『sacred purple』 第一話
男は立ちふさがる全ての敵を薙ぎ払うって行けるだけの力を持っていた。男を知る人間
は語る。彼は温厚な人間で、決して自ら暴力を振るうようなことはしないと。だが、男を理
解する人間は語る。彼こそは『力』の体現――戦いの天才である、と。
男は、心の中に強さを持っていた。例えどれほどの苦境に立たされようとも、彼は決し
て諦めるということをしなかった。その強さの源は自らの持つ力であり、信念であり、そし
て仲間だった。男の周囲には、いつも仲間が集っていた。
男はいつも、何かを探していた。それは全身全霊を賭けて打ち滅ぼすべき敵であり、守
るべき大切な人であり、敬愛すべき唯一の先生であった。何か目的を持っている者が人間
なのだとすれば、きっと男は世界の誰よりも人間らしかった。
男は、数多くの通り名を持っていた。『死神』、『殺の具現』、『青の後継者』――それらは
皆、男の偉業を現す符号だ。だが、数多くの通り名を持つ男が自ら名乗った通り名は、彼の
生涯でただ一つだけであった。知識の番人、協会の魔術師達の歴史には現在、そ
の男のことを記述する際、本名よりも先にその通り名が刻まれている。
その通り名には、男の願いが込められていた。決して交わらぬであろう青と橙……男の
敬愛する『青』を冠する先生と、赤を冠する師匠が、自分を通じて手を取り合うことがで
きるように、と……そしてそれから、もう少し自分のことを気にかけてくれるようにと、
ささやかな反抗を込めて――
男は、自らを『紫』と名乗った。
蒼崎のあの姉妹に喧嘩を売る……現代に生きる魔術師であれば、手放しで賞賛すべき偉
業を成し遂げた魔術師――遠野志貴のその名は、ある一連の事件をもって、魔術師達の歴
史に登場することになる。
「もうここに来なくてもいい……それはつまり、破門ということですか?」
「解かっていて聞いているというのなら、それは嫌味であり、私に対する挑戦だよ、志貴」
「無論、解かって言っていますよ。でも、これくらいは許してください。長年師匠の弟子
をしていたせいなんでしょう。どうも、師匠が感染ってしまったようでして」
むき出しのコンクリートで囲まれた殺風景な部屋の中、志貴と呼ばれた青年は、その整
った容貌に薄い笑みを浮かべた。対して女性――この『伽藍の堂』所長にして稀代の魔術
師、蒼崎橙子はまだ火をつけたばかりの煙草を灰皿に押し付け、苦虫を噛み潰したような
その表情を、惜しげもなく青年に向けた。
「気に入らないようなら、くれてやる予定の物を取り下げるぞ?」
「気に触ったのなら謝ります。若輩者の分際で出すぎた真似をしました。申し訳ないです」
「……何気に反応が早いな。いまいち誠意が感じられないが、まあいい」
新たな煙草に火をつけ、大きく息を吸う。倦怠感の具現とも言うべき、やる気のない動
作であるが、彼女の瞳から輝きが消えたことは志貴の知る限り一度もなかった。
所長の椅子に深々と腰を降ろしたまま、橙子は僅かに口の端を上げる。
「そんな馬鹿げた理由で私、蒼崎橙子は一度決めたことを覆したりはしないよ。証も何も
ないが、皆伝はお前にくれてやる。後は真理を探究するなり何なり、魔術に関しては好き
にするといい」
「魔術に関しては?」
「ああ、そうだよ。例え皆伝をやっても、私の弟子であったという事実が消えた訳ではな
いからな。これからはもっとこき使ってやるから、覚悟しておくように」
「お手柔らかにお願いしますよ」
魔術師などという時代錯誤な肩書きを持ってはいるが、これでも志貴は学生だ。きちん
とした仕事を持っている橙子とは違い、昼間には当然学校に行っている。そこで何を学ん
でいる訳ではないが、せめて真面目に卒業でもせねば、養ってくれている有間の家に面目
がたたない。
ここに顔を出していることだって、部活……のようなもの、ということで、既に後ろめ
たさを感じているのだ。自分の道を進むことを妥協するつもりはもちろんないが、これ以
上時間を割かれるのは、個人的に勘弁してもらいたいところだ。
「無論、その辺は弁えているよ。自らの時間を持ちたいとする青少年を束縛する権利など、
私にはあるまい?」
「寛容なようでいてその実ふてぶてしいですね。俺は別に、遊ぶ時間が欲しい訳じゃあり
ませんよ?」
「いや、お前もまだ若いんだ。自分の師匠の頼まれごとよりも大事なことの一つや二つ、
そりゃああるだろうさ」
(こりゃあ、根に持ってるな……)
蒼崎橙子という人間は、やると言ったことは必ずやるし、それが報復という行為であれ
ば、それこそ自らの全存在を賭ける。彼女に目をつけられて生き残った人間はいないと聞
くし、志貴とて今まで一度もこの師匠に『勝てた』例はない。どこにいるとも知れぬ彼の
先生ならばいざ知らず、ことこういった戦いともなると、志貴と橙子は絶対的に相性が悪
い。故に――
「先日、上等な羊羹を頂きました。次に来るときには、そいつをお分けしましょう」
故に、遠野志貴は蒼崎橙子との戦いを、いかなる手段をもってしても回避しなければな
らない。今回はそれがたまたま羊羹であっただけの話。懐も痛まぬし、これで済むならば
安いものだろう。
「そうか? いや、催促したようで悪いね」
「いえいえ。これでも分を弁えた若輩者ですから」
「ならば、玉露でもセットで持ってきてもらおうか。羊羹には付き物だろう?」
「……そうですね。うちにあるものの中から、とびっきりのものをもってきますよ」
話はこれまで、と志貴はさっさと踵を返す。ここには元より、大した用事があった訳で
はない。橙子からの通達が自分の皆伝だけだと言うのなら、今日はもうここにいる意味が
ないし、これ以上何かを押し付けられては溜まったものではないからだ。
こういう時、師匠の淡白な性格はありがたい。来るものは拒み、去るものは追わず。彼
女は優秀な魔術師であるが、こと人間に関して執着を示すことは、それこそ皆無と言って
いい。そしてそれは、今のところ唯一の弟子である志貴でも、例外ではなかった。
それを悲しいと、志貴は思わない。むしろ、その淡白さが彼女の味であるとさえ思って
いる。以前面と向かってそれを口にした時は、間髪要れずに殴られたものだが、その痛み
も、もはやいい思い出だ。
(穿った思い出だなぁ……)
思い返せば思い返すほど、真っ当な人生ではない。
だが、そんな人生を送ることを選んだのは、自身だ。間違いだったかと思うことはある
が、それを後悔したことは一度もない。
志貴は自らの人生を誇っているし、淡白で横暴な師匠も、尊敬すべき存在だ。誰にも文
句を言わせるつもりはないし、言うつもりもない。
「志貴」
その言葉に、振り返ることはしない。志貴はノブに手をかけたまま、足を止めることで、
その呼びかけに応える。
「志貴、何を求める」
「立ちふさがる敵を薙ぎ払い、自らの望みを叶えるための力を」
あの日、世界の大きさを感じた。少しでもその果てに近付きたくて、子供だった自分は、
ただ純粋に力を求めた。
「志貴、何処に求める」
「矮小なるこの身の、その内に」
あの日、自分の小さきを知った。ガラクタのような自分の体が恨めしくて、あの人のよ
うに、強くかっこよくなりたいと思った。
「志貴、何処を目指す」
「…………別に、何処にも。気の向くまま足の向くまま、歩き続けてみることにします」
「お前なら、まあ、そんなものだろうな……」
師の顔に浮かぶのは、微かな笑み。ともすれば見逃してしまいそうな小さなそれも、志
貴にとっては最高の励みだ。返礼として志貴も笑顔を返すが、橙子は『ん……』と小さく
唸っただけで、それ以外は何もない。それも、いつも通りだ。
そして、志貴はいつも通り無言で、『伽藍の堂』を後にする。
「結局あの馬鹿、最後まで私を先生と呼ばなかったな」
志貴を弟子にとってかれこれ七年。その間彼は一度たりとも自分のことを先生とは呼ば
なかった。彼が自分を呼ぶときは何時だって『師匠』。志貴にとって先生とは、あの馬鹿
な妹だけだった。
別段、それが羨ましかった訳ではない。馬鹿な妹に『先生』という呼称があるように、
自分にもまた、『師匠』という呼称がある。そのどちらが特別ということはない。志貴に
とってそれらは同列なのだから。何かが在るとすれば……あの馬鹿な妹と同列に扱われる
ということに対する、このやり場のない怒りだけだ。
「…………まあ、今考えるべきことではないか」
ポケットから煙草を取り出し手の内で弄びながら、口の端を上げてにやりと笑う。胸の
うちに燻るような怒りも、後で本人に向けてやればいい。皆伝はやったが、彼の未熟な身
ではそう遠くないうちに泣きついてくることだろう。そんな志貴の姿を想像するだけで、
気分は少しだけよくなった。今日はもしかしたら、凄くいい日なのかもしれない。
紫煙が室内に広がっていく。『赤』に宿命付けられた魔女の一日は、いつものように怠
惰から始まる……