sacred purple 後日談 『エピローグ それから』















「今でも時々思うのだけれどね、琥珀……」


 寝不足でちかちかする目を瞼の上から押しながらの秋葉の声は、苦渋に満ちていた。目の

前には書類の山……遠野本家に誂えられた秋葉専用の執務室に充満する空気は、煙草の匂い

こそないものの、主人の内面を表しているかのように、場末の酒場のように爛れている。



「私、仕事なんて放り出して、どこか南の島にでも行ってみたいわ……」

「すばらしいひらめきですね、秋葉様。それは世のサラリーマンの皆さんが思ってらっしゃ

ること。秋葉様も、彼らのお仲間さんという訳ですね〜」

「えぇ、自分の才能が恐ろしくなるくらいの閃きだわ」


 自分と同じか、それ以上の仕事をしているはずの琥珀には、疲れの色はまるで見えない。

遠野の情報網のほとんどを先代遠野槙久から譲り受けただけのことはある。今回の襲撃を事

前に察知することができたのも、彼女のおかげだ。よく尽くしてくれるし、信頼もしている。

これで人をからかうようなところがなければパーフェクトなのだが、それが自分のアイデン

ティティだと言わんばかりに、彼女は誰が相手でもそのスタイルを崩すことはない。



 つまり、如何に、楽しく――





「今滞っている件はなに?」

「反乱分子から取り上げた財産の分与について、まだ聊か問題が」

「久我峰に一任していたのではなくて?」

「いえ、秋葉様ももっと噛むべきだと仰せです。その件に関して、今夜お食事のお誘いがあ

りますが……」

「面倒くさいけれど、断るわけにはいかないのでしょう?」

「それが、解決へ一番の近道である、と愚考します」

「……今夜の予定はそのように。退魔四家との折衝は貴女に任せるわ。兄さんのこともあり

ますから、上手くとりなしてきてちょうだい」
「了解しました」

「結構。では、少し疲れたので休みます。時間になったら――」

「おい、秋葉。茶が入ったぞ」



 待ちに待った三十数時間ぶりの睡眠を妨げたのは、無粋な声だ。ザンバラな白い髪に着流

しという、あまりにもラフな格好で盆を持つ姿は、全てにおいて洋風な遠野家にあって、色

々な意味でぶち壊しだった。



「働きすぎだって聞いたからな、翡翠に頼んで茶を入れてもらった。まあ、元気でも出せ」

「そう思うのなら、少しは貴方も仕事を引き受けてくれていいんじゃありません?」

「そいつは無理な相談だな。かわいい妹の頼み、聞いてやりたいのは山々だが、俺には何し

ろ学がない。俺に仕事をやらせるってのは、翡翠に料理をやらせるようなもんだ」

「……絶望的な例え、痛み入りますわ……」


 ポットから琥珀が茶を入れてくれる間に、秋葉はまた椅子に座りなおす。シキは当たり前

のように来客用のソファに腰かけ、あぁ、と思い出したように続ける。



「それはそうと、秋葉、俺のことは兄さんとは呼んでくれないのか?」

「それは無理な相談ですね。あの日、あの時から、私の兄は遠野志貴ただ一人なのですから」

「…………そういう扱いにな、俺だって不満を感じてない訳じゃねえ」



 いらない、というサインは出したのに、当たり前のようにシキの分まで用意した琥珀が、

彼の前にカップを置く。行儀悪く音を立てながら、シキはカップに口をつけ、



「どんな理由があったにしても、俺があんな過ごし易い時間を壊したことに変わりはねぇ。

でもな……それで全部を奪われちまうってのは、まぁ、あんまりなんじゃねぇかと思ってた

訳だ。あの野郎に体を乗っ取られて、意識を共有したり乗っ取られたりした後も、細々とな」

「だからこうして、貴方にも居場所を用意しているではありませんか?」

「本気で言ってんなら、随分だな、秋葉。俺にとっての居場所ってのは、遠野の長男でも、

志貴のダチだってのでもねぇ。お前の兄貴だって、ただ一つのこと……それだけあれば、お

りゃあ他に何もいらねぇよ」



 飲み終わったカップを静かにテーブルに置き、じっと秋葉の目を見つめる。


「だから、頼まれてくれねえか? 志貴のことを兄さんって呼ぶなって言ってんじゃねぇ。

俺のことも、兄さんって呼んでくれ」

「お断りします」



 即答だった。遠野秋葉にとって、それは考えるにも値しない事柄だった。これには、ただ

聞いているだけだった琥珀の方が驚いたほどだ。情に流されるとでも思ったのだろうか……

甘くみないでもらいたい。



「私、遠野秋葉は簡単に前言を翻したりはしません。理解はできているのでしょうが、もう

一度繰り返しましょうか?」



 椅子から立ち上がり、シキに歩み寄る。そして間近でその目を覗き込みながらきっぱりと、



「私の兄は、遠野志貴ただ一人です。そしてそれは、貴方ではありません」



 その言葉をかみ締めるように、シキはじっと目を閉じた。



 その場の誰もが身じろぎ一つせずに、ただ時間だけが流れる……



「――いい女になったな、秋葉」


 最初に口を開いたのは、シキだった。にやり、と悪ガキのような笑みを浮かべると立ち上

がり、さっさと秋葉に背を向ける。



「褒めても何もでませんよ?」

「これくらいは言われ慣れてるか……いや、すまねぇ。柄にも無く弱気になっちまった」

「別に、気にしていません」



 秋葉の答えはにべもない。シキは肩をすくめると、琥珀に軽く手を上げ――




「シキ」




 名を呼ばれた、シキの動きがとまる。



「貴方の言い分も、分からないでもありません。ですから、歩み寄る努力は、私の方でもし

たいと思います。貴方の期待に沿えることは、多分一生ないと思いますけれど、この辺で妥

協してはいただけませんか?」



 シキは、振り替えらない。秋葉も彼には背を向けて、その姿を見ようともしない。唯一、

二人の姿を同時に視界におさめている琥珀は、その二人の態度に苦笑を浮かべていた。似た

もの同士だ、とでも思っているのだろう。



「――悪くねぇな、そんな呼ばれ方も」




 それだけ言って、シキは執務室を出て行った。ここに戻ってきてからの彼は、その大半を

離れでぼ〜っとして過ごすことに使っている。今日もおそらく、夕飯まではそのように過ご

すのだろう。それまでは、秋葉も静かに眠ることができる。さすがに、色々と疲れた……















「もう、素直じゃないんですから、秋葉様も」

「からかう暇があるのだったら、仕事に取り掛かってもらえるかしら?」

「さっきの呼び方ですけどい、実は志貴様を呼び捨てにしてるような感じで、内心ときめい

てらっしゃいますでしょう。いや〜、純ですねぇ、秋葉様」

「仕事をなさい!!」





























「今回は迷惑かけたな、アルト」

「危機に直面した時は、助け合う。それが私達の関係のはずよ。でも、そうね……それでも

あえて言わせてもらうのなら、今回『は』ではなく、今回『も』と言い直すべきね。貴方の

頼みごとって珍しいけど、いつもやっかいなことばかりなんだから」

「……悪い」

「冗談よ。貴方の助けになれて、よかったわ」



 三咲の街から遠く離れた、とある国際空港。黒の姫君一向を見送りにきた遠野志貴の一行

は、搭乗口の付近で最後の挨拶をしていた。その全員がハイレベルな容姿をしているため、

色々な視線が集まっているのだが……彼らは一向に気にすることはない。



「リィゾさんもフィナも、ありがとう」

「私は姫様の命に従っただけ。礼など不要だ」

「次に会った時に少し付き合ってくれれば、それでいいよ。できれば、夜の相手も――いや

いや、冗談ですよ。姫様もお嬢さんがたも、そんなに睨まないでください」



 にべもなく応える黒衣の男と、へらへらと笑いながら手を振る白い男。対照的な二人の従

者は姫君の後ろに当たり前のように控える。初めて会った時から、変わらない距離感。きっ

と、これから先もずっとそうなのだろう。













「姫君、お世話になりました」

「あなたには、色々引っ掻き回されたわね……まさかアルト――姉さんとこうなるなんて、

思ってもみなかったわ」

「仲のいい姉妹ってのも、悪くないものでしょ?」

「分からないわ……でも、うん……きっと悪くないんでしょうね」



 アルクェイドは曖昧な笑みを浮かべたまま、手を差し出す。志貴がその手を握り返すと、

彼女はそれを子供のようにぶんぶんと上下に振って、今度は本当に微笑む。



「感謝しておくわ。この借りは必ず返してあげるから、そのつもりでいてね」

「期待して、待ってますよ」










「――その……ごめん」

「? どうして遠野君が謝るの?」

「俺がもっと早く駆けつけれてば、こんなことには――」



 言葉を続けようとする志貴の唇に、人差し指があたる。うつむいていた顔を上げると、目

深にかぶったフードの下に輝く、赤い瞳が目に入った。



 赤い、人外の証……彼女、弓塚さつきは結局、人ではなくなってしまった。



 ロアを滅ぼしたこと、そして橙子の連れてきてくれた錬金術師の腕がいいこともあって、

さつきの吸血鬼化の進行は、一応の停滞を見せた。その錬金術師が言うには、根気よく治療

を続ければ人間に戻ることも可能だ……とのことだったのだが、アルトルージュをはじめ、

色々な者から今回のことのあらまし、遠野志貴の立場、そして裏世界の事情などを加味して

さつきが出した結論は、吸血鬼化を受け入れるということだった。



 それには当然、志貴は反対した。先のような会話だって、もう何度も繰り返されたことだ。

その度に――志貴が泣きそうな顔をして謝るたびに、さつきは微笑んで、答えるのだ。



「遠野君のせいじゃないよ。あんまり、こういう言葉って使いたくないけど……こうなって

ここにいることが、私の運命だったんだよ。ほら、私って運がないから」



 そう言って微笑むさつきの顔には、邪気というものがない。いっそのこと、恨み言でもぶ

つけれくれれば、志貴にとっては楽なことだったのだが、さつきはそんなことをおくびにも

出さなかった。



「友達とか会えなくなるのは、少し寂しいけど……その代わり、新しい友達もできたし、遠

野君の役にも立てるようになったんだから……だから、私は不幸なんかじゃないよ。遠野君

も、間違っても自分のこと、責めたりしないでね」


「…………ありがとう、弓塚さん」













「貴女達も、一度は私の城に遊びに来てちょうだい」

「機会がありましたら、お邪魔させていただきますね」

「そのうち、志貴君にお願いして連れて行ってもらいます。その時は、お勧めのお店とか教

えてくださいません?」

「そうね。その時は、私も年頃の女の子のようなことをしましょうか。楽しみにしているわ」


 志貴に付き添ってきた霧絵、藤乃の二人は順にアルトルージュと握手を交わす。相手が死

徒の姫君であるという気負いは二人にはなかった。お互いが同志であるという事実の前には、

種族の差など大した問題ではないらしい。


 二人が何をしたのか忘れていないらしいリィゾはあまりいい顔をしていないが、彼女らの

ことだ。そのうち彼も巻き込んで、仲間ということになってしまうのだろう。プライミッツ

=マーダーも懐いているし、そのうち徒党を組んで悪巧みをしそうな気がすること以外は、

何も問題はない。



 その時、被害を受けるのが自分であるとしても、喧嘩をされるよりはずっと、ずっといい。

遠野志貴十七歳……諦めの境地だった。





















「ではね、志貴。霧絵達にはもう言ったけど、ちゃんと私の城にも顔を出すこと。いいわね?」

「ドイツまで脚を運ぶのって、学生の身にはつらいんだけどね……」

「つまり、魔術師の身には辛くはない、ということね」

「その通り。まあ、次の休みには必ずいくよ。弓塚さんのこと、よろしくな」

「分かってるわ。それでは……ごきげんよう」



 優雅にドレスの両端をつまんで一礼すると、アルトルージュは踵を返した。その後に黙っ

てリィゾとアルクェイドが続き、ばぅ、と小さく鳴いたプライミッツ=マーダーが続き、へ

らへらと笑いながら手を振るフィナと、ぺこぺこ頭を下げるさつきが続いて、黒の姫君の一

行は、志貴達の前から姿を消した。













「さて……これからどうしますか?」

「せっかくこちらにまで出てきたんですから、どこか見て回りたいですね」

「俺はこの辺りに詳しくないですよ?」

「その辺りは、臨機応変にいきましょう。そのうちシエルさんが帰ってきて慌しくなるんで

すから、落ち着いて志貴君を連れまわすチャンスは、今しかないんです」

「……先輩が帰ってきてから、みんなで落ち着いてってのはどうでしょー」



 無駄だとは分かっていたが、一応、控えめに意見を主張してみる。しかし、



「駄目ですよ。私達の時間は有限なんですから」



 霧絵は笑って、志貴の左腕を取る。



「そうです。一緒にいられる時に一緒にいないと、後悔してしまいますから」



 藤乃も倣って、志貴の右腕を取る。



 両手に花……というか、針のむしろだった。両側に女性の感触があるというのは、男とし

て悪い気はしないが、集める視線、特に男性のものが指すように集中して、怖くはないが酷

く心地が悪い。



 できることならやめて欲しいのだが、ああ言って二人とも腕をとっているのだから、最低

でも今日一日は、ずっとこのままなのだろう。残念……ではないが、今の自分の立場では諦

めるより他は無かった。





 外に出れば、肌寒い風。季節は巡り、冬が近づいている……