(疲れた……)




 神咲邸での出来事は、その一言に尽きた。来るはずのなかった実の母、九重夏織が、どう

やって予定を詰めたのか知らないが、帰ってきたのだ。それも一人で、である。一緒に出か

けたはずの神咲一族の年配組はどこへやら、彼女は帰ってくるなり手近にいた和真を殴り飛

ばし、薫に酌をさせると浴びるように酒を飲み始めた。普段ならそこから地獄が始まったの

だろうが……この日は珍しく恭也に運が向いていた。『あの』九重夏織に隙ができたのだ。



 それは、宝くじの一等を二つ纏めて引き当てるくらいの稀有なことだったが、一晩にして


二人の神咲姓の恋人を持った相川真一郎や、久しぶりにあった彼女の弟子、槙原耕介がいた

ことが大きかったのだろう。彼女の注意は彼らに向き、恭也の方には毛ほどの注意も払って

いなかった。



 逃げよう……そう思ったところで、一体、取り残されることになる人間ども以外の誰が、

彼を責められるだろうか。恭也はコンマ数秒で決断を下すと、神の如き速度で脱出、帰途に

ついた。気づいた実母に追い立てられることも覚悟していたが、気味が悪いくらい何もなく、

家に着くことに成功する。おそらく今晩は、人生で最も運の向く日だったのだろう。それく

らいを思うに留めて、今日はもう温かいものでも飲んで寝ることに決めた。



 幸いにも明日は休日だったが、既に日の境は跨いでいる。翠屋のマスターである母、桃子

はもう床に着いている時間だが、普段なら夜更かしをしているはずの本の虫、美由希の部屋

の電気すら、今日は消えていた。稀有なことは重なるものだ。



「寝ているのなら、仕方がないか……」



 起きていたら、二言三言交わすくらいはしても良かったのだが、寝ているのならば仕方が

ない。女性には最大限の敬意を払うべし、というのが死んだ父親の口癖にして、十数年も女

性だらけの環境で育ってきた恭也の、たどり着いた真理だ。誰にも言ったことはないが、誰

からも文句が出ていない所を見ると、上手く実行できているのだろう。愚鈍、朴念仁と良く

言われるのは、きっと何かの間違いなのだ。






 音を立てないように玄関を開け、灯の落ちた居間に通り過ぎ、キッチンへ。電気をつける

ようなことはしない。昔、深夜の森の中に放置されるという、修行という名の虐待を通り過

ぎた恭也に、この程度の闇は闇に入らない……入らないはずだったのだが、人生最大の幸運

を引いたことに慢心していたのか、床に転がるそれのことは、思い切り踏みつけるまで、気

づくことができなかった。



「むぎゅっ!!」






 足の下の柔らかい感触と共に、恭也の体を悪寒が走り抜ける。強盗か何かであれ、と一瞬


本気で願ったが、残念ながら先の悲鳴とも呻きともつかない声には、聞き覚えがあった。



「おーにーいーちゃーん……」



 足の下から聞こえて来たのは、下の妹の声だった。すまん、と短く謝ってから足をどける

と、下の妹――なのはは、パジャマの埃を叩いて、



「ん、おかえりなさい、おにいちゃん」

「それだけか、妹よ。こんな場所で何をしていた」

「お兄ちゃんを待ってようと思ってたんだけど……眠くなっちゃって……」

「だからと言って電気を消した台所の、しかも床で寝ることはなかろう……お前ももう中学

生なのだからな、もう少し慎みを持った行動をしてくれると、兄としてもありがたいのだが」

「前向きに考えます……」

「ふむ……で、俺を待っていたとのことだったが?」

「そうなの。だって、お兄ちゃんが帰ってきた時に、誰も起きてないと悲しいでしょ?」

「俺はそこまで子供ではないつもりだが……」

「もう、嬉しい時は嬉しいって言うの。お兄ちゃんは、なのはが待ってても嬉しくないんで

すか?」



 腰に手をあて頬を膨らませ、ずいっと顔を寄せてくる。昔、父に迫る時の母がこんな仕草

をしていたな、と思い出す。その時はまだ妹は生まれていなかったが……



(血は争えんな……)



「あ、何を笑ってるんですか?」

「いや、かわいい妹に待っていてもらえて、兄として嬉しいと思っていたところだ」

「…………そ、そう思うのだったら、ちょっとあっちに座ってくださいお兄ちゃん」

「座れと言うならそれも吝かではないが……何をするつもりだ?」

「お兄ちゃんは疲れてるでしょうから、なのはが疲れの取れるお茶を入れます。もう用意は

してありますから、黙ってそこに座っててください」

「いや、俺はさっさと寝ようかと――」

「す、わ、って、く、だ、さ、い」



 両手を挙げて、降参のポーズ。こうなってしまっては、恭也に勝つ術はない。黙ってなの

はの示すあっち――居間のソファに座り、疲れの取れるお茶とやらを待つ。



「お待たせしましたー。お茶請けは虫歯になるからありませんけど、おいしいお茶ですよ」



 それからしばらくして、盆にティーセットを乗せて現れたなのはは、何が嬉しいのか、不

気味なくらいにこにこしていた。



「……俺の買っておいた最中があったはずなのだが」

「お茶請けは、ありませーん」

「歯ぐらいは磨くぞ。それでも駄目か?」

「お兄ちゃん、女の子に夜中に食べ物を進めるのは、とても悪いことなのです」

「そうなのか?」

「そうなの」



 にこにこ、その笑顔の奥に殺気が見えた気がした。最中を進めた覚えは無い、などと言っ

たらおそらく機嫌を損ねられる、と男としての勘が珍しく訴えている。理由までは分からな

いが、ここは引いたほうが無難だ、と結論付け、



「……では、そのお勧めのお茶を入れてもらおうか。いまいち釈然としないが」

「わかりました。おいしいお茶をいれます。釈然としないことなんてありませんけど」



 女は根に持つ生き物だ、と恭也は再認識した。



「……ハーブか?」

「さざなみの寮長さんから分けてもらいました。独自のブレンドらしいのです」

「寮長の『独自』のブレンドということに、一抹の不安を覚えなくもないが……味見はした

のか?」



 風芽丘、海中の総合女子寮『さざなみ』の寮長、槙原愛の料理オンチは有名だ。食する機

会に恵まれたことは幸福にもなかったが、その機会に誰よりも恵まれているだろう、寮生の

リスティ曰く、『人間の食べ物じゃないよ……』らしい。市販の材料から致死毒物を合成す

るくらいのレベル、というのが学生達の常識なのだ。彼女からのもらい物とあっては、胃袋

の強靭さにいささかの自信がある恭也といえども、さすがに腰が引ける。彼女が合成したも

のだったら、妹の進めでも力の限り逃げるつもりでいたのだが、



「貰ったのは乾燥したハーブそのものなので、お兄ちゃんは何も心配しなくてだいじょうぶ

なのです」

「ハーブそのものが毒草というオチはないな? ちゃんと美由希に味見はさせたか?」

「素敵なもらい物だから、お兄ちゃんに始めて飲んでもらうのです」



 毒見をせよ、と妹君は仰せだ。じ、とその目を正面から見返してみるが、笑顔から放たれ

るプレッシャーは揺るぎもしない。自分の視線を真正面から受け止められる、その胆力には

感心するが、使われる方向性が間違っていると思う。



(育てる方向を間違ったか……)



 昔から何かと自分について回る娘だった。メガネの妹同様、見るからに鈍くさそうな外見

から、剣を持たせるようなことはなかったが、それでも、剣を持ち戦い、実の母に蹴り倒さ

れる兄の姿を見せるのは、少女の情操教育にはよろしくなかったのかもしれない。



「さあさ、お兄ちゃん。おいしいお茶をどうぞ、なの」



 シリーズ、教育とは何かを脳内展開させる時間もなかった。目の前に突き出される、湯気

の立つマグカップ。何の模様もない黒一色のそれは、どうみても自分のものだった。ちなみ

に、ひらがなで大きく『な』と書いてある妹専用のマグカップは、まだ空である。



 覚悟を決めるしかない。



 恭也は大きく息を吸い込み、カップの中の液体を口の中に流し込み……



「…………ふむ?」

「どうですか? お兄ちゃん」

「いや、悪くはないな。正直どんなものを飲まされるのかと思っていたから、安心した」



 鼻に抜ける香りも強くは無く、味そのものにも癖は無い。好みかと言われるとそれはまた

別の話だが、緑茶を好む恭也にとってもたまに飲む分には十分にいける味だった。



「そうですか、それじゃあ私もいただきます」

「俺を毒見役に使ったんだ。ゆっくりと味わって飲め」

「そ、そういう意地悪な言い方するお兄ちゃん、きらいです」

「俺も、俺を毒見に使うようような妹はあまり好きではないな……」

「えぅ……」



 なのはの背後に、がーん、というでかい文字が見えた気がした。もちろん、冗談で言った

つもりだったのだが、そこまで落ち込まれてしまうと、冗談でした、とも言いにくい。何か

場を和ませるための話題でもないか、と恭也は考え、



「この前、お前に貸してもらった本を読んだが、なかなか面白かったぞ」

「……本、って?」

「桜の枯れない島を舞台にした話だ、タイトルは忘れてしまったが……」

「ダ・カーポ?」

「それだ。ただ、主人公の手から和菓子を出す能力の存在意義がいまいち理解できなかった

が……」

「そっか、面白かったんだ……」



 とってつけたような話題転換だったが、効果はあったらしい。暗く沈んでいたなのはの顔

にも、いくらか明るさが戻り始める。



「ねぇ、ヒロインの女の子はどう思った?」

「誰のことを言っているんだ? 何人かいたと思うが」

「その……音夢ちゃんのことなんだけど」

「あぁ、随分と特殊な名前をしていたからな、覚えているぞ。桜の花びらを吐き出す度に、

記憶が失われていくのが、随分と印象的だったな」

「……………………それだけ?」

「それだけなのだが…………不満か?」

「不満って訳じゃないけど……」



 ないけどと言うが、顔は不満そのものだ。何かまずいことを言った……それだけは恭也に

も理解できたが、それ以上のこととなると皆目見当がつかない。もちろん、何を言うべきな

のかも分からない。



「私、もう寝るね……おやすみ、お兄ちゃん」



 そうこうしているうちに、なのはは不満そうな顔のまま、部屋を出て行ってしまった。残

された恭也は、去った妹が手ずから入れてくれたハーブティーを前に、ぽつり、と呟く。





「俺に、どうしろというんだ……」





































(あぁん、もうっ!! お兄ちゃんのばかっ!!)



 自分の部屋に戻るや否や、クッションを思い切り壁に向かってほうり投げ、ベッドにダイ

ブ。枕を抱えてごろごろ転がるが、胸のうちに抱えたイライラは、おさまるどころかますま

す燃え上がってしまう。



 まったくもって、兄の鈍感さは核兵器級だった。自分の持ってる小説の中から、態々それ

っぽい内容のもの――具体的には、妹的立場の少女が、兄に恋をする話だ――をチョイスし

て何度も渡しているというのに、何の反応も返しはしない。そりゃあ、いきなり目の色を変

えた兄に襲われでもしたら、なのは的にはオールオッケーだとしても、世間的には大問題な

のだが、それにしたって小さじいっぱいくらいは意識してくれてもいいのに、とは思う。



(私ってば、魅力ないのかなぁ……)



 姉や姉貴分、母など、何故か家族には胸の大きな知り合いが多い。なのはだってその母の

血を引いているのだから、将来性は十分だと自分では思っているのだが、現時点で、大きさ

という点ではイマイチ男性を満足させることができないだろうことは、認めたくはないが自

覚せざるをえない。救いがあるとすれば、兄にちょっかいをかけてくる女性が基本的にあま

り胸の豊かでない女性ばかりなことだが、それだっていつまでも続くとは限らない。将来性

なんて悠長なことを言っている暇は、恋する乙女、高町なのはにはないのだ。



「うん。そうと決まれば、次の手を考えなくちゃ」



 本を貸して遠まわしにアピールするのは、今回の件であまり効果がないことが分かった。

相手である兄の鈍感度が宇宙災害級であることを考えると、裸で抱きついても甘いかもしれ

ない。妹の立場でありながら、兄の中で一番大事な女性というポジジョンにおさまるにはど

うしたらいいのか……妹であり、恋する乙女であるなのはは、兄に恋をするようになってか

らかれこれ十年以上の時間、そんなことばかり考えている。



 それが、世間的に異常な感情であるということは分かっていた。友達はブラコン、などと

呼ぶが、そんな範疇におさまるものではないことも、だ。それでも、自分が兄のことを好き

なことは変わらない。





 だから、高町なのはは、今日も兄を振り向かせる方法を考え続ける。













 いつか本当に、自分が兄の隣に立てる、その日を信じて……