金持ちそうな門構えだ、と真一郎は思った。



 海鳴市郊外、神咲家の前である。惰弱な精神の持ち主を拒むかのように聳え立つ木造の門

に、左右を見渡せば、白い壁がどこまでも続いている。わずかに開いた隙間から中を覗けば、

純和風の建物がいくつか。



 神咲が現実離れした一族だということは、風芽丘、海中の学生に限らず海鳴市民全員の知

るところだったし、隣のいる女性の同じく現実離れした風貌もあることから、真一郎も決し

て忘れていた訳ではなかったのだが……いざこうして前に立ってみると、自分はとても場違

いなんじゃないか、という思いが首を擡げてしょうがない。



「そのように緊張なさらなくても、だいじょうぶですよ」



 そんな真一郎の心情を知ってか知らずか、十六夜は真一郎の手を取り、柔らかく微笑む。

青いその瞳に見つめられ、現金にも神咲を前にした緊張は解けていくが、今度は息がかかる

ほどに間近で見つめられていることで、顔が朱に染まっていった。



(美人だよねぇ、ほんとに)



 付き合い始めて一週間と少しが経つが、真一郎はいまだに十六夜の顔を近くで見ることが

できないでいる。年上の彼女は以外にも積極的で、学校で抱きつかれたり、あ〜ん、などの

イベントはもう済ませているのだが、それだけだ。自分から十六夜に抱きついたり、甘い言

葉を囁いたりもできず、況してやその先などは望むべくも無い。



 悪友からは根性なし、とかからかわれるが、しょうがないよなぁ、とは思う。十六夜に気

後れせずに接することのできる男がいるとすれば、身内か、超が付くほどの鈍感か、あるい

は生まれついての貴公子だけだろう。そして残念ながら、真一郎はそのどれでもない。



「ありがと、十六夜さん」

「さんはいらない、と申しましたが……慣れませんね、真一郎様」



 いくら恋人が相手とは言え、相手に様、と自然につけてしまうところも侮れない。



 真一郎だって男だし、十六夜のような女性にそう呼ばれるのは嬉しくない訳ではないのだ

が、いつでもどこでも、例えば、一緒に帰ろうと誘いに来てくれた時に、クラスメイトの前

で堂々と様付けで呼ぶのは、精神衛生上、そして彼女のいない男子からのやっかみ対策のた

め、できればやめてもらいたいと思っているのだが、見つめられて微笑まれると何も言えな

くなってしまう。美人は得だ、と心から思う瞬間だった。



「その……今日は親御さんがいないんだっけ?」

「はい。なんでも、近隣の武術家の集まりとか。次の休みに私の恋人をお連れするという

ことで、義父などとても楽しみにしてくれていたのですが、どうしても外すことのできな

い用事とかで、恭也の母共々、ごねていたところ祖母に引きずられてゆきました」

「恭也って、高町先輩?」

「ええ。恭也は神咲の門下生の一人です。五年ほど前から顔を出すようになった新参ではあ

りますが、実力は神咲一門の中でも五指に入りますわ」

「お母さんが、ここの師範とかだったりするの?」

「その通りです。古株らしいですよ? なんでも、養父母とは学生の時からの付き合いだと

か。あ、御母堂と言っても、翠屋のご主人とは別の方ですけれど、その辺りの事情はご存知

ですか?」

「なんとなく。お母さんが二人いる、とは聞いてるよ」

「よかった……これは事情を知らない方に話すには、少々堅い話ですから。でも、師範が引

きずられていった、と私が言ったことは恭也には黙っておいてくださいな。あれは寡黙です

けれど、存外に子供のようなところがありますから」

「詳しいんだね、高町先輩のこと」

「それはもう。血のつながりはありませんけれど、私にとっては弟のようなものです」



 真一郎の先にたって門を開け、 十六夜は自らの主を迎え入れるように、深く、深く頭を

下げる。





「神咲へようこそ、真一郎様。何も無いところではありますが、心より歓迎いたします」





















「ただいま帰りました」

「お、おじゃまします……」



 真一郎が通されたのはいくつか存在する建物のうち、最も大きなものだった。道場に一番

近い建物でもあり、聞けば、皆で集まって食事をするための場所とのこと。真一郎にとって

最も気になる十六夜の部屋のあるのは、別の建物であるらしい。



「申し訳ありません、真一郎様。まだ料理ができていないようです。しばらくお待ちいただ

けますか?」

「料理なら手伝おうか?」

「お客様の手を煩わせる訳には参りませんわ。手は足りているはずですし、もうすぐ完成す

るはずですから、恭也の相手でもしてお待ちください。部屋への案内は――」

「あ、姫姉さん、おかえりなさい」



 その部屋から帰ってきたところなのだろう。肩口までの茶色の髪に愛くるしい瞳。盆を持

ってぱたぱたとこちらに寄ってくるのは、真一郎にも見覚えのある顔だった。



「え〜っと、お邪魔してます」

「いらっしゃい、相川君。それとも、おかえりなさいの方がいい?」

「あまり、真一郎様をからかうものではありませんよ?」

「ごめんなさい。あ、自己紹介がまだでした。こうしてお話するのは初めてですよね」



 ぼ〜っとしていた真一郎の手を取り、ぶんぶか上下に振る。おや? と思うよりも早く、

彼女は微笑み、



「神咲北斗です。どうぞよろしく」



 期待していた名前とは違う男の名前を聞いて、真一郎は目を疑った。自分自身も女っぽい

と言われるが、その顔を毎日見ている真一郎からしても、目の前の少年は少女にしか見えな

かった。格好も中性的であるし、よくみると薄く化粧までしている。



「期待通りの反応をありがとう。わざわざそれっぽい服を用意してた甲斐があったよ。でも、

僕自身に変な気は起こさないでよ? こういう格好するのが趣味なだけで、男にはあんまり

興味がないから」



 先ほどまでののんびりした口調から、がらりと変わった温度の低い喋り方。見た目が劇的

に変わった訳でもないのに、笑顔の質まで変わって見えた。意識して先程までのキャラを演

じていたのだとしたら、大したものだ。



「料理の進行具合はどうなっていますか?」

「順調……だったはずなんですけどね。薫姉さんと楓姉さんが邪魔してくれたおかげで、少

しばかり滞っています。申し訳ありませんが、姫姉さん、手を貸していただけませんか?」

「もとよりそのつもりです。そういう訳ですので、真一郎様。こちらのまっすぐいった先に

大きな部屋があります。中に恭也がいるはずですから、近くまで行けば迎えてくれることで

しょう。そちらでお待ちください」

「機嫌の悪い二人の女の人がいるかもしれないけど、あまり係わり合いにはならないように

ね」



 では、と一礼して去っていく十六夜に続き、北斗もその仕草を真似て一礼し、奥へと消え

た。



「こちらをまっすぐって言われてもなぁ……」



 広い神咲の家は、一人で歩くにはそれだけで心細く、単純な道のりであっても迷いそうな

程。できれば道案内くらい欲しいところだが、今さら十六夜や北斗を呼び戻すのも格好が悪

い。



「…………行こうか」



 小さく気合を入れて、靴を脱ぐ。きちんと揃えておくことも忘れない。礼儀正しく行儀良

く。いくら親御さんがいないと言っても、ここが今日、初めて訪れる彼女の家であることに

変わりはないのだから、









 相川真一郎の戦いは、始まったばかりだ。

























「来たな、相川」



 一体、どういう神経をしているのか。試しにすり足で廊下を進んでいたのに、恭也は部屋

から当たり前のように出てきた。



「障子に俺の影が映ってた……とかいうオチじゃないですよね?」

「人の気配がしたからな。気づかせぬように歩いていたつもりのようだが、まだまだ気配の

消し方が甘い」

「俺、気配の消し方なんて習ったことないんですけど……」

「ならば、早急に身に着けた方がいい。この家に関わると決めたのなら、それくらいできぬ

と命に関わる」

「ここは、どっかの最前線とか、そんなのですか? いきなり武装ゲリラにでも襲われると

か」

「奇襲を受ける、という意味では似たようなものだな。この家には、野生の獣並に気配を読

んだり消したりすることのできる人間が、三人も出入りしている。命に関わる、というのは

流石に誇張した表現だが、平穏に生きたいと願うなら、早い段階でのレベルアップを薦める」

「十六夜さんと付き合い始めてから、俺の辞書からは平穏なんて文字は消えました」

「その境遇に、相川は満足しているか?」

「とても、幸せです」

「……相川には、この家で生きていく適性があるようだな。ようこそ、相川。俺は神咲では

ないが、お前を歓迎する」



 恭也に通された部屋は、さながら宴会場のようだった。地方の公民館のようなしょっぱい

レベルではない。百人を超える人間を収容してもなお余裕のありそうな程に、広い。



「内弟子はよく、ここで飯を食うのでな。その都合で、最初から広く作ったらしい。俺の母

や父も、昔はここの世話になったと言っていた」

「ご飯はいつもここで食べるんですか?」

「人が集まった時だけだ。神咲だけなら他にもう少し小さな食堂がある。ここはまぁ……パ

ーティ用だな」



 割って入った声の主は、大きなテーブルの前に足を投げ出して座っていた。黒い髪を短く

刈り込んだスポーツマンタイプの男だったが、その眼には強靭さと同時に怠惰が住み込んで

いた。どこがどう、とは真一郎には上手く言うことができないが、悪友である端島大輔とは

また別の意味で、悪の匂いを感じさせる容貌だった。



「神咲――」

「和真だ。うちは神咲しかいないからな。俺を呼ぶ時は名前で呼べ」

「じゃあ、俺のことも真一郎でいいよ。よろしく、和真」

「こっちこそ、よろしくな真一郎」



 にやり、と笑う和真と握手を交わし、彼の放り投げた座布団に腰を下ろす。恭也は二人の

面通しが済んだと見ると部屋の隅、壁に寄りかかって腰かけ、ポケットから文庫本を取り出

した。タイトルは、純粋理性批判……



「俺、前から真一郎には興味があったんだよな、実は。恭也兄さんから話は聞いていたし、

北斗からも面白い奴だって聞いた。人見知りする二人が態々推すんだ。こりゃあ、面白い奴

に違いない、と思ってた」

「高町先輩、俺の知らないところで一体何を……」

「事実を言ったまでだ。俺達の年代で言えば、明心館の中では相川と晶が面白いと言ったの

だ。あの不良館長にも気に入られているようだし、無手でなら相川も晶も、いい線を行って

いるからな」

「俺、無手でも高町先輩に勝ったことないんですけど」

「俺は別格と考えてくれ。あと、不良館長や俺の母のこともな」

「ちなみに恭也兄さん、将来の夢は?」

「最強」



 本を閉じて、恭也は深くため息をついた。少年漫画のような回答に呆然としている真一郎

に眼を合わせると、恭也はどうしたものか、と苦笑する。



「……の、先にある平穏が欲しいのだ。俺は仙人のように静かに暮らしたいのだが、許して

くれない連中がいてな。そういう奴らを黙らせるための力が、とりあえず欲しい」

「真面目に強くなろうとしてる連中が聞いたら、絶対に怒り狂うよな」

「そういう連中には、俺の母を紹介してやろう。あれを母に持った人間が俺なのだと理解す

れば、俺の言葉の意味も解るだろう」

「前から気になってたんですけど、高町先輩のお母さんって、どんな人なんですか?」



 その言葉に、恭也と和真は顔を見合わせ、いくらか羨望の篭った眼差しで、真一郎を見た。



「な、なんでしょー」

「その事実を知らないことは、すごく幸運なことなんだぞ? 真一郎」

「今は知らないという幸せを噛み締めておけ。それは近い将来、二度と戻ってこなくなるも

のだ」

「余計に不安になるんですけど……」

「気にするな。その内三階から飛び降りることが日常になる」



 恭也のその言葉に、真一郎はこれ以上聞いてはいけない、と本能的に悟った。



「……神咲先輩がいるって聞いたんですけど」

「お前から見て神咲の先輩は四人もいるぞ? 生徒会長の神咲なら、今は厨房にいる。見た

目通り料理を作るのが得意でな。北斗と那美に指示を出して、今日の料理を作っているはず

だ」

「耕介兄さんもいるぞ?」

「あぁ、失念していた。槙原先生も今日はいらしている。俺の母の直弟子でな。知っている

とは思うが、料理が得意……らしい」

「中々の腕だぞ? 葉弓姉さんといい勝負するんじゃないかな」

「それは楽しみだな。姫が迎えにいったのだから、姫の所在は知っているな? 残りの二人

……女子剣道部の部長と副部長の神咲は、相川が来る直前に道場に向かった」

「なんか、料理に関して凄いミスをやったらしくてな、北斗に引きずられてきたんだよ。今

は荒れてるだろうから、挨拶だったら後にしろよ?」

「そんなにその……二人の神咲先輩は料理が苦手なんですか?」

「得意ではないのだろうな。つい最近まで、俺と同じで食べる専門だったはずなのだが、急

に手伝うようになったのだ」

「ちなみに、恭也兄さんはその理由をご存知ない?」

「皆目見当も付かない。和真は知っているのか?」

「……いえ、俺も全く存知ねえです、はい」



 その口調は明らかに何かを知っている類のものだったが、それに気づいているのか、いな

いのか、恭也はじゃ興味なさげにふむ、と一つ頷くと再び文庫本に眼を落とす。



「とまあ、うちには今俺を初めとした同年代の神咲が大集合してる訳なんだよ」

「大集合は、いつも通りなんでしょ?」

「……いつも通りどころか、親父達がいないからいつもより少ないくらいなんだが……そう

言えば、久遠がいないな。恭也兄さん、あいつどこ行ったか知らないか?」

「久遠は俺の担当ではないが、おそらく散歩だろう。今日相川が来るということは言い含め

てあるし、そろそろ腹のすく頃合だ。そのうち――」



 言いかけて、恭也と和真は揃って顔をあげた。その直後、慌しい音が玄関の方から聞こえ

てくる。



「帰ってきたようだな」

「本当に今、気配でも読んだように思えたんですけどー」

「あいつは普段は騒々しいからな。耳を澄ませば相川でも聞こえる」



 断言してもいいが、真一郎の耳には物音一つ聞こえなかった。恭也だけならまだ納得もで

きたが和真までもが当たり前のように振舞っているのを見ると、疎外感を感じる。



(神咲の修行って、忍者にでもなる修行なのかも……)



 たまに鉄棒の上でバック宙をしている同級生の忍者の姿を思い返しているうちに、気配は

バタバタと、騒々しい足音を立てて近づいてくる。



「久遠ちゃんっていくつでしたっけ?」

「海中の二年、相川の三つ下だ。人の好き嫌いの激しい奴だからな、邪険に扱われても――」



 その恭也の言葉は、障子を吹き飛ばす豪快な音に遮られた。



 真一郎は当たり前として、和真、恭也までもが何事かと顔を向ける中、その影は迷うこと

なく真一郎に体当たりをする。半分ほど腰を浮かしていた真一郎は、その影を受け止めきれ

ず、押し倒される形で畳に転がった。



「大丈夫か? 相川」

「少し頭を打ちました……それよりこれ、何事です?」

「知らん。俺に聞くな」



 答えはにべも無い。見ると、和真も肩をすくめている。



 自分で何とかしろ、という二人の意図を察し、真一郎は初めて自分に抱きついている少女

の姿を見た。



 髪の色は、北斗よりも淡い色合いの茶色で、身長は自分と同じくらいと当たりをつける。

三つ年下の女の子、ということを考慮すると結構高い。黒い薄手のパーカーにミニスカート。

その下にスパッツをはいているのは、そういう対策なのだろう。



「え〜っと……俺が何とかするんですか?」

「構われているのも困っているのも、俺じゃない。厄介ごとに俺を巻き込むな」

「姫姉さん、浮気には寛容な方だと思うが、キレたとこなんて久しく見てないから、どうな

るかは分からないぞ? 一応助言しておくと、そいつは久遠で間違いはない。しかし、そい

つが他人にそこまで懐くなんて初めてみるな……よっぽど気に入られたんだな、相川。何し

たんだ?」

「この娘には初めて会うよ……言っておくけど、誓って手は出してないからね?」

「そりゃ、解ってる。姫姉さんを彼女にしておいて浮気をすしようなんて考える奴は、うち

にはいないだろうさ」



 真一郎という恋人ができてからも、十六夜の人気は健在なのである。自分達のカップルを

静かに見守る、という動きが大勢を占めているのは喜ばしい限りだが、皆のアイドルを奪っ

ていった挙句、浮気をして泣かせた、なんてことになれば……明日からと言わず、その日の

うちから、風芽丘では生きていけなくなるだろう。



「なんにしても、そこのそいつはお前の担当だ、真一郎。神咲には曲者が多く集まるが、そ

いつはうちの中でもとびっきりの曲者だ。俺にも恭也兄さんにも手に余る。操れるのはお前

しかいないっ」

「言うことを聞かせられるような人はいないの?」

「俺の母や神咲の刀自ならばいけると思うが、二人とも今はここにいない。期待するだけ無

駄だな」

「全部諦めて、姫姉さんに投げられたらどうだ?」



 冗談ではない。どうして人生初めての彼女との喧嘩が、自分の関係ないことで勃発しなけ

ればならないのか……



「ねぇ、久遠ちゃん。ちょっと話を聞いてもらえないかな?」

「…………」



 無視。



「久遠ちゃん?」

「…………」



 またも、無視。心なしか、抱きつく力が強くなった気がする。



「そいつ、親しい奴には呼び捨てか、あだ名で呼ばれないと返事しないって自分ルールがあ

るぞ」

「早く言ってよ、そういうことは……久遠、ちょっと話を聞いてくれる?」

「くぅ?」



 声をかけてもらえたことが単純に嬉しいのか、久遠はにこ〜、と笑って小首を傾げる。



 どうでもいいが、ちょっと動くだけでキスしてしまいそうなくらい顔が近いのに、久遠は

顔色一つ変えていない。これでは、一々ドキドキしている自分が馬鹿みたいだ。



「ん〜と……俺と久遠、会うのは初めてだよね?」

「うん。会うのははじめて。でも、久遠、しんいちろーのこと知ってるよ?」

「どうして俺に抱きつくの?」

「しんいちろー、いいにおいがするの」

「…………できれば、抱きつくのやめてもらえないかな?」

「しんいちろー、久遠のこと、きらい?」

「いや、嫌いとかそういう単純な問題じゃなくってね?」

「久遠、なんでもするよ? なんでもできるよ? 十六夜よりもいいおんな……おとく」

「…………」



 一瞬でもお得、と思ってしまった自分が情けない。助けを求めようにも、



「恭也兄さん、その……純粋理性批判ってのはおもしろいのか?」

「興味深いとは思うが、欠片も面白いとは思わないな」

「なんでそんなもん読んでるんだよ……」

「母の部屋に転がっているのを見つけてな。あれに読めて俺に読めないものがあるというの

も腹が立つだろう?」

「ちなみにその本、最初栞はどこに挟んであった?」

「三ページ目だ。今俺が読んでいるのが十五ページ目だから、後十ページも読んだら俺の黒

い栞を挟んで元あった場所に置いておこうと思っている」



 薄情な二人は、助けてくれそうにない。最低でも何かを答えない久遠は離してくれそうに

ないし……しかし、現状を打破するような素晴らしいアイデアは、全く浮かんでこない。



 どうしたものか、と真一郎が途方に暮れた、その時――



「なにやら騒々しいと思って来てみれば、帰っていたのですね、久遠」



 何の類か知れないが、真一郎にとっての女神は既にそこにいた。



 視界の隅では、和真が驚きのあまりひっくり返っている。真一郎も心情的には似たような

ものだったが、人生最大の危機に現在進行形で抱きつかれているせいか、まるで瞬間移動で

もしてきたかのように登場した十六夜にも、ひっくり返ることはできなかった。



「久遠、忘れているのかもしれないので言っておきますが、真一郎様は私の恋人です。仲良

くするな、とは申しませんが、抱きつくのは私の特権です。今すぐ離れなさい」

「いや」



 十六夜の表情に変化はない。いつも通り、いや、いつも以上に素敵な微笑みを向けてくれ

ているのだが……ありえないことだとは思うが、真一郎は周りの温度が一気に数度下がった

かのような感覚にとらわれた。



 これは何だ、と恭也達を見れば、彼らはさらに真一郎達と距離を取り、哲学とは何か、と

いうこの場には全く関係のない話題に花を咲かせていた。助けてサインを出しても、目を合

わせようともしない。



「もう一度だけ言います。離れなさい」

「いや」

「……忠告はしましたよ?」



 その声音に、真一郎は血の雨が降ることを覚悟した。



 だが、十六夜は拳を振り上げるようなはしたない真似はせず、ゆったりとした足取りで近

寄ると、そっと真一郎の肩に回された久遠の腕に、手を置いた。そして――



 次の一瞬で、あれだけ力いっぱいしがみ付いていた久遠が簡単に引き剥がされ、その次の

一瞬で宙を舞う羽目になった。合気の投げ――しかも、部活でやるようなものではなく、投

げっぱなしの危険な技だったが、一瞬で投げ飛ばした十六夜が只者でないなら、投げ飛ばさ

れた久遠もまた只者ではなかった。床に激突するよりも早く、猫のように体をひねり、着地

したのだ。



 久遠の、下からの睨みつけるような視線にも、十六夜は動じない……



「貴女の性格は理解しているつもりです。そうと決めた以上、生半可なことでは意思を曲げ

ないことでしょう」



 久遠は答えない。両手足を床につけたまま、十六夜の隙をうかがっている。



「ですから、文句があるのなら相手になりましょう。あのように真一郎様に近づきたいと言

うのなら……かかってきなさい」



 言うが早いか、電光石火の勢いで久遠は飛び出した。床すれすれを獣のように駆け、空手

有段者の真一郎から見てもほれぼれするような上段蹴りを放つ。直撃すれば顔の形が変わり

そうなその一撃を、十六夜はわずかに後ろに下がって避けて逆に足を掴み、軽々と久遠を投

げ飛ばした。久遠は蹴りの勢いも相まってごろごろと床を転がるが、それでも受身は取れて

いたらしく、何事もなかったかのように起き上がると、また十六夜を睨みつける。



「――まぁ、見事なまでにキレているな、二人とも」

「暢気なこと言ってないで止めてくださいよ。神咲でも五指に入る腕だって聞きましたよ?」

「俺は四番目で、あそこで戦っているのは二番目と三番目だ。実力で劣る俺が、あの二人を

とめられるはずがなかろう」

「…………十六夜さんと久遠、そんなに強かったんですか?」

「強いな。剣を持つともっと強い。姫など、俺の母に打ち込んだことがあるほどだ。もっと

もその後、大人気なく本気を出した母に一瞬で気絶させられたが、俺はあの時の母の、あっ

けに取られた顔を一生忘れることはないだろうな……」



 目を細めて過去に思いをはせる恭也だったが、金さえ取れそうな激闘はまだまだ継続中で

ある。



「槙原先生なら何とかなりませんか?」

「無理だな。実力では俺よりも劣るという話だし、そもそもあの二人が先生の話を聞くとも

思えない。残りの神咲でも多分、似たようなものだろう」

「残りの神咲と言えば、和真はどこに行きました?」

「尻尾を巻いて逃げた。だが、友達甲斐がないなどと言ってくれるな? あれは神咲の序列

について熟知しているだけで、情に薄い訳ではない」

「じゃあ、打つ手なしじゃないですか……」

「何を言っている? 手なら最初からあるだろう」

「…………もしかして、俺ですか?」

「この場に限った話をするなら、相川が最善だ。俺の母や刀自が帰ってくるのを待ってもい

いが、いくらそこの二人の腕が優れていると言っても、それまで無傷でいる保障はないだろ

う?」

「でも、俺が言ったくらいでとまってくれますかね……」

「相川で無理なら、もう誰にも無理だ。その時は俺や和真と一緒に突貫してもらうから、腕

の一二本は覚悟してもらうぞ」

「…………やってみます」

「頑張ってこい。失敗しても、骨くらいは拾ってやる」



 ありがたくない恭也の言葉を背に、もはや小さな台風と化している二人のもとに歩み寄る。

先の恭也との会話も、それほど小さな声で話していた訳ではないのだが、よほど集中してい

るのか、こちらには目を向けようともしない。





 さて、どうやってとめたものか。



 割って入ったら……確実にやられる。本心を言えばこんな激闘に関わるのは遠慮したい。

しかし、一度やると言ってしまった手前、ここで回れ右をするのもいかにも具合が悪い。



「十六夜さ〜ん、久遠〜」



 とりあえず呼びかけてみるが、二人は気づいてくれない。ため息をついて後ろを向くと、

もっと大きな声で、というジェスチャーをしている男が四人……逃げた和真と厨房にいるは

ずの耕介と北斗が、いつの間にか増えていた。いよいよもって退路が無い。覚悟を決めて大

きく息を吸い込み、



「十六夜っ、久遠っ、やめなさいっっ!!」



 突き出された久遠の拳を十六夜が掴んでいるところで、二人の動きはぴたり、と止まった。

後ろからはおぉ〜、と無責任な拍手が響く。



「あ〜、その……喧嘩はよくないんじゃない、かな」





(自分が原因のくせにあんなこと言ってるぜ? 真一郎)

(でも、あれの原因を押し付けるのは、少し可哀想じゃありませんか?)

(久遠が男の言うこときくの、初めてみたな……)



 増えた外野の言は、無視。



「真一郎様がやめろ、と仰るのなら私は構いませんけれど……」

「久遠は、やめないよ? しんいちろー、あきらめない」

「まだ言いますか。真一郎様は、私の恋人なのですよ?」

「なら、久遠もこいびとになる。十六夜だけひとりじめ……ずるい」



 真一郎は、和真の言葉を思い出していた。なるほど、確かに曲者だ。説得はどうしたって

しなければならないのに、肝心の言葉が何も出てこない。時間に任せてみたいものだが、放

っておけばおそらく、また小さな台風に逆戻りだ。



 どうしよう。自分が泣きそうな顔をしていることを自覚しながら、真一郎は十六夜を見る。

彼女は真一郎の顔を数瞬ばかり見つめると、瞑目し、やがて何かを決意したのか、深く、深

く息を吐いた。



 その顔には小さな台風の片割れだった時の真剣な表情から一転、いつも通りの穏やかな笑

顔に戻っていた。



「久遠? 私は貴女が真一郎様の恋人になることを認めようと思います」

「…………え?」



 驚いたのは、真一郎だ。いきなり、何を言うのか……彼には恋人を二人も持つつもりなど

ない。ならば、すぐにでも反論すればいいのに、十六夜の言葉のインパクトに負けて、真一

郎は全ての言葉を忘れていた。その間に、十六夜の言葉はさらに続く。



「見ての通り、真一郎様は素敵な方です。今でも思いを寄せている女性は何人もいることで

しょう。私がいれば、そういった方々からお守りすることもできますが、私は次の春には卒

業してしまいます。だから久遠、貴女にはそうなってからの真一郎様のガードをお願いした

いのです」

「久遠、しんいちろーのガード?」

「そう、ガードです。そうすれば、真一郎様にご迷惑をおかけしない程度に、べたべたする

ことを許しましょう」

「久遠も、しんいちろーの恋人?」

「恋人です。ですが、私が正妻で貴女が妾ということを忘れないように――」

「しんいちろー」



 脇を抜けて駆け出す久遠の肩を、十六夜は振り向きもせずに掴み、流れる動作で足を払う

と、受身を取らせないように押さえつけながら、背中から叩きつける――それは、外野の四

人が思わず目を向くほどの、文句のつけようのないクリティカルヒットだった。



「ぐぅ〜……」

「つつしみや遠慮、という言葉を覚えることを宿題にしましょうか……では、真一郎様。料

理はもう少しで完成しますので、今しばらくお待ちください」

「うん……その……がんばって、ください」

「頑張ります。では、これで」



 楚々として、壊れた障子を避けて部屋を出て行く十六夜。料理担当である耕介と北斗がそ

れに続き、ワザとらしく真一郎の肩を叩いていく。



「まぁ、なんだ……大変だな、真一郎」

「どうして俺、二人も彼女持たないといけないんだろう……」

「両手に花で得をした、とでも考えておけ」

「それができたら苦労しませんよ……あぁ、神咲の親御さん、何ていうだろう。やっぱり、

殴られたりするのかな」

「むしろ、喜ばれると思うぞ。あの親父、久遠の嫁の貰い手心配してたからな」

「十六夜さんと一緒でも?」

「神咲以外から連れてきたなら文句の一つも言ったと思うが、姫姉さんと久遠の取り合わせ

なら大丈夫だろ。本妻と妾の住み分けもできてるみたいだし、後はほら、若い二人……いや、

三人の問題だな」

「お前、人事だと思って楽しんでるだろ?」

「これ以上の見世物はないな。久遠もこれで少しは大人しくなるだろうし、俺にはいいこと

ずくめだよ」

「俺はすごく、先行き不安だよ……」



 二人とも美人でかわいくて、男として嬉しくない訳じゃあ断じてないのだが、それ以上の

苦労が目に見えている以上、手放しで喜ぶこともできない。相手のご両親が納得してくれそ

うなのがせめてもの救いだが、これでもう、しばらく学園一の有名人になることは確定。悪

友の大輔やいづみには、からかわれ続けることだろう、それを純粋に楽しめるようには……

まだ、できそうにない。相川真一郎は、そんな未来を相手に何ができるのか……





 とりあえず、目を回している久遠の介抱から始めよう。