すのう・ほわいと 第0話 (改定版)












さざなみ寮近辺、とある林の中。そこで油断なく構えを取った少年が、意識を集中して
周囲の気配を探っている。

年齢は当年で十八歳。少女と見紛う容姿に動きやすさを重視したスポーツウェア。その
両手にはある人物のお下がりである手甲がはめられている。

(まったく……気配がしないんだもんな)

かれこれ五分ほどこんな状態を続けているが、目当ての相手の足音はおろか気配すらも
彼には感じ取ることができなかった。

まあ、だからこそ相手は彼――名を相川真一郎という――の師匠のようなものをしてい
られるのだが、同年代の彼女にここまで実力の差を見せ付けられると、男としては立つ瀬
がない。

ぱき…

それが枝を踏んだ音だと認識するよりも早く、真一郎は背後に向き直り右手を翳した。

「神咲一灯流、神威・楓陣刃!!」

声に呼応してバスケットボールくらいの大きさの光球が出現する。それは真一郎の意思
に従い、音が聞こえた場所に着弾した。だが、手応えは全く感じられない。

「……囮か!」

瞬間、真一郎の死角から気配。何とかできるはずもないが、それでも心の中で何かに祈
りながら、真一郎は前方に身を投げ出す。その祈りが通じたのか、転がり身を起こした時
にはちょうど眼前にナイフが迫っているところだった。まだ、負けてはいない。

避けるのは、もはや無理。真一郎はそれを左の手甲で受け止め、牽制のつもりで前蹴り
を放った。相手はナイフを押し込んだ反動で間合いを開け、そのまま体を捻って足払いを
かけてくる。奇跡的にそれを避けると、今度はこちらの顎を狙ったショートアッパー。

 さすがに何度も奇跡は続かなかった。一応避けようとしてはみたが、相手の読みと拳の
スピードは真一郎の能力をあっさりと上回り、彼の身体を地面に這い蹲らせた。

 倒れ、咳き込んでいるところのナイフを突きつけられて、ゲームセット。

「……参った。降参だよ、弓華」

相手――弓華はナイフを鞘に収めると笑顔を浮かべ真一郎に手を差し出す。

「動きは良くなってきましたよ、真一郎」
「それでも、弓華の足元にも及ばないけどね」

乾いた笑みを浮かべて弓華の手を取って立ち上がる。

「それでも本格的に始めて一ヶ月強ですから、その動きはたいしたものです」

真一郎が服についた土を払って立ち上がる間に、弓華はハードケースから眼鏡を取り出
して、いつもの状態に戻っていた。

弓華の服はいつも通り動きやすさを重視した服装で、黒いシャツにジーンズと色合いも
地味である。茶色い髪は結い上げて、その左手には彼女の「痕」を隠すように布がきつく
巻かれていた。

「あのさ……正直に答えてほしいんだけど」
「はい、なんですか?」
「真剣に俺を殺そうと思ったら、さっきの手合わせで何回殺せた?」
「そうですね……」

まるで昨晩の夕飯のメニューでも尋ねられたかのような気楽さで、弓華は首を傾げる。

「最低でも、二十回はできました」
「そんなに?」
「一撃で仕留められるのは……ですけど。致命傷でもよければもう二倍くらいです」
「それじゃあ、いくら命があっても足りないじゃないか……」
「真一郎は良くやってますよ。私はそれが仕事だったですから、そんなことで張り合って
も意味が無いです」
「そう言ってもらえると俺としては嬉しいけど……」
「それに一ヶ月そこらで素人に追い抜かれたら、いくら私だって怒ります」
「はは、ごめんね」

本当に『怒ってます』なポーズで慰めとも励ましとも愚痴ともとれない言葉を続ける弓
華と共に、林の中をしばらく歩く。目指すはさざなみ寮。真一郎が退魔師になるという進
路を固めてから何かとお世話になっていて、鍛錬で疲れた時などはそのまま泊まったりも
する場所だ。

 無料で、しかも健全な男子を女子寮に泊めるなど世間の感覚では暴挙に近いが、あそこ
でそんなつまらないことにこだわる人間は、もはや存在しなかった。最初は真一郎も引け
目を感じていたが、さざなみ寮の空気は実に居心地が良くて、今では自分の家であるかの
ような錯覚すら覚えてしまう。

「真一郎、お帰り!」

二人が寮の門まで来ると、二階のベランダから文字通り一人の少女がすっ飛んできた。
真一郎は何とか少女を受け止め、腕の中で抱えなおしてその頭を撫でる。

「ただいま、七瀬」

古風な黒いセーラー服の少女――真一郎の守護霊にして永遠の伴侶、春原七瀬は笑顔を
浮かべ、真一郎の隣り、弓華の反対側に降り立った。

「耕介が中でおやつ用意してるよ。でも、その前に真一郎にはお客さん」
「……俺に、客?」

七瀬は頷いて庭を指した。玄関には入らずにそのまま庭に抜けると、二人の人物が縁側
で笑いながら会話していた。その内の片方、真一郎の顔見知りである少女がこちらに気付
き手を振ってくる。

「遅かったじゃない、真一郎。待ちくたびれたわ」
「すこ〜しだけ長引いてね。まあ、結局弓華には完敗だったけど……」
「でも、歩き方とか様になってきてるじゃない。武術家として進歩してる証拠よ」
「瞳ちゃんや弓華に先生してもらってるんだから、進歩しないと殺されちゃうしね」
「そうね。弓華ならともかく瞳は真一郎を殺しかねないもんね」
「春原先輩、何かおっしゃったかしら」

瞳は冗談にしては濃すぎる殺気を放って七瀬を睨むが、彼女は素早く真一郎の背後に回
りこんでそれを回避していた。真一郎は苦笑しつつ、さっきからこちらを物珍しそうに眺
めている客人を示して、

「それで、瞳ちゃん。そちらの方は?」
「この人は私の知り合いで――」
「巻島十蔵ってんだ、よろしくな」

そう言うと、十蔵は立ち上がって真一郎の手を取った。

「真面目に鍛錬してやがる手だな……いい感触だ」
「はあ……ありがとうございます」
「瞳お嬢。お前さんが俺に紹介したい奴ってのは、こいつだよな?」
「そうですよ、巻島館長。彼が、私のかわいい後輩です」

瞳の肯定を受けて十蔵は獣のような笑みを浮かべる。美少女然とした真一郎と並んで立
つと、その野性味がさらに際立って見える。今の二人には『美女と野獣』と言う言葉が、
はまりすぎるほどに似合っていた。

「おう。てめえ、名前なんてんだ?」
「……相川真一郎です」
「そうか。じゃあ真一郎、今から俺と手合わせしてもらうか」
「…………は?」

真一郎が至極まともな疑問の声を上げると十蔵も顔を顰め、いつの間にか移動していた
弓華と並んでお茶を啜っている瞳を振り返った。

「瞳お嬢。お前さん、この坊主に話通してなかったのか?」
「そう言えば……忘れてましたね」
「ったく……じゃあ俺から説明しとくか。俺はこの辺で『明心館』なんて空手の道場を開
いてんだ。そっちのお嬢と知り合いになったのは、うちを破門になった荒くれ者をお嬢が
半殺しにして――」
「巻島さん、よけいなことを吹き込まないでくれません?」
「そうか? 俺はけっこう大事だと思うが……で、とにかくそっちのお嬢からがむしゃら
に徒手で強くなろうとしてるのがいるって聞いてな。それなりの奴だったら俺が面倒見て
やろうと思ってこうして参上したってわけだ」
「はあ……つまり、瞳ちゃんの紹介で、俺の審査に来たってことですか?」
「まあ、平たく言やあそうだな」
「別に俺はいいですけど。審査って何をするんです?」
「武術家の審査って言やあ、一つしかないだろう。拳で語る……これ以上の方法があると
でも思ってんのか?」
「いえ、ないと思います」

真一郎は背中にへばり付いていた七瀬を縁側に座らせ、十蔵と距離をおいて向かい合っ
た。彼の上背は唯子と同じくらい。全体的に筋肉質で受ける印象は酒樽のようだが、全身
に纏っている獣のような空気のためか、鈍重さは感じられない。獣はそんな体を藍色の作
務衣で包み、腕を組んで真一郎を正面から見据えている。

「さあ、どっからでもいいからかかってこい。小僧」
「では……遠慮なく!」

言葉を言い終わるよりも早く、奇襲を仕掛けるつもりで真一郎は踏み込んだ。その行動
は予想の範疇だったのか、十蔵は絶妙のタイミングで足を突き出す。真一郎は体を逸らせ
て接近し、そのまま頭部を狙って回し蹴りを放った。

 真一郎にしてみれば、必殺の一撃。だが、十蔵はこともなげに片腕でだけそれをブロッ
クした。

「……いい蹴りじゃねえか」

十蔵は獣の笑みを浮かべ真一郎の腕を外側に弾くと、反対の腕を引っ掻くようにして振
り下ろす。真一郎は飛び退って避けたが、十蔵はこれを追って嵐のような連撃を見舞って
きた。

ややあって――

避け切れなかった突きの一発を食らって、真一郎は宙を舞っていた。受身も取れずに地
面に叩きつけられ、呼吸が一瞬だけ止まる。

「真一郎!」

慌てて駆け寄ってきた七瀬と瞳に支えられて立ち上がる。妙に嬉しそうな顔をして十蔵
が寄ってくるが、そんな彼に恐い物知らずの七瀬が猛然と突っかかった。

「ちょっとあんた。うちの真一郎に傷がついたらどうしてくれんの!?」
「俺を呼んだのは瞳お嬢だろう? 文句があるんだったら瞳お嬢に言いな」
「それもそうね……瞳! どうしてくれるの!?」
「七瀬……悪いけど、喧嘩だったら後にしてくれるかな」
「もてんだなぁ、真一郎。吹っ飛ばされはしたが、試験は一応合格だ。俺は明心館の本部
に大概いるから、暇な時にいつでも来い。俺が直々に稽古つけてやる」

じゃあな、と手を振って十蔵は風のように去っていった。何やら殴られ損な気がしない
でもないが、彼を相手にしているとそんな理不尽も当たり前のような気がしてくる。

「なんか、豪快な人だね……」
「でも、指導力と空手の腕前は確かよ。この近くでは巻島さんが一番なんじゃないかしら」

その確かな人と瞳が何故知り合いなのか……さっきの十蔵の言いかけていた半殺しの話
が気にはなったが、ここで掘り下げると真一郎も『殺される』ので、口を噤んでおく。

「うん……ありがとうね。瞳ちゃん」
「このお礼はデート一回くらいで許してあげるわ」

何か恨みがましい視線を送っている七瀬を完璧に無視しての瞳の発言。弓華は一人で平
和そうにお茶を楽しんでいて、二人の仲裁に入ってくれる気配はない。

(俺の周りはどうしてこう……)

幸か不幸かは判断しかねるが、とにかく波乱は尽きない。もっとも、どの組み合わせで
喧嘩をしたとしてもいつの間にかその関係は勝手に修復されているので、被害を一身に受
ける真一郎にすれば、性質の悪いコントのようなものであったが……

 そして、今日も今日とて、その性質の悪いコントが始まる。今度はどんな目に合うんだ
ろう、と心の中で嘆きながら、どうすればこの喧嘩を仲裁できるのかと、真一郎は空を見
上げて考え始めた。