唐突ではあるが高町恭也は今、重大な問題に直面していた。それは叔母である美沙斗と
の一騎討ちや、月村邸での自動人形との戦闘。それら、普通の人間なら命がいくつあって
も足りないような一年を何とか乗り切ってきた実力を持ってしても、簡単には乗り越えら
れない壁だった。

 それに対して何も考えていなかった訳ではない。ただ、ここのところ命に関わるような
出来事が多かったせいで失念していただけだ。いや、そう思いたかっただけで本当は、無
意識のうちに忘れたかっただけなのかもしれない。それほどまでにそれは、高町恭也とい
う青年にとって直面したくない問題であった。テーブルの上に無造作に放った紙片を取り
上げ、胡乱な顔で見つめる。


『進路希望調査』――紙片にはどことなく存在感のある文字で、そう記されていた。











『進路相談?』












1、


「なるほどねぇ。何も考えてないんじゃないかとは思ってたけど、まさか本当に何も考え
てなかったなんて……」
「申し訳ない……」

 客足の引いた翠屋でアイス宇治茶大盛りを飲みながら、こういうことに関しては家族の
中で一番頼りになりそうな桃子を前に、自らの恥部を露呈しなければならない不運を呪い
つつ、例の紙片を前に話を進める。

「私は、恭也はずっと士郎さんと同じ道を歩くもんだとばっかり思ってたんだけどね」
「幼心には俺も何となくそう思ってた。だが、最近になってようやく思い至ってな。そん
な安易でいいのか……と」
「ふ〜ん……で、この桃子さんに恥を忍んで教えを請いに来たって訳ね」
「そういう訳だ。だから、何か参考になるアドバイスを頂きたいのだが」
「参考になるアドバイスねぇ……」

 紙片を取り上げ、それを睨みながら桃子は言葉を探す。

「私は悩まなかったわ。お菓子作りは最初から好きだったし、学生の時もパティシエにな
るんだって心に決めてたから。留学するって両親に言った時には、そりゃあ一悶着あった
けど、それでも最後には折れてくれたし。苦労したことはあったけど、少しも後悔はして
ないからね。そのおかげで士郎さんとか、あんたにも出会えたんだから」
「……凄かったんだな、か〜さん」
「今頃気付いたの? 桃子さんは偉大なのよ。でも、私の話じゃあんまり参考にならない
でしょ?」
「わざわざこんな時間に話に乗ってくれたか〜さんには悪いが、そうだな」

 そもそも進むべき道の見えない恭也にとって、最初から進路の定まっていたらしい桃子
の話はあまり参考にならない。この次にはフィアッセやアイリーンを捕まえて話を聞こうと
も思っていたのだが、この分だと似たような反応が返ってきそうだ。簡単に道が見つかると
も思っていなかったが、幸先が悪いことこの上ない。

「那美ちゃんが住んでる寮の管理人さん……確か、槙原さんって言ったかしら?」

 苦悩する息子を見かねてか、苦笑しながら桃子が口を開く。

「男だてらに女子寮の管理人なんてやってるんだから、とっても参考になる話が聞けると
思うんだけど」
「そうだろうが……しかし、いきなり押しかけてそういうことを尋ねるというのもどうか
と思うのだが」

 件の槙原耕介は、恭也にとっては数少ない男の知り合いであるが、那美やリスティの住
んでいる寮の管理人であるというだけで、特別個人的に親しい訳ではないのだ。自分のこ
とは可能な限り自分で、というスタンスを取る恭也にとって、青臭い悩みをこれ以上他人
に広めるというのは、できることなら避けたい事態であった。

「あのね……恥ずかしがってる余裕なんてあるの?」

 内心で尻込みしているのを見て取ったのか、桃子は呆れ顔をしながらため息をつく。

「普段人に頼らない恭也が、母親とは言えこの桃子さんにまで話を持ってきたんだから、
それだけ切羽詰ってるってことでしょ? このまま放っておいたらきっと一生高校生のま
まよ。それでもいいの?」
「いいはずがなかろう……」

 経歴とかにこだわるつもりはないが、もはやほとんど寝ているだけのような場所に長々
と居座るつもりはない。どんな道を選ぶにしても、赤星達と共に卒業だけはするつもりだ。

「……そうだな。では、槙原さんの所に行ってみることにする。か〜さん、さざなみ寮の
番号、分かるか?」
「お得意さんだからね、分かるわよ。槙原さんには私の方から連絡しておくから、あんた
はもう行きなさい」
「やけに積極的なのだな。俺はそんなに頼りないか?」
「当たり前でしょ。私は母親で、あんたは息子なの。何歳になっても、親にとって息子は
手のかかるものなのよ」
「成長は……してるつもりなのだがな」
「そんなことしなくてもいいから、今度からはもっと桃子さん達に頼るようになさい」
「肝に銘じておこう」

 テーブルの上に自分の分の代金を置き、さっさと背中を向ける。後ろから呼び止める声
が聞こえるが、無視。頼れと言われたばかりのような気はするが、恭也にだって少ないな
がらもプライドがある。こういう時くらい、格好付けてもよかろう。

 『ありがとうございました』というバイトの声に頷き返し、翠屋を出る。真夏の容赦の
ない日差し――ありがたい夏休みも、もう半ばを過ぎていた。








2、


「進路希望ねぇ。また懐かしい話を持ってきてくれたもんだけど……」

 場所は変わってさざなみ寮。寮生は出払っているのかやけに静かなそこで、大柄な男性
――現さざなみ寮管理人、槙原耕介は予想の通り苦笑してくれた。

「でも、随分と悩んでるみたいだね。普通はもっと早くに提出するものなんだろう?」
「俺はまだ粘れると思っていたのですが、夏休みに入る前に担任に脅されました。始業式
の日に提出しなければ、特別に三者面談をする、と」
「まあ、さすがにこんなことで親御さんは呼べないよなぁ」

 苦笑を維持したまま耕介はプリントに一通り目を通し、それをテーブルの上に放ると、
ソファに深く座りなおした。

「俺の経験談ね……出鼻を挫くようで悪いけど、俺は特に悩んだ覚えがないよ」
「そう……なんですか?」

 高校時代は地元でも有名な悪として通り、卒業後は一転して実家の洋食屋でコック。そ
れからしばらくして女子寮の管理人に就任し、現在に至っている。いつか誰かに聞いたこ
の経歴だけでも、耕介は十二分に稀有な存在である。そんな人生を悩まずに歩み、ここま
での環境に身を置いているのなら、彼は相当に強力な星の下に生まれていることになる。

「いや、恭也君のように真面目にはってことだよ。これでいいのかな? くらいには何時
だって考えてたさ。高校の時はもちろん、こっちに来てからもね」

 『幽霊でも見たような顔してたよ』と、耕介は笑いながら空になった恭也のカップに麦
茶を注ぎ足す。

「俺の場合は、他に選択肢を思いつかなかっただけだよ。色々あって、何かしようと思っ
た時にはもう料理の勉強を始めてたんだ。それまでは寄り付きもしなかったのにね。今に
して思うと、不思議なものだよ」
「ですが、俺と同じ時期に勉強を始めてその腕前なら、大したものです」
「なに、ちょっとばかり死に物狂いだっただけさ」

 耕介はちょっとした冗談のように言ってのけるが、その死に物狂いという言葉がどれだ
け重いか、恭也には痛いほど理解できた。

 ずっと進路を定めていた桃子に対し、耕介が料理の世界に足を踏み入れたのは高校も三
年の頃と比較的に遅い。それにも関わらず、耕介の腕前は――パティシエというデザート
面のアドバンテージは譲るにしても――桃子のそれに匹敵している。

 だが、桃子と耕介では料理に対する姿勢が違う。桃子の技術は時間をかけて積み重ねて
たものだが、耕介のそれは掴み取ったものだ。無論、そこには並々ならぬ努力があったの
だろうが、それも先程の死に物狂いという言葉に代表されるような覚悟があってこそであ
る。

「恭也君は大学に行くことも考えてるんだろう? 勉強とかは大丈夫?」
「それはまあ……何とか。欠席や遅刻もありませんし、信じられないことに内申はいいみ
たいですから、もう少し努力をすれば海鳴大学は狙えるのでは、と言われています」
「大学では、何を?」
「スポーツ関係の学部を考えています」
「実益を兼ねてる訳だね……ふむ、いいんじゃないかな? 俺は大学に行くことを勧める
よ。仕事に就こうとすることは何時でもできるけど、大学にはそう簡単に行けるものじゃ
ないからね。ちゃんとした目的もあるみたいだし」
「目的は……あるのですが……」
「それに乗ってもいいのかってことだろう?」

 苦笑する耕介に、恭也は申し訳なさそうに頷いた。どうやら自分で思っていたよりもず
っと宙ぶらりんだったらしい。真面目に相談に乗ってもらったのにこれでは、何時まで経
っても進路など決まるはずもない。

(いっそのこと、留年でもするべきか……)

 いよいよ進退窮まった恭也は、考えうる範囲の中でおよそ最悪に分類される答えを、半
ば 本気で選びかけていた。その内心を悟ったのか、『そう言えばさ』と耕介が口を開く。

「うちの寮にも進路のことで随分と悩んでた連中がいたよ。恭也君みたいにちょっとした
特殊な技能を持った連中でね」
「ひょっとして、フィリス先生やリスティさんのことですか?」
「何だ、フィリス達から話は聞いてたのかい?」
「それほど詳しいことを知っている訳ではありませんけどね」

 高機能変異性遺伝子障害病――先天的な病気で、それを患っている人間は念動、精神感
応など超常的な力を有している。自身が御神の剣士という常識の外の力を有しているとい
うこと、そして高町家にもフィアッセという前例がいたことから、恭也はフィリス達がそ
うであるという事実をすんなりと受け入れることができたが、これが一般的なレベルにな
るとそうはいかないだろう。時に向けられる奇異の目の中で進路を模索するのは、決して
簡単なことではなかったはずだ。

「リスティはあんな性格だから、警察関係……悪い連中を取り締まる側に回ったよ。優し
くて穏やかだったフィリスは、人を救う医者。セルフィは――ああ、フィリスの双子の妹
なんだけどさ、そいつはアメリカに行って災害救助の活動をしてるんだ」
「皆さん、命を守る仕事をなさってるんですね」
「それが自分達の力を一番生かせる仕事だって、あいつらは結論したみたいだよ。もちろ
ん、あいつらだって即決した訳じゃない。随分悩んでたみたいだし、俺や愛さんも何度か
相談に乗ったよ。仕事に就いてからも何度か悩んでたみたいだけど、今はあの通りさ。結
構うまく行ってるみたいだから、俺としては嬉しい限りだね」
「フィリス先生達に比べれば、俺は随分と贅沢な悩みを持っているみたいですね……」
「そうでもないさ。何も考えてなかったような俺に比べれば、十分に立派だよ」

 耕介の視線から逃れるように、恭也は麦茶を一気に呷った。相談に乗ってくれた耕介に
は悪いが、自分の行く先が余計に不明瞭になったと思える。

「海鳴駅、十七時三十分着」
「……なんですか? それは」
「俺から、悩める青年へのプレゼントだよ。そこに何があるかまだ秘密だけど、それが恭
也君にとって助けになることは俺が保障しよう」

 いきなりな発言。一瞬、新手の冗談かと思ったが(冗談を言うような状況ではないのだ
が、ここは『さざなみ寮』であるだけに、油断はできない)、耕介の目の中にはからかう
ような色は浮かんでいない。

「要するに、俺はその時間にそこに行けばいいのですか?」
「そうだよ。行けば何をすればいいのかが分かる。あいつは俺と違って、頼もしいからね」
「耕介さんが頼りないなんてことはありませんよ。話を聞いてくれて、大分楽になりまし
た」
「ありがとう。その言葉だけで十分だよ」

 短く言葉を交わし、立ち上がる。腰に下げたクリップ時計は、四時を過ぎたことを知ら
せている。駅までの距離を考えると、それほどのんびりできる時間でもない。

「それでは、俺はもう行きます。今日はありがとうございました」
「道中、気をつけてね」

 その言葉に一礼し、恭也は耕介に背を向けた。その時、ひらひらと手を振っていた耕介
が笑みを――ついさっきまで相談にのってもらい、今まで世話になったことを加味して、
控えめに言ったとしても、さざなみ寮の最年長であるあの女性のような笑みを浮かべてい
たのだが、耕介に背を向けていた恭也はそれに気付くことなく、さざなみ寮を後にした。















3、

 夏休みも半ばを過ぎたというのに、巷を歩く学生達の瞳には残り少ない夏休みを謳歌し
ようという活気が溢れていた。今日は何をしてきた、明日は何をしようか、並んで歩く友
人と語り合うその姿は、まるで子供のようだ。

(俺にもあんな時期が……なかったろうな)

 そもそも、目を輝かせている自分というのが想像もつかない。実際、恭也の少年時代は
剣ばかりであったから、そういう子供らしいことをした記憶は何一つなかった。同じよう
な境遇である美由希は、幾分女の子らしいことにも手を出していたようだが、恭也の手を
出したものと言えば盆栽に釣り……趣味に優劣などあるはずもないが、少なくとも子供ら
しくはない。

 生気の満ち溢れる学生達を視界の隅に追い出し、駅前に視線を向ける。さざなみ寮から
真っ直ぐここまで着たが、途中で思いのほか時間を食ってしまったために、時計は既に十
七時半を回っていた。

(入れ違いになってしまったか?)

 そもそもここに誰がどんな目的でいるのかということを、恭也は知らないのだ。耕介の
ことだから自分の特徴くらいは伝えてくれているのだろうが、世話になっているのはこち
らであるし、できることならこちらからその『相手』を見つけたい。

 ここに来れば分かるとのことだったが、今のところそれらしい人間は見当たらなかった。
耕介の知り合いということは、取りも直さずさざなみ寮の関係者であるということ。今ま
で出会ってきた住人は方向性は違うものの、個を印象付けるには十分な存在感を持ってい
ただけに、見過ごすことがあるとは思えない。

「……ひょっとして、予定が変わったのか?」

 電車という公的機関を利用しているとは言え、ありえない話ではない。その相手の到着
時間が遅れたのなら耕介から連絡が入ってもよさそうなものだが、おそらく耕介は自分の
携帯の番号を知らないだろう。連絡をするにしても、恭也の番号を知っている人間――さ
ざなみ寮の寮員ならば那美辺り――を経由してということになる。それにしても、遅れる
と確定するのはもっとずっと前のことだろうから、今この時点で連絡がないのはやはりお
かしい。

 結論として入れ違いか、そうでなければ近くにいるのに見つけられないということにな
る。時間を勘違いしているのではないかと、恭也はもう一度時計と睨めっこをしてから顔
を上げ――身体を硬直させた。

「貴方が、お兄ちゃんの代わりに私を迎えに来た人?」

 その声は、恭也の背後から聞こえた。たった今まで背後に誰もいなかったのは、御神の
感性に賭けて間違いはない。そこに、声の主は『いきなり』出現したのだ。

 御神の剣士の感覚を素通りする――そんなことが常人にできるはずもない。しかし、そ
んなことを出来る人間に、恭也は心当たりがあった。さざなみ寮でも話題に上っていた女
性達――御神とは異なる異能の力を持った彼女らは、HGSと呼ばれる。

 だが、リスティならばもっと大きなアクションをするだろうし、フィリスやフィアッセ
ならば、そもそもこんなことをしないだろう。気配は今まで感じたことのないものである
し、少なくとも会ったことのない女性のはずだ。

 ここまで思考して、恭也は頭の片隅に一つの名前を浮かべた。売れっ子漫画家にして凄
腕の剣士、仁村真雪女史の妹で、現在はさざなみ寮を離れている女性――

「仁村知佳さん……ですか?」
「そうだよ。そういう君は誰?」
「俺は、高町恭也といいます。耕介さんに言われて、ここに来ました」
「? 私を迎えに来たんじゃないの?」
「いえ、自分はここに行ってくれと言われただけです」
「そうなんだ……お兄ちゃんは、迎えの人を寄越すって電話で言ってたんだけど」
「……それならば、自分が向かえの人間ということになるのでしょう。ところで――」

 恭也は肩越しに振り返った。こちらを見返す青い瞳……その中には、溢れんばかりの好
奇心がある。

「とりあえず、場所を移しませんか? 後ろ前で会話しているのは、どうにも滑稽です」

 その好奇心に見覚えのあった恭也は、大きく嘆息した。この、見た目無害そうな目の前
の女性は、本当に『あの』仁村女史の妹であるらしかった。











4、

「お兄ちゃんが向かえの人を寄越すって言い出した時には何事かと思ったけど……」

 翠屋に火種を持ち込む訳にもいかず、さざなみ寮に取って帰るのも気が引けた二人(主
に恭也だが……)は場所を駅前から展望台へと移していた。観光地に近いこともあり、日
の高いうちにはそこそこ人が訪れたりもするのだが、日も沈んだ今となっては二人以外の
影はない。

「なるほど、そういうことだったんだね」
「お一人で納得されても困るのですが……何がどうなのですか?」
「お兄ちゃんの性格を考えれば分かることだよ。こういう風に気を回すなんて相変わらず
だもん」

 訳知り顔で一人頷く知佳に、恭也は怪訝な顔を返した。さざなみ寮の寮生に振り回され
るのはいつものことだが、この人もそうなのか……と、内心でため息を漏らす。仁村の血
統がそうさせるのか、知佳は恭也の内心を見抜いたかのように、どこか彼女の姉を連想さ
せる笑みを浮かべて、

「何か悩みがあるんでしょう? お姉さんに話してみて」
「はあ……」

 どうやら耕介の好意であるようだし、隠しておいてもしょうがないと、恭也は知佳の言
うところの『悩み』を包み隠さず話した。自分の生い立ちや御神のことなど、明らかに普
通ではないことを聞いても、知佳はそのこと自体には興味を示さず、一々頷いて最後まで
聞いてくれた。

「進学するか就職するか……就職するにしてもどういった道に進めばいいのか分からない、
と。そういうことだよね?」
「そうです。何かお知恵があれば拝借したいのですが……」
「そうだねぇ。私が恭也君の立場だったら悩まないかな。進学するよ」
「どうしてですか?」

 あれほど悩み、そして今も悩んでいる問にこの即決である。内心で舌を巻きながら恭也
が質問を返すと、知佳は微笑みとも苦笑ともつかない笑みを浮かべて、答えた。

「私が色々見てきたから……かな? 恭也君は、私の仕事のことお兄ちゃんとかから聞い
てたりする?」
「国際的な救助組織に勤めていると伺っています」
「そう。うちは対象が世界中だから、紛争地帯とかに行くこととかもあって……そこでは、
本当だったら小学校に行ってるような年の子供が、戦争で死んじゃったりするの。戦争と
かなくても食べものがなかったり、ちゃんと整備がされてれば防げるような災害で命を落
とす子供だっている……」

 夜空に浮かぶ月を見上げながら、知佳はすっと目を細めた。

「この力を人のために使いたくて、私はこの職業に就いた。そのことを後悔はしてないけ
ど、私がもっと色々なことができたらって、何度も思ったことがあるの。私がもっと勉強
していれば、助けられた子供がいたんじゃないかって」
「それは――」
「もちろん、高望みだってことは分かってるよ。でも、そう思っちゃうのは……仕方がな
いと思わない?」

 そしてもう一度、知佳は微笑みを浮かべた。

「ちょっと重い話になっちゃったけど、私から言えるのはこれくらい。これが恭也君の役
に立てたら……私は、嬉しいな」

 それは先程のような曖昧な微笑みではなく、心からの笑顔だった。その笑顔を見返しな
がら、恭也は胸の奥に引っかかっていた何かが消え去っていくのを感じた。

「ありがとうございます。おかげで自分の道が見えたような気がします」
「どういたしまして。私の方こそ、偉そうな話しちゃってごめんね」
「偉そうだなんて。とても、参考になりました」
「進学するの?」
「ええ……もう少し時間をかけて自分を磨いて、それから答えを出してみることにします」
「頑張ってね。恭也君だったら、きっと素敵な男の人になれるよ」
「俺がですか? 御冗談でしょう?」
「…………それ、本気で言ってる?」
「いたって本気ですが……何か?」

 逆にその問いかけこそが冗談なのだと思った恭也は、苦笑を浮かべて知佳を見返したの
だが(何故だか、目の奥がちりちりと痛んだ)彼女は大きくため息をつくことで、それに
応えた。

「あの……俺は何かおかしなことを口走ったのでしょうか?」
「おかしなことはないけど……うん、いいんじゃないかな。それも個性ってことで」

 『みんな苦労しそうだけど……』と、これは知佳の心の声である。

「いいのなら、それでいいのですが……それはそうと、時間はいいのですか? 耕介さん
達のことですから、今日は知佳さんの歓迎会の用意でもしているのではないかと思うので
すが……」
「してる……と言うか、もう始まってるよ思うよ。みんな宴会好きだから」
「それは、もはや知佳さんの歓迎会ではないのでは?」
「そうだね。じゃあ、みんなが私の歓迎会だってことを覚えてるうちに帰ろうか?」
「そうですね……いや、もしかして俺も行くんですか?」
「恭也君は私のお迎えなんだからあたりまえ」

 まるでそれが当たり前であるかのように知佳は恭也の腕を取り、ずいずいと歩き出す。
あの魔境で行われる宴がどれほどのものか知っている恭也は、この状況を打破できる方法
をない知恵を絞って必死に考えるが、『女性に弱い(さらに年上にはこの上に強烈に、と
いう枕詞がつく)』がパッシブスキルの彼にそんな都合のいい考えが浮かぶはずもなく、
結局寮まで引きずられていった。


 悩みも解消され、軽い気持ちで飲む酒は実に美味かった……という思考を最後に、この
晩の恭也の記憶は途絶えたのだった。












5、

 決して快適とは言いがたい感覚と共に、恭也は目を覚ました。時間の感覚がはっきりと
しないが、窓から差し込む光は少なくともあれから幾らかの時間が過ぎたことを知らせて
いる。

 体の中に充満した空気を全て吐き出すかのように、大きく深呼吸をする。それで少しは
楽になったような気がするが、酒によって齎された不調は長く尾を引きそうだった。

(今日の鍛錬はできそうにないな……)

 一日の鍛錬の不足を補うには三日かかる……古の時代から使い古された教訓を苦い気持
ちで思い起こしながら恭也は体を起こし――

「う……ん」

 小さな――と言っても、聞き逃すには近すぎる声を耳にして、恭也はその動きを止めた。
そう言えば、二日酔いというだけにしては妙に体が重い。だがそれは決して不快な重さで
はなく、むしろその柔らかさが心地よくて――

 そこまでを脳が認識したところで、一気に恭也の中の暗雲が晴れた。

 神速もかくやのスピードで飛びのき、慌てて自分の姿を確認する。服は……着ていた。
脱がされた形跡もないし、乱れも――ないとは言わないが、そのまま寝ていたことを考え
ればまだ納得できる範囲のものであった。

 ここまではまだ恭也の希望の範疇である。問題は、ここから先。恭也は恐る恐る、さっ
きまで自分のいた場所に目を向けた。

 頬の所でわずかに跳ねた、特徴のある髪形。綺麗な金色の髪は、朝日を受けて静かにそ
の存在を主張している。その寝顔は穏やかで、こんな状況でもなければいくら鈍感な恭也
でも見とれていたことだろう。だが、状況はそれを許してはくれない。

 ここまでの状況を受けて、恭也の思考は高速に回転を始める。

 ベッドにクローゼット、それからパソコンの置かれた机。最近人に使われたという気配
が希薄であるが、個人の部屋としてそれほど特徴がある訳でもない。恭也『達』はベッド
があるのにフローリングで寝ていたようだが、それはともかく――

(ここはどこだ?)

 さざなみ寮の一室であることは確かだが、ここは明らかに個人の部屋。耕介の私室とい
うことでなければ、間違いなく女性の部屋である。順当に考えれば、目の前で寝息をたて
ている彼女の部屋なのだろうが……それを素直に認めるには、恭也は子供に過ぎた。

 状況は確認した。後は、これからどうするかである。

 逃げるか……否。何も解決しないし、ここの面子から逃げ切れるとも思えない。
 謝るか……否。何を謝るのか分からないし、謝って済む問題ではないかもしれない。
 開き直るか……否。さらに泥沼化する可能性が濃厚だ。最悪、命を持っていかれる。
 助けを求めるか……否。この状況で助けてくれそうな人間に、心当たりがない。

 その他、次々と解決策の候補が恭也の頭の中に浮かぶが、どれもこれもが決定打に欠け
ていた。それを知りながらも逃げの一手を打っていれば、また違った結果もあったのかも
しれないが、何しろこんなことは人生で初めてである。冷静に思考しているように見えて、
恭也にはとことん余裕がなかった。

 こんこん――

「はい。なんですか?」

 反射的に応えて、恭也は硬直した。音の源はドアの向こう――そこには多数の気配が犇
いている。正確な数は分からないが、おそらくは昨日であった人間のほとんどがそこにい
るのだろう。

(もはやこれまでか……)

 小さく十字を斬り、恭也がいるかどうかも知れない神に祈ったところでドアは豪快に開
いた。








 数分後、昨夜とはまた違った意味での騒ぎが巻き起こるのだが……そこで何があったの
か、恭也自身や『彼女』、それからさざなみ寮関係者全てが口を噤んだために、高町家の
人間がその騒動の顛末を知ることはなかった。


 それからの高町恭也は、暇を見つけては今まで以上に翠屋を手伝うようになったのだが、
それはあまり、関係のない話である。












後書き

 相変わらず遅いな、自分……こんにちは、M2です。

 十万hitすら迫ってきているというのに今さらという気もしますが、どうにか書き上げるこ
とができましたakipiyoさんリクエストの『恭也×知佳』です。

 私は以前に『守り、導かれて』という『恭也×知佳』モノを書いていまして、同じカップリ
ングで再びというのは初めての経験でした。キリ番ゲッターのakipiyoさんからは甘々なモノ
というリクエストだったのですが、書きあがってみたら思いのほか知佳の出番が少なくて、果
たして堂々と『恭也×知佳』と言ってよいものか迷っている次第です。


 空白の部分で恭也が具体的に何をしていたのか、それは皆さんのご想像にお任せします。十
八禁な展開でも書いてみようかとも思ったのですが、今の私は力不足でした。


 
 何はともあれ、ここまで読んでいただいてありがとうございました。次のキリ番SSの後書
きでお会いしましょう。