風芽丘School Days 第2話














 槙原耕介二十四歳。職業、風芽丘学園教師。担当教科は体育と家庭科。部活の顧問は剣道

部、料理部、手芸部を掛け持ちしていて、本人も剣道三段の腕前を誇る猛者であり、風芽丘

で今最もエプロンが似合う男という異名も持っている。



 身長は190cm越える巨漢ながら、性格は機は優しくて力持ち。風芽丘のOBという過

去と比較的年若いということもあり、海中まで含めて生徒には男女を問わず人気がある。



 しかし、そんな理想の教師像を地で行く槙原耕介にも、一つ、学生達はおろか、一緒に働

いている同僚の教師さえ知らされていない、慢性的な悩みがあった。















(腹減った……)



 槙原耕介は、金がないのだ。



 元々、それほど多い給料でもないのに、気前よく学生におごってしまったり、多趣味なせ

いで出費も多い。煙草もギャンブルもやっていないが、大酒のみなので、酒代だってばかに

ならない。結果、毎月給料日の一週間くらい前になると、絶食が当たり前という生活に突入

する。



 ちなみに今月は、既に絶食三日目。財布の中身は十二円。水と塩しか口にしていないせい

で、頭が回る目が回る。



 そんな頭で、剣道部の練習メニューを考える振りをしながら考えているのは、どうやって

給料日までを乗り切るか、ということだ。耕介の師匠の一人、学生時代にバイトしていた翠

屋の店主、高町桃子を頼ればツケで飯くらい食べさせてくれるだろうが、それはもう先月に

やったし、あの人にはあまり借りを作りたくは無い。



 風芽丘の女子寮の管理人をしている、従姉妹ならどうか……却下だ。頼めば喜んで飯を出

してくれるだろうし、桃子に比べれば親戚ということで引け目も少ないのだが、出されるの

は間違いなく、彼女手製の飯だ。訓練を受けた忍者は、毒草でも腹の足しにするというが、

自分にはそこまでのスキルはない。教え子にも一人忍者がいるが……羨ましい限りだ。



 同僚にたかるというのも、プライドが許さない。そうなると――槙原耕介に残された手段

は、一つしかなかった。あまり気の進まない方法なのだが――




「お困りのようですね、耕兄さん」



 ぬっ、と目の前に美少女――のような美少年の顔が現れる。まるで気配がしなかったのだ

が、それを目の前の相手に言うのは無駄なことだし、こういうことをされるのも初めてでは

ないので、耕介も特に驚きなく対応する。



「北斗、人目がある。ここでは一応、槙原先生とでも呼んでくれ」

「分かりました。耕兄さん先生」



 儀礼的なやりとりを経て、



「で、お前が職員室に来るなんて、珍しいこともあるもんだな。しかも昼飯時……十六夜達

はどうした?」

「まずは近況報告を。薫姉さんと楓姉さんは、いつもどおり剣道場でお昼してますが、姫姉


さんは最近、僕達と一緒にお昼してくれません」
「…………あぁ、そうか。確か、相川と付き合うことになったんだよな。仲睦まじくしてる

か?」

「見てて胸焼けするほどの甘えっぷりを見せ付けてくれます」

「相川が?」

「姫姉さんが、です。相川をもう、それはそれはかわいがっておられます。身内の僕から見

ても、姫姉さんは素晴らしい女性だと思いますが、あの扱いは少し、相川に同情しますね」

「でも、お互い楽しそうではあるんだろ?」

「不思議で、不可解なことに。僕だったら、たとえ好きな相手でも、あんな扱いはごめんな

んですが……」

「愛ってのは、そういうものだろ」

「なるほど……経験者はさすが、言うことが違います」

「からかいにきたんなら、とりあえず帰っとけ。俺は学生の時、こんなとこに寄り付いたり

はしなかったぞ」

「……耕兄さん先生に邪険にされました。傷ついた僕は、地下帝国で途方に暮れます」



 言うと、話はそれで終わりとばかりに、北斗はふらふらと職員室を出て行く。やって来て

は数言交わすだけで帰ってしまった北斗を、同僚の数人は怪訝な顔でみやるが、それが神咲

北斗であることを知ると、納得して自分の仕事に戻った。



 北斗は、その容姿もさることながら、奇行で有名なのだった。



 女性と見まごうばかりの容姿を気にするでもなく、むしろそれを最大限に使って楽しむ性

格。制服こそ男のものだが、髪は肩口まであり手入れだって怠っていない。女よりも女らし
くできるのが特技と言って憚らず、街に出ては勘違いしてナンパしてくる馬鹿共に、徹底的

に貢がせてから奈落のそこに突き落とすことを趣味としている風芽丘の有名人の一人……



 加えて言うなら、神咲の姓のなせる業なのか、剣道部でも部長の赤星、副部長の神咲和真

に続いてナンバー3の地位も誇っている。人は見かけによらないを体言する男であり、座右

の銘は神出鬼没……どこにでも現れる常人にはとんとつかみ所の無い神咲北斗であるが、付

き合いの長い耕介は、彼について一つだけ掴んでいることがある。





「地下帝国か…………屋上だな」





 神咲北斗は、とてもとても姉思いなのだった。




































「ああ、耕ちゃん。こっちこっち」



 屋上の隅――入り口からは目立たない、あまり陽の当たらない場所に、那美はレジャーシ

ートを敷いて待っていた。人目につかないところを選ぶなど、彼女にしては念の入った行動

だが、それはおそらく北斗の入れ知恵だろう。北斗の違って那美は見た目の通り、とてもと

っぽい生き物なのだ。


「北斗は呼ばなくてもいいのか? あいつ、あのままだと一人で昼飯だぞ」

「誘ったんだけどね。邪魔はしたくないって、断られちゃった」

「妙なタイミングで現れるくせに、そういう気は回るんだよな……彼女の一人もいないくせ

に」

「昨日も、ナンパの人をからかって殴られそうになったところを、逆に返り討ちにしたって、

夕飯の席で自慢してたんだよ?」

「そういう話題が一樹さんに受けるとも思えないんだけどな……」

「九重師範とお婆ちゃんには、凄く受けてた」

「どうしてあの人は、神咲の食卓に平気で参加できるんだろうな……」

「週に四回は来てるんじゃないかな。この前は国見さんを引きずって連れてきてたけど」

「タカから聞いたよ。仕事があるから帰らせてくれって言ったら、木刀で殴られたってな…

…あの人がいなきゃ、俺ももう少し神咲の家に足を運べるんだけどね」



 那美手製の弁当を受け取りながら、恩師の顔を思い浮かべと、『いつものように』背筋が

凍った。二十数年生きて誰かの顔を思い出しただけでこうなるような知り合いは、彼女一人

しかいない。


 九重夏織……神咲一刀流師範にして、実質的な槙原耕介の剣の師匠に当たる人間だ。











 その出会いは八年前……耕介が関東での学生生活という野望を叶え、風芽丘に入学した頃

にまで遡る。地元ではなく、一緒に進学した知り合いもいない耕介には、当然友達などいな

かった(一つ上の学年に従姉妹がいることは知っていたが、この時はあまり親しくなかった

のだ)。長い学生生活だ。一人くらいは気の合う仲間を探そうかと、当てもなく校内を歩き、

何とはなしに目に付いたのが、もう絵に描いたような『不良』の集団だった。しかも、場所

は体育館裏。さっさと回れ右をしよとしたのだが、よく見てみると誰かが囲まれている。そ
れでいて、劣勢のようだった。



 数瞬の思考の後、耕介はその不良の集団に突っ込むことを選択した。体はその時から大き

かったし、腕っ節にはそれなりの自信があった。だからこれくらいなら何とかなると思った

のだが、その考えが甘かったことを思い知らされたのは、五分とたたずに袋叩きにされた頃

だった。



 後で医者に聞いた話では、肋骨が数本と右腕が折れていたらしい。今となっては若気の至

りと片付けるのは簡単だが、殴られていた時は漠然とながら死を覚悟したものだった。



 しかし、捨てる神があるなら拾う神ありと言うのか……あの当時の耕介は、人の出会いに

関しては妙な運気を持っていたらしい。殴られていた男との出会いを一つ目とするなら、二

つ目に当たるのが『黒い風』との出会いだった。彼女はどういう訳か颯爽と現場に現れると、

瞬く間に二十人はいた不良どもを木刀で叩き伏せ、血だるまになっている自分達に向かって、

歯を見せて笑うと、



「最っ高だな、お前ら」





 そう言った。



 その日から槙原耕介は、『黒い風』と呼ばれていたその女と、後に『赤い嵐』と呼ばれる

男と友達になった。ついでに言うなら、耕介自身もそれ以降『暴風』なんて二つ名がついて

回ることになるのだが、それはまあ、この際あまり関係がない。





 そして、それからはもう、勝手気ままに生きた。



 他の二人は授業に出ることも少なかったが、人並みに将来を心配していた耕介は、ちゃん

と授業に出席して、『赤い嵐』の勉強の面倒をみてやったりもした。制裁と称して二人が不

良を叩きのめしに行く時は、やり過ぎないように監視するためについてもいった。煙草を吸

っている二人と一緒に見つかったせいで、生活指導の教師に捕まって、一緒に絞られたこと
もある(余談ではあるが、その時の教師は今でも風芽丘におり、教頭などなさっている。飲

み会の度に一人でからかわれるのは、むず痒くて仕方が無い)。実は、漫画を描くのが趣味、

というか仕事であると『黒い風』に告白された時には、『赤い嵐』と一緒に無理やりアシス

タントをやらされたりもした。





 そんなこんなで、半年ほど過ぎた頃だろうか……





 その日は、雨こそ降っていなかったが、風の強い日だった。『こんな日こそ喧嘩日和だ』

と陽気に歩く二人を止めることができず、どうやって、誰がセッティングしたのか知らない、
知りたくもない喧嘩会場につくと――そこにはもう、血の雨が降った後だった。



 長い黒髪の、女にしては背の高い奴だった。血にまみれた木刀を片手にぶら下げ、新しい

人間が来たのかと思うと、にやり、と笑って手招きをする……



 二人は迷わず、女に向かって突っ込んでいった。そして、三秒とたたずにぶっ倒れた。二

人ともかなりの場数を踏み、『黒い風』にいたっては相棒である木刀まで持っていたのだが、

実力の差がありすぎたのだ。



 戦うか、逃げるか……一瞬考えて戦うことを選択した耕介も、次の瞬間には腹に木刀を叩

き込まれ、胃の中のものを吐き出しながら、地面を転げまわった。


「いや、お前ら最低だな。しかし、自分から突っ込んできたんだ、見所はある。どうだ、こ

こであたしの弟子になるなら、これ以上痛めつけないで済ませてやるが……」





 なにか、どうだ? と問われていたような気もするが、それはもう命令に等しかった。



 痛む体を引きずられながら、その日のうちに神咲道場に放り込まれ、風芽丘の剣道部にも

入れられた。毎朝毎晩、付きっ切りで指導という名の暴力を受け、練習をサボれば容赦なく

とび蹴りがすっ飛んできた。



 そうして二年ほど、毎日休みなくしごかれ続けた結果……当然と言うべきか何と言うか、

耕介の剣の腕は相当なものになっており、何時の間にか剣道部の部長なんてものをやらされ

ていたりもした。最後の大会……インターハイでも準優勝し、実に清々しい気持ちで高校生

活最後の夏を終えることができたのだが……『準優勝』という結果を夏織が知った瞬間、死

ぬんじゃないかと思うくらいにどつきまわされたことは、今でも決していい思い出と言える

ものではない。殺してやるぞ、このアマ……と思ったことも両手ではきかないくらいにある

が、耕介にはアレを殺すことのできる奴がいるなど、想像もつかない。目の上のタンコブど

ころか、癌細胞。それが九重夏織という人間だった。



 そんな殺伐とした高校時代改め修行時代だったが、友達を見つけたということ以外にいい

ことが何もなかった訳ではない。全身打撲で道場の床に転がっている時、決まって心配そう

に駆け寄って手当てをしてくれたのが、何を隠そう、那美なのだ。七つも年下の少女……し

かも、その当時は小学生だったが、耕介が那美に惹かれるのに、それほど時間はかからず―

―親友だった二人にはロリコン、ペドペドと散々からかわれたが――現在の、一応恋人と呼

べる関係に至っている。




 神咲家では、既に公認の仲――あまり他人に関わらない主義である北斗が、必要以上に耕

介に懐いてくるのは、そのためだ――で、那美が学園を卒業したら式を挙げると、実しやか

に一樹は言うが、どこまで本気なのかは、耕介には分からない。



 まあ、耕介にも那美にも、先を急ぐような理由は無い。教師と生徒という関係上、どうし

ても人目につかないような関係にならざるをえないが、もう数年も続けていると、こういう

忍ぶ恋も、味なのではと思えてくる。



 要するに――何も、問題はないのだ。





「料理、上手になったな、那美も」

「耕ちゃんに教わったからね。あ、最近は北斗も一緒に作ってるんだよ? 何を隠そう、薫

ちゃん達のお弁当は、北斗の作品なんだから」



 にこにこと弟自慢をする那美だったが、当の北斗はきっと、料理を馬鹿な男を騙すための

道具くらいにしか思っていないのだろう。



「女の子だからとは言わないけどさ、薫も楓も、料理の一つも出来た方がいいと思うんだけ

どな。好きな奴の一人は二人、いるんだろ?」

「う〜んと、ね。薫ちゃんも楓ちゃんも、ああ見えて結構手先が不器用だから」

「那美だって、最初から料理ができた訳じゃないしな……」



 昔はよく、治療のお礼と託けて料理を教えたものだ。その時、那美の料理の練習代になっ

て、タカと一緒に腹を下したのも記憶に新しい。



「努力はしてるみたいだよ? 二人とも、九重師範の息子さんが目当てみたいだけど……」

「寡黙だけど、いい奴を見つけたよな、二人とも。何より、あんな顔をしてるのに、俺を殴

らないってのがいいね」

「そんなおかしな評価しなくても……」

「タカに聞いても、真雪姐さんに聞いても絶対に同じこと言う自信はあるけどな……どんな

奴なんだ?」

「北斗なら、詳しく知ってるんじゃない?」

「――知ってますよ」

「…………いきなり現れるのはやめておけ。ほら、お前の姉さんがびびってるぞ?」



 よほど驚いたのだろう。自分の弟に背を向けて、那美は耕介にしがみ付いている。弁当を

ひっくり返したりしなかったのが、せめてもの救いか。



「九重師範の息子さんですが、うちの部長と仲がいいので、よく道場に顔を出します。耕兄

さん先生とは入れ替わりで入ったからご存知はないでしょうけど、うちの道場にも来てます

ね。薫姉さんや楓姉さんだけでなく、結構な数の女性が熱をあげているようです。ちなみに

僕が胴元のトトカルチョでは、一番人気は一年のクロフォードと年度内にゴールイン――」

「ちょっと待て、トトカルチョ?」

「耕兄さん先生も乗りますか? 一口五千円ですけど」

「しかも高レートだな。バレたら退学だぞ?」

「ご安心を。『色々』な信用筋に声をかけてますので、露見する時はこの学園がひっくり返

る時です」

「教師もグルなのか……」

「乗ります?」

「明日を生きるための金もない」

「それは残念……ところで、耳寄りな情報が。何やら勘がよくて口が軽くてうわさ好きと評

判の三年の月村先輩が、一年の綺堂を連れてこちらに向かっています」

「まじか?」

「しかも、カメラとテレコも持参しています。望遠班も動き出しているかもしれません。脱

出することをお勧めしますが……とりあえず、あっちの目立たない方から飛び降りてみるな

んてどうです?」

「随分と懐かしいことをさせるなぁ、お前も」



 学生の時分には、訓練と称して二階、三階から突き落とされたことが何度もある。四階か

ら飛び降りても無傷だったことが、耕介にとってささやかな自慢なのだ。



「ちょっと待って、北斗。耕ちゃんを連れて行かれたら、私がこんな人気のないところで一

人お昼する寂しい人間に――」

「その時は、耕兄さんに優しく癒されてください。それじゃ、行きますか」

「おう。那美、弁当美味かったよ、ごちそうさま」

「ちょっと――」



 何やらわめく那美を放って、二人は欄干から身を躍らせる。三階分の高さから難なく着地

し、そのまま人目のない場所を目指してひた走る。



「お前まで、どうしてそんなスキルがあるんだ?」

「九重師範が言っていました。『若さってなんだ。躊躇わないことさ』と」

「……あの人の言うことは、話半分で聞いとけ。それに躊躇わないのは若さじゃなくて――」

「愛でしょう? そんなことは知っています」

「……知ってて、からかうなよな。真雪姐さんみたいだぞ?」

「僕も那美ほどじゃありませんが、耕兄さんを愛していますからね」



 隣を走る那美と同じ顔をした少年は、にこりとも笑わずにそう言った。本気とも冗談とも

つかない口調だったが――



「つまらない冗談だな。そのネタで俺をからかうつもりなら、那美みたいにしてみろってんだ」

「耕ちゃん、大好きっ」

「…………」

「似ているでしょう? 本人よりも本人っぽい自信があります。ご要望とあらば、エロいワ

ードを収録したテープを、三十分一万円でお分けしますけど」

「…………いらない」

「今、少しだけ考えましたね? 今なら半裸で涙目上目使いの僕のA2女装パネルまでつけ

て、特別に一万三千円――」

「もうお前、帰れ……」

「耕ちゃんの……えっち」

「こういう時だけ那美の声になるな!」

「ふふふ……それでは、後ほど」


 言うが早いか、顔面に直撃させるつもりで放った裏拳を軽々と避け、北斗は後ろ向きのま

ま、走って逃げていった。



「…………ったく」



 足を止めて、一息つく。取り残してきた那美には、悪いことをしたか……しかし、人目に

つくのはお互いにとって都合の悪いことだし、その相手が月村であるというなら、置いて逃

げたことも、今度のツーリングに一緒に連れて行くことで許してくれるだろう。


 それよりも問題なのは――



























「北斗に、一万三千か…………」







 全くもって、深刻な問題なのだった。