るのが聞こえた。フェイトはどうしてい

いのか分からず、不安そうな顔をしているだろう。以前は顔を会わせれば不機嫌そうな顔を

しているばかりだったが、今では色々な表情を見せてくれるようになった。引っ込み事案な

性格のせいか、中々一人で話しかけてはくれないが、今はそんなことは問題ではない。



 アルフのこの感性が、フェイトにも伝染したら問題だ。男として嬉しく思わないでもない

が、言うべきところでは言わなければならない。



 大きく息を吸って、吐いた。遅刻のことは気にしなくて良さそうだと解ると、いくらか気

持ちも楽になった。



「まずは服を着ろ。話はそれからだ」



 なんでさ、とアルフが吼えるのが聞こえた。



































「全く肝の小さい男だね、あんたは。減るものじゃなし、あたしの裸くらい別に気にする程

のものでもないだろ?」

「減ろうが減らなかろうが、服は着ろ」


 いつもの服を着て、怒りを尻尾で表しながら、アルフは廊下を行く。ドアの外でアルフ達

が服を着るまでの間、どうやって説得したものかと考えていたが、ドアで打たれたことを根

に持っているのか、アルフは無駄に頑固になっていた。



 着るな、気にしない、というのは簡単だったが、それで屋内では常に全裸などということ

になったら、人間性を疑われるのはこちらだった。押しに弱そうなフェイトまで真似をした

ら、ミッドチルダの戸籍以前に社会的に抹殺されかねない。



「あたしは使い魔だよ、キョーヤ」

「使い魔なら服を着ないとでも言うつもりかお前は。時の庭園ではずっと服を着ていただろ

う?」

「風呂あがりはいつも着てないよ。庭園ではあんたに見せる機会はなかったけどさ、習慣に

まで指図するってのはどうなんだい」

「人前であることを考えろ。ついでに言えば俺は男だぞ」

「あんたは仲間だろ? キョーヤ。仲間にする隠し事なんて、あたしにはないね」

「仲間と言ってくれるのは嬉しいが……」

「それとも何かい? あんたはあたしの裸なんて見たくもないとでも言うつもりかい?」

「そんなことはない!」



 思わず出した大声に、アルフが振り向く。居間へのドアの影から、フェイトが恐る恐る顔

を出していた。



「お前の体は、綺麗だと思う。見たいか見たくないかと言われれば、それは見たい。だが、

俺は古いタイプの人間だ。女性の服装は、慎ましくあるべきだと思っている。それをお前に

強制するべきではないとは思うが……」

「思うが?」



 口の端をにやり、とあげて笑うアルフを見て、からかわれていることを悟った。



「……ないが、意見は聞いてくれると嬉しい」

「それは、家族として?」

「それもあるが、男として、だ」

「…………根性なし」

「何とでも言え」



 それほど怒ってはいないと直感し、アルフの頭を乱雑に撫でて会話を終わらせ、居間に入

る。風呂上りなのは同じなのか、洗い髪のフェイトが心配そうに見上げてくる。



「大丈夫だ。別に喧嘩をしていた訳ではない」



 頭を撫でる。アルフにしたのとは違って、優しく。ずっと会話もしてこなかったせいか、

加減が分からない。フェイトは、恥ずかしそうに目を伏せている。嫌がってはいない、とい

うことくらいしか分からない。他に何かした方がいいのか、とも思うのだが、それ以外――

それ以上の親愛表現となると、もうどうしようもない。外来的なアクションを起こす自分な

ど、恭也は想像することもできなかった。



「そうだ、キョーヤ。フェイトの髪を梳いてた途中だったんだよ。夕飯の準備はあたしがす

るから、代わりに梳いておいてもらえるかい?」



 ラフな格好の上にエプロンをつけ、振り返りながらアルフが言う。からかっているような

様子はない。それが当然のことであるかのような物言いだった。ソファの上の櫛を見て、ア

ルフを見て、フェイトを見下ろす。何かを期待しているかのような眼差しだった。



「俺が準備をするという選択肢はないのか、アルフ」

「今日はあたし達の料理を披露するって企画だろ? あんたが準備してどうするんだい」

「お前は男に女性の髪を梳かせる気か?」

「家族としてやりなよ。フェイトだって喜ぶさ」



 声は出さない。コクコク、とフェイトは頷いていた。肯定の意思表示。アルフは得物を仕

留めた狼のように、にやりと笑った。



「……俺は勝手が解らんぞ、それでもいいのか」



 やはり、声は出さない。ぶんぶん、とフェイトは頷く。洗い立ての髪が揺れて、シャンプ

ーの香りがした。観念するしかないようだった。



「夕飯の準備はまかせたぞ、アルフ」

「はいよ。そっちこそフェイトを苛めるんじゃないよ?」

「誰に物を言っている」



 フェイトは既にこちらに背を向けて、準備万端だった。ため息をつき、櫛を見やりながら

フェイトの後ろに座る。髪を解いたフェイトを見るのも初めてだったが、こうして無防備な

背中を見るのも初めてだった。



「こんな日が来るとはな……」

「何か言った?」

「いや、何でもない」



 ゆっくりと丁寧に、櫛を髪に通す。結わえていてもかなりの長さだったが、解いて見ると

床に届きそうなほどに、フェイトの髪は長かった。そこまでとなると手入れに手間もかかり

そうなものだったが、櫛への抵抗はまるでない。誰かが熱心に手入れをしていた証拠であっ

た。



「フェイトの髪は綺麗だな」

「そ、そう?」

「思わず手が伸びてしまいそうになるほどな。これほどとなると、手入れも大変だろう」

「アルフやリニスに、やってもらってたから。私はそこまで、気にしてる訳じゃないんだけ

ど……」

「手入れは怠らないことだな。ここまでの髪を放っておくのは、如何にも惜しい」

「……長い髪の方が、好き?」



 ちら、とフェイトが振り向く。



 自分の髪型に無頓着な男が、女性とは言え他人の髪型に拘るはずもない。強いてあげるな

ら実用的であることが恭也が髪型に求める条件であったが、フェイトが求めているのはそう

いう答えではないのだろう。ここでどうでもいい、と答えることが間違いであることくらい

は、恭也にも分かった。



「短い髪を見てみたいとは思うが、フェイトはやはり、それくらいの長さが似合うと俺は思

う」



 女性を相手にしていると、気の利いた答えが出来るようになれれば、と思わない日はない。

結局のところ当たり障りのない答えを選んだのだが、フェイトはそれに満足してくれたよう

だった。大人しく正面に向き直り、櫛を受け入れる。



「……あの、ね」

「なんだ」

「呼び方、なんだけど……私は何て呼んだらいいのかな」



 髪を梳く手を止め、言葉の意味を考える。自分を何と呼べばいいのか、と問われているこ

とに気づくのに、数秒の時間を要した。



「別に、何と呼んでくれてもいい。呼び捨てでも構わないし、適当な愛称で呼んでくれても

いい」

「お兄ちゃん、とか呼んでみるのはどうだい、フェイト。アクセントの指導くらいはしてや

れるよ? 何でだか分からないけど」



 温めた料理をテーブルに並べながら、アルフが会話に加わる。



「それとも、何かあだ名をつけてやろうか」

「遠慮しておこう。お前に任せたら、何と呼ばれるようになるか分かったものではないから

な」

「えーっと……お兄ちゃん?」

「なんだ、フェイト」



 呼ばれたので返事をしただけだったが、それがフェイト的には大事件だったらしく、慌て

てソファの上で距離を取ると、ごろごろと転がりだし、勝手に落下した。



「うぅ……痛い」

「フェイトにお兄ちゃんは合わないのかもしれないね。お兄様とかあにぃとか、他にも色々

あるけど、どうだい」

「無理して俺を兄と呼ぶ必要はないと思うが……お兄様はともかく、あにぃ、とは何だ。や

くざかチンピラのような呼び方だが」

「フェイトくらいの年頃がやると、かわいらしく見えるんだよ。解ってないね、男のくせに」



 まるでこちらが悪いような物言いだった。アルフは他にも、兄という立場に対しての妙な

呼称を、夕飯の準備をする片手間に指導していたが、どれもフェイトにはしっくりこなかっ

たらしい。辛うじて『にいや』に感じるものがあったらしいが、採用するまでには至らなか

った。



「大人しく、呼び捨てにしてはどうだ?」

「……私のお兄ちゃんになるのは嫌?」

「そんなことはない。年長である以上、俺はお前の兄だ。呼び方に拘らずとも、俺はそう思

っているし、フェイトもそうだろう。呼び方など何でもいいのだ。フェイトが呼びたいよう

に呼べばいい。俺はそれを……まぁ、極端にろくでもないものでなければ、受け入れる」

「じゃあ…………恭也?」

「なんだ、フェイト」

「恭也、恭也……恭也」

「名前を呼んでくれるのは嬉しいが、あまり連呼はしないでくれ。照れる」

「うん、じゃあ、これで最後……恭也?」

「ああ、なんだ、フェイト」

「髪、もう大丈夫?」

「どうなのかな。俺は大丈夫だと思うが……どうだ、アルフ」

「……まぁ、恭也にしては上出来じゃないか。これなら、フェイトのリボンを結ぶ係を任せ

てもいいかもしれないね」

「男の俺にそこまでやらせるのもどうかと思うが」

「家族の触れ合いって奴だろ? 男なんだ、喜んでやるんだね」



 当たり前のように言ってのけるアルフと、期待するような瞳を向けてくるフェイトに挟ま

れては、何も言えない。慎みとは何か、ということから家族達に教えなければならないよう

だった。



「さぁ、夕飯が出来たよ。あたしとフェイトの力作だ。力の限り食べとくれ」



 食卓を見る。食欲をそそる香りと、彩り鮮やかな料理の数々。ところどころ不恰好だった

りするが、十分過ぎるほどに美味そうだった。家族が作ってくれたというだけでも、とても

嬉しい。だが、



「……これから、誰か来るのか?」

「そんな訳ないだろ? 家族はあたし達三人だけさ」

「俺の目が確かなら、ここには十五人分くらいの料理があるように見えるのだが……」

「おかわりが欲しいならまだあるよ。言ったろ、力の限り食べてくれって」

「お前は俺の胃袋が鋼鉄で出来ているとでも思っているのか」

「食べられるだろ? これくらい。あたしも食べるんだし、キョーヤは雄なんだから」



 確かに普通よりは多く食べることができると思うが、雄でも何でも限度というものがある。

アルフが食べることに期待したいが、彼女がどれくらい食べるかというのは庭園で掴んでい

る。自分と同じか、少し食べるという程度だろう。どう考えても、気持ちよく食事を終える

には、目の前の食事は多かった。



 しかし、である。女性が自分のために作ってくれた料理を、もう食べきれない、などと寝

言を言って残すことができるだろうか。しかも、フェイトが作ってくれるのは初めてと言っ

てもいい。料理のスキルがそれほどあるとは思えない。手の絆創膏を見れば、どれだけ頑張

ってくれたか解るというものだ。



 戦えば勝つのが、御神の剣士である。相手が料理だろうと、負ける訳にはいかないのだ。



 食べきる、という意識を固めて食卓につく。自分の隣にはフェイト。正面にはエプロンを

外したアルフが座る。二人とも、自分が声を上げるのを、今か今かと待っているようだった。

家族の中に居る実感。久しく味わっていない感覚だった。



「それでは……いただきます」

『いただきます』



 宣言をしても食べ始めるでもなく、二人はじっ、とこちらを見つめていた。その意を汲ん

だ恭也は、手近にあった微妙に不恰好なから揚げを箸でつまんで、口に運ぶ。フェイトが息

を呑むのが分かった。味付けは悪くない。よく味わってから飲み込み、フェイトを見つめる。



「これは、フェイトが作ったのか?」

「うん。初めて作ったんだ」

「そうなのか? 美味いので驚いた」

「ほんと?」

「本当だ。初めてでこれだけ出来るのなら、俺などすぐに抜かれてしまうな」

「そしたら、恭也のご飯は私が作るよ」

「それはいい。毎日の飯の心配をしなくてすみそうだ」

「あたしを忘れてもらっちゃ困るんだけどね」

「アルフはどちらかと言わずとも、作るよりは食べる方がいいだろう?」

「そりゃあ、そうだけどさ」

「では、今日の料理を共に堪能しようか。幸いこれだけの量がある。飽きるまで食べること

が出来るぞ」

「言っとくけど、今日の主役はキョーヤだからね?」

「とんでもない。家族の食事だ、共に喜びを分かち合うのが筋というものだろう」



 火花が散る。考えていることは同じようだった。お互い、どれだけ多く食べさせられるか

……しかし、フェイトが作ってくれた料理でもある。できるだけ多く食べたいという気持ち

もあった。事実、隣に座ったフェイトの瞳は、次は何を食べてくれるのだろうと、期待が満

ち溢れていた。



「……ここは、つまらない考えを起こすのはやめるか」

「そうだね。せっかくの料理が冷めちまう」



 言って、二人して料理に手を付け始める。どれも味が適度に濃く、恭也の好みでだった。

おそらくミッドチルダのものらしい、見覚えのないものもあったが、どれも恭也の舌で判定

しても、合格点の出せるものだった。世辞抜きで、彼女らは料理が美味い。



「美味いだろう?」



 がっつきながらアルフが問うてくる。見ての通りだ、と食べっぷりで答えた。フェイトは

料理に箸をつけず、そんな二人をにこにこと眺めていた。






































 胃袋が破裂するのではないかと、真剣に心配したのも初めての出来事だった。アルフとど

ちらが多く食べたかという、無意識の勝負は引き分けに終わった。お互いを見ずに食べ続け

たため、判定が出来なかったのだ。テーブルの料理が綺麗になくなって、勝負が終わったこ

とに気づくと、途端に体の中から圧迫されているかのような気分になった。



 気持ちが悪いというのではない。ただひたすらに、体が重い。シャワーを借り、寝床とし

て与えられたソファに寝転ぶ。まだ話したがってはいたが、もう遅い時間ということで、フ

ェイトはアルフに強引に寝室につれていかれた。一緒に寝ない? 嬉しいことをフェイトは

言ってくれたが、その後ろで牙を剥いていたアルフが恭也の首を横に振らせた。



 暗い部屋の中、天井を見ながら感覚の網を広げる。庭園で暮らし始めてから、深夜の時間

に鍛錬することはなくなった。その代わりに、気の鍛錬をすることにしている。庭園にいた

頃はざからが居てくれた。一人で鍛錬をするのは、これが初めてのことだった。



 知覚の範囲を部屋の中に限定。漂う塵の一つ一つまで知覚する。庭園に来るまでには見る

ことのできなかった世界が、今では当たり前のことになっていた。身に着けた戦闘技能まで、

これらを使えることまで考慮して組み立てなおさなければならなくなっている。



 庭園にいた時から続けていることではあったが、今だにしっくり来ない。これで出来るこ

とが打ち止めになるのならいいが、出来そうなことはまだまだあった。手探りで技術を突き

詰めなければならない現状に、またか、と苦笑を浮かべざるを得ない。



「俺は、そういう星の下に生まれたらしい。住む世界が変わっても、変わらん物もあるのだ

な。なぁ、アルフ」

「……あんたは一体どういう鼻をしてるんだい」



 人の姿をしたアルフが、ソファの脇までやってくる。その手には、二つのコップと透明な

液体で満たされた瓶がある。



「鼻に関してはお前ほどではない。俺にバレずに近寄りたいなら、もっと気配を殺してから

来い」

「それも、結構自信があるんだけどねぇ」

「野性に帰ってみてはどうだ。狩をする獣は、見事に気配を殺すというが」

「あんたが野性に帰らずに出来るんだから、あたしにも出来るんだろうさ。一人だけわんわ

ん吼えるなんて、間抜けなことはごめんだね」

「それはそれで愛らしいとは思うぞ」

「あんたを喜ばせるために生きてる訳じゃないよ」

「違いない」

 

 片方のコップを受け取ると、アルフが酌をしてくれた。返礼として瓶を受け取り、アルフ

のコップに酌をする。臭いを嗅いでみる。何も臭いはしなかった。



「おい、水か?」

「文句でもあるのかい? フェイトが飲むかもしれないのに、酒なんてある訳ないだろ」

「別に一人で飲んでも構わんだろう。お前だって、酒を飲みたい時はあるはずだ」

「そんなものはないね。フェイトがいてくれたら、あたしはそれでいい」

「見上げた使い魔根性だな。惚れ惚れする」



 コップをお互いに掲げ、打ち鳴らす。水を一気に飲み干して、大きく息を吐いた。



「ならば使い魔、フェイトの傍を離れてもいいのか」

「今さらフェイトを襲う奴がいるものか。いたとしたら、あたし達で何とかしたらいい」

「危機というものは、予告してやってくるものではない。用心するに越したことはないぞ」

「なら用事をさっさと済ませて戻ることにするさ。協力してくれるかい?」



 その眼光に不穏なものを感じはしたが、頼みを断る程のものでもない。



「別に構わんさ。水の礼だ」

「言ったね。取り消させないからな」



 言うが早いか、アルフは風のように動いた。空になったコップが、床に落ちて乾いた音を

立てる。ソファの上、馬乗りになったアルフは、触れるぎりぎりにまで顔を近づけると、目

を覗き込んできた。



「…………何のつもりだ」

「ここまでしておいて、何もなにもないだろう? やることと言ったら、一つしかないさ」

「積極性というものは、使う場所を考えるべきだ。お前のそれは過剰に過ぎる。フェイトに

でも分けてやるといい」

「これが終わったら分けるつもりだよ。これからは時間があるんだ。あの娘だって、それで

幸せになるんだ。でも、今はあたし、それにあんただよ、恭也。頼みがあるんだ――」



 アルフの口が、耳元に寄る。



「交尾しよう」

「俺から言うことはただ一つだ……寝言は寝て言え」



 肩を押して強引にアルフを引き剥がすと、アルフの下から脱出し、ソファの上で背を向け

た。そのまま逃げ出そうとするも、男としての何かが、このまま逃げ出すことを躊躇わせた。

実戦だったら命を落としかねない思考の遅滞が、事態をややこしい方向に加速させる。



「あたしの何が不満だってんだい!」



 背中に飛びついてきたアルフを体を引き剥がそうとするも、意地になっているのか、体に

回された腕は凄まじい力で締め付けていた。背中に押し付けられた感触に、さすがに煩悩が

沸いてくるが、ここで流されてはいけないと軽く舌を噛み、体に気を流してアルフを力に任

せて引き剥がすと振り返り、彼女の目を覗き込む。



「落ち着け。お前に不満はない。ただ時と場合を考えろと言っているのだ。最中にフェイト

が起き出してみろ。ショックで気絶してしまうぞ」

「何のためにフェイトが寝静まるまで待ったと思ってるんだい。あんたは得意だろ、他人に

気づかれずにこういうことするの」

「俺を変態みたいに言うな。やったこともないことで、どうできるかなど分かるものか。悪

いことは言わないからさっさとフェイトのところに帰れ。満腹具合がいい感じになってきて

な。今なら気分良く眠れそうな気がするのだ。はっきり言うなら、お前は邪魔だ」

「あたしよりも睡眠欲を取るってのかい、あんたは!」

「綺麗にこんがりと焼けた肉が目の前にあるとしよう。俺との行為と秤にかけるとするなら、

お前はどちらを取る?」

「肉に決まってるだろ。何様のつもりだい」

「俺の決断はそれと似たようなものだ。納得してくれると嬉しいね」

「あたしから止めるのならともかく、あんたから断られるのは納得いかないよ」



 ここまできたら矜持の問題である。女性としてのそれを持ち出されたら男である恭也には

何も言えない。どうするのが正解なのかが解るほど、女性というものを理解している訳では

ないからだ。もっと真剣に女性と向き合え。義母には何度も言われたことだったが、それは

こういう時のためだったのだ、と今なら理解できた。



「どうしたら納得してくれるのだお前は」

「だから、しようって言ってるだろう? 大丈夫だって、多少声が出ても頑張れば、フェイ

トが気づく前に終わるから」

「そこはかとなく男として大事なものを傷つけられた気がするが、とにかく待て。流れに任

せてそういうことをするとロクなことにならんぞ。感性に従って生きていた俺の親父が言っ

のだから、間違いない」

「感性だけであたしがあんたを選んだとでも言うつもりかい」



 小馬鹿にするような笑みを浮かべて、アルフがまた顔を寄せる。



「強い雄と子を成したいっては、雌の本能さ。あんたはあたしの目から見て十分に強い。そ

の上信頼出来て、フェイトほどじゃあないが、好意も持ってる。一生傍に居てもいい、それ

くらいは思ってるんだよ。これ以上の相手が、他にいるってのかい?」

「そこまで評価してくれるのは嬉しい。嬉しいが……それでもだ」



 言葉を重ねることで、いくらか落ち着きも取り戻してきた。逆にアルフは、自分の言葉の

勢いに酔っている様子だった。常ならば気づいたことにも、気づいている様子すらない。ア

ルフが今見ているのは、恭也・テスタロッサという人間ただ一人だった。男としてこれ程嬉

しいことはないが、今はそういう時ではないという思いが、恭也の根底にあった。



 理性とは別の部分が、心の中で囁く。勿体無いことをしている、と。ここで何も考えずに

押し倒してしまえ、と。本心を言えば、そうしてしまいたいのは当たり前だった。アルフの

ことは憎からず思っているし、女性としてとても魅力的だった。庭園の生活において、最も

心を砕いてくれたのはアルフである。



 だからこそ、なのだろう。一時の感情に流されて関係を持つのはいけないことだと、本能

を圧倒的に凌駕する理性が結論を出していた。損な性分であると、我が事ながら思わざるを

得ない。



「そんな訳だ。そろそろ諦めて、フェイトの部屋に戻れ。どうしても俺を押し倒したいとい

うのであれば、実力行使で来るといい。全力で抵抗させてもらおう」

「……あんた、実は男色だったりしないだろうね」

「違う。その辺りの話は後でしてやるから、お前はさっさと戻れ。ややこしいことになるぞ」

「そんなにあたしを何処かにやりたいのか、あんたは」

「……恋は盲目というが、それはこういう場合にも当て嵌まるのだろうか」

「何を――」

「アルフー、どこー?」



 寝ぼけきったフェイトの声に、アルフの動きは迅速だった。こちらの肩に手をかけると、

勢いをつけてソファに背中から倒れこみ、腹を蹴り上げると同時に投げ飛ばした。予測はで

きた攻撃である。宙を舞いながら体を捻り、両手足で持って床に着地する。



 いきなり目の前に降ってきた恭也を見て、フェイトが目を丸くする。眠気も吹き飛んだよ

うだった。



「…………なにをしてるの、恭也」

「アルフが寝ぼけて襲い掛かってきた。俺を肉とでも勘違いしたのだろう。噛み付いてきた

から抵抗したら、投げ飛ばされて現在に至る」

「アルフ、本当?」



 フェイトの目が、細まる。アルフが非難するような目を向けてきたが、これくらいの抵抗

はあってもいいだろう。事実を暴露したら、もっと大変なことになる。先手を打ったのはこ

ちらだ。どちらが『悪者』になるのが自然か、アルフにも解るはずだ。



「本当さ。美味いものを食べてる夢でも見てたんだと思うよ、内容は良く覚えてないけど」

「恭也にはちゃんと謝らないと駄目だよ?」

「解ってるよ……」



 覚えてろよ、とアルフの目が言っていた。



「すまなかったね、キョーヤ」

「気にすることはない。間違いは誰にでもあることだ」

「私からもごめんね、恭也」

「お前が気にすることは、何もないぞ、フェイト。アルフのせいで眠気も飛んでしまっただ

ろう。温かい飲み物でもどうだ? 眠れない時に義母が作ってくれたものを、ご馳走しよう。

お前にも飲みやすいように、甘くしてやるから」

「私、そこまで子供じゃないよ?」

「子供はみんなそう言うのだ」



 むくれるフェイトの頭をぽんぽん、と撫で、キッチンに向かう。手伝うよ、とアルフが隣

に並んだ。フェイトからは死角になるように、肘が打ち込まれる。舌を出すことで不満を伝

えると、アルフはそっぽを向いてしまった。しばらく、機嫌を直してくれそうにはなかった。

















後書き
おかしい。ソファで寝てたら枕を抱えたフェイトがきて、一緒に寝ようとか言い出す話だっ
はずなのに、気づけばアルフに押し倒されてました。ここまで来てもなのはの台詞はお兄ち
ゃん! だけ。一体何時になったら彼女はまともに台詞を喋ることになるのでしょうか……

ちなみに次回からミッドチルダ就職活動編。リンディさんは出ます。