「はい、衛宮です」







 一本の国際電話……思えばこれが、始まりだったのかもしれない、と全てが終わった後に

全てを聞いた衛宮士郎は思った。



















『…………』



 意を決して出た電話だったが、相手は無言だった。念のために十秒ほど沈黙を通してみた

が、相手もこちらに倣っている。



(間違い電話……かな)



 意味もなく不安になる蒼星石である。この場合、間違えたのは相手で、彼女自身は何も気

にする必要はないのだが、何かと苦労を抱え込む性質の彼女は、相変わらず無言を貫く電話

先の相手に、言い知れぬ不安を感じていた。



「あの、もしもし、衛宮ですけど……」



 これで相手が何も言ってこなかったら、マスターに電話を代わる、と心に決めて言葉を紡

ぐ。それでも相手は数秒の間無言だったが、



『あ〜……そっちは衛宮士郎のお宅で間違いはない?』



 やっと聞こえた声は、眠そうな女の声だった。その声に、何故か蒼星石は赤い色を連想し、

この電話の相手は水銀燈とは仲良くなれない、と直感したが、それは電話そのものとは関係

のない話である。



「はい、衛宮士郎の家で間違いはありません」

『そっか、知らない女の声ってのは、私の幻聴じゃないって訳ね……ところで、その衛宮士

郎の家の電話に出る貴女は、どこのどなた? 妹、って訳じゃないみたいだけど……』

「僕の名前は……」



 蒼星石は自らの名前を言いかけて、自分がローゼンメイデンであることに思い至った。実

力のほどは知れないが、マスター、衛宮士郎は魔術師である。まだ自分の知らない敵がいる

かもしれないし、敵でないとしてもマスターがローゼンメイデンを所有していることを知れ

ば、敵になるかもしれない……



 製作者ローゼンをして、『知的』という設定を与えられた蒼星石は瞬時に思考を巡らせ、









『名前はいいわ。関係は?』

「……衛宮士郎は、僕のマスターです」



 思考を巡らせた結果、最適な答えを返したつもりだったが、『何故か』電話の向こうの相

手はまた沈黙した。気のせいだとは思うが、怒っているような気配もする。



 何か怒らせるようなことを言っただろうか……問題はない。自分は従僕として当たり前の

ことを言ったはずだし、嘘だってついていない。相手が嘘だと思うことはあるかもしれない

が、魔術師ならば従僕の一人や二人くらいはいるはずであるし、魔術と関係のない人間だっ

たとしても、これだけ広い家に住んでいるのだから、新しい『お手伝い』を雇ったとしても

不思議ではない……はずだ。





『そう……衛宮士郎は貴女のマスターなのね?」

「マスターです」

『納得したわ』



 納得してくれたらしい。赤い色を感じる人間は、やはり聡明なようだ。



『それじゃあ、貴女のマスターに伝えてもらえるかしら? あかいあくまは明後日に帰るか

ら、首を洗って待ってなさいってね』

「分かりました。一字一句違えずに伝えます」

『いい返事ね。士郎もいい従僕を持ったもんだわ』

「お褒めにあずかり、光栄です」

『それじゃあね。貴女にも明後日会うことになると思うけど、それまで元気で。それじゃあ

ね』

「はい、それでは失礼します」

























「と、いうことを伝えてくれと頼まれました」




 全ての家事が終わって、寝室、午後九時である。就寝には大分早い時間であるが、二人の

人形がとりあえずの就寝時間を九時と定めている故、士郎はその付き添いである。お休み、

の挨拶をして、明日の朝食の仕込みでもしようと思っていた矢先、先の蒼星石の言葉だ。彼

女は電話での会話の内容まで、事細かに話してくれたが……



(逃げたほうがいいかな……)



 衛宮士郎は、本格的に命の心配をしていた。名乗ってはいないということだから、その従

僕がローゼンメイデンであることまではバレていないだろうが、彼女らのいない間に自分の

ことをマスターなんて呼ぶ少女を連れ込んだ、と思われたのだったら、命の危険度では大差

はない。銀色の妹姉貴分まで一緒だった日には、冗談抜きで蒼星石達の仲間にされかねない。



「あー、まぁ、なんだ……とりあえず、その言葉は受け取った」

「それで、その電話の人は誰なんですか? 女の人みたいでしたけど……」

「俺の師匠……みたいな奴、かな。同じ年だけど、俺よりもずっと優秀な魔術師だよ。この

前、電話かけてきた奴だ」

「ロンドンにいるんでしたっけ?」

「あぁ。蒼星石達の姉妹を見たって言ってたな……」



 ついでに、ローゼンメイデンを手に入れるようなことがあったら譲れ、とも言われた気が

するが、



「真紅達のことかしらぁ」

「だろうね。多分、翠星石の言ってたあかい女っていうのが、マスターのお師匠様のことだ

と思う」



 偉大なるお師匠様は、既に有名人らしい。



「マスターのお師匠様なら、ちゃんとおもてなしをしないといけませんね」

「おもてなしよりは、身を守る方法を考えといた方がいいような気もするけど……」



 気にしても、どうしようもないことだ、ということは理解している。あの『あかいあくま』

は、こうだと決めたら、地の果てだって地獄の底だってわき目も振らず全力で駆けていくこ

とだろう。未熟な自分では、逃げ切れまい……が、備えくらいはしておこうと思う。



「明日、上等な食材を買いに行こうと思うんだ。下ごしらえとか大変だから、手伝ってもら

えるか?」

「マスターの頼みなら、喜んで」

「ありがとう。いい娘だな、蒼星石は……」

「あらぁ、私はいい娘じゃないみたいな言い方ねぇ」

「……意地の悪い言い方するなよ、水銀燈」

「ところで、目が覚めた時から聞こうと思っていたのだけれど……」



 士郎の言にはとりあわず、銀髪の人形――水銀燈は、目を細めながら部屋を見回した。そ

の視線の先には、何もないと言ってもいいくらいに何もない。その視線に含むところに何と

なく察しのついた士郎は、苦笑を浮かべながら、言葉の先に回る。



「俺の趣味をこの部屋でやるわけにもいかないからな。自然と私物も、土蔵の方にいっちま

うのさ」

「でも、土蔵にあるのはガラクタばかりでした。マスターのものがあるようには、とても…

…」



 口調と表情には、申し訳なさが漂っている。そう思っているのなら黙っていればいいだろ

うに、そういうことは言わずにはいれない、損な性分なのだ。そんな彼女にマスターなどと

呼んでもらえる幸運を噛み締めながら、少女の頭にのった小さな帽子を取り上げる。



「うーん……スパナとか繋ぎとかが私物っていうんじゃ、駄目か?」

「駄目……ってことはありませんけど、寂しい感じもします」

「工房に気を使ってもらえるというのは人形としては嬉しいけど、せっかく私のミーディア

ムになったのだから、もっと身なりには気を使ってほしいとは思うわぁ」

「身なりなぁ……」



 衛宮士郎という人間には、もっとも縁遠いものだ。物がなくて困ったことはないし、特に

服に至っては、よほど必要に差し迫られでもしない限りは買った記憶もない。白地に緑色の

袖のTシャツ一枚もあれば十分というものだ。



「別に俺は、今のままでも十分だぞ? 何か買ったらってのは色々な奴に言われるけど、俺

は今のままでも十分だと思ってるし」

「貴方は良くても、私が困るのよぉ。貴方は自分の人形に、ずっと同じ服を着させるつもり

なのかしらぁ?」

「水銀燈、マスターを困らせるのは……」

「人形が彷徨っていいような世でない以上、貴方はこの家の中で私達を満足させる義務があ

ると思うのだけれど」

「夜中に起き出して空を飛んでるのは知ってるんだけ――」



 士郎の言葉を遮るように、足元に畳に深々と烏の羽が突き刺さる。思わず腰をあげかける

士郎に水銀燈はにやぁ、と笑みを浮かべた。狩猟者が獲物を追い詰めた時のような、絶対的

強者が弱者を見下ろすようなその笑顔は、聖杯戦争では何回も向けられたものだ。



「レディの揚げ足を取るなんて、感心しないわぁ」

「……なんでさ」

「ともかく、貴方には私たちを満足させる義務があると思うの」



 士郎の心からの抗議を無視して、水銀燈は言葉を続ける。自分のマスターを蔑ろにした水

銀燈の態度に、不満を隠そうともしない蒼星石が虚空から何かを取り出そうをするのを慌て

て止めながら、



「具体的には、どうしたらいいんだ?」

「私達のために、心のこもった貢物をしなさぁい」

「貢物か……服とかでいいのか?」

「センスの悪いものは認めないわぁ。誇り高きローゼンメイデンに相応しいものでなくては

だめよ?」

「センスねえ……」



 食以外のそれを、士郎には望むべくもない。何しろ、学生服とつなぎ以外の服は、片手で

数えられるほどしか手持ちがないのだ。そんな人間が女性用の服を、しかもゴシックでロリ

ータな人形の服を選べるはずもないし、どこで売っているのかも見当がつかない。姉にして

妹分のイリヤならそれくらいの伝はあるのだろうが、頼りになるはずの彼女は今、ドイツに

里帰り中だ。



「服を作ることはできないんですか? マスター」

「俺の専門は機械だからなぁ。簡単な針仕事ならできなくもないけど、その程度だ。お前ら

が着るみたいな服を作るのは、さすがに無理だな」

「なら、買うしかないわねぇ」

「学生の懐に無理言うなよ」

「期待はしないわぁ。でも、甲斐性を見せてほしい、とも思うわねぇ……」



 意訳すると、とにかく買え、何が何でも貢げ、ということか……蒼星石は心配そうにこち

らを見ているが、割って入ってとめないところをみると、貢物には思うところがあるらしい。

出会ってまだ一週間も立っていない主従の関係だが、こういうことが過ごした時間の多寡で

図れるものではないということも、先の戦争で学んだ。それを悟りとするなら、



「明日は無理だけど、そのうち買いに行く」



 こういう時の女性を相手にした時、衛宮士郎という人間は逆らってはいけない、というの

は、真理である。



「……嬉しいわぁ」

「いいんですか? マスター」



 こうなることが当たり前と思っているらしい水銀燈に、心配しながらも嬉しそうな蒼星石。

彼女らの着ている服を見るに、諭吉の三人や四人は軽く吹っ飛んでいきそうな感はあるが、

彼女達を喜ばせることができるのなら……決して安くはないが、まぁ、安くない、と思うこ

とができる日も、そのうち来るだろう。



「いいよ。お前たちを満足させるのもマスターの務めだ」

「ようやく私のミーディアムたる自覚が出てきたようねぇ……」

「違うよ、水銀燈。マスターは、僕達のマスターだ」

「あまり喧嘩はしてくれるなよ……さぁ、今日はもう寝ておけ。明日は色々、手伝ってもら

うからさ」

「分かったわぁ……おやすみなさい、私のマスター」



 言って、水銀燈はこちらの返事も待たずにトランクに飛び込み、バタン、と蓋を閉めた。



「水銀燈は、照れてるんですよ」



 よほど間抜けな面をしていたのか、そう言う蒼星石は苦笑を浮かべていた。



「i意外ですか? ああいう水銀燈は」

「短い付き合いだけど、普段の水銀燈があんなことは言わないってことくらいは、分かる。

意外だな、すごく」

「変わろう、としてるんだと思います。僕ら、色々なことがありましたから……もちろん、

僕も変わろうと思ってます。マスターのために、頑張ろうと思ってます」



 言って、蒼星石は帽子を手に取り、小さく頭を下げた。



「多くは望みません。わがままも……出来るだけいいません。だからマスター、末永く、僕

達をおそばにおいてください。僕が、今の僕達が望むのは……それだけです」



 それじゃあ、とやはりこちらの言葉を待たずに、蒼星石はトランクに飛び込んだ。



 残されたのは、間抜けな顔をした、マスターと呼ばれる青年が一人。動かないトランクを

ぼ〜っと見つめ、一人ごちる。



「…………なんでさ」



 苦笑を浮かべて立ち上がり、ふと思い至って二つのトランクにそっと触れ、明日は、いつ

も以上に美味い料理を作ってやろう……そんな決意を、そっと固めた。