顔面に衝撃を受けて、体ごと吹っ飛ばされた。仰向けに地面へと倒れながら、空を眺める。

快晴。外で運動するには、最高の天気だった。



 受身を取りながら地面を転がり、即座に起き上がる。顔面に痛みはあったが、気になるほ

どではない。過去に血塗れになって転げまわったことを思えば、ただ思い切り殴られた程度、

怪我の内にも入らない。



「は〜い、これで私の10連勝ね」



 自分を殴り飛ばした相手が、腰に手を当てて勝ち誇っている。これが美由希であればあら

ゆる手段を使って復讐をしたのだろうが、誇らしそうに笑う彼女は、嫌味なものを感じさせ

ず、ただ、そうあることが自然であるかのように振舞っていた。


 笑顔がとても似合う、周囲にいる者の気持ちまで温かくさせるような、そんな女性だった。



「参りました。いや、流石にお強い」

「模擬格闘のルールだから、勝てるだけ。何でもありの実戦形式だったら、逆の戦績になる

んじゃないかしら」

「それなら、今度は実戦形式でお願いできませんか? 俺もいいところを見せたい」

「私、かっこいいお母さんでいたいの。それは娘達がいない時にね」



 恭也にだけ聞こえるようにそう言うと、自分達の模擬戦を観戦していた少女達を、手招き

する。ぱたぱたと、自分達の方に駆け寄ってくる足音。



「どうぞ、恭也さん」

「ありがとう、ギンガ」



 礼を言ってタオルを受け取ると、ギンガは小さく微笑んだ。顔の作りはクイントに良く似

ているが、ひまわりのようなクイントと異なり、どこか控えめな印象のある少女である。



 母親に憧れているらしく、よく訓練を見学にくるが、何故かその度に甲斐甲斐しく世話を

焼いてくれる。助かってはいるが、どうもその行動の背後にクイントがいるようで、素直に

喜ぶことができない。



 今も、クイントはにやにやと――本人的にはにこにこのつもりなのだろうが――自分達を

見ていた。あれは、何かを企んでいる顔だった。



「どうかしましたか? 恭也さん」

「ギンガ。君はお母さんに何か言われたか?」

「え……」



 赤くなった顔は、母親が娘に、答えられないようなことを吹き込んだという証左でもあっ

た。それでも聞かれたという義務感からか、何とか答えようとしているらしいギンガが可愛

らしく、もう少し見てみたい気分にかられたが、ここでギンガを眺め続けていてはクイント

の思う壺である。



「まぁ、何を言われても気にしないようにな。君はそのままの君でいるのが、おそらく一番

素敵だ」

「……私、素敵ですか?」

「それは俺が保障する。もっとも、大多数の人間に言わせると俺は気の回らない人間らしい

からな。俺の保障なぞ当てにならないと思うが」

「いえ、嬉しいです、私」

「そう言ってもらえるのなら、何よりだ」



 ギンガにタオルを返し、クイントに向き直る。すると、ギンガの妹であるスバルが、ささ

っと、彼女の影に隠れた。ショートカットの、晶に似た少女で活発に見えるが、その顔に浮

浮かんでいるのは、怯えである。人見知りをするタイプなのか、まだ彼女と言葉を交わした

ことはない。



「スバル? いくら恭也君が人相悪くてチンピラに見えても、いきなり隠れたりしたら、恭

也君も傷付いちゃうでしょ? あれくらいの年頃の男の子は、難しい時期なんだから」

「どちらかと言うと、貴女の方が失礼なような気がするのですが?」

「迫力のある顔をした男性って魅力的でしょ? ほら、お父さんだって強面じゃない」

「お父さんは、私に優しいもん……」



 嫌われたものである。別に何かしたという訳ではないのだが、スバルの内部では既に、優

しくなさそうな人間にカテゴライズされているらしい。強面で避けられるというのも今に始

まったことではないが、スバルのような年端もいかない少女に避けられると、さすがに凹む。 



「別に恭也君はスバルを食べたりしないわよ。小さい子が好きって特殊な趣味をしてる訳じ

ゃ……ないわよね?」



 無言で首を振る。何か言い返したら、余計に突っ込まれそうだった。



「だから、ちゃんと仲良くしないと駄目よ。あの子、お母さんの仲間なの。メガーヌさんと

一緒。仲良くできるわよね?」

「…………うん」



 背後のスバルを促し、恭也の前に立たせる。まだ怖いのか、泣きそうな顔をしていたスバ

ルだったが、逃げ出さずにじっと、恭也の瞳を見つめていた。



 出来るだけ怖がらせないように慣れない微笑を浮かべ、スバルに視線を合わせる。そして、

根気強く、彼女から話しかけてくれるのを待った。



「す……好きな食べ物はなんですかっ」



 話を黙って聞いていたクイントとギンガか、肩をこけさせるのが見えた。恭也も同じ気分

だったが、同じ反応をしたら姫様はまた天の岩戸に篭ってしまう。



「食べ物か……」



 そこに行けば、たまたまあれば好んで食べる物ならばあるが、それを食べるためにどこか

に足を運んだり、という物はない。パティシエの息子にしては驚くほど、食物に拘りがない

が、強いてあげるのだとすれば、



「アイス宇治茶かな」

「……宇治茶ってなに?」

「俺の世界にある茶の一種だ。グリーンティーと言えば、この世界でも通じるのか?」

「知ってる。お父さんが、好き」

「お父さんとは気が合いそうだ。後、鯛焼きは知ってるか?」

「知ってる。私も好き」

「俺はその中でカレー味とチーズ味が好きだ」

「…………鯛焼き?」

「まぁ、存在を知った奴は概ねそういう反応をするんだ。どうも俺の好みはマイノリティら

しくてな。俺以外に好んで食す人間を聞いたことがない」

「元気出して」

「ああ、ありがとう。そう言うスバルは、何が好きなんだ?」

「アイス!」



 本当に好きなのだろう、スバルはぱっと、花咲くような笑顔を浮かべた。迷うことなく答

られる食物があることを羨ましく思いながら、スバルの頭をそっと撫でる。



 スバルはちら、と恭也の手に視線を向けたが、拒むような様子はなかった。怖い人、のカ

テゴライズからは抜け出せた気配だが、ここはダメ押しで一つ。



「俺の知り合いに、異常なほどに甘味を好む人がいる。俺はアイスには精通していないが、

その人ならばスバルの知らない美味しいアイスを売っている店を知っているかもしれない。

今度クラナガンに来る時には、アイスの土産を持ってこよう。期待しているといい」

「ほんと!?」

「本当だ。俺は嘘はつかない」

「ありがとう! キョウ兄大好き!」



 まるで最初からそうであったように、スバルが抱きついてくる。先ほどまで怖がられて

いたのが嘘のようだ。これには嗾けたクイントも驚いたようで、目を丸くしている。ギン

ガに至っては、あうあう呻いていた。目には涙も滲んでいる。可愛い妹を取られたのが気

に食わないのだろうと解釈した恭也は、放っておいたらいつまでもしがみ付いていそうな

スバルを引き剥がし、クイントに返す。



「うちの娘達の心をがっちり掴んだようね、恭也君」

「含んだ物言いですが、それが目的だったのでしょう? 自分で言うのも何ですが、女性

として俺と仲良くなっても良いことはありませんよ?」

「あまり目を付けられてない今が、勝負の時だと私は思うの。ライバルが増えてからじゃ、

いくらギンガとスバルが可愛くても、勝率が下がるでしょ? 母親としてできることはし

てあげたいっって思うのは、悪いことかしら」

「管理局員ともなれば、良縁はあるのでは?」

「親が縁談取り持ってもしょうがないじゃない。結婚は恋愛に限るの。私とゲンヤさんも

そうだったわ……」



 その表情は、まるで夢見る乙女だった。クイントはまだ若く、二十代も前半であるが、

その夫であるゲンヤは、正確な年齢は知らないが、年配であると聞いている。これで恋愛

の末の結婚でなければ、陰謀の臭いしか感じない。



 もっとも、例え陰謀の末の結婚であったとしても、今のクイントを見たらそんなことは

どうでも良くなるだろう。惚気話を聞いていれば、クイントが如何にゲンヤを愛している

か解るというものだ。



「そんな訳だから、今後とも娘達と仲良くしてね。なんだったら、許婚にしても構わない

わよ?」

「お嬢さんがたに魅力がないとは言いませんが、俺くらいの年齢の男がお嬢さんをくださ

いということを、世間では何と言うか知っていますか? 変態というのですよ」

「旦那が変態じゃ困るわね……」

「だから、今の発言は聞かなかったことに」

「……つまり恭也君は、うちの娘達が年頃になってから、改めて結婚を申し込みたいと、

そう言ってるのね」

「だから、気が早すぎはしませんか?」

「今が勝負の時なのよ。私の女の勘が激しく訴えてるのよ」

「信頼の置ける理由ではありますが、今回に限っては錯覚です。忘れてください」

「強情ねぇ……ま、いいわ。うちの娘達だもの、年頃になったら恭也君の気も変わるでしょ

う。ちょくちょく顔を出してね? 成長していくのをその目に焼きつけてれば、絶対に離れ

られなくなるから」

「凄い自信ですね」

「当然よ。だって、私とゲンヤさんの娘だもの」



 内容の一切を疑っていない、確信に満ちた言葉。その雰囲気に、外見はまるで似ていない

が、恭也は義母のころを思い出していた。その愛情が自分に向けられているのでなくても、

そういう親子を見ていると、心が温かくなる。こういう人達の生活を守っているのだと思う

と、剣を振るう意味も見えてくるというものだ。



「まぁ、その話はまたいずれ、ということで」

「お買い得だと思うけど……」



 名残惜しそうではあったが、無理に押し切るのも不味いと判断したのだろう。話の切り替

えを促すと、クイントもあっさりと引き下がった。



 ちら、とクイントが目をやった方向を見やると、見知った二人が歩いてくるところだった。

それまで自由な雰囲気だったクイントの背筋がぴっと伸びる。スバルは何が起きたのか理解

していないようだったが、姉に連れられて壁際にまで下がった。



 クイントを真似て背筋を伸ばすと、その敬意を向けられた相手――管理局地上本部、レジ

アス・ゲイズ少将は、苦笑を浮かべて手を振った。



「そんなに畏まらずともいい。君がナカジマ捜査官と訓練をしていると聞いたから、休憩が

てら様子を見に来ただけだ。楽にしてくれ」



 だからと言って姿勢を崩す訳にもいかず、休め、の体勢に移行する。



「テスタロッサ、ナカジマと立ち会ったのか? 戦績はどうだ」

「10戦、全敗でした、グランガイツ隊長」

「そこまでか……ではナカジマ、お前の目から見て、テスタロッサの腕前はどうだ?」

「この年代にしては驚異的です。私に負けたというのも、私の得意分野に合わせてくれただ

けのこと。実戦形式であれば、確実に私が負け越すことと思います」

「それも、従来の魔法を使わずにだ……彼をどう評価する、ゼスト?」

「魔法を前提としない戦闘技術は、今後の対魔導師戦に役立ちます。本心を言えば、このま

ま地上本部に残って欲しいほどです」

「それは、私とて同じ思いだ……全く、本局の連中は、地上のことをまるで理解していない

……」



 クイントが視線はそのままに、肘で腹を突付いてくる。長くなるから打ち切れ、という合

図と、何となく解った。口下手そうなゼストはともかく、レジアスは実に話が長そうな雰囲

気だった。話を聞いたことは何度かある。地上の平和を守るということに対する、その真摯

な姿勢は尊敬に値したが、万人に受ける内容でもない。



 特に今は、スバルとギンガがいる。母親としては、娘を退屈させたくはないのだろう。上

司であるのだから、普通であれば媚を売っておく場面だと思うが、本人を前にして娘のこと

を優先させる辺りが、実にクイントらしかった。



「ゲイズ少将、提案が」

「何か、グランガイツ隊長」



 だが、助け船を出したのはゼストだった。話の腰を折られて目に見えて不機嫌になるレジ

アスの視線を軽くいなすと、



「テスタロッサを飲みに誘ってはいかがでしょう。彼にはまだ、地上本部の何たるかを説い

てはいなかったはず。これを機に説いてみては」

「いい提案だ。テスタロッサ、今晩の予定はどうか」

「空いてたはずですよ。暇だという話を、先ほど聞きました」



 答えたのはクイントだった。当然、そんな話していない。恨みがましい目を向けると、ク

イントは瞳を閉じて、両手で耳を塞いでいた。



「では、問題はないな。話の続きは今晩ということにしよう。オーリスを使いに出すので、

本部から帰らずに待っているようにな」

「……了解しました」



 待てと言われたら、待つしかない。少将ともなれば雲上の立場の人間だ。組織で働こうと

決めた以上、理由もなしに逆らうのは得策ではない。



 いや、断ろうと思えば断ることはできたはずだ。逃げ道を塞いだのは裏切り者のクイント

と、そもそもの提案をしてきたゼストである。



 ご満悦の様子で踵を返したレジアスの後ろをついて歩くゼストが、一瞬だけ振り返り、ク

イントと視線を交わした。何か、聞こえた訳ではないが、念話をしていることは理解できた。

同時に、その内容までを、直感で悟る。



「……最初から、俺を飲み会に参加させる予定で?」

「何のことかしら? ちなみに参加するのは隊長だけよ? 私は今日は早く帰って、家族四

人で食事することになってるの。少将と予定がなければ恭也君も誘おうと思ってたんだけど、

残念ね」

「ええ、非常に残念です。俺もどちらかと言えば、少将やグランガイツ隊長と飲み屋に行く

よりは、貴女方を食卓を囲みたかった」

「お酒は大丈夫?」

「大丈夫、と答えざるを得ないでしょう」



 本当はそれほど得意でもなかったが、飲まないで済む状況ではなくなっていた。



「俺は16ですが」

「ミッド法では15歳から飲酒可能よ」



 法も自分の味方ではなかった。ため息をつき、時計を見やる。



「クイントさん、まだ時間は大丈夫ですか? よければ、実戦形式で訓練に付き合ってほし

いのですが。なに、お時間は取らせません。今日の戦績を即座にイーブンにしてご覧にいれ

ましょう。さあ位置についてください」



 クイントの反応を待たずにプレシアを展開、腰に二刀の装着されたベルトを具現化させ、

同時に抜刀すると、ギャラリーのギンガとスバルから、歓声が上がった。明らかに楽しみに

している様子の娘二人を前に、顔を逸らしたクイントは、恨みがましい視線を恭也に向けた。



「……ねえ、仕返ししようとしてる? 正直に言ってご覧なさい。怒らないから」

「なに。俺もただ、美少女の前でいい格好をしたいだけですよ。男ですから?」

「それ、貴方が言っても説得力がないわ」



 肩をすくめると、クイントは両手にリボルバーナックルを出現させ、バリアジャケットを

纏った。足元には、自走式のローラーブレード。恭也の感性では存在理由の理解できないも

のであったが、今の装いこそが、クイントが最高の戦闘力を発揮するものであるらしい。地

上本部にいる間に、突き詰めて話し合いたい事柄だった。レジアスの地上本部の話よりも、

よほど興味がある。



「貴方が最初から食事に誘ってくれたら、こんなことにはならなかったんですがね……」

「あらやだ。人妻をナンパ?」

「深い意味はありませんよ。一緒に食事をするなら、女性の方がいい。それだけの話です」



 合図も何もなく、模擬戦を開始する。イーブンにするという言葉に嘘はない。負ける訳に

はいかなかった。



























 シャワーを借りてグランガイツ隊の面々と話していると、本当にオーリスが迎えにきた。

佐官である彼女は、その気質も相まって恐れられているらしく、オーリスに連れられて行く

恭也を、一般隊員達は心の底から心配そうに見送っていた。



 そんな幸先の悪い見送られ方をした後、レジアス、ゼストと合流。少将身分のレジアスが

誘っただけあって、連れられたのは高級感の漂う、自分一人ではまず入らないようなバーだ

った。



 常連なのだろう、レジアスを先頭に三人は個室に通され、厳粛なレジアスの音頭と共に乾

杯。静かに飲み会は始まった。



 当初の予定通り、昼間の続きとばかりにレジアスは、管理局の体制の不満を語りながら、

度の強い酒を湯水のように飲み続けた。ゼストも相当に酒に強いらしく、レジアスの言葉に

相槌を打ちながら、同じペースで飲み続ける。ただ一人、置いていかれた感を持ったまま、

恭也はちびちびと酒を楽しんでいたが――居心地の悪さはともかく、酒そのものは美味いの

だ――二時間もしたところで雲行きが怪しくなった。



 相槌を打っていただけであったゼストと、レジアスの意見が対立したのである。



 戦力の格差の面から地上の戦力増強と、単独での任務達成能力の向上を目指すレジアスに

対し、ゼストはレジアスの論を認めながらも、使えるものは使うべき、と本局との連携の強

化の道を探る方法を主張した。



 弁論の腕はレジアスに分があったようだが、ゼストには現場最前線で戦ってきた経験から

来る自信がある。加えてどちらも、日頃から温めてきた案件であったらしく、論戦では決着

が付きそうになかった。



 これは朝までかかるか、と恭也が覚悟を決めた時、まずレジアスから拳が飛んだ。耳に残

る豪快な音に恭也が目を丸くしていると、決して小さなダメージではないだろうその一撃を

物ともせず、ゼストが反撃の拳を繰り出した。



 後はもう、泥仕合だった。テクニックも何もない。力の限り拳を繰り出し、相手が倒れる

までやめない、男と男の戦いである。血が飛び汗が飛び叫び声が木霊する。俺は何をしにこ

こへ来たのだろう、と思いながら部屋の隅に避難し、ツマミの野菜スティックを齧りながら

観戦を続けること、およそ30分。お約束のよう決まったクロスカウンターにより、ダブル

KO。男達は床に崩れ落ちた。



 残された恭也は、途方に暮れるしかない。仕方なくプレシアを使って、クイントに連絡。

起こったことをありのままに話すと、通信の向こうでクイントは大爆笑していたが、的確な

対処法を教えてくれた。具体的なそれを聞くに、このダブルKOは珍しいことでもないらし

い。



 解ってますよ、というバーテンの視線に耐えながら、大の男を何とか一度に担いで店を出

ると、呼んで置いたタクシーの中に放り込み、行き先を告げ、発進させる。



 そこまでやってやっと、恭也は一人で途方に暮れることができたのだった。



 時刻は午後の10時になろうかというところ。まだ早い時間であるが、一人で飲みなおす

という気分でもない。フェイトとアルフがまだ拘留されているため、宿を借りているハラオ

ウン家には、誰もいない可能性が高い。



 やり場のない気持ちを抱えたまま、ふらふらと街を歩く。地味な趣味しか持っていない自

分が、恨めしかった。何をしたらいいか、案すら出てこない。



 足を止めて、しばし考える……



「帰るか」



 考えた末に出た結論も、その程度のものだった。



 だが、方針が決まるといくらか気分も楽になった。シャワーを浴びてさっさと床につくこ

とがこの上もなく楽しいことのように思え、足取りも軽くなる。



「……あー、すまないのだがね、そこの人」



 軽い気持ちに水を差す声は、足元から聞こえた。



 悪い予感をひしひしと感じながら足元を見やると、いい身なりをした男が街路樹に寄りか

かるように倒れていた。赤い顔と、酒の臭い。酔っ払いである。



「なんでしょう」



 酔っ払いに関わって疲れてきたばかりのところに、これ以上酒の面倒を抱え込むのは御免

だったが、声をかけられてしまった以上無視する訳にもいかない。義務感だけで返事をする

と、声をかけてきた男は懐から小銭を取り出し、近くにある自販機を指差した。



「水を買ってきてくれないか」



 硬貨を受け取り、黙って頷く。理性的な酔っ払いの何と素晴らしいことか。殴り合いをし

ないだけで、目の前の男が最高の紳士に思える。



 水を買ってきて与えると、男は一気にそれを飲み干した。体の中に溜まった空気を、大き

く吐き出す……いくらか酔いを追い出したらしい男は、意外にしっかりとした動作で起き上

がった。



「いや、手間を取らせて申し訳なかったね。お目付け役に開放されたのも久し振りだったも

ので、一人で飲んでいたら加減を間違えてね。お恥ずかしいところをお見せした」

「ご無事なら何より。よければ、駅までお送りしますが」

「いや、それには及ばないよ。さっきお目付け役に連絡をしたから、もう少ししたら使いが

来るはずだよ」

「そうですか……失礼ですが、お仕事は何を?」



 すぐに迎えが来るというのなら、それまでの間、話し相手になるのも良かろうと適当に話

題を切り出す。簡単な質問をしたつもりだったが、男はふむ、と考え込んでしまう。答えた

くないから、言葉を濁しているというのではない、どう答えたものかと言葉を捜している風

だった。



「……会社経営という答えが、相応しいのかな。依頼人の要求してきた仕様の製品を作って

納入したり、逆にこちらから作った技術を売り込んだり、そんなことをして利益を上げてい

る会社だよ。小さな会社だから、知らないとは思うけどもね。社員も私を含めて六人しかい

ない」

「一国の主というのは、その規模がどれだけであっても素晴らしいものです。俺にはとんと、

人を率いるという才能がないもので、それで生活できるというのは、正直羨ましい」

「なに、人を率いることなど、思っているよりもずっと簡単なものさ。そりゃあ、カリスマ

とか知識とか、そういったものがあるに越したことはないがね? 率いられる立場の者が上

に立つ者に求めるのは、突き詰めていけば一つだけさ」

「その心は?」

「儲けさせることだよ。利益を共有するのでもいいが、彼女らの欲望を満たしてやれるのな

ら、方法は何でもいい。結局のところ、人は欲望を原動力にして動いているのだからね。そ

れが満たされていたら、大抵の者は文句など言うはずもないさ」

「それが難しいのだと、俺は思うのですが」

「だから、大抵の者は、人を率いることに失敗する。皆失敗していることなのだ。だから、

失敗することを気にすることはない」

「ひょっとして、励まされているのでしょうか」

「興味本位の忠告だよ。助けてくれた礼とでも、思ってくれたまえ。おっと、迎えが来たよ

うだ」



 男の視線の先に目を向けると、スーツを一分の隙もなく着込んだ、ウェーブのかかった長

い髪の女と、その腰くらいまでの背丈の、フードを目深に被った小さな人影――多分、少女

だ――が近づいてくるところだった。



「ドクター、お迎えにあがりました」

「手間をかけたね、ウーノ。アリィも一緒だったのかい?」

「ええ。貴方の醜態を見物するのだと言ってついてこられました。期待通りのものをお見せ

できて、何よりです」

「勝手に姿をくらませたのは悪かったよ。私にも、たまにはこういうことをしたくなる時が

あるのさ。許してくれ」

「許すも何も、私はドクターのお心のままに」

「そう言いながら視線を合わせないじゃないか……まぁ、この話は追々することにしよう。

手間をかけたね、青年。私はこれで失礼するよ」

「いえ、道中お気をつけて」



 お互いに苦笑しながら軽く会釈をすると、男はウーノと呼ばれた女性を共に歩き出した。

後ろ姿からして、青年実業家と秘書である。背中で語るという言葉があるが、それを体言で

きる存在にめぐり合うことは稀だった。



 去り行く背中に感嘆のため息を漏らしていると、フードの少女がまだ、残っていたことに

気づいた。少女はじっ、と恭也を見上げている。フードの下には、赤い瞳。



「なにか?」

「…………」



 問いには答えずに、少女は恭也を頭の先から爪先まで眺めると、微笑みを浮かべる。



「またね、おにーさん」



 それだけ言うと少女は身を翻し、先立って歩いていた男達に合流する。ウーノと手を繋ぎ、

真似して手を繋ごうとした男の手を容赦なく弾く。自己主張の強い、物怖じしない少女だっ

たが、記憶の中をいくら探っても、覚えがない。



 赤い瞳から、フェイトを連想する。初めて会った時からこれくらいフェイトも友好的であ

ったら、今ごろはもっと信頼し合える仲になっていたのではないか、と夢想する。



 今の関係に不満がある訳でもないが、もう少し積極的になっても、とは思う。





 急にフェイトとアルフの声が聞きたくなった。明日は、面会に行こうと心に決め、家路に

ついた。






















後書き

地上本部編です。StSまで書くことを考えた、私的に思い切った構成でした。
もちろん、A’s軸ではこの人達の出番はありません。もしかしたらあるかもしれませんが、
もしかしたらという程度です。

今回の話でA’sが始まるまでにやらないと、と思っていた話が全て終了しましたので、次
回からA’s軸の話になります。ようやく出てくるヴォルケンリッター。今から書くのがと
ても楽しみです。

どういう話にするかは決まってますが、まだタイトルが決まってません。当面はそれを考え
るのが、課題です。

それでは、A’sの話で会いましょう。