風芽丘 School days 第六話









「……どう、ですか?」


 アリサ=ローウェルというのは、およそ自分を知る人間の前で自信に満ちた態度を崩すこ

とはない。『天才』などという、実力と成果に基づいたあだ名で呼ばれることに慣れている

彼女だが、才能の上に胡坐をかいたりせず努力を怠ることもしない。常に張り付いているか

のような自信はそういった努力に起因している訳だが、その日、その場所、その人物の前に

立つアリサはまるで借りてきた猫のように大人しく、頼りなげだった。



 風芽丘学園、生徒会執行部室、放課後である。外からは部活動に励む運動部の生徒達の声

が在ったのだが、その部屋には音という音が存在しなかった。いや、存在してはいるのだろ

うが、少なくともアリサは音を聞いているような心地ではなかった。普段は自信の塊のよう

な彼女が、緊張しているのである。



(やっぱ、すごいひとなのね……)



 小さな感嘆のため息と多大な信仰と共に、アリサはその緊張の原因である人物――その部

屋、生徒会執行部室の主である彼女を見やった。



 まず、美しい人であると思う。長い黒髪はとても綺麗で、物腰も穏やか。現代社会にあっ

て大和撫子を地でいくタイプの絶滅危惧種の女性であり、生徒会長の役職までこなしている。

幼い頃から続けているらしい弓道は全国クラスの腕前で、噂では料理も得意で日舞もできる.



 神咲葉弓、それが彼女の名前だった。



 アリサの憧れる、数少ない人間の名前でもある。初めて会った時から、その雰囲気に惹か

れファンを続けているのだが、しかし、何かとファンの付く人物の多い風芽丘学園にあって、

彼女はそれほど人気のある部類ではない。葉弓はとても素敵なのに(と、アリサは信仰して

いる)、女子で言えば上位の三人、男子も含めると総計五人が人気を独占しているので、彼

女はいまいち目立っていないのだ。



 不遇であると、アリサは思う。実力に対しては正当な評価が下されるべきなのだ。五人の

人気者に魅力がないとは言わないが、葉弓にだって彼女達に比べて劣っているとは思えない。

そういう微妙なポジションにいることを自覚しない訳でもないだろうに、彼女は今日も不満

を言うでもなく、仕事を続けている。



 そういう所に、アリサも惚れ込んだのだから、もう少し前に、と強く言うこともできない。

もっとも、彼女に前に出られてファンが増え、人気者集団の仲間入りを果たしたら、それは

それで困るのだから、今の微妙なポジションもよくよく考えたら悪くないのでは……と結論

することもできる。まったくもって、世の中難しい。



「……悪くないと思います。正直、ここまでの仕事をしてくれるとは思っていませんでした」



 アリサが自分の内部で葛藤してるうちに、葉弓は資料に目を通し終えたらしい。先日、彼

女から直々に負かされた風芽丘生徒会の仕事だ。



「でも、神咲先輩にはまだまだ及びません」

「私はこれでも貴女の先輩ですからね。三つも年下の貴女に負かされてしまっては、立場と

いうものがなくなってしまいます」



 苦笑とセットになった言葉だったが、憧れの人にそうまで言われて、アリサも悪い気はし

ない。難しい仕事ではなかったが、受けて本当によかったと思う。



「これで、私も安心して卒業することができますね」

「お別れみたいなことを言われると、少し寂しいです……」

「ありがとう。でも、私は海鳴大学に進学しますから、本格的なお別れはもう少し先になり

そうですけど」

「それを聞いて安心しました」

「ローウェルさんは、海鳴大学を?」

「そのつもりです。私、この街が好きですから」



 他にも好条件を出してくれる、世間的にはもっといい大学はいくらでもあるが、この街を

離れなければならない、という最大の悪条件の前には全てが霞んでしまう。生まれた土地は

異国でも、アリサ=ローウェルの故郷は海鳴であり、気が早い話だろ思うが、死ぬ場所もこ

こだと決めているのだ。それに気の合う友達に尊敬できる先輩等、魅力的な人達までいたら、

アリサにはもう、海鳴を離れるなんて選択肢は存在しなかった。



「大学で、貴女が来るのをまってますよ」

「その時は、一緒にキャンパスを歩いてくださいね」

「なら、私も女を磨かないといけませんね。その時にはきっと、貴女は素敵な女性になって

いるのでしょうから」

「何を言ってるんですか……」



 憧れの女性に褒めてもらえるのは嬉しいが、そう卑下をされてもファンとしては困る。



「神咲先輩は、今でも十二分に素敵な女性ですよ。私が言うのも差し出がましいかもしれま

せんが、その……もう少し、自信を持ってください」

「そう言ってもらえるのは嬉しいのですけどね……ほら、私は貴女や姫姉さんのように、華

がありませんから」



 そういって苦笑を浮かべることは、神咲葉弓という女性にとってもはや癖のようなもので

ある。そんなことはないと、根っからのファンであるアリサは思うのだが、自分はともかく

相手があの『神咲の姫』神咲十六夜であれば、それも仕方のないことかな、とも思うのだ。



 葉弓と同学年だが、両親のどちらかに異国の血が混じっているらしく、背が高くて……ア

リサにとってはこれが一番許せないことであえるのだが、とても胸がある。金色の髪も青い

瞳もとにかく人を魅了してやまず、また本人に自分の容姿を誇るようなことがないころから

男女を問わず絶大な人気を誇っている。



 確かに、華のある女性だと思う。美男美女の何かと多い風芽丘でも、トップクラスである

と言ってもいい。しかし、彼女を引き合いに出して自分に華がないと結論付けるのは、さす

がにあんまりだと思う。



「神咲先輩は……」

「まぁ、こんなことを言っても始まらないのですけどね。好きな男性でもできたら、私も何

か変わるのかしら。アリサさんは、どうですか?」

「…………え?」

「え? ではなくて、好きな男性です。お付き合いをしている、という話は聞きませんけれ

ど、好きな男性の一人くらいはいますよね?」

「え、えーと、いないこともないですけど……そうだっ! 神咲先輩はどうなんですか? 

好きな男性とかいないんですか?」



 まずい方向に話が進んできたことを解して、アリサは強引に話の方向を変える。自分に噂

がないのと同じように、葉弓にもまた男性との浮いた話は存在しない。それに、葉弓ほど奥

手そうな女性なら、こういう話を振られては沈黙せざるを得ないだろう……そんな読みがあ

ったのだが――



「いますよ。好きな、とはちょっと違って憧れみたいなものですけどね。その人のことを考

えると、心の中が暖かくなるような人が」



 読みは、完全に外れた。その表情はまるで恋する乙女だ。その相手に興味がないではない

アリサだったが、目下の問題は自分のことだ。このままではヤバい。



「それで、アリサさんにはいないんですか?」

「いえ、その……」

「私はいる、と言ったのですから、言わないというのはずるいですよね?」



 にこ〜、と葉弓は微笑む。優しそうな微笑であるが、いません、と嘘をつくことを許さな

いような強制力がそこにはあった。救いがあるとすれば、この部屋には葉弓と二人だけだっ

たということだろうか。この年代、程度の差こそあれゴシップ好きなことに変わりはない。

しかも海鳴の有名人の筆頭『天才』アリサ=ローウェルのゴシップであれば、一も二もなく

食いついてくるに違いない。



「それで、好きな男性とか、いないのですか?」



 葉弓は、諦めてくれそうにない。腹をくくるしかない……諸々の事情がって、あまり話し

たいことではなかったが、ここで強情を張って彼女の機嫌を損ねてしまうのも本意ではない。

観念してアリサが口を開こうとした、その時である。



「失礼するぞ。いるか? 神咲」



 妙に軽い声と共に、その男性は生徒会室に入ってきた。



「今日の歓迎会の話だけどな、買出しをして帰ってきてくれとのことだ」

「あら、姫姉さんはどうしました? 朝の予定では姫姉さんが買出しをする予定だったと思

ったのですけれど……」

「さっき連絡があった。愛しの彼のことを考えてたら、買出しを忘れたらしい。まだ誰か学

校にいるようだったら、すまないが買出しを頼むと連絡があったのさ」

「それはいけませんね……では、私が参りましょうか。薫ちゃんや楓ちゃんは、まだいます

かしら」

「剣道部室にいるらしいな。話は通しておいたから、回収して買出しに向かってくれ――と、

取り込み中だったか?」



 そこまで言って初めて、その男性はアリサのことに気づいた。真正面から彼に見つめられ、

頭の中が真っ白になる。何故、今まさに頭の中に思い浮かべていた彼がここにいるのか……

まったくの偶然なのだろうが、心の底から嬉しいと思うと同時に、馬鹿みたいに心が乱れる。



「ローウェルだよな? 久しぶりだ。海中の生徒会長がここにいるってことは、来期の勧誘

かな? 生徒会にローウェルが勧誘できるなら、来期も磐石か。安心して卒業できるな、神

咲」

「まだ色よい返事はいただいてはいませんけどね。でも、私は来期をお任せするつもりでい

ますよ? 一年から生徒会長を任せるわけには参りませんけど、槙原先生が安心、と仰って

くださるなら私も安心です」



 笑いながら槙原先生――耕介の言葉に応え、葉弓はアリサの方を見ると……耕介にはばれ

ないようにウィンクをして見せた。明らかに何かを意図したその仕草に、アリサの体に電流

が走る。



(――――バレ、てる?)



 そうなのだとしたら、大事だ。自分では細心の注意をして隠しているつもりで、直接そう

なのだ、と話したのは親友の二人しかないのに、何故彼女にはバレているのか……もしかし

て、隠せていると思っているだけで、それはもはや周知の事実なのだろうか。



「あの、神咲先輩?」

「ともあれ、お仕事はご苦労様でした、アリサさん。お聞きのとおり私はこれから用事が入

ってしまいましたので、今日はこれでお開きということにいたしましょう。槙原先生、すい

ませんが、アリサさんを送っていただけませんか?」



 その申し出の意味するところに、呼吸が本当に止まる。目が合っただけでいつもこれなの

に、並んで歩くとなったら、いよいよまずい。



「送るのは全然構わないけどな、ローウェルは寮に住んでるんじゃなかったか?」



 自分のことを知ってくれている、というのは嬉しい話だが、アリサ=ローウェルの寮住ま

いは、悪いが海中風芽丘では有名な話だ。寮は学園から目と鼻の先である。普段であれば送

ってもらうような理由はないのだが……



「あの、今日はちょっと、友達と約束があって、駅までいかないといけないんです……」

「そうなのか? じゃあ、駅まで送ろうか。最近は何かと物騒だからな。女の子の一人歩き

は危ないだろう」

「バイクの後部座席に乗せてあげてはいかがです?」

「それじゃあ流石に角が立つだろ? 大した距離じゃあないし、歩いていくよ。ローウェル

はそれで構わないか?」



 構うも何もない。彼に関することは、アリサにとって全てに優先すると言ってもいい。返

事をしようと口を開くが――とっさのことで、声がでない。仕方なく首を立てに振ることで

肯定の意を返すが、その仕草がおかしかったのか、耕介は微笑を浮かべた。恥ずかしくて、

死にそうだ。



「じゃあ、俺も今日はこれであがりだから、駅まで送っていこう。買出しは任せたぞ、神咲」

「承りました。それではアリサさん、ごきげんよう」



 微笑ながら、葉弓はひらひらと手を振る。せっかくの機会を作ってくれた彼女には、感謝

してもし足りないが、どこまで感づいているのか分からない以上、手放しで喜ぶ訳にもいか

ない。言いふらすような人ではないと理解しているが、今まで秘密にしていたものを知られ

ているというのは、不安だ。



 今からでも断った方がいいのだろうか……不安と共に耕介を見上げるが、



「どうした? ローウェル」



 その顔を見たら、そんなことはどうでもよくなってしまった。やはり、素直に感謝するこ

とにしよう。



「いえ、なんでも。神咲先輩、今日はありがとうございました」

「お礼を言われるほどのことではありませんよ。私にできるのは、機会を差し上げるくらい

ですから。そこから先は、貴女の腕しだいです」

「これで、十分です。それではごきげんよう、神咲先輩」



 なるべく優雅に見えるように一礼して、遅れないように耕介の隣に並ぶ。彼女がくれたせ

っかくの機会だ。せめて有効に使ってやるのが『天才』の務めだと、心の中で念仏のように

繰り返してみるが、やはり緊張は消えてくれない。



(あぁ、もう……やっぱり恨みます、神咲先輩)



 じと〜、と振り返って軽く葉弓を睨んでみると、彼女は相変わらずにこにこ微笑っていた。

純粋に自分を思って機会を作ってくれたのだ……と思うが、他に何か目的がないか、と言わ

れると、ないとも言えない。人間のできた人であることは間違いないが、彼女はあの曲者揃

いの神咲の一人であり、やはり曲者揃いの風芽丘の生徒を束ねる生徒会長なのだ。そう思う

と、あの笑顔の下に何かを隠しているような気がしてならない。



「どうかしたか、ローウェル」



 耕介が、廊下から振り返ってこちらを見つめている。考え事をしていたら、いつの間にか

足を止めていたらしい。



「俺は無駄に体がでかいからな。歩くのが早かったら、遠慮なく言ってくれ」



 首をぶんぶん振って、慌てて耕介の隣に並ぶ。足を止めて考えごとをするなんて、いつも

の自分ではありえない。そういうとっぽいキャラは久遠の担当だ。



「あの、槙原先生?」



 だからなるべく自分を忘れずに、理知的なキャラを押し出そうと思う。なるべく落ち着い

て優雅に、心の中は嵐でもおくびにも出さず。本当はもっと話をしたいのだけれど、今はそ

の時ではないからと、自分に呪文のように言い聞かせてようやく、アリサの心は落ち着いた。



「どうした? 何か忘れ物か?」



 首を傾げる耕介の目を、じっ、と見つめる。



「……いいえ。今日はその……送ってくれて、ありがとうございます」



 ちゃんと喋ることができた……成功だ。



「まだ校舎を出てもいないぞ? 礼を言うなら、無事に送り届けてからにしてくれ」



 当たり前と言えば当たり前のアリサの言葉に、耕介は苦笑を浮かべて歩みを再開させた。

その大きな背中を見つめながら、その三歩くらい後ろを少し小走りでついていく。



(……もしかして、奥さんみたい?)







 馬鹿みたいな妄想だ、とは思うけれど、それだけで今日この日は幸せになれるような、そ

んな気がした。