「いきなり何を言い出すかと思えば……」

 よりにもよって、死徒ときた。性質の悪い冗談と笑い飛ばしたいところではあるが、埋葬
機関の人間が出張ってまで、一人の人間をからかいに来るとも思えない。

 死徒……吸血鬼の中でも、真祖に次ぐとびっきりの存在。この身がそんな大それたもの
でないことくらい、絶対にないと断言できるのだが、埋葬機関を名乗る女性がこうして目の
前に現れたということは、彼女には確信にいたる程度の根拠がある、ということだ。

 自分が、死徒であるという戯言の。

「それが何処から入った情報で、何をもって貴女がそれを信じているのか知りませんけど、
人違いですよ。俺、家路を急いでる途中なんで、できればさっさと退いてくれると嬉しい
んですけど……」
「違うかどうかは、私が判断することです。貴方が気にかける必要はありません。大人し
く審問を受けるならばよし。歯向かうならば……こちらも仕事です。容赦はしませんよ?」
「ほお……機会を与えてくれるとは、思ってもみませんでした。見敵必殺が貴女方の教訓
だと伺ってますが?」
「yes,or,no。私が聞いているのは、それだけです」

 答える女性の口調には、にべもない。

 『埋葬機関の人間は、話が通じない』が、彼らに関わった自分の知り合いの、共通見解
であることを考えれば、眼前の彼女は話を聞いてくれるだけ、まだ大分マシなのかもしれ
ない。しかし、

「俺の答えはノー、ですよ。『女の人には逆らうな』が俺の人生教訓ですけど、『礼儀知
らずは叩き潰せ』が、俺が師匠から授けられた教訓でね」

 高圧的な年上には、どこぞの師匠のおかげで大分耐性があるが、こちらは魔術師で、あ
ちらは埋葬機関。大人しく従っても無事に帰してくれるという保障はどこにもない。


 交渉とも呼べぬ交渉は、ここに決裂した。


 元々、こちらが素直に従うとも思っていなかったのか、女性はやれやれ、と面倒くさそ
うにため息をつき――


 無動作に限りなく近い挙動で、それらを投擲した。

 それら――剣としては華奢な造りの、斬るよりは投げることを主眼に置いた武装。教会
の代行者が持つ(と聞いている)基本的武装、黒鍵だ。

 飛来するそれらを分析しながら、志貴の身体は動き始める。

 まず、飛来するそれらは現時点で四本。威力は、必殺。普通の人間であれば、あれらの
一本でも当たれば、そのまま死に至るだろう。

 その刀身は須らく魔力で構成されている。投げる直前に造ったのだろうが、その造形は
見事の一言に尽きた。ここまでやるからには、ただの刀身ということはあるまい。火葬か
風葬か……この身を吸血鬼と断じたからには、おそらくは火葬と、もしかしたら、投擲方
法そのものにも、何か仕掛けがあるかもしれない。

 結論。例え、直接でないにしても、アレに触れるのは酷く危険だ。

 しかし、あれらを完全に避けきるのは、既に手遅れ。受け止めるほど自分の身体は頑丈
にできていないし、魔術解体(ディスペル=オーダー)は専門外だ。

 ならば――と、ベルトにある鞘から黒塗りの短剣を引き抜き、駆け抜ける勢いを殺さぬ
まま、四つの黒鍵、その全てを叩き落す。

 連続する金属音、それが四回。剣の弾幕を抜け、しかし、その先には女性の姿はない。
彼女は――


「――ちぃっ!!」

 『真上』から振り来る剣の群れを避け、あるいは弾く。

 一瞬にして頭上を取った女性は音もなく着地し、そのまま流れるような動作で両の手の
黒鍵を繰り出す。

 それは機械のように正確で、絶望的なまでに重い。奇跡と言っても過言ではない動作で
捌いてはいるが、それもあと数合が限界だろう。

 黒鍵がこちらの短剣を弾く。虚空に舞うそれを見向きもせず、女性は返す動作で黒鍵を
繰り、心臓を狙う。

 回避は不可能。このままでは死、もしくはそれに等しい状態にまで追い込まれるだろう。
ならば――

(潜行、開始)

 刹那にも満たぬ時の中、遠野志貴は自らの意識の海に沈む。

 数回の溺死を繰り返し、そして辿りつく海の底。無限に広がる海底はそれ故に、あらゆ
る可能性を秘めて、そこに存在していた。

 そのあらゆる可能性のうちの一つ……目的のそれを捉え、志貴は言葉を紡ぐ。


「『我は七つの夜を渡り歩く者なり』。制約『七夜』、解除」













 実を言えば、確信があった訳ではなかった。

 彼に疑いがあったのは事実で、その最有力の候補ではあったが、彼はそれだけの存在だ
った。これは、明らかに早計……

 しかし、彼には魅力があった。死徒の可能性がどうとか、魔術師であるらしいとか、家
庭と血族の事情が複雑であるとか、そういったものを全て抜きにして、彼は根本的なあり
方が他人と違っていた。

 それがどう違うのか……それを説明できる人間は、おそらく皆無だろう。しかし、彼を
少しでも見れば、並程度の観察眼の持ち主ならば、それに気付くはずだ。

 そして、多かれ少なかれ、彼に惹かれることになる。それは恋慕の感情であり、友情で
あり、親近の念。それだけで、彼は憎悪を向けられることがない。

 そんな彼に惹かれた結果が、この剣だ。彼女には確信があった。このまま彼と共にあれ
ば、自分は間違いなく堕ちていってしまうだろう。例え、彼が求める仇敵だと知ったとし
ても、それを受け入れてしまうであろう、弱い自分になる。

 それは、この世で最も美しいとされ、もっとも唾棄すべき感情だ。そんな感情に振り回
される自分を羨ましく思うと共に、嫌悪する。そうなってしまっては、もう手遅れだ。

 だから、例えどれだけ早急であったとしても、後で嫌味な上司に文句を言われようとも、
彼とは今ここで、決着をつけなければならない。

 死に瀕すれば、いかに彼のものが潜在していようとも、表に引きずり出される。遠野志
貴が当たりならばそれでよし、ハズレならば彼を蘇生し、記憶を操作するだけ。

 手は打った。例え、どんな結果になるにしても、自分はもう二度と彼と見えることはな
い……これで終わる、はずだった。


「『我は七つの夜を渡り歩く者なり』。制約『七夜』解除」


 彼の言葉が、虚空に消える。それが生み出した結果は、必殺だったはずの黒鍵が空を切
る姿。


「えっ……」


 素人のように声を上げ、我が目を疑う。彼は、それこそ幻のように眼前から消えうせた
のだ。認識すると同時、女性の脳内を様々な可能性が巡る。


 空間転移か? 否。如何に短距離と言えど、瞬間詠唱のそれなどもはや魔法の域だ。

 幻覚……それも否。自分が必殺の一撃を放った。そこまでは間違いなく現実だ。消えた
ように見せたところで、それが覚めた後にあるのは、彼の死体のはず。それでは幻覚の意
味がない。つまり――

「これでチェックメイト。動けばどうなるか……分かりますね?」


 彼は自らの力でもって、必殺の状況を覆したのだ。














「さて、色々と言いたいこともありますが、とりあえず質問に答えてもらいましょうか」

 首筋には刃、背中――心臓の真上には手が添えられている。少しでも動けば殺す、とい
う意思表示と取るのが普通だが、実のところ志貴には彼女を殺すつもりなど微塵もなかっ
た。世の中、話しても解からない人間はいるが、眼前の彼女は違う……そういった確信が
あったからなのだが、はてさて、それが相手に伝わっているかどうか。

「まず第一に、貴女の所属は?」
「私が答えなければならない理由はないと思いますけど?」

 答える彼女は、身じろぎを一つもしない。感覚の鋭敏になったこの身には、彼女の身体
の特異性――たったいま彼女が遭遇している危機程度では殺しきれないだろうことが感じ
取れていたが、素直に言うことを聞いてくれたところを見ると、とりあえず話を聞いてく
れる気はあるらしい。

「そうですね。でも、俺としても聞かない訳にはいかないですから」
「……埋葬機関七位、『弓』のシエル」

 出てきたのは、裏世界では知らぬ者などいない組織の、さらに有名人の名だった。七を
冠する代行者。第七聖典のマスターであり、飛び道具を好んで用いる狩人、シエル。魔術
師としては、顔を合わせてはいけないランクの上位に位置する危険人物だ。

「お噂は聞いてますよ。できることなら、こんな状況で会いたくはなかったですけど」
「私の噂なんて、どうせいいものではないでしょう。ならば、何処で会ったとしても同じ
ことです」
「そんなことはありませんよ。お茶でも用意して落ち着いて話せば、もう少しましな結果
になってたはずです」
「……私は代行者で、貴方はそれに追われる立場なんですよ? それでも、違った結果が
あると言えますか?」
「はい。貴方ならきっと、解かりあえると思います。話の通じる連中とそうでない連中の
区別は、つくつもりですから」

 むしろ、それが理解できなかったら志貴は当の昔に命を落としていたことだろう。志貴
にとっては通じる通じないよりも通じる度合いの方が重要であったのだが、それにくらべ
れば、単なる二択などどうと言うことはない。

「甘いんですね、貴方は。じゃあ、私が貴方の身体を走査させてくれと言えば、貴方はや
らせてくれますか?」
「それくらいなら。今からで構いませんか?」

 首の短刀を納め、一歩二歩、女性――シエルから離れる。シエルは……動かない。

「貴方は……馬鹿ですか?」
「心外ですね。これでも少しは賢いつもりですが」
「貴方が私の拘束を解いた瞬間、私が貴方に襲い掛かるとは考えなかったんですか? 先
程は遅れを取りましたが、それが二度も続くとは、貴方も思ってないでしょう?」
「ありゃ。見抜かれてました?}
「これでも、埋葬機関が第七位です。同じ相手に二度も意表は突かれません。今からでも
また始めれば……私は貴方を確実に殺せます」

 自惚れでは……ない。おそらく、始めたとすればシエルは本気でこちらを殺しにくるだ
ろう。それで殺されるとは志貴も思わないが、それでも苦戦は必至である。自ら苦難に飛
び込むのは愚か者の所業、通常の神経をした魔術師なら、後ろを取った段階で命を奪って
いたはずだ。だが――

「なら、お好きに。でも、しようとも思ってないことを言うのは、あまり感心しません」
「私が貴方を殺せないと?」
「い〜え。戦えば多分、貴方が勝つ。でも、貴女はきっと俺を殺さないでいてくれる。そ
れくらいは分かりますよ。そんじょそこらの魔術師よりもよっぽど、貴女は信用できます
から」
「……一応、どうしてと聞いておきます」
「何と言えばいいんですかね。一言でいうなら、人間としての勘ですよ。貴女は信用して
もいいって、俺の中の何かが言うんです。自分の身に疚しいことはないですし、走査くら
いは本当に構わないんですよ」

 魔術師が体内を走査させるということは、その命綱とも言うべき魔術回路を晒すことで
ある。力ある魔術師にそれを晒すことがどういうことなのか、同じ穴の狢であれば、知ら
ぬはずもない。少しでも相手に害意があれば、それこそ廃人、即死は思いのままであるし、
意思を殺され操り人形にされることだってある。

 信用されるために背負うリスクとしては、割に合っていない。信用などはそれこそ話し
合いや行動でもってどうにかなることだし、それでどうにかならないのだったら最初から
折り合いなどつかないのだから、態々危険を晒すなんてことは普通の魔術師であればしな
い。

 敬愛すべき師匠は言うだろう。『この愚か者』、と。

 だが、これこそが自分――あの日、草原で強くなると誓った魔術師、遠野志貴であるの
だ。敵とあれば容赦なく断ずるが、分かり合えるというのなら昨日までの敵とだって手を
取り合いたい。

 それを愚かだと言いたいのなら言えばいい。そうしたら、胸を張って愚かな奴だと笑い
返してやる。それだけの自信が、自分の過去にはある。積み重ねられたそれらに、後悔など
微塵もない。

「と、言う訳ですから、俺にできることなら何でもしますので、俺のこと信用してもらえ
ませんか?」
「……………………分かりました。埋葬機関が第七位の権限に於いて、貴方が死徒でない
ということを認めましょう」
「あれ? 走査しなくてもいいんですか?」
「見くびらないでください。貴方が人を見る目に自信を持ってるのと同じように、私も状
況判断する能力には信頼を置いています。一般人と知れている人間にいらぬ手間をかける
のは得策ではありませんし――」

 ――それに、ちょっとだけ安心しましたから――

「……すいません。最後の方が聞き取れなかったんですけど、何て言ったんですか?」
「聞こえなかったんならいいです。どうせ、聞こえないように言ったんですから」

 知りません、とシエルはぷいと顔を背け、その法衣の下に黒鍵の柄を仕舞い込む。同時
に張られていた結界も消え、辺りに音と気配が戻ってくる。

「色々とありましたけど、これから私は敵ではないということを念頭に置いておいてくだ
さい。組織の立場的に協力できる時できない時がありますけど、この街に巣食う吸血鬼の
情報は、可能な限りそちらに流しますから」
「協力体制、ということですね。分かりました。こちらも何か分かったら……埋葬機関の
情報網に何の協力ができるか知れませんけど、お教えしますよ」
「そんなことはありませんよ。ここは貴方達の縄張りですからね。外来の者よりは、貴方
達の方が容易いでしょう。ご厄介になるのはこちらです」
「そう言ってもらえると助かります。連絡先はどちらに?」
「ああ、そう言えば貴方にはまだ会っていませんでしたね。私、貴方と同じ学校に入り込
んでるんですよ。貴方の一つ上、三年生ですけど」
「そりゃあ……気付きませんで、申し訳ないです」

 あの埋葬機関の『弓』が放課後は代行者なんて、裏の業界の人間が聞いたら卒倒するか
もしれないが……

「何かあったら学校で言ってください。本当はもう少し話を貴方と……遠野君と話をした
いんですけど、今日はもう遅いですから、先程の不可解な動きを含めた話は、明日のお昼
にでもしましょう」
「情報交換なら応じますけど、企業秘密は秘密のままですよ」
「それは残念。まあ、その秘密に関しては気長に待つことにしますよ。では、貴方に主の
加護がありますように。良い夜を」

 神の僕に相応しい台詞を、相応しくない軽い仕草で十字を切ることで飾り、地面を一つ
蹴ると、シエルの身体は軽々と宙へと舞い上がり、夜の闇の中へと消えていった。










「まあ、味方が増えた……ってことでいいのかな?」

 弾き飛ばされた短剣を回収し、良く見ると黒鍵で所々に穴の空いた路地を見てみないふ
りをしながら、家路を急ぐ。

 それほどの時間が経った訳ではないが、家には何かとこちらの帰りを気にする義妹がい
る。既に少しは遅れているから、食卓に着く前に彼女にタックルされることには変わりな
いだろうが、それでも早く帰るにこしたことはない。

「主の加護……か」

 神など生まれてこのかた信じたこともない志貴であったが、本職の人間の口からそんな
単語を聞くと、少しくらいは信じてもいいか、という気分になってくるから、不思議だ。

 いい夜になりますようにと、ガラにもなくいるかどうかもしれない神に祈りを捧げなが
ら魔術師遠野志貴は家路を急いだ。