sacred purple 第六話 『混沌 黒の姫君』










「どうしましたか、遠野君。調子がよくないようですけれど……」

「ご心配なく。少し、昔のことを思い出していただけですから」


 そんな言葉とは裏腹に、遠野志貴は深いため息をつく。これで心配するな、というのも

無茶な話であるが、これから臨むことからすれば当然と、質問をした当人は勝手に解釈し

てくれたらしい。志貴のローテンションについてはそれ以上言及せず、眼前の月を背負っ

た建物に視線を向けた。


 内心に浮かぶのは殺意か何か……普通のアパートに住んでいるらしいシエルにすれば、

会合の相手である彼女が、眼前のホテルのスイートフロアを丸ごと借り切っているという

事実は、腸が煮えくり返るほどの事柄であるかもしれないが、ちら、と盗み見た限りでは

そんな心情は窺い知ることはできなかった。力を入れすぎて真っ白になっているその拳を

見さえしなければ、極めて良好の精神状態であると思う。


「会合内容については説明しましたね? 『真祖』アルクェイド=ブリュンスタッドとの

不可侵を結ぶのが今回の目的です。遠野君には近隣の退魔を代表しての出席、ということ

になっていますが、あの女が個人的に興味を持っているということの方が、意味は大きい

かもしれません。何か、とんでもないことを言ってくるかもしれませんが、気だけはしっ

かり持ってくださいね」


 割と命の保障をされた状況で真祖と対面ができるなど、世の魔術師ならば狂喜しかねない

状況だが、遠野志貴にはそれがあまり嬉しくない理由がある。それを知っているのは……残

念ながら、この国ではおそらく師である蒼崎橙子ただの一人。事情を知らないシエルは型ど

おりの心配をしてくれるが、どうにもやるせない気持ちはどうしようもなかった。


 言葉の通り、気だけはしっかりと持って、経験から知っていることも交えて、言葉を返す。


「大丈夫でしょう。吸血鬼は基本的に契約の類は守る種族……と聞いてますから」

「その契約をするまでが大変なんです。価値観の違う者達と歩調をあわせるのって、とて

も難しいことなんですから」

「心中、お察しします。俺達も似たような苦労はしてますからね」


 混血という微妙な立場の存在にとって、この国は比較的寛容なスタンスを取っているこ

とから、混血も討つべしと考えるような強硬派の説得から、混血による犯罪の後始末まで、

退魔師も退魔以外の仕事には事欠かない。


 まだ若く、七夜の一族はもはや一人だけということで、志貴にはあまりそういった仕事

は回ってこないが、霧絵や両儀の一族などは日々そういった連中の取り成しに回っている

と聞く。真祖、死徒などという、人の形をした規格外と交渉をする埋葬機関と一緒くたに

考えるのは失礼かもしれないが、そういった気苦労には親近感を抱かぬでもない。


「で、遠野君。さっきから気になってはいたんですけど……」

「何を聞きたいのか解かってるつもりですけど、一応礼儀として聞き返してみます。何で

すか?」

「そちらでさっきから私を睨んでいるお嬢さんは、何しに来たんですか?」


 シエルにそちら、と示されたのは 艶やかな長い黒髪に、あくまで黒で統一したシックな

服装、同年代と比較して肌の露出は少ないが、肌の白さと落ち着いた物腰と相まって、独

特な存在感を醸し出している美少女――退魔『浅神』の現宗主、浅上藤乃だった。


 何をしているのか、と問われても、遠野志貴は首を捻らざるを得ない。


 いつものように遠野の屋敷を抜け出し――た訳ではなく、悪友の家に泊まるという旨を

予め伝えてあったため、学校を出てから待ち合わせの時間まで、適当に時間を潰してから

ここまで来たのだが、その暇つぶしポイントから出た時には、既に彼女はそこにいたのだ。


 礼園の制服ではなく私服を着ているのだから、一度家に帰ってから態々来た、というこ

とになるが、話がどういう風に纏まる分からなかったせいで、退魔の関係者には今日のこと

は一言も話せていない。


 単に自分会いに来たというのでもないだろうから、最初から今日、何処で、何があるかを知

った上で現れたということになる。


 どこまで話が漏れているのか、と気が気でなかった志貴は、藤乃に色々と問うてみたのだが、

彼女は一言、『護衛です』と答えたきり、口を閉ざしたままだった。説明が欲しいのは、志貴も同じ

だったが、流石に仲間である藤乃がこのままここにいるのは具合が悪い。


「あ〜、俺の仲間で浅上藤乃ちゃんと申しまして……俺の護衛だそうです」

「護衛ですか? 私と対等に戦える遠野君がですか?」


 最初から信じてもらえるとは思っていなかったが、案の定、シエルは思い切り怪訝な顔をしてくれた。


「いいですか、これから私達は遊びに行くのではないんです。お仲間さんなら、遠野君が

心配なのは分かりますけど、危険ですから――」


 家に帰れ、とでも言うつもりだったのだろう。


 だが、目に見える範囲『全て』の街路樹が、何の冗談か根こそぎへし折れるという怪現

象、その轟音に紛れて、その声はかき消されてしまった。


 車の邪魔にならぬよう、街路樹は全て歩道に倒されたようだが、奇跡的に歩行者に怪我人は出て

いないようだ。そのように倒したのだろうが……千里眼の持ち主にすれば朝飯前のことだが、相変わ

らず、敵とするには恐ろしい能力だ、思う。


 さて、藤乃の能力を知っている志貴には目の前のことが理解できたが、知らないシエル

は目の前で起こった出来事に関して、理解するまで数秒を要した。


「……同行は許可しますが、極力無茶はしないようにお願いします」


 シエルが意識を取り戻したのは、それから数秒後。近所の交番から警官が出張り、事態

の収拾に乗り出してからだった。


















 
 ボーイに案内されるまでもなく、シエルは当たり前のようにエレベーターへと乗り込み、

最上フロアを目指した。揺れない上等のエレベータの中、会話はない。どうしようもない

居心地の悪さを感じた志貴は、戯れに最上フロアの気配を探ってみたが、施術でもしてあ

るのか、はたまた本人の気配遮断がその存在、真祖の名の意味する通り神がかっているの

か、真祖はおろか人の気配さえしなかった。


 本当に、一つのフロアを丸ごと借り切っているらしい。


 自分を害することのできる存在を危惧しているのか……そもそもそんな存在がこの地球

上にどれほど存在するのか、解かっているのか、と聞いてでもやりたい。


 もちろん、単に面倒臭いとか世間知らずだという可能性も捨て切れないではないのだが、

相手は闇と幻想に生きる種族の頂点、真祖の姫君、アルクェイド=ブリュンスタッドであ

る。せめて相対するまでは、かの存在が高貴で知性の満ち溢れた存在だと思うくらい、し

てもいいだろう。



 たとえ、そうじゃないのだ、という予感がかつてないくらいしていたとしても。



 無人のフロアに、エレベーターが到着する。シエルの先導で二人は歩き、最奥、とりわ

け瀟洒な部屋の前で足を止めた。


 ここまで来ても、志貴には真祖の姫君の気配を読むことはできなかった。ならば、と不機

嫌なままの藤乃に目を向けて見れば、仏頂面なのは相変わらずだが、緊張しているのが手

に見て取れた。


 敵を先頭に立って薙ぎ払い、死に向かって突っ込むことが役目の自分や式に付いても、

臆することのない彼女が、だ。


 ぽんぽん、となるべく自然に、藤乃の気分を害することのないように、頭を撫でてやる。


 藤乃は驚いたように顔を上げ、嬉しそうに微笑った――が、『今は不機嫌』なことを思い出した

のか、慌てて仏頂面を作り直す。


 それでも堪えきれずに緩んでしまう頬に手をあて、必死に――それでも、見ている方か

らすれば微笑ましい――光景を横目に見ながら、


「俺が先頭に立ちましょうか?」

「いえ、私がやります。遠野君と浅上さんはとりあえず私の後ろにいてください。では、

開けますよ」


 言ってノックもせずに扉を押し開け、勝手知ったるとばかりにズカズカと入り込むシエ

ルの、その後を追う。


 最高級なだけあって、調度品の類は豪奢の一言に尽きた。庶民の概算だが、おそらくも

う二ランクも高ければ、遠野の屋敷のそれにも並ぶことだろう。改めて自分の感覚の安っぽ

さと実家の非常識さに恐れ入る志貴だった。


「アルクェイド=ブリュンスタッド、入りますよ?」


 今度も返事を待つなんてことはせず、扉を開け数歩も進んだところで、シエルはようや

く足を止めた。


 あくまで付いてきている退魔組はシエルの背後、その左右に立ち、かの姫君に相対する。


「ようこそ、シエル。そっちの眼鏡の人が、貴女の言ってた?」

「その通りですが、まずは協定の話を。この街において――」

「いいよ。私はこの街において、シエルとそっちの二人とは戦わない。もちろん他に仲間

がいるんだったら、それにも危害は加えないから。あ、でも喧嘩を売ってきたら別よ。そ

の時は肉片も残さずに殺してやるから、そのつもりでいてね」


 振り向いて、シエルが眼で問うてくる。一応の退魔の代表としては、考えるまでもない。

真祖の姫君の不可侵が確約できるのなら、その程度の条件など安いものだ。


「シエルの名の下に、協定を結びます。決して、違えることのなきよう」

「ん〜……あ、あと邪魔をするのも駄目だからね。敵にはならないってだけだから。ナル

バレックとか出てきたら、邪魔されなくても殺しちゃうかもしれないけど」

「そういうことをしてくれると、私以下埋葬機関の司祭は大助かりなんですが、生憎と彼

女は所用で本部を動くことができません。その辺りは、貴女の足となったメレムから聞い

ているのでは?」

「そんなことも言ってたかな。メレム、言うことは聞いてくれるんだけど、私の前じゃあ

んまり喋らないのよね」

「……まあ、身内話はその辺にしておきましょう。では――」

「おもしろい眼鏡よね、それ。触ってもいい?」


 既に当たり前のように『そこ』にいたアルクェイドが、猫のような好奇心に満ちた瞳で

こちらを――より正確には、魔眼殺しの眼鏡を見つめていた。


 とたん、殺気立つ藤乃を手で制し、


「構いませんよ。でも、大事な品ですから、扱いには気をつけてくださいね」


 『青色の魔法使い』蒼崎青子が手を入れ、対抗するように封印指定の人形師、蒼崎橙子

が渾身の力を込めて加工した一品だ。


 結果的に蒼崎の姉妹での、最初で最後の共同作品となった魔眼殺し。人間が作った物と

してはおそらく最高級の一品だ。真祖と言えどもそう簡単に破壊することはできないはず

だが、念のため、とりあえずそう断ってから眼鏡を手渡す。


 アルクェイドはそれを上から下から眺め回し、一度じっ、と見つめると



「頑丈な一品ね」



 と論じ、こちらの鼻先に眼鏡を乗せると踵を返し、ソファに腰を降ろした。


「その眼鏡、ブルーの手が入ってるわよね? あの女が他人のために物を作るなんて考え

難いから……貴方はブルーの弟子なのかしら?」

「一応、勝手に先生とは呼ばせてもらってますけど、魔術の師は別にいますから、本当に

先生をしてもらった訳じゃありませんよ。最初に分かれてから、もう何年も会ってませんし」

「それでも十分に稀有だってことは、自覚しておきなさい。あの女は間違いなく変人だし

……そのうち首輪でも付けられるかもしれないから、気をつけておいた方がいいわよ」


 そんなことはない、と生徒を自認する身ならば言うべきなのだろう。しかし、姉からし

てあの性格で、その話に聞く姿がどうも自分の幼き頃の理想とかけ離れているらしいこと

を考えると、首輪というアルクェイドの言も、強ち冗談とも言い切れなかった。


「お話は済みましたか?」

「なに、シエル。もう帰るの? もっとゆっくりしていけばいいのに」

「お互い、そこまで馴れ合うような間柄でもないでしょう?」

「まあまあ、そう言わずに――」

「どちらの計画なのか知りませんけど、嵌めましたね?」


 それまで会話に加わっていなかった藤乃の、殺意に満ちたその言葉に、アルクェイドは

あちゃあ、と肩を竦め、


「もう少しなら気付かないでいてくれると思ったんだけど、人間にしては随分と勘がいい

のね。千里眼の能力者かしら?」

「質問に答えてください。あくまで惚けるというのなら、その四肢を捻じ切らせてもらい

ますが……」


 仮にも真祖を相手に、藤乃は一歩も怯まない。アルクェイドも、まさか人間の小娘に自

分が倒されるとは考えていないだろうが、鬼姫もかくやという藤乃の気迫に感じるところ

でもあったのか、態々隠していたにしては随分あっさりと、その『秘密』を暴露する。


「実は、混沌の使い魔に私の居場所がばれちゃってね。そろそろここまで押しかけてくる

んじゃないかな、って思ってたから、貴方達に何とかしてもらおうと思ってたのよ」

「ネロ=カオスは貴方の追っ手でしょう、アルクェイド。その討滅に私を――遠野君達を

巻き込むなんて、何を考えているんですか?」

「決まってるでしょ? 楽に事が済むことよ。雑魚だったら私が相手をしても良かったん

だけど、相手はあの混沌。敵とするには面倒くさいことこの上ない相手だわ」

「それは、私達にしても同じです。よもや、私達のみに戦わせて、貴女は高みと見物なん

て洒落込むつもりですか?」

「そんなことしないわよ。だって、見物なんてしないで逃げるもの」

「凶がれ!!」


 止めろ、と言う間もなく、宣言の通りアルクェイドの四肢を捻じ切らんとする力が、彼

女に向かって収束――


「悪くないけど、まだまだね」


 真祖の姫君は、身じろぎ一つしない。不可視のその力を一睨みしただけで、捻じ切られ

るのはアルクェイドからその周囲の物に変わった。大層な拵えのソファが、テーブルが、

窓が、完膚なきまでに破壊される。


「く……『其は、宵闇の星々を――』」

「ストップ。そこまでやっちゃ駄目だって、藤乃ちゃん」

「この人は志貴さんを罠にかけました。私が敵対するには、それだけで十分です」

「罠なんて人聞きの悪い……ちょっとしたお願いよ。順番が逆になっちゃったけど」

「暴露が先じゃ、手品は手品になりませんよ?」

「でも、やることそのものは変わらないでしょ? 私は、貴方達に混沌を何とかしてもら

いたいの。私が敵対しない、その代わりにね」

「真祖の協力の対価が、十位の相手ですか……割に合ってるんだかないんだか……」

「不満なら、後でお礼でも何でもするわ。じゃ、後はよろしくね」


 言うが早いか、藤乃が志貴の静止を振り切ってまで力を使うよりも早く、アルクェイド

は破壊された窓から身を躍らせた。最上階に近い階層だったと記憶しているが、まさか真

祖が墜落死ということはあるまい。




「と、言う訳で、我々でネロ=カオスの相手をしなければならなくなった訳ですが……」

「必要ありません。あの人との、しかも約束なんて呼べないような一方的なものを、私達

が守る必要はないと思います」

「でも、あのあ〜ぱ〜、敵対しないことの代価だと言っていました。ネロ=カオスの相手

をボイコットするのは簡単ですが、その腹いせにアルクェイドが邪魔をしてくる可能性は

十分に考えられます」

「でも逆に、ここでネロの相手をすれば、姫君の協力が取り付けられる訳だし……それに

不満なら『お礼』もするって言ってたからね」


 口約束とは言え、契約に重きを置く真祖にしては、具体的な対価を提示せずに契約の類

を結ぶなど、随分と軽率なことをしたものだ。


「なら、せいぜい働いてやって、あのあ〜ぱ〜の『信頼』を得るとしますか。この場所が

ばれたというのなら、無関係の人間も大勢いることですからね」

「じゃあ、先輩と藤乃ちゃんはここから下に行って、その無関係な人達の避難をしてもら

えますか?」

「構いません――」

「構います!! それは、志貴さんが一人で死徒を相手にするということです!!」

「心配してくれるのは嬉しいけど、俺だって引き際は心得てるから大丈夫だよ。危なくな

ったら逃げるつもりだし、それにちょっと奥の手もあるからね」

「奥の手、ですか?」


 志貴の身の心配よりも、また組ませてもらえなかったことに不満がある藤乃は、その言

葉にきな臭さを感じる。


 何やら自分にとって良くないことが起こりそうな……そんな予感だ。


「うん、奥の手。まあ、あまり人に誇れたようなもんじゃないんだけどね。先輩、藤乃ち

ゃんのこと、お願いできますか?」

「他ならぬ遠野君の頼みなら。ですが、無理はしないでくださいね?」

「その点はご安心を。合流点は……別に決めなくてもいいですか。俺が、二人のいる所に

行きますから、どこかその辺の店にでも行っていてください。それじゃあ――」


 その時、轟音がホテル全体を揺らした。遠く耳を済ませると、人々の悲鳴が聞こえる。


「手はず通りに。急ぎましょう」











「次はどこですか?」

「二つ下です。一つ下にはもう『人』はいません。中央の階段を使って、左手に二つ目の

部屋です」


 シエルが黒鍵を繰り、千里眼を持つ藤乃がそのサポート兼ナビゲート。言えば志貴のパ

ートナーを目指す藤乃はいい顔をしないだろうが、シエルとの急造コンビは、中々どうし

て様にはなっていた。


 生存者を見つけては記憶を操作し、簡易結界の防護符を持たせてから非常階段から階下

を目指させる。本命――死徒二十七祖十位、ネロ=カオス本体にぶち当たれば命も無かろ

うが、かの存在は一目散に屋上を目指してくれているため、二人の仕事は雑魚を倒しなが

らの救出劇と、ネロ=カオスとの対決を演じている志貴に比べれば簡単なものだった。


「何人です?」

「二人……年配の男性と私くらいの女性が一人です」

「この時間にそんな二人が一緒の部屋にいるんですか? 不貞の輩というなら、このまま

見捨ててもいいような気もしますが……」

「司祭とは思えぬ発言ですが、私も同意見ですから聞き流します。どんな理由があるにし

ても、自ら望んで身体を差し出すような女性も、それを望む男性も、私は好きになれませ

んから。ですが――」



 階段を下りきり、その場に固まっていた黒い獣の群体に力を叩き込む。ほとんどが捻じ

切られ無へと還る中、討ち漏らしたものは黒鍵が貫く。


 左手には部屋。中からは人の気配――どころか、口汚く罵り合う声さえ聞こえる。


「私は志貴さんに頼まれました。なら、史上最悪の殺人狂でも、私は助けます」

「お互いにこの人たちは不愉快と意見の一致したところですから、ここからは十秒で済ま

せましょう。藤乃さんは、ドアを壊すだけで結構ですから」

「お手数をおかけします」

「いえいえ、こういうのは年長者の役目ですから。さて――」

 
 壁に張り付いて右手で防護符の準備をしながら、左手でタイミングのためのカウント。


 三、二、一、


 藤乃の力が扉を破砕する。予期せぬ来訪者に言い争いを止め、動きを止めるカップルに

シエルは一瞬で近付くと施術、防護符を押し付け、暗示を刷り込む。


「人に会えるような格好になったら、非常階段を通って外に出なさい。このホテルが見え

ない場所に行けば、貴方達は言い争いを再開します。人の眼があろうと気にしてはいけま

せん。決着がつくか、誰かに止められるまではそれを続けていなさい」


 虚ろな目で頷く二人に施術が成功したことを確信すると、これ以上は毒だと言わんばか

りに、部屋から飛び出す。


「初心なんですね、見た目に寄らず」

「つっこんでおくのは止めておきますよ。貴女も、似たようなものみたいですから」


 真っ赤な顔で大きく、ため息をつく二人。


「次は何処に行けばいいんですか?」

「生存者は全て外に出しましたから、後は一階まで降りて、外に出るだけです」


 階段を目指して走り出す。シエルが前で、藤乃が後ろだ。


 ここに来るまでに目に入った雑魚は、全て討滅した。一階にそれほどの数が残っている

とも思えないが、それでも一応と、藤乃は最下フロアに千里眼を向け、



 シエルに迫る刃を藤乃の力が弾くのと、藤乃に迫る剣がシエルの黒鍵を叩き落したのは、

ほとんど同時と言ってもよかった。


 敵だ――と、認識するよりも早く、二人は背中合わせになり、同時に自分の正面の敵に

向かって攻撃を開始する。


 シエルの正面に在ったのは、黒塗りの長剣を持ち、黒髪の、黒いスーツを着こなした全

身黒尽くめの長身の男性だった。見るからに超重量の長剣を難なく繰り、二刀どころか三

刀、四刀と次々に増えていく斬撃を捌いていく。

 その顔にあるのは――何故か、焦燥。余裕のつもりなのか、剣戟を続けたまま、黒の青

年はじっと目を細めてシエルを見つめ、


「貴様、遠野志貴の手の者か?」


 黒い長剣が、数本の黒鍵が、互いの身体に触れる寸前でぴたり、と止まる。


「いかにも、そう言う貴方は何者ですか?」

「不本意ながら、遠野志貴の味方だ。貴様もそうであると言うのなら、戦いの中断を提案

したいのだが……」

「嘘を言っているようには見えませんね。いいでしょう」


 行って、互いに示しを合わせて距離を取る。同じような話し合いが成されていたのか、

藤乃の方も戦いは中断されていた。


「聞けば、貴方達は遠野君の味方とのこと。何者であるのか、聞かせてもらえますか?

私は埋葬機関が七位、『弓』です」

「へぇ……君があの『弓』かい? 話には聞いているよ、色々とね」


 藤乃の相手――こちらは白い外套に白いスーツ、金髪と絵に描いたような貴公子然とし

た青年だった――が、含みのある微笑を浮かべる。


「それにしても、埋葬機関の司祭を抱きこむなんて、志貴もやるねぇ。さすがは姫様が唯

一認めた人間、と言ったところかな」

「姫様を呼びつけまでしたのだ。それくらいはしてもらわんと、困る」

「君も素直じゃないねぇ……いい加減、志貴の力を認めたらどうなんだい? 本人の意思

はどうあれ、姫様は彼を騎士と認めてる。言ってみれば、僕らの同僚じゃないか」

「騎士とは己の主に仕え、その身をお守りするが務め。このような極東の地に腰をすえ、

姫のお誘いにも耳を傾けぬ輩を同胞など、私は認めるつもりはない」

「それでも味方とか言っちゃう辺り、君も甘いんだか何だか……」


 金髪の青年はやれやれ、と肩を竦め、こちらに向き直る。


「下の眷属は全て片付けておいたよ。僕らはこれから、君たちの討ち漏らした眷族を倒し

ながら上に行くから、君達は外に出ているといい。どうせ志貴のことだ。君達に戦えとは

言ってないんだろう?」


 言って、返事を待たず、黒と白、二人の青年は歩き出した。まるで釣りにでも行くかの

ような気軽さ。よりによって混沌を相手にするような気負いは、微塵も感じられない。


「待ってください。まだ貴方達が何者なのか、私は聞いていません」

「おや、気付いたみたいだよ。人間にしては中々察しがいい。やはり志貴の仲間だけあっ

て侮れないね。それも千里眼の力かい? 浅上藤乃」

「私のことを――」

「知ってるさ。君だけじゃない、両儀『シキ』に巫浄霧絵のことだって、志貴から聞いて

るさ。志貴は仲間だと言っていたけど、君はそう思っていないみたいだ。まったく、彼の

魅力には恐れ入るね」

「無駄口を叩くな、フィナ。行くぞ、姫様の下へ」

「生き急いでも、僕達に意味はないよ。リィゾ。姫にプライミッツ=マーダー、志貴まで

いて、混沌に遅れを取るとでも思うのかい?」



「――っ、待ちなさい! 貴方達は――」

「ではね、『弓』。敵ではないというのは本当だから、安心してくれてもいいよ」


 そうして黒と白は、風となって消えた。


 なんとはなしに千里眼で二人の行動を追った藤乃は、その無駄のない『暴風』のような

戦いぶりから、自分達の仕事は終わったのだと理解した。


 得体の知れない二人組だったが、志貴の味方だと言うのなら問題はないだろう。少なく

とも、自分が行くよりはずっと、彼の役に立つはずだ。


「行きましょうか、シエルさん。もう私達がここにいる意味はありません」

「……気にならないんですか、貴女は。あの二人が遠野君について言っていたことから判

断すれば、彼は既に死徒の姫君と接触を持っていたということですよ?」


 興奮した様子のシエルが、矢のように捲くし立てる。


 藤乃とて、退魔の端くれ。西洋の怪異であるが、二十七祖のことも一応頭には入ってい

る。リィゾに、フィナ……この名の意味するところは、裏の世界では一つしかない。


 『黒騎士』、リィゾ=バァル=シュトラウトに『白騎士』フィナ=ブラド=スヴェルテ

ン。何れも死徒の実質的な頂点、『黒い吸血姫』、『血と契約の支配者』、アルトルージ

ュ=ブリュンスタッドの従者である。


 同じ二十七祖、しかも十位以上である彼らが何故姫君に従うのか、それを知る者はいな

いが、姫君の守護であるはずの彼らだけを、呼び出せるはずもない。


 つまるところ、彼らがここにいるということは、彼らの主であるアルトルージュ=ブリ

ュンスタッドを呼び出せるだけの個人的なコネクションが、志貴にはあるということだ。


 死徒などを討滅する立場として、シエルにこれを看過することはできないだろう。藤乃

だって同意見だ。できることなら、そういった闇のものとの関わりを志貴には持ってほし

くはない。だが、


「確かに酷く不愉快な話ではありますが、どうということはありません。何があったとこ

ろで、志貴さんに対する私の気持ちに変わりはありませんから」


 藤乃にとって、志貴は絶対である。それは恋愛感情と言うよりも、信仰と言った方がい

いかもしれない。例え世の中全てが彼の敵に回ったとしても、全てを捨ててまで彼に味方

する覚悟が、藤乃にはある。


 他にそういった志貴信仰を持っている女性を一人、藤乃は知っている。世界を敵に回す

ようなことなど、彼に限ってはないと思うが、そうなった時にはきっと、彼女と志貴と三

人、命の尽きるまで戦い続けるのだろう。そう思っていた。


 誰であろうとも、そこまでの覚悟があるのなら、戦列に加わる者が一人増えるだけの話

だ。ないのならそもそも話にはならない。手前勝手な都合で彼を害するというのなら、例

え相手が神でも真祖でも、譲歩してやるつもりはない。


「それよりも、いいんですか? シエルさんがあの二人を見逃すのは、私が見逃すのとは

訳が違うと思うのですが……」

「…………ここに来たのは遠野君の味方で、それ以上でも以下でもありません。私の裁量

でそう判断します」

「詭弁ですね……」

「さりげなく毒を吐きますね。実は凄く機嫌が悪いんでしょう?」

「…………」

「そんなに睨まないでくださいよ……さて、私達は行儀良く、待つ女になるとしますか」



















「私は確かに真祖の姫君の気配を追ったつもりだったが……」


 自分の他に、辺り人影は一つだけ。空には月。夜を守護するはずのそれが映し出すのは、

その愛を一身に受けた姫君――ではなく、一人の人間の魔術師だった。


「姫君は既にここにはいないよ。気配を追ったというなら、それは彼女に一杯食わされた

んだな。元々、あんたとはまともに戦うつもりがなかったんじゃないか?」

「私は追い手なれば、姫君が逃げ去るのも道理か……して、人間よ。貴様は何故、私の前

に現れた? 私が何者であるのか、理解できぬほどに愚かではあるまい」

「立場上、ここまでおおっぴらなことをされると流石に素通りって訳にはいかないんだよ。

でもまあ、俺が今ここにいるのはそんなこととはあまり関係がない。理由はいたってシン

プルだ。俺は今、あの真祖の姫君の協力が欲しいんだ」

「その対価に我と相対するのか? しかし、姫君の協力が対価とあっては、強ち愚かとも

言えぬか……」


 一歩、また一歩と踏み出す度に、混沌の影は夜の闇の中でさえも解かるほど、その濃さ

を増していく。蠢くものは、ありとあらゆる獣達の影。


「ならば人間よ、精々我を楽しませてみせろ。これは戯れだ。初撃は甘んじて受けること

をここに約束する」

「あら、志貴に対してそれは破格の条件ね。でも、今さら撤回なんてさせないから」








 その存在は、闇と共に在った。


 月の光すらその身に従え、赤い瞳に宿る意思は他者の反逆を許さない。混沌が発する何

かが強者に対する本能的な恐怖であるとするなら、その存在は圧倒的な存在感でもって、

見る者全てを跪かせるような、絶対を纏っている。


 『黒い吸血姫』、『血と契約の支配者』、アルトルージュ=ブリュンスタッド。


 それが、幼い姿の絶対者を現す符号である。


「久しぶりね、ネロ=カオス。まさかこんな極東の地で貴方に会うとは思ってもみなかっ

たわ」

「それは、こちらの台詞でもある、死徒の姫君よ。真祖の姫君と同じ土地に現れるなど、

貴殿らの因縁を忘れた訳でもあるまい。この地を灰燼に帰すつもりか?」

「あの娘と喧嘩をしに来た訳じゃないの。私はただ、私の大事な人に頼まれたから、足を

運んだだけよ。頼まれごとなんて久しぶりだったから、思わず『跳んで』きてしまったわ」


 音も無く、まるでそうするのが当然であるかのように、死地を歩く。共に連れるのは、

星の意思の顕現である、獣。およそ人間にとって最悪の組み合わせは、しかし、志貴の前

で足を止めると、少女の姿をした絶対者は優雅に腰をおってみせた。


「お久しぶりね、志貴。私との約定は、まだ覚えていて?」

「俺はちゃんと、俺としてここにある」

「結構」


 その答えに満足したのだろう。アルトルージュは顔を上げると、容姿相応の、童女のよ

うな微笑みを浮かべた。


「ならば私、アルトルージュ=ブリュンスタッドは、貴方と私との契約を守るとしましょ

う。私の力が欲しいとのことだったけど……混沌に相対するなんて、早速切羽詰っている

ようね。この場、私の助力は必要かしら?」

「いいや。俺がアルトを呼んだのは、単純に手が足りなくなりそうだったからだよ。千里

眼クラスの探知にも引っかからずに動けそうな心強い味方は、俺の知る限りではアルト達

しかいなかったから」

「あら? 志貴は私の力だけが目当てだったのかしら?」


 本気……では、ないのだろう。その瞳には、愉快そうな色がある。


「そんな訳ないだろ? もちろん、アルト達の顔を見たくなったってのもある」

「ふむ……ちゃんと世辞は言えるようになったのね。達、というのが気に食わなくはある

けど、とりあえず合格としましょう」


 手はいらぬ。志貴のその言葉に従って、アルトルージュとプライミッツ=マーダーは数

歩だけ下がり、


「立会いは私が務めてあげる。ネロ=カオス、依存はない?」

「是非もない。死徒の姫君以上の立会いなど、そうはなかろう」

「それにしても残念だわ。白翼公の使いであの娘の相手なんて。どう? 今からでも私に

組してみるつもりはない? 貴方ならば歓迎するわ」

「勿体無い言葉ではあるが、謹んで辞退させてもらおう。自らの意思で受け入れた言葉を

反故に出来るほど、我は若くもないのでな」


 蠢いていた影が、ネロ=カオスに収束する。


「最初は貴様からだ、人間」

「では、遠慮なく言葉に甘えさせてもらおうか。俺は、とても弱い人間だからな」


 魔術回路を、起こす。


 深い深い自意識の海の中、固く封ぜられたいくらかの箱。


 それは、過去。今は亡き退魔の一族の技であり――


「盟約の名の下、我はさらなる力を求めん。誓約『血の盟約』、解除」


 閉じられていたレイラインが開かれ、人間では到底ありえない程の魔力が、遠野志貴に

重なる。




 これは、ネロ=カオスにとっても僅かばかり驚愕に値した。


 魔術師というのは結局のところ、魔力で何かを成す存在であるが、人間が得ることの出

来るそれは、『そうでない』者達に比べると、総じて限度が低い。


 ただでさえ存在としての力量に開きがある者と戦う……そのために、その限度を取り払

うというのは、確かに理にかなっていると言ってもいい。供給元が死徒の姫君であること

を考えれば、混沌を滅ぼす可能性も決して零ではない。


 だが、それを操るのは結局人間なのだ。そして、ネロ=カオスが見逃してやるのは、一

度だけ。人間という枠に収まっている以上、例え一生賭けても使い切れないほどの魔力を

得たとしても、出力まで変えることはできない。


 ただ一度の攻撃で混沌を滅ぼしきることなど、もはや神の業だ。たかが人間の魔術師に

できうはずがない。それは、ネロ=カオスの確信であった。




 しかし、遠野志貴の言葉でもって、全てが変わった。




「我は死を恐れども、其を貴び、志す者なり。誓約『直死』、解除」


 宣誓と共に、世界が遠野志貴の意思に侵食されていく。


 夜の闇よりもなお深い黒。深海の静寂にも勝る、全き沈黙。


 そこにあるモノは須らく、たった一つの宿命に縛られる。


「全て生まれいずるモノは、全て虚空へと還らん」


 そこは、何処にでも在って、何処にもない。


 世界の隣人にして異邦人。創造され、そして消え行く新しくも旧い世界。


「全て死にゆくは運命、滅びゆくは必定。我は死滅の糸を紡ぐ毒蜘蛛なり」


 あらゆる存在が恐れ、そしていつか辿りつく場所。


 溢れかえったそれは木々となり、たった一つの領域を成す。


「我が言葉、我が死の刃でもって、我が領域は完成する――」


 そこには人間もない。死徒も、真祖も、それ以外も何もない。


 在るのは、ただの三つ。


 世界の担い手と、それに囚われたモノ、そして――




「ようこそ、素晴らしき我が『惨殺空間』へ」


 ――死。ただのそれだけ。








 魔術師の言葉と共に、世界が完全に書き換わる。


 そして、一刀。

 存在そのものを断たんとする不可視の『刃』が、ネロ=カオスの腕を斬り飛ばす。




 だが、それだけだった。


 不可視の刃は、腕を断っただけ。ネロ=カオスの生命はまだここにある。


 闇の中、混沌の影が蠢き、ありとあらゆる獣が一斉に、人間の魔術師へと襲い掛かる。


 その全てが瞬時。獣の大群は殺到し――

 そして、その『全て』が『無数』の不可視の刃に微塵にされた。


「ああ、ここで存在を薄くするのは駄目だ。この場所では全ての生命あるものが惨殺され

る宿命を背負わされる。目に見えない死の刃は何処にでも、どれだけでも潜んでいるから、

隠れることにも意味はない。ここから出るには、担い手たる俺を殺すか、魔力切れを待つ

しかない訳だけど……」


 担い手の魔力の源は、死徒の姫君だ。それは事実上の『無限』に等しい。


「雑魚は一瞬で断たれた。貴方はまだ、無数の刃に刻まれながらも生きながらえている。

この意味を、考えるんだな」


 一がいくらあっても、意味はない。


 必要なものは、全ての死の刃を受けきり、魔術師を倒すための頑強さだった。


 夜の森々の深い闇の中、全ての影が『ネロ=カオス』へと集まる。


 六六六、獣の概念、その全ての集合体。一にして全、全にして一、その究極の形の一つ。


「そう、それが生き残るための答えの一つだ。それで死の刃に耐え切り、俺を殺すことが

できればネロ=カオス、お前の勝ちだ」


 全てを震わせる咆哮が、夜の森々に響き渡る。


 無数の死の刃にその身を裂かれながら、彼我の距離は瞬時に詰まり――


「でもな、死の刃には、とてもとても大きいモノもある。たった一つになれば、そのたっ

た一つでお終い」


 そう、たったの一度。



 不可視の死の刃で二つに分かたれ、二つになったその体は、さらに小さな刃群でもって

その意味を失うまで粉々にされ続ける。



 それが、ネロ=カオスの終わりの瞬間だった。溶けた体は黒い液体へと変わり、地に吸

い込まれていく……




「お前、人間を舐めすぎたんだな。最大の敗因は、俺に先攻をくれたことだよ」













 倒すべき混沌が消え、『惨殺空間』が消える。


 街の喧騒と、夜そのものが持つ静寂……場所柄、雰囲気に浸るのも悪くはないが、『惨

殺空間』の余波を食い、そこそこに破壊されてしまった周囲の状況を見ると、そうも言っ

ていられない。


「帰ろうか。いい加減、警察も出張ってくるだろうしね」

「ここを復元していこう、とは言わないのね。私なら、それくらいはできるけれど?」


 時間の巻き戻し――魔法に近い魔術の一つ、『復元呪詛』。


 人間からすれば大魔術であるそれも、死徒の姫君、アルトルージュ=ブリュンスタッド

からすれば、ちょっとした手品程度のものである。だが、


「ビル全体を一瞬で、って訳にはいかないだろ?」


 ならば屋上だけ、と言っても、下の惨状を考えればここだけ綺麗になっても焼け石に水

だろう。シエル達が頑張ってくれたおかげで、人死も大分少なくはなったろうが、それで

も零ではない以上、世間でも騒ぎ立てられることは目に見えている。



「それはそうと、仮宿は決まったのか?」

「何処にも。リィゾがね、五月蝿いのよ。私は何処でもいいのに、姫様を安場に押し込め

る訳には参りませぬって」

「なら、俺のアジトを貸すよ。ブリュンスタッドの城には、そりゃあ劣るだろうけど、悪

い場所じゃないから。ペットもOKだしな」


 手を差し出せば、犬にしては大きな前足を行儀良く乗せてくれる、プライミッツ=マー

ダー。


 教会の代行者や、死徒の信望者が見たら卒倒しそうな光景ではあるが、このガイアの獣、

自分の主と女性、そして遠野志貴には基本的に愛想がいいのだ。余談ではあるが、モノク

ロの騎士達は、この獣にあまり好かれていないらしい。


「志貴は私達と一緒に……住まないのよね?」

「俺は今、遠野の屋敷に厄介になってるからな。今の今までは放っちゃったから、しばら

くはそこに居てやりたいんだよ」

「放ったのは、貴方じゃなくて混血達の方でしょう?」

「それは原因ではあるけど、俺がそれを成さない理由にはならないな。妹や幼馴染が苦し

んでたのに、俺は俺の都合で彼女達を無視し続けた訳だし」

「……それは、暗に妹をどうにかしろって、私への苦言だったりするのかしら?」

「どうにかしてほしい、って気持ちは確かにあるな。真祖の姫君とは仲良くやっていけそ

うだけど、俺がアルトと仲がいいことを知ったら、拗れそうだしな。仲、あんまり良くな

いんだろ?」

「良くないどころか、あの娘とは殺し合いだってしたことがあるわ。事実、憎かったりも

するんだけど、貴方はこう言うんでしょうね。『姉妹、仲良くしなさい』」

「良く解かってるじゃないか。俺は嬉しいぞ」

「裏の世界の人間なら誰もが知ってるような私達の因縁を、たったの一言で片付けるその

神経……時々疑いたくなるわ」

「姉妹仲良く……当たり前のことだろ? なあ、プライミッツ=マーダー」

 霊長の敵対者に兄弟姉妹のありがたさを説いても賛同は得られぬだろうが……解かって

いるのかいないのか、当の犬様はがう、と小さく鳴いて、そっぽを向いて欠伸をした。ど

うでもいいらしい。


「解かったわ。あの子が駄々をこねたら、私が止める、仲良くもしてみる。これでいいで

しょう?」

「助かる」

「そう思ってるのなら、少しくらいは私に感謝の意を示してほしいものね」

「そうだな……じゃあ、この辺りで美味いラーメン屋を見つけたんだ。先輩達への報告も

兼ねてだけど、アルトも一緒にどうだ?」

「……色々と言いたいことはあるのだけれど、とりあえずは一つだけ。先輩と言うのは、

貴方が連絡で言っていた『弓』よね?」

「そうだよ。ああ、達って言うのは、退魔で同業の藤乃ちゃんって娘が――」

「いいわ、一緒に行く。そうよね、貴方に何を言っても無駄だってことは、以前から解か

っていたことだもの」

「まるで、俺が聞き分けのない子供みたいな言い方だな」

「自覚はしていたのね。理解してもらえて、嬉しいわ」


 くす、と上品に笑うと、アルトルージュは志貴の手を取り、


「プライミッツ=マーダー、リィゾとフィナに伝令なさい。私は志貴と行動を共にするか

ら、くれぐれも邪魔はしないよう。これは『命令』と、念を押しておいてちょうだいな」

「別にあの二人も連れていってもいいと思うけどな。ラーメン食べたことないだろ? 

あの二人も」

「隙を見せる訳にはいかないのよ。志貴と一緒にいてなお、お供が二人だなんて……舐め

てかかられるに決まってるじゃない」

「すまん、良く意味が……」

「貴方は知るべきではないことだわ」



 にべもなく答え、二人は屋上から飛び降りる――