「母よ。朝だ、起きてくれ」
温度の低い声音と共に、その体を揺する。本人からのリクエストは『優しく』起こせとの
とだったが、彼――高町恭也が起こす時に限って、自分で起きる時とは違い寝起きの悪さを
発揮することは、長年の勘から熟知している。
最初はとりあえず優しく、次に顔を軽く叩くまでにレベルアップし、さらに次の段階にな
ると、恭也の右手には地球儀が……
「――っと。母に対して朝から随分と過激なことをするじゃないか」
「貴女がさっさと起きないからだ。こういう起こされ方をしたくなければ、次からは一人で
起きてくれ」
あっさりと素手で掴み取られた地球儀をそのままに、さっさと踵を返す。
「朝食の準備ができている。支度が済んだら、来てくれ」
「はいよ。今日の朝飯は桃子ちゃんが作ったのか?」
「特製サンドイッチだそうだ。残念ながら紅茶は俺の手で入れるが、その辺りは勘弁してほ
しい」
「別にいーよ。お前の紅茶だって、悪くないし。あ〜、ところで恭也」
「なんだ? 母よ」
「あたしの服と下着、どこにあるか知らないか?」
「…………そこに用意してある。着替えは、さっさと済ませてくれ」
九重夏織とは、高町恭也の生みの母の名前である。生みの、というのは現在、彼は死んだ
父の結婚相手である母と、その娘である妹、それから従姉妹とその他居候と暮らしているた
め、彼の内部で付けられている呼称だ。
職は……何だかよく分からない。無職ではないし、暇でもないようなのだが、息子である
恭也にも何やら多くの職をこなしているらしい、ということしか分からない。
年齢は、三十代の後半と推測される(以前、お前を十代で生んだと言っていたから、その
くらいだろうと当たりをつけている)。容姿は不本意ながら、高町恭也という人間に女性と
いうフィルターをかけて、髪を長くしたような感じ……知り合いに言わせれば男女の性別の
差こそあれ、瓜二つなのだそうで、以前並んで街を歩いていた時には同級生に双子と信じら
れて、誤解を解くのに苦労したものだ(ちなみに夏織が姉、恭也が弟という風に解釈された
らしい。年の割りに若く見られることは、どちらの母も変わりがない)
住居は海鳴市内の、とあるマンション。一人暮らしだ。二日に一度、恭也が朝の世話をし
に来るが、それ以外に来客はないらしく、部屋は何時来ても閑散としている印象がある。
性格は……身内の贔屓を含めて言うなら、最悪の一言に尽きる。気まぐれで人を振り回す
し、考えるよりも先に鉄拳が飛び出すため、身近な人間は肝を冷やして仕方が無い。風芽丘
の教師、槙原耕介などは、相当にその被害を受けたと聞いているが……それがどの程度のも
のだったのかは、彼がいまだに高町恭也と顔をあわせる度に、一瞬だけ、酷く怯えたような
顔をするのを見れば、想像できるというものだ。
一言で言い表すには色々と思うところがある上、本人からの鉄拳つきの抗議が飛んでくる
だろうが、それでもあえて一言で九重夏織という人間を表すのなら――
一言、『歩く唯我独尊』。
「うむ、言いえて妙、だな」
「何がだ?」
「いやなに、こちらの話だ」
「ならいいや。紅茶、おかわり」
差し出されたカップに、テレビでやっていたのを真似して、ポットを頭上に掲げるように
して持って、紅茶を注ぐ……難易度は高いことらしいのだが、どういう意味があるのかは知
らない。ただ、身内からの受けは須らくいいので、紅茶を入れる時には決まってこうするよ
うにしている。
ここでの扱いは使用人のようなものだったが、その扱いに不満を持ったことはない。親子
という風に思ったこともあまりなく、他人が自分達の関係を知れば、揃って怪訝な顔をする
のだろうが、いざそういう時になったら、恭也はこう答えるようにしている。
まあ、そういうものだ……
そういうものなのだ。本人にだって分からないことを、他人に説明できるはずもない。
「今日は朝練か?」
「ああ。赤星に一対一の練習を申し込まれてな。いつものように剣道部の練習の誘いという
訳ではないが……母さんの食事が済んだら出発する。食器はすまないが、水につけておいて
くれ。母さんの予定は?」
「警察の馬鹿どもをしごいてくるよ……ったく、ほんとはこんなめんどくさい仕事、したく
ないんだがね……」
「確か、神咲からまわされた仕事だったな。さすがに母さんでも、刀自の頼みごとは断りに
くいと見える。今度からは刀自を通して母さんに頼みごとをするようにしようか」
「んなことしてみろ。間違いなく、半殺しにしてやるからな」
冗談のような口調だが、夏織はやるといったことは必ずやる。冗談を言うことにも、自分
の安全をかけないとならないのだ。死んだ父は、どうやってこの母と渡り合っていたのか、
理解に苦しむ。
「さて……ごちそうさま、だ。うまかったって、桃子ちゃんに伝えといてくれ」
「了解した。では、俺はもう行く。戸締りはちゃんとするようにな」
「あたしはガキか? いいから、さっさと行け」
カップをいじりながら、不機嫌そうにそっぽを向く。子供のような仕草だったが、自分と
同じ顔をしている人間にそういうことをされると、何だか胸がむず痒い。
微妙な苦笑を浮かべて立ち上がり、ポケットを探る。時間は――少し微妙なだった。早く
歩けば何とかなるか……そんな時間だ。
「ああ、恭也」
名を呼ばれ、振り返る。
目の前に、自分と同じ顔。唇に、やわらかい感触。夏織はいたずらっぽく微笑み、
「いってらっしゃいのキス。母の愛だ、受け取っとけ」
「……………………何度も言っているような気がするが、そういうことはやめてくれ」
「どうしてだ? こんな美人にキスされるんだ、嬉しくないはずがねーだろ?」
「貴女が美人かどうかはこの際置いておくが、そういうことは妄りにするべきではないと思
うのだ」
「かたいなぁ、お前」
「貴女が大雑把過ぎるのだ」
「別に大雑把じゃねーぞ? お前だからしてるんだ。それじゃ、不満か?」
真面目な顔をして目を覗き込まれる……純真なその辺りの少女だったら、これで落ちるの
だろうが、そこは高町恭也。そんな柔な神経はしていない。
「ああ、大いに不満だな。貴女の息子も、一応、女性との付き合いに夢や希望を持っている
のだ。その大事な始まりを、黒い出来事で染めたくはない」
「…………するってーとなにか? お前は母の愛を黒いとかぬかすのか?」
ゆらり、と夏織の右手に木刀が現れる。どこから出したのか、という疑問を抱くことは無
粋であるし、意味がない。この女にかかれば、どんな不思議でも不思議ではない。
「いいかげん、息子離れでもしたらどうだ?」
かばんに仕込んである小太刀サイズの木刀を抜き、半身に構える。手を抜けば一瞬でヤら
れる……ここは、そういう世界だ。
「修正してやるぞ、馬鹿息子っ!!」
「更正しろ、馬鹿母っ!!」
そうして、朝にしては騒々しい音がマンションのフロアに響く――
他の住人は、文句は言わない。二日に一度に起こることなら、とっくの昔に慣れるという
ものだ。
「――――と、いう訳で遅れてしまったのだ。すまないな、赤星」
風芽丘学園、剣道場。放課後となれば、全国クラスの実力を持った部員達で賑わうここも、
合同朝練が休みの今朝は、二人しかいない。
「九重さんにかかっちゃ、しょうがないな……予定よりは短くなったけど、打ち合うことは
できたんだ。それでよしとしよう」
「すまないな……」
元々、歩いても間に合うように予定を組んでいたはずなのに、夏織との三十分に及ぶ激闘
のせいで、予定を大分割り込んでしまった。それでも、赤星の言う通り、打ち合うことはで
きたのだが、それでも、予定より短くなってしまったというのは動かしようのない事実だ。
「それに、俺と打ち合うよりは九重さんと打ち合った方が練習にはなるだろ?」
「確かにな。あんな理不尽な動きをする人間を、俺はあの人と巻島老人以外に知らないが…
…打ち合う機会でも作ろうか? 望めば、それは多分可能だとは思うが」
「遠慮しておくよ。俺だと、一回も打ち合えずに瞬殺されそうだ。高町くらいのもんだろ?
ここで、九重さんと打ち合えるの」
「ん? ……まあ、そうだな」
実は、自分と同じように打ち合えるだけでも一人、それどころか、打ち込むことのできる
人間を一人知っているが……本人達からは口止めされていることでもあるし、ここは言わな
い方がいいのだろう。それに、実際にその現場を見ないことには信じられまい。
「ともあれ、次からはこんなことがないように気をつけよう」
「あんまり期待しないで待ってるよ。あの人の気まぐれは災害だと思えって、槙原先生も言
ってるしな」
「素晴らしい名言だな。風芽丘金言集に載せるべきだ」
あの母のことを考えていたら、練習の疲れがどっ、と押し寄せてきた。道場の床に足を投
げ出したまま、タオルはどこだったか、と見回すと、見覚えのあるタオルを差し出す一人の
少女が……
「はい、恭也。おつかれさま」
「すまないな、クロフォード――」
「正解だけど、違うよ恭也。僕の名前はリスティさ。さあ、言ってごらん?」
「リスティ。重ねてすまないな」
「YES。重ねておつかれさま、恭也」
満面の笑みと共に差し出されるタオルを、何でもなく受け取り、恭也はその汗を拭う。何
が楽しいのか、リスティはにこにこ、恭也を眺めているが……人並み程度の感性を持ってい
ると自負している赤星は、そのありえない光景を見ながら、小さく苦笑を浮かべた。
基本的に、風芽丘学園の道場は、道場を使う部活の生徒か、その見学をする生徒にしか立
入を許可していないのだが、赤星の目の前にいるリスティ=C=クロフォードは、剣道部員
でもなければ、剣道そのものにはこれっぽっちも興味がない。では、何に興味があるのかと
言えば……そこの、高町恭也だ。多分このことには、恭也以外は気づいていることだろう。
そう、恭也は知らないのだ。リスティが、彼の目の前以外で、どのように振舞っているの
か。その笑顔を向けられることが、どれだけ風芽丘の男子の羨望と嫉妬を集めているのか。
不幸があるとするなら、恭也が人並み以上――いや、世界遺産級に、自分に対して向けら
れる感情に鈍いということか。具体例を挙げるとするなら――
「リスティも、何もこんな時間に見学に来ることはないだろう。いつもは朝練をしているか
ら大丈夫だろうと思って来たのだろうが、剣道部の活動は放課後にもある。俺達二人が打ち
合うのを見るよりは、そちらの方が面白いはずだ。良ければ、女子の部長に話を付けるが…
…」
これである。
サンタが親の自演だったと初めて知った時のような顔をするリスティを見て、彼女が普段、
どれだけの努力をしているかを知っている赤星は、人事とは言え、さすがに同情的な気分に
なった。
恭也はリスティが今朝、ここにいることは偶然だと思っていたようだが、彼女は昨日の放
課後、人目につかないように自分の所にまで来て、恭也は次にいつ剣道場に来るのか、とス
ケジュールの確認をしていった。それも大体、二日に一度くらいの割合でくる。人目につか
ないようにしているのは、目当ての相手以外との噂が立つのが嫌だからだし、そこまでやっ
ているのに自分から恭也を誘うことがないのは、最初は恭也の方から誘って欲しいという実
に少女チック名願望があるからなのだ。(つまり、まだ一度も誘われたことがない、という
ことだ)
彼女持ち故に、他人の恋路に関わるつもりはないが、高町恭也に限って言えば、そうも言
っていられない。彼をとりまく女性達を見ているとこう――やきもきしてしょうがないのだ。
他人はそれをおせっかいというのだろうが、彼の親友というポジションにいるだけに、一々
恭也との窓口にされる身としては、さっさと腰を落ち着けてもらいたい、というのが本音な
のだ。
赤星はその出走馬をほとんど知っているつもりでいるが……その中でも誰か一人を挙げる
とするなら、リスティを推すことにしている。何だかんだで消極的な女性の多い中、赤星が
知る限りでは一番積極的だし、変な遠慮をしたりもしない。後は恭也の方に受け入れる体勢
があれば万事上手くいくのだが……悲しいかな。それが、一番の問題だった。
「……関係ないと言えば関係ない話だが、リスティは部活に入っていないのか?」
「僕のことが気になるの? 恭也」
一転、満面の笑みを浮かべるリスティに対し、恭也の言葉はにべもない。
「いや、既に他の部活に入っているというのなら、剣道部を薦めるというのも失礼な話と思
っただけなのだが……」
「恭也、そこは嘘でも、お前のことが気になるよ、って言うべきとこだよ」
「そうなのか? すまないな。これでも気をつけてはいるつもりなのだが、俺はどうにも気
が回らないらしくてな。母にはもっと、女性に対して気を使うように言われているのだが…
…」
「……やっぱり、恭也は今のままがいいんじゃないかな?」
「そうなのか?」
「そうだよ。うん、そのままがいい」
愛想よくされても、困るしね、というリスティの言葉は、恭也の耳には届かない。
「僕の話だけど、部活には入ってないよ」
「ならば、剣道部に入るか?」
「う〜ん、恭也がいるなら入ってもいいんだけど……」
ちなみに、高町恭也は剣道部の所属ではない。頼まれた時、たまに練習に顔を出すだけの、
女子副部長の言葉を借りるなら、剣道部名誉部員なのだ。
「……僕には向いてないだろうからいいよ」
「何か、得意なものはあるか?」
「あるよ。誰にも負けないってものが、二つほど」
「ほう。良ければ聞かせてもらえないか?」
お? と、赤星の片眉があがる。表情は動いていないが、リスティだって内心では大騒ぎ
だろう。この後の話の展開を予想するに、自分はどこかに消えた方がいいのか、荷物を纏め
て腰を浮かせる。
いつもは鋭い恭也も、リスティの方に気をやっていて、赤星の方にまで気を回していない。
逃げるなら今、となるべく足を立てないよう、裏の出口に向かおうとした、その時、
「あ〜、またクロフォードがおるっ!!」
赤星には、リスティの舌打ちが聞こえたような気がした。
「神咲か……二人か。こんな時間にどうした? 今日は朝練はないぞ?」
「どうしたって言うなら、高町こそ……ああ、赤星と練習してたんか」
「なんや、打ち合うならうちらにも声かけてくれたら良かったよかったのに」
「昨日、何となく決まったことだからな。そんな催し物に誘うのも、どうかと思っただけだ」
「べつにええのに……さて」
制服姿の神咲――女子剣道部副部長、神咲楓の目が、恭也の隣のリスティに向く。
「見学するなら、言ってくれたらええのに。こんな早朝に起きるってのも、大変やろ?」
「別に、早起きはいつものことだ。そんなに苦じゃないし……目的もあるしね」
「ほお……目的とな」
楓とリスティの間で、見えない火花が散る。観客にならざるを得ない赤星は、見ていて気
が気ではなかったが、そういう空気にはとことん鈍いとある男は、
「神咲……楓はどうしてここに?」
「…………えっ?」
高町恭也は、鈍い男だ。神咲だらけの道場にお邪魔しても、平気で全員を神咲と呼ぶだけ
の感性を持ち合わせている。(男は基本的に呼び捨てにされる。女性で神咲と呼ばれないの
は、風高生の間で姫という呼び方の定着している十六夜と、気心の知れた人間には名前で呼
ばれないと口を利いてもくれない、久遠だけなのだ)当然、楓も名字で呼ばれるのが普通な
のであるが、知らない仲でもないのだし、付き合いもそれなりに長いのだから、そろそろ名
前で呼んでくれてもええんやないかなぁ……というのが、誰にも言ったことのない、悩みと
言うか望みだったのだが……
「だから、どうしてこんな時間にここに来たのか、と聞いているのだ」
もちろん、恭也には楓も心情など知るよりもない。ただ、先ほどリスティに名前で呼べ、
と指摘されたから、楓にもそうした方がいいのか、と思ってそうしただけだった。
恭也にすればただそれだけのことだが、楓にすれば小事件である。名前を呼ばれた瞬間、
思わずフリーズしてしまったが……このままじゃあかん、と思い直して落ち着き払い(それ
でも、見る人間が見れば、大分あわあわしてだが……ちなみに、そんな楓を見て、リスティ
は人知れず舌打ちを、薫は少々不機嫌そうに佇んでいる)、咳払いを一つ。
「ああ、さっきの話やね。薫がちょっと小物なくしてしもうたみたいやから、ここにあるか
なぁ、思って来ただけなんよ」
「失せ物か……何をなくしたんだ? 俺でよければ手伝うが……」
「いややわぁ、高町君。女の子にそういうこと言うたらあかんねんよ?」
「そういうものなのか? 赤星」
「そういうものなんじゃないか? 俺にも良く分からないけど、言っちゃいけないと言われ
たら、それは言っちゃいけないことなんだろ」
「ふむ……相変わらず俺は修行が足りないな」
備え付けの時計を見ると、いい時間だった。恭也は立ち上がると使った竹刀を壁にかけ、
「ではな、俺はもう行く」
「少し早くないか?」
「そうかもしれないが、朝方弁当を受け取らずに出てきてしまったのでな。海中まで俺の弁
当を受け取りに行かなければならないのだ」
「そうか……またそのうち打とうな?」
赤星の軽い挨拶と共に、恭也は道場を後にする。リスティも薫も楓も、その背中が見えな
くなるまで見送り……
「さて」
薫のその小さな一言で、道場の空気は一変した。取り残された形になった赤星は、どうし
て恭也と一緒に道場を出てしまわなかったのかと、早くも後悔する羽目になる。
「うちらがいない間に来るとは、随分と熱心じゃな、クロフォード」
「薫には関係のないことだろ? まさか、邪魔だから来るな、とでも言うつもりなのかい?」
得意げに微笑むその顔が、人形のように整っているだけに実に小憎らしい。
本音を言えば、薫だけでなく楓にとってもリスティは邪魔でしょうがないのだが、たまに
道場を訪れる見学者の中でも、リスティのマナーの良さは群を抜いてよく、顧問である耕介
の受けもよい。部長の薫には、追い出す口実がないのだった。
「それほど熱心に見学するんじゃったら、剣道部に入ったらどうじゃ?」
「やだよ。別に剣道を馬鹿にするつもりはないけど、恭也がいないんだったら、僕には意味
がない。恭也を追いかけたのに、恭也といる時間が減ったら、本末転倒だろ?」
「異人なのに、随分と口は達者じゃな……」
「薫ほどじゃないよ。あぁ、今度、恭也にお弁当でも作ってくるつもりなんだけど、薫も一
緒にどうだい?」
その時、恭也を誘うのは赤星勇吾の役目なのだろう。そしてその後も、空気を読んでくれ
ない恭也のせいで、その場に同席する羽目になるのだろうが……想像するだけで胃に穴の開
きかねないイベントだ。
そして、弁当を作るだけの技量のない薫のこめかみに、うっすらと青筋が浮かぶ……目算
で、決壊まで後一歩だ。リスティには、是非頑張らないで欲しいものである。
「薫、今日はもう行こう」
朝から名前を呼んでもらったおかげで、少しだけ機嫌のいい楓が、爆発寸前の薫を促す。
普段なら短気な楓を薫が勇めるのだが、今日に限って言えば立場が逆だった。楓が進歩した
ように見えることを喜ぶべきなのか……赤星には、そう思えない。
楓の爆発は普段が普段なだけに、熱しやすく冷めやすく、宥めるのもそれ程苦ではない。
事実、赤星だって何度かその鎮火をしたことがあるほどだ。
だが、薫の癇癪を赤星は今まで見たことがない。いや、そもそも薫が怒るところを想像す
ることができない、という方が正しいかもしれない。
家柄のせいなのか、神咲薫は責任感が強く、厳しい時には厳しく、他人を立てるべきとこ
ろは立て、和を重んじる。男子を含めても実質的な剣道部のリーダーであり、部員であれば
誰もが、神咲薫には一目置いている。
問題児の対応だってしてきた。今のリスティなんて比較にならないほど、素行の悪い生徒
を相手に、あくまで神咲薫としての態度を崩さずに解決もした。生徒だけでなく、教師連中
だって、薫の人間性は信用しているはずだ。
その素行のいい生徒の見本のような薫が、今、決壊寸前なのである。恐れるな……という
方が、無理な話だろう。
楓を見る。赤星の意図を察してくれたのだろうが、しかし、楓はゆっくりと首を横に振っ
た。赤星的には、いよいよお先真っ暗である。
「ねえ、薫」
そんな赤星を思いっきり無視して、リスティが口を開く。顔には、微笑み。今の赤星には、
そのかわいらしいはずの微笑みが、悪魔のそれに見えてならないが……
「薫だって、恭也のことが好きなんだろ?」
薫の熱のベクトルが、その言葉だけで別の方向に逸れる。そのまま済し崩してくれ……と
いうのは、赤星だけでなく、楓の願いでもあったのだが、
「隠すことはないよ? それは多分、恭也以外はみんな知ってることだから。でも残念だっ
たね……薫がどんなに恭也のこと好きでも、その思いは二番目なんだよ」
どこかで聞いたことのあるそのフレーズを聞いたその瞬間、もう駄目だと悟った赤星は、
荷物も放って脱兎のごとく駆け出した。話について行けていない楓は、目を白黒させるばか
りだったが……
「じゃあ、一番は誰なんじゃ?」
薫のその返答に、リスティが邪悪に笑うのと、楓がその展開の大落ちに気づき、駆け出す
のはほとんど同時だった。
口笛が聞こえる。その後に続くのは、ちっちっ、という音、そして指を振る仕草。その指
で、リスティは被ってもいない帽子を持ち上げる仕草をすると、親指でびっ、と自分を示す
のだ。
神咲楓は後に語る。
「人間って、怒り過ぎると、声なんて出せないもんなんやねぇ……」
昼休みの会話
「赤星、昼飯を一緒にどうだ? 今朝の侘びをこめて、おかずを一品分けよう」
「そりゃあ、ありがたい。和食が主体みたいだけど、今日は晶の作なのか?」
「うむ。しかし、このブロックはなのはが作ったそうだが……」
「そのブロックは責任を持って、高町が全部食うようにな。俺が食ったら、多分罰が当たる
だろうから」
「そんなものか……ところで、先ほど放送で神咲の部長の方とクロフォードが呼び出されて
いたようだが、何かあったのか?」
「…………高町は、それを知らない方がいい。何があっても、誰にも聞かないようにな」
「分かった。お前が言うなら、そうしよう」
後書き
これでとりあえず主人公が一周しました。次は幕間を挟んで、また真一郎に戻ります。
それと、作中では微妙に分かり難いので、年齢設定などを下に書きます。
3X歳 九重夏織 高町桃子(夏織の方が年上です)
26歳 仁村真雪
25歳 槙原愛
24歳 槙原耕介 タカさん
18歳 高町恭也(留年した事実はなかったことになってます)、赤星勇吾、月村忍、
神咲十六夜、薫、楓、葉弓
17歳 相川真一郎、端島大輔、神咲那美、北斗、
16歳 綺堂さくら、高町美由希、リスティ=C=クロフォード
15歳 アリサ=ローウェル
14歳 神咲久遠、高町なのは