『sacred purple』 第四話 過去に帰る












1、

「自己暗示……ですか?」
 昼飯時の学生食堂は、人間でごった返している。弁当を持たない主義の者や、単にそれ
を忘れただけの者。純粋にここで食べるのが好きな者や、既に食べ終わって談笑している
者など、優等生風から不良風まで人材には事欠くことがない。ピークは過ぎたはずだが、
それでも席の大半は埋まっている。

「厳密に言えば少し違うと思いますが、それが一番近いんだと思います」

 既に空になったパスタの皿をフォークで突付きながら、ずれた眼鏡を直し、志貴は正面
に座る女性を見た。制服から判断するに三年生。眼鏡をかけた『一見』大人しそうに見え
なくもない女性であるが、スタイルはいい。眼鏡の奥にある瞳は蒼く、欧米の血が入って
いることは疑う余地がない。

 その彼女の名はシエル。本名かどうかは知れない上に学生ではない……どころか、魔術
師である志貴にとっては天敵とも言える埋葬機関の代行者であるが、敵意がないらしいの
で敵対する理由もないし、一応ここは学校。不本意な気持ちも多分にあるが、とりあえず
先輩と呼ぶことにしている。ちなみに、彼女が食していたのはカレー、二皿。内訳はチキ
ンカレーとカツカレー。

「俺の師匠は眼鏡をかけることで気持ちを切り替える、見たいなことをしてますけど、俺
の場合はもう少し強力でして。なんと言いますか……自分の能力を細切れにして封印して
いるんです。で、その封印を解くためにはキーワードを口にする必要がありまして――」
「私がこの間聞いたのはそれですか? 『我は七つの夜を渡り歩く者なり』」
「そうです。それが制約『七夜』のキーワード……俺の生い立ちについては?」
「本人を前に申し訳ないですが、調べましたので知ってます」
「申し訳なくはないですよ、俺本人は気にしてませんから。あんまりべらべらと喋られる
のは困りますけど……」
「安心してくれていいですよ。こう見えても口は堅いですから」
「その点は信用してます」

 真面目に切り返されるとは思ってなかったのか、志貴がそう答えると、シエルは僅かに
頬を染めてそっぽを向いた。小さく礼の言葉が聞こえたような気もするが……つっこんだ
ら命がなさそうなので、それは心の中にだけ止めて受け流す。

「ともあれ、それが俺のこの間の動きの秘密です。他にも制約はありますが、これはまだ
秘密ってことで」
「秘密を根掘り葉掘り聞こうなんて気はありませんよ」
「幸いです」

 小さく微笑み志貴は立ち上がり――テーブルの隅、ルーン文字の描かれた紙を破棄する。
即席のものだが、それでも一般人に対しては効果があるようで、これがある間はどんなに
危険な話をしようとも、注意されることはない。他人に対する存在濃度を薄くしているの
だが、それだけにこれを廃棄した後は一気に存在感が増し、事実、隣りで食事をしていた
生徒は驚いた様子で、志貴達の方を見つめていた。

「見回りはいつから?」
「先輩に会った翌日……要するに昨日からですね。毎日続けるつもりですけど、今日は俺
に少しばかり用事があるので、中止です」
「用事……あぁ、そう言えば引越しするなんて言ってましたね。丘の上の洋館……遠野の
家に帰るんですか?」
「帰る……んですかね? 俺には正直分かりませんけど、でも、そうですね。きっと、帰
るということになるんだと思います」

 魔術師となり、世の中の黒さを知った今となっては、あの家に思うところがない訳では
ない。自分の身の安全を考えるのなら、あの屋敷に行くのは得策ではないのだろうが、そ
れでも、胸糞の悪い思い出に匹敵するほどのものが、あの屋敷にはある。

 それに、負債とは返すものだ。いつまでも体の中にそれを溜め込んでいては、体に悪い。

「私は遠野君じゃありませんから、遠野君の気持ちは分かりませんけど――」

 カレーの皿を返却口に戻し、くるり、と振り返るシエル。

「でも、そういうのはいいんじゃないかな、と思います」
「励ましのお言葉、痛み入ります」
「どういたしまして」

 浮かべる笑顔には、曇りがない。美人は見慣れている志貴だが、一瞬だけ、この得体の
知れない先輩に見とれてしまった。

 志貴はシエルでないから、彼女の過去は知らない。だが、埋葬機関の代行者など、裏の
世界では知らぬ者などいない生業、真っ当な人生を歩んできたとも思えない。それでも。
こんな笑顔を浮かべられるというのは、強い、のだと思う。

「夜道には気をつけてくださいね」
「大丈夫ですよ。こう見えても私、強いんですから」

 冗談めかした口調で言って、シエルは手を振りながら踵を返した。その背を見やりなが
ら、思う。

 遠野志貴という人間はいよいよ、ああいう女性に縁があるらしい。












2、

 家には、その家主の気風が宿るという。自分の家――この屋敷を前に自分の、というの
も可笑しな話だが――である有間の家など、帰る度に穏やかな気分になったようなものだ
が、この屋敷を最初に見た時に感じたのは……今の家主には悪いが、威圧感だった。

 庶民感覚の染み付いた自分には、冗談のような大きさの洋館。その外周を高い塀が覆っ
ていて、外来の者が入るための門は、本来人を招き入れる場所であるはずなのに、拒絶の
オーラを放っている。

「噂には聞いてたけどさ……」

 これならば、近所で幽霊屋敷のような話をされるのも分かる気がする。これからその幽
霊屋敷に住むのだと考えると気も重くなるが、だからと言ってこのままぼ〜っと突っ立っ
ている訳にもいくまい。

 よし、と小さく気合を入れて、この屋敷には聊か不釣合いな呼び鈴を鳴らす。ビー、と
いう無機質な音を聞いて、待つことしばし――

『はーい。どちら様ですかー?』

 想像していた雰囲気とは違う明るい声に、思わず肩をこけさせる。その声音には、固さ
というものがない。聞くものに警戒心を抱かせないような、そんな万人を安堵させるよう
な――どこか『計算された』優しさ。

『あのー、もしかしてピンポンダッシュとかいう奴ですか?』

 黙ってしまったこちらを訝しく思ったのだろう。推論の帰結としては少々安っぽいが、
その声の主はこちらを疑う方向に話を進めている。呼ばれたから帰ってきたとは言え、門
前払いは流石に勘弁してもらいたい。

「あの……俺、遠野志貴っていうんだけど……」

 だからなのか。こうも下手に出てしまう自分が、どうも悲しい。

『お待ちしておりました』

 木製のドアが開き、見覚えのあるフロアと、割烹着の少女が目に飛び込んでくる。

「申し訳ありません。本来なら、迎えの車をお出しするべきだったんですけど」

 言って、申し訳なさそうな顔をするのは、年の頃なら自分と同じくらいの少女だった。
髪は暗い赤色。若干幼く見えなくもない容貌に、化粧っ気のない白い肌。ふくよか……と
いうのとはまた違うが、それでも十二分に魅力的な女性である。

「そんなに気を使わなくてもいいよ。俺は別に、そこまでしてもらうほど偉い訳じゃない
からさ」
「そんなこと仰らないでください。志貴様は遠野家のご長男で、私達のご主人様なのです
から、体裁というものがあります」
「体裁ね……庶民の俺に、そんな言葉がついて回るようになるとは、思ってもみなかった
けど……」

 ここに帰るという選択をした以上、それも致し方ないことだ。何の制約にも縛られず恩
恵が受けられるはずもない。魔術師に限らず、世の基本である『等価交換』。この家に住
み、目の前の少女のような人を使うのなら、遠野という姓に縛られるのも、当然と言えば
当然だ。

「でも、志貴様はこのお屋敷に帰ってきてくださいました」
「そうだね。今のは失言だったと思う。できたら、忘れて欲しいな」
「それが、志貴様のご要望でしたら」

 くすり、と朗らかに笑い、女性はこちらに背を向ける。

「居間で秋葉様がお待ちです。ご案内いたします」
「うん。よろしくね、琥珀ちゃん」
「はい。では――」

 そうして、当たり前の動作を当たり前のように行うはずだった女性の動きが、不自然な
までにぴたり、と止まる。先に続いて何か失言でもほざいたか、と自分の行動を省みてみ
るが、別におかしなところはない。

「琥珀ちゃん? もしかして、具合でも悪いのかな」
「いえ……身体は健康そのものですけど……志貴様? 志貴様は私のこと――」
「琥珀ちゃんだろう? あの時、俺に白いリボンを預けてくれた」

 もしかして、彼女の双子の妹と勘違いしているのか、と頬を染めて何やらあたふたして
いる女性をじっと見つめてみるが、結論は変わらない。最後に会ったのはもう何年も前の
話だが、彼女ら二人の区別くらいはつく。

「ああ、リボンだけど返すのはもう少し後にしてもらえるかな? 流石にいつも持ち歩く
訳にはいかなくて、今は持ってないんだ。引越しの荷物のそこに――」
「いえ! リボンのことはこの際どうでもいいんですけど……」
「ん?」

 言いたいことはあるのに、どうにも整理がつかないらしい。気にはなったし、秋葉を待
たせているのなら時間もないはずだが、ここで琥珀を促すのは忍びない。

 時間にして、十秒ほど、二人の間には沈黙が続いた。動悸も治まったのか、琥珀はす〜
っと大きく息を吸い込み。

「……ありがとうございます」

 まず、たった一言、口にした。

「お礼を言われるようなこと、したかな?」
「私のことを、覚えていてくれました。私のことを、分かってくれました。約束を、忘れ
ないでいてくれました。それは私にとって、とてもとても嬉しいことです」
「そう……なら、その言葉、ありがたく貰っておくよ」
「はい、志貴様」
「……だから、できればその『様』ってのをやめてもらえないかな? それほど年が離れ
てる訳じゃないし、琥珀ちゃんなら俺のことなんて呼んでもいいんだけど」
「大変嬉しいお言葉ですけど、私は遠野の使用人でもありますから……志貴さん、とお呼
びするのでよろしいですか?」
「うん。志貴様よりは断然いいよ」

 志貴と呼び捨てにされることすら厭わないのだが、琥珀にだって立場がある。そう呼ば
れることは、またの機会にとっておくことにしよう。

「さて、案内をしてもらえないかな? 間取りは一応覚えてるけど、何分、久しぶりだか
らさ」
「分かりました。客間で秋葉様がお待ちです。こちらにどうぞ」

 微笑む琥珀からは、相変わらずどこか演じているような感じが拭えない。しかし、以前
はくすりとも笑わなかったことを考えれば、これでも大した進歩なのだと思う。ここに至
るまでにどんな変化があったのかは知らないし、おいそれと踏み込んでいいものとも思わ
ないが、やはり女の子は笑っていた方がいい。それが美人なら、なおさらだ。

(リボン、結んでやらないとな……)

 それで真に笑ってくれればあの日、恩師に近付くことを志し屋敷を逃げ出した少年にと
って、これほど嬉しいことはない。









3、

 ランクの高い装飾品は自ら持ち主を選ぶというが、庶民の感覚が染み付いた遠野志貴は
果たして、こんな高級を具現化したような空間に受け入れられるのだろうか……

 自問して答えを出す。断じて否、だ。もし何の策もなくこの空間に入ることになったの
だとしたら、もう二度と入ろうなどとは思わないことだろう。それほどまでに、この空間
には高貴さが溢れている。自分達のような戦う者、探求する者が持つ気高さとは違う、上
に立つ宿命にある存在のための空間。そして、

「おかえりなさい、兄さん。お元気そうで何よりです」

 自分では一生かかっても慣れないだろう空気を、あろうことか当たり前のように纏った
王者の気質を持つ少女。それがあの、自分の後ろをちょこちょことついて回っていた妹で
あると気付くには、魔術師という属性を持ってしても、幾ばくかの時間を必要とした。

「…………ああ。ただいま、と言ってもいいのかな?」
「もちろんです。今日からここは、兄さんの家なのですから。いえ、今日からというのは
間違いですね。兄さんが出て行く前からずっと、ここは兄さんの家だったのですから」
「そう言ってもらえるのは嬉しい。何はともあれ、久しぶりだな秋葉。お前も元気そうで
何よりだよ」

 促されるままに秋葉の向かいのソファに座ると同時に、目の前に置かれるカップ。流石
に遠野の家。紅茶にも上等な葉を使っているのか、香りからして庶民とは違う。

「ありがとうね、翡翠ちゃん」

 カップを置き、定位置である部屋の隅に戻ろうとしたメイド服の少女は、その言葉がよ
ほど以外だったのか、盆を持ったまま何もないところで盛大にずっこけた。

 痛いほどの沈黙が場を支配する。何が起こったのか理解できない様子の秋葉。自分と一
緒にこの部屋に入り、楽しそうに状況を見守っている琥珀。そして、倒れたままぴくりと
も動かないメイド服の少女に、どうしたものかと苦笑するしかない、遠野志貴。

「あー、その……なんだ。ごめん」
「…………いえ、志貴様が謝られることではありません。お見苦しい所をお見せしました」

 赤くなった鼻を摩りながら、それでも職業意識の命ずるままに定位置まで下がるメイド
服の少女、名を翡翠。落ち着いているように見えるが、内心まだ慌てているのだろう。ず
っこけた際にすっ飛んで行った盆は、部屋の隅で鈍く輝きながらその存在を控えめに主張
している。

「これは、置いておいて……」

 と、物を動かすジェスチャーの秋葉。こちらも動揺しているのか、仕草が妙に可愛らし
い。

「積もる話は夕食の時にでもするとして、まず兄さんには現在の遠野の状況についてお話
したいと思います。琥珀?」
「はい、秋葉様。現在このお屋敷に住んでいますのは、志貴さんを除くとご頭首でありま
す秋葉様。そして使用人であります不肖この琥珀と、妹の翡翠ちゃんだけです。当然のこ
とながら、志貴さんには個室をご用意いたしましたので、後で翡翠ちゃんに案内されてく
ださい」
「俺の荷物はもう運び込んであるのかな?」
「はい」

 受け継いだのは、今度こそ立ち直ったらしい翡翠。きりっとした表情は、まさにメイド
の鑑である。

「お洋服の方は私どもが用意させていただきます都合上、こちらで管理させていただいて
おりますが、その他の荷物は既に運び込んでございます。書籍の類は志貴様の好みがある
かと思いましたので手をつけていませんが、整理の際にはお声をかけてくださいますよう
お願いいたします。後は――」

 メイドとして言い難いことでもあるのか言い淀む翡翠の言葉を、何となく察しの付いた
志貴は、苦笑しながら継ぐ。

「回線がないんでしょ? 俺の部屋には」
「はい。コンピューター機器の類は私の立会いのもと姉さんにセッティングをしてもらい
ましたが、回線が存在していませんでしたので、完璧とは言い難いものになっています」
「てことらしいんだけど秋葉、俺の部屋に回線を引くことはできるかな。なければないで
諦めはつくから、それほど重要度は高くないんだけど」
「兄さんの頼みでしたら、そのように手配しましょう。私はあまりコンピューターには詳
しくありませんから、その辺は琥珀に一任します」
「おまかせください。きっと快適な環境にしてみせます」

 楽しみにしてますよ、と琥珀に笑みを向け。紅茶を啜る。妙にフレンドリーなこちらが
気になるのか、さっきから背後のメイド少女と目の前の女王様予備軍少女の視線がちくち
くと痛い。

 答えるべきかと思考して、視界の隅に悪戯を仕掛けた子供のような顔をした琥珀が目に
入る。『し〜、ですよ〜』という心の声が聞こえてくるかのようだ。この状況を心の底か
ら楽しんでいるらしい少女の意思を尊重し、茨の道を歩く覚悟を決める。

「状況は分かった。他に屋敷の決まりとかあったら教えてほしい」
「門限は七時。九時には正面玄関の施錠をいたしまして、十時には消灯です。消灯時間を
過ぎましてからは、あまり出歩かないようお願い申し上げます」
「予想はしてたけど……厳しいね」
「カビの生えた家則ですけれど、守ってくださいね? 兄さん」
「馴染めるように努力はしてみるよ」

 今の時代、中学生でも難色を示しそうな『家則』であるが、家族が守っているというの
なら遠野志貴が守らない訳にはいかない。元々出歩くような性分ではないし、大して苦に
はならぬだろうが……守るのは現在立て込んでいる事件が片付いてからになる。早速破ら
なければならないのは心苦しいが、これも仕事と勘弁してもらいたい。

「では、お部屋にご案内いたします」

 鼻の痛みも引いたらしいメイド少女が先導に従い、部屋の外へ。にこやかに小さく手を
振る琥珀。そのうち審問でも始めそうな雰囲気で割烹着の少女を睨みつけている秋葉。有
間の家に不満があった訳ではないけれども、彼女達を見て帰ってきた……と思ってしまう
のは、やはり未練があったからなのか。

 魔術師としての自分の帰ってくる場所は、ここにははない。七夜の側面の強い自分は、
彼女達の望む遠野志貴では厳密にはありえない。色々なものを見て、色々なことをしてき
た自分は、彼女達の知っている遠野志貴では絶対にない。

 今の自分を知っても、彼女達は受け入れてくれるのだろうか。過去に帰り、昔の遠野志
貴を演じることが、今の『遠野志貴』の役割なのだとしたら……

 最後まで演じきろう。それがきっと、八年前にこの屋敷を去った子供、遠野志貴の役目
なのだから。














4、

 小汚い屋根裏部屋まで覚悟していたが、案内されらのは普通の――普通の基準に照らし
合わせれば十分に広い部類に入る部屋だった。梱包された荷物は衣類を除いて全て邪魔に
ならないように隅に積まれてあり、話題に上ったパソコンは……コードが繋がれていると
ころを見ると、回線以外は繋がれているらしい。

「何か足りないものがございましたらお知らせください。私どもで取り寄せておきますの
で」

 などと、メイド少女は言ってくれたが、根が庶民である遠野志貴にこれ以上望むことが
あるはずもない。足りない物、というのはいずれ出てくるかもしれないが、今はこれでよ
し、と翡翠を下がらせるとベッドに寝転がる。

 ――気持ちいい。

 一体今までのベッドの何が違うというのか。有間の家で寝苦しさを感じたことは一度も
ないが、この感触は今までのモノが霞んで思えるほどだ。考え事をするつもりが思わずベ
ッドの上をごろごろ。それが気持ちよくて、三十分はかれこれそうしていただろうか――

(志貴さん、志貴さ〜ん)

 控えめなノックと楽しそうな声で、現実に引き戻された。

(……扉の向こうに立たれるまで気付かなかったのか?)

 意図せぬ他者の接近を許すなど、戦闘技能者としては致命的だ。そこまでこのベッドで
気が緩んでいたのか? それとも、扉の向こうの女性に何らかの技能があるのか?

 両方と考えるのが妥当だろう。仮にもここには遠野の本家。それも宗主である遠野秋葉
最後まで信頼し、残した使用人の片割れだ。いくら彼女が混血の親玉という退魔にとって
の天敵とも言える強さを持っているとしても、護衛くらいは必要だろう。もっとも、実力
以上に信頼に値する何か、というものが二人の使用人にはあるのかもしれないが。

「どうぞ。あいてるよ」
「失礼します」

 主人と従者の型通りの礼を交わし、琥珀は中へ。隅の荷物とベッド、それからベッドに
腰かける志貴を眺め、

「ベッド、気持ちよかったですか?」
「この部屋には隠しカメラでもあるの?」
「まさか〜。ご主人様にそんな不遜なことはいたしません。志貴さんがベッドの上でごろ
ごろ、まるで猫さんのように気持ち良さそうにしてたとか、それを部屋で見ていた私まで
気持ちよ〜くなってしまっただなんて、そんな事実は知りませんし、ありませんよ〜」
「一度、琥珀ちゃんとは本気で話し合う必要があるかもね」
「私はいつでもOKですよ。志貴さんのお相手なら、喜んで務めさせていただきます」
「じゃあ、本気で相手をしてもらおうかな」

 冗談めかした物言いに冗談めかして答え、志貴は懐から封筒を取り出し、琥珀に放る。
確認もせずに彼女はそれの封を開け、中身に眼を通すと、

「いけませんね。志貴さんがこんなものを持っているのがバレたら、分家の方々に殺され
ちゃいますよ?」
「遠野志貴はそれを持ってないよ。それは、遠野の屋敷に戻った偽りの長男ではなく、魔
術師遠野志貴に対してある人物から送られたものさ」
「あらびっくり。意外な事実ですね。志貴さんって魔術師さんだったんですか?」
「白々しく……いや、その返答がもう答えそのものと言ってもいいけどさ。そんなに安い
ものでもないでしょ? それは」
「ですね。秋葉様の暗殺計画の詳細なんて、その辺のスーパーじゃ売ってません。例え世
界中を探しても――」

 ふと、琥珀の笑みが消える。とっつきやすかった空気は霧散し、一人の人間としての顔
が浮かび上がる。

「これに関して、私以上に調べ上げることのできる人間はいないと自負しています」
「それは事実だよ、魔法使いの琥珀(マジカルアンバー)。俺の知り合いの情報網でも完
全に裏は取れなかったし、その腕には自信を持っていいと思う」
「お褒めに預かり恐縮です、神聖なる紫(セイクリッドパープル)」



 神聖なる紫――遠野志貴が魔術師として名乗る通り名だ。通り名を自分で名乗るなど馬
鹿らしいことだとは思うが、この時世、魔術師の最大派閥である時計塔に所属していない
どころか、軽く敵対すらしている立場である以上、仕方のない対処だ。

 師や先生のように開き直ることができれば楽なのだが、魔術師の家系でかつ家としての
実力を持っている蒼崎と違って、七夜も遠野もついでに有間も、時計塔の魔術師とはあま
り仲がよろしくない。

 だが、いくら通り名を名乗ったところで、時計塔の魔術師達の力を持ってすれば本名な
ど即座に調べつくすことができるだろう。とは言え、自分で言いふらすことでもない。だ
から遠野志貴はよほど信頼のできる相手でもない限り、魔術師として行動する時はこの通
り名だけを名乗ることにしている。

 そんな中、魔術師遠野志貴が根城にしている場所――三咲の市内にある、とあるマンシ
ョン――に届けられた、一通の封書。中身は前述の通りで、差出人は『魔法使いの琥珀』
と、魔術師に対して喧嘩を売っているとしか思えない通り名で前述の、遠野秋葉暗殺の計
画書が送りつけられてきたのだ。しかも、宛名は遠野志貴。根城の名義は他人のものにな
っているから、態々相手は本名を調べた上で本名で連絡を寄越したのである。

 それでも『魔法使いの琥珀』とやらが喧嘩を売っていると早合点しなかったのは、通り
名の中に含まれていた琥珀というフレーズのせいだろう。通り名持ちの知り合いなど腐る
ほどいるが、自ら琥珀を名乗る心当たりなど遠野志貴には一人しかいなかった。

 白いリボンの少女。遠野の屋敷に置いてきた、ただの遠野志貴の思い出。

「さて……暗殺の期日が未定になってるけど?」
「応変に行くつもりなんでしょう。街で起こった裏側の問題は遠野にも処理の義務が生じ
ます。退魔や代行者に遅れは取るまいと、久我峰を始めとした分家が幾らか動いています
が――」

 封書を丁寧に折りたたみ、自らの懐へ。消した笑みを元に戻し、魔法使いの琥珀からた
だの琥珀に戻る。

「動いていますが、それ以外の動きも見られますね。それほどまでに遠野の実権が欲しい
という方々がいらっしゃるようで、荒事専門の連中にコンタクトを取った形跡も見受けら
れます」
「形振り構わなくなってるのはリーダーが馬鹿なのか、揉み消すだけの自信があるのか…
…いずれにしても、遠野宗家の立場からすれば由々しき事態だね」
「七夜の直系たる志貴さんからすれば、遠野の家がどうなったところで知ったことではな
いと思いますけど?」 
「それは琥珀ちゃん、貴女にも言えることだよ」

 混血の中にある退魔ということならば、志貴と琥珀の立場は同じである。加えて、仕事
場は遠野家の宗家。そこに退魔の血統があっては、いつ狂った馬鹿に命を狙われるか分か
ったものではない。連れて来られた琥珀にすれば、ここにあっての身内は双子の妹である
翡翠だけ。危険を冒してまで遠野に尽くす義理はないはずだが、

「こんな私にも、忠義の心はあるんですよ〜」

 心外です、とばかりに琥珀はぴっと指を立てて軽く睨みつけてくる。

「確かにこのお屋敷はいい思い出ばかりではありませんが、それでも私がこの小さな命を
賭けて守ろうと思うくらいには、価値があります。仕えるべき秋葉様がいて、愛すべき翡
翠ちゃんがいて、それに何より白いリボンの約束がありましたから」

 ベッドから起き上がり、荷物のうちの一つを――身の回りの。取り分け重要なものを入
れておいたモノを開け、古ぼけたそれを取り出す。

「俺が琥珀ちゃんの生き方を縛っちゃったのかな」
「原因の一つではありますよ。でも、気に病む必要はございません。私が巫浄宗家からの
誘いを蹴ってまでここに残ることを選んだのは、間違いなく私の意志ですから」

 赤みがかった髪を纏める青いリボンを解き、こちらに背を向ける。

「謝らないよ。あの時の俺には力がなかったし、何よりも大事なことがあったから」

 手馴れた手付きで琥珀の髪を取り、白いリボンを結ぶ。出来栄えは悪くないと思うが、
それでもなんとはなしに歪に見える。

 しかし、琥珀は出来栄えの確認も何もしないで立ち上がると、この日『初めて』の笑顔
を浮かべた。

「結構です。魔法使いの琥珀は言葉を求めたりはしません。これからの行動で示してくだ
されば、過去のことは全て水に流す所存です」
「そりゃあ、俺も頑張らないといけないね」

 彼女の望むことは、正直な魔術師としても退魔師としてもどうでもいいこと、混血の覇
権争いなんて、厄介ごと以外の何物でもないことに首を突っ込むなんてもっての外だ。

 しかし、魔法使いの琥珀が一人の少女としてこの屋敷のに残ることを選んだように、神
聖なる紫も一人の人間としてこの屋敷に帰ってくることを選んだのだ。帰って来いという
誘いを断ることも、もちろんできた。霧絵や藤乃には真剣に反対されもした。それでも自
分はここにいて、同じ決意をした彼女と相対している。

 退魔師の都合など二の次だ。やりたいこともできないようでは、先生の待つあの草原に
辿りつくことなど、できはすまい。

「魔術師『神聖なる紫』遠野志貴は、貴女に協力する。これからよろしくね、琥珀さん」
「『魔法使いの琥珀』、不肖この私、謹んで協力を誓わせていただきます。いえいえこち
らこそ。今までの分も含めて、私達と仲良くしてくださいね」
















後書き

私は二つ名とか通り名が好きです。
組織とかでそれが揃えられてたりすると、格好いいとか思ってします感性の持ち主でして
……よってからに、この拙作に登場する連中で本編にない通り名を持っているキャラには
作者の何某かの趣味が働いているとお考えください。、