誰かのための歌 第一話










「ね・・・ねえ、恭ちゃん。どうしたの?そんな顔して・・・」
風芽丘学園学生食堂、たった今この場所に来た美由希たちにこのテーブルの光景は間違い
なく異様に写っただろう。
仏頂面・・・そんな物を通り越した不機嫌な顔をしている恭也と、それを受け止め冷や汗
を垂らしながら食事をする忍と赤星。
恭也の食事はもう済んでいてトレーは重ねられテーブルの隅に置いてあるが、彼はそれを
返却しに行かずにただ黙々と目の前の二人を睨んでいた。
気の弱い人間ならば、見ただけで逃げ出しそうな光景である。
「こいつらに聞け・・・と言いたい所だが、いいかげん睨むのにも飽きた」
表情を戻し、美由希達に向き直る恭也に忍達は心底安心した表情でため息をついた。
「いや・・・俺達のクラス、今度の学際でステージを出すことになったんだけどね」
「その演目の内容に恭也が怒って・・・」
「で、さっきのような状態になっとった訳ですな」
「でも、それでどうして師匠が怒るんですか?」
「問題はその内容だ・・・」
気まずげに視線を逸らす二人をまた改めて睨みやると、恭也は何とも面倒くさそうに口を
開いた。
「俺の・・・独唱だ」
「それはまた突飛な話ですね」
「そう思うでしょう?神咲さん・・・という訳で、この話はなかったことにできないだろ
うか・・・」
「無理だって。クラスの女子全員と、男子のほとんどが賛成してるんだから」
民主主義的決定と言えば聞こえはいいが、簡単に言えば数の暴力である。
「その中にお前達二人が含まれてることを忘れないようにな・・・」
「ですがおししょ、なに歌いはるんですか?」
「それも問題なんだ・・・」
このまま歌うことになったとしても、恭也は「流行の歌」などまるで知らない。
いい所、桃子や晶が趣味で聞く演歌だろう。
だが、わざわざステージに立って晶ほど上手くもない演歌を歌う勇気はさすがの御神流師
範代も持ち合わせていない。
「恭也、歌は下手じゃないんだから何でもいいんじゃないかな?」
「人に披露できるほどの腕前でもない。だがまったく興味のない歌を歌うというのもな」
「なに言ってるの恭ちゃん。前から大ファンの歌手がいるじゃない」
「ほぉ、高町も音楽なんて聞くんだな。ちなみにこいつはどんな曲を聞くんだ、美由希ち
ゃん?」
「アイリーン・ノアさん。恭ちゃんCD全部持ってるんですよ、ちなみに数枚はサイン入
りです」
「別に大ファンというほどのものでも・・・サイン入りのCDだってアイリーンさんから
いただいた物だろう?」
「それとは別に聴く用のも持ってるでしょう?知ってるよ、押入れの中に―」
恭也は無言で喋り続ける美由希の額にチョップを放った。
美由希は細い呻き声を上げながら、近くにいた那美に寄りかかる。
「那美さん・・・恭ちゃんが私をいじめます」
「はいはい、美由希さん痛くありませんよ〜」
「でも、恭也。アイリーン・ノアなんていい趣味してるじゃない」
「クリステラ・ソングスクールで何度か会ったことがあってな、最近は忙しいらしくてあ
まり会ってないが・・・あの人の歌を歌うのか?」
「他に恭ちゃんがちゃんと歌える歌なんてある?」
恭也は無駄とは知りつつも考えを巡らせてから首を横に振った。
「ないな・・・。なら練習か・・・難しいのだろうな」
「恭也、歌う気になったの?」
「優しい友達二人が、俺達全員に翠屋で奢ってくれるらしからな。今回はそれで手をうつ
ことにする」
「いつの間にか俺達が悪の根源になってるみたいだが・・・」
「ステージで歌うのよりは遥かにましだろう。それに翠屋なら頼りになる先生もいるしな」
「あのティオレ・クリステラの娘さんに教えてもらえるなんて、恭也も贅沢ね」
「・・・まだ教えてくれると決まったわけではないが、とにかく放課後、暇な人間は翠屋
に集合。こっちの優しい先輩方が奢ってくれるぞ」
そう言って、恭也は一同の答えを待たずに食堂から姿を消した。
美由希達も放課後の予定を話し合いながら恭也に続く。
後には、こっそりと財布の中身を確認しあう二人だけが残った。


「ふ〜ん。恭也が独唱ね〜」
所変わって、放課後の翠屋。
結局、昼休みの時の全員が暇だったらしく、そのメンバーで翠屋の一角を占領してフィア
ッセを交えての相談が行われている。
「それで、恭也は何を歌うつもりなの?」
「『あの人に捧ぐ歌』」
「アイリーンの歌ね、恭也もすごい歌選ぶね」
「どうせなら自分の好きな歌をって思ってな」
「ついでに自分の好きな人の歌ね」
「その話題をこれ以上掘り下げた場合、残念ながらフィアッセには不幸になってもらうし
かないな・・・」
「や、やだな。冗談だよ恭也」
「なんや、ちょう気になりますね?」
「レン、お前も不幸になりたくなかったら聞かない方がいい」
「・・・そうしときます」
「それで、どういう風にレッスンするの?」
「とりあえず学祭までの金曜日はうちの音楽室を貸してもらえることになった。それ以外
は、どこでするか決めてない」
音楽室の使用はステージをやるクラスに与えられる特権である。
割り振られる曜日は恭也の預かり知らぬ所で勝手に行われたくじ引きによる物で、この他
休日の使用も可能だが、この場合は事前に申請をしておく必要がある。
ちなみに独唱を行う恭也にはあまり関係ないが、学校の教材である楽器を自由に使用する
許可も出ている。
「・・・金曜日って今週から?」
「ああ、それならば早いほうがいいと思ってな。それでフィアッセに先生など頼みたいの
だが」
「いいよ。金曜日から教えてあげる」
「・・・いいんですか?平日は翠屋も混むんじゃ」
あまりにもあっさりと承諾するフィアッセに、同じクラスである忍が申し訳なさそうに声
を挙げる。
「だいじょうぶだよ。私一人いなくてもそれほど影響はないし、恭也が歌うって言ったら
桃子も喜んでお休みくれるから」
「・・・よくよく考えれば、当日は休日なのだな」
「うん。桃子と一緒に応援に行くから、頑張って歌ってね」
「善処しよう・・・」
「それじゃあ、この話はまた後で。お客様ご注文はどうなさいますか?」
「俺はか〜さんのおすすめ。こいつらは好き放題頼むから、頑張って注文を取ってくれ」
「え〜っとね、俺は―」
見ていて気持ちのいいほど、美由希達は遠慮なく注文していく。
ふと忍達を見ると、二人して仲良く頭を抱えていた。
(ほんの少しだけ同情するぞ、親友)


「前から思っていたが、うちの音楽室はどうして無駄に広いのだ?」
「大改装の時に頑張ったんじゃない?さくらがいた時はこれよりも狭かったらしいから」
無駄とは行かないまでも、風芽丘の音楽室は標準よりも若干広い。
隣りの部屋には大小様々な楽器類が保存されていて、さながら小さな楽器屋さんである。
「でも、私も二年ここにいますけど・・・あっちの楽器って使ったことありませんよ?」
「・・・なんでも音楽の先生がピアノ以外の楽器を弾けないらしくて、それで一般の生徒
に貸し出しはするんですが、授業では使わないそうです」
「まあ、使える物は使いましょう・・・誰か楽器使える人いる?隣りの部屋にだいたいは
揃ってるみたいなんだけど」
「俺は・・・昔少しギターをかじった程度かな・・・」
「赤星君・・・模範的な答えをありがとう。他のみんなは?」
那美と高町家女性陣は揃って首を横に振る。
「恭也は?」
「俺が何か弾けるように見えるか?」
「思わないけど・・・意表をついて尺八とか。恭也似合いそうじゃない?」
「生憎と、御神流の訓練には音楽的なものは一切なくてな・・・」
「恭ちゃん・・・御神はこの際関係ないと思うよ」
「フィアッセさん達、楽器は弾けるの?」
「一応、向こうではピアノは必修だったみたいでな。誰もが当たり前のように弾きこなす
ので、幼心に驚いた記憶がある」
「・・・今気付いたんだけど、フィアッセさん達音楽室がどこにあるか知ってるの?」
「一応説明はしておいたが、分からなければ誰かに聞くだろう」
「でも心配だよ・・・恭ちゃん、私探しに行ってくる」
「必要ないと思うぞ・・・」
「どうして―」
「ごめんね、少し遅くなっちゃったかな?」
今まさに美由希が開けようとしていたドアを開けて、フィアッセが音楽室に入ってくる。
「・・・美由希、気配くらい読めるようにしておけ」
「う・・・」
「で、フィアッセ。他にも誰かいるみたいだが?」
「うん。入ってきて〜」
「こんにちは〜。みんな元気にしとった?」
「ゆうひさん・・・いつ帰ってきたんですか?寮には来てませんよね?」
「今日の朝こっちに着いてな、愛しのフィアッセの頼みで恭也君の歌の指導に参上したわ
けなんよ」
「訳なんよって・・・それでSEENAさんが・・・」
ゆうひのファンである忍はその登場の時から頬を染めて固まっている。
そんな彼女をゆうひは目敏く見つけて駆け寄ると、親しげに頭を撫でた。
「たしか・・・忍ちゃんやったよね。元気やった?」
「はい・・・おかげさまで・・・」
「さくらちゃんにはしばらく会ってへんけど、あの子も元気か?」
「はい、さくらもたまにこっちに来るので、よかったら会っていってください」
「おう。その時は忍ちゃん家におじゃまするから、よろしゅうな」
「お待ちしてます・・・」
「盛り上がっている所申し訳ないのですが・・・そうしているともう一人が出てこれない
のでは・・・」
「おお、せやった。実は今日、すぺしゃる・げすとがおるんよ」
『すぺしゃる・げすと?』
ティオレの愛娘フィアッセと「天使のソプラノ」SEENAを捕まえて尚「すぺしゃる・
げすと」と呼ばせる人間など庶民たる恭也には想像もつかない。
それ以前に、この段階に文句があるようではそれこそ非難の的だろう。
「いいよ、入ってきて」
「ゆうひは話し過ぎだよ。もう、待ちくたびれちゃった」
軽い非難と共に現れたのは、蒼い髪を伸ばした美女だった。
当然、恭也の知った顔である。
だが、今の彼女は最近よく「見る」ような颯爽とした服装ではなく、少年のような格好をしていた。
サングラス―なんのつもりか・・・恐らくは変装のつもりなのだろうが―をポケットにしまい、彼女は笑顔を浮かべた。
「恭也、久しぶりだね。元気だった?」
「おかげさまで・・・アイリーンさんもお変わりないようで」
「元気だけがとりえだからね・・・ってそんな他人行儀はやめてよ。私達の仲じゃない」
そう言って、アイリーンは冗談のように恭也を抱きしめた。
微かな香りが恭也に届く。
そして、このまま抱き返したい衝動に駆られるが、今がどういう状況なのかを思い出し、自粛する。
「あまりからかわないでください・・・」
あくまで紳士的に対応する恭也に、アイリーンは一瞬不満の表情を向けるが、すぐに笑顔に戻る。
ソングスクールの生徒だけあって、こういう切り返しの速さはたいした物だ。


「あの、ゆうひさん。高町先輩とアイリーンさん、何だかいい雰囲気じゃないですか?」
フィアッセ、ゆうひ以外の全員が疑問に思っているであろうことを何が口にする。
ちなみに、こういったこと担当の忍は、アイリーン登場の衝撃からまだ立ち直っておらず、違う世界を彷徨っていた。
「なんや、那美ちゃん恭也君から聞いてへんの?あのな―」
たかかっ!
ゆうひの言葉はやたらと軽快なその音に遮られ、不自然に途切れた。
そのまま恐る恐る視線を下げると、音楽室の床に深々と飛針が突き刺さっていた。
「どうしてもと言うなら構いませんが・・・」
こちらを見向きもせず、飛針を放ったポーズのまま呟く恭也。
「その場合は、何と言うか地獄を見る決まりになっています」
「いやや、恭也君。そんなまじにならんといてな」
顔を引きつらせながら、何とか笑って済ませようとするゆうひ。
この分であれば「あれ」をばらされることもないだろう。
「恭也、早速で悪いけど歌ってくれる?」
「・・・はい?」
「だから、これからのために恭也の腕前を見ておきたいの。私が伴奏するから歌ってみて」
アイリーンは恭也の答えを待たずにピアノに移動すると、あらかじめ用意しておいた譜面を広げた。
美由希達ギャラリーは二人が良く見える位置に座り込んで、既に観戦モードに入っている。
アイリーンと目を合わせる。程なくして、恭也には聞きなれた曲の伴奏が始まった。










えらく無愛想な少年だな、と最初は思った。
フィアッセやゆうひとは普通に話すのに、私だとすぐに会話が終わってしまう。
嫌われてるのかな?そう考えた時、少しだけ胸が痛かった。
だって私は少しだけ・・・ほんの少しだけその少年の事が気になっていたから・・・




「―――♪―――♪」
彼女の最高の親友が鼻歌を歌いながら上機嫌にしている。
普段から笑顔のかわいい少女ではあるが、今はその笑顔も五割増。
見ているこっちまで笑顔になる。
その理由を知っているアイリーンは苦笑し、知らないゆうひは顔にハテナを浮かべてフィアッセを眺めている。
「フィー、えらくごきげんやないの、どないしたん?」
「愛しの彼が遊びに来るからでしょう?」
「やだアイリーン・・・彼だなんて・・・」
顔を真っ赤に染め、それでもまんざらではなさそうにフィアッセは照れまくる。
そして、一頻りいい訳めいたことを呟いた後、また鼻歌を歌いだしさっきの状態に戻る。
アイリーン達が付き合い始めたのはつい先程からだが、その「彼」の到着予定時間が迫ってからフィアッセは
ずっとこの調子である。
「彼」はクリステラ家、ひいてはこのスクールとも付き合いのあったSPのような人(と、アイリーンは聞いている)
の息子で、今回は二週間ほどの夏休みを利用してこちらに―敷地内で男性を見ることは稀なこのスクールに
滞在することになっている。
アイリーンがその「彼」に会うのは初めてだが、スクールの先輩達に「彼」は人気があるようで、彼女らは今晩
「彼」のためにささやかな歓迎会を開くそうである。スクールの男性の迎え方としては、おそらく破格の扱いだろ
う。
「あ!」
フィアッセは窓に張り付いて外を見ると、すぐさま部屋を駆け出していった。
アイリーンたちは肩を竦めあって、窓の外に目を向ける。
タクシーから降りてきたのは、少年だった。
年はフィアッセと同じくらいだろうか、黒髪黒瞳の日本人然とした風貌である。
「お〜中々の美少年やないの・・・ってなんや、あの子一人で来たん?」
運転手は「彼」と一緒に荷物を降ろすと、代金を受け取ってさっさと帰ってしまった。
ということはそういうことなのだろう。
「彼」はその荷物を軽々と担ぎ、この建物へと向かってくる。
「?」
一瞬、こちらを見上げた彼とアイリーンの視線が合った。
アイリーンは軽く微笑みかけたが、「彼」はすぐに顔を背けると、スクールの中に入った。
階下からフィアッセの喜ぶ声が聞こえる。
「うちらも行こか、アイリーン」
待ちきれなさそうなゆうひに手をとられ、二人はフィアッセの後を追った。


「恭也、元気だった?」
「元気だった、だから離してくれ」
恭也と呼ばれた「彼」は苦しそうに抗議するが、フィアッセを振りほどく気配はない。
受ける印象は仲のいい姉弟と言った感じだ。
「お〜二人とも仲良くしとるね」
人見知りをまったくしないゆうひは、まるで以前からの友人のように恭也の頭を撫でる。
対して恭也は、ここに日本人がいたことが不思議なのか、あまり表情を出さなそうな顔に
微かな疑問を浮かべている。
「うちは椎名ゆうひ言います。生まれは関西、よろしゅうな」
ゆうひはそう言うと、恭也が置いていた荷物に手を伸ばした。
「あ・・・重いですよ」
二つある荷物のうち、ゆうひは小さい方に手をかけたのだが、予想していたよりも重かった
その荷物は僅かしか持ち上がらなかった。
「・・・って、こんなバックに何が入っとるん?」
興味津々と言った顔で、ゆうひは恭也を見上げる。
「どうぞ、見ても面白くないとは思いますが・・・」
「それじゃあ失礼して・・・」
そして、遠慮なく恭也のバッグに手をかけたゆうひの肩越しにアイリーンも中を覗く。
開かれたバッグの中身は、確かに面白くはなかった。
木刀―たまに何の冗談かここイギリスの土産物屋でも売っている物と比べると、かなり小振
りなサイズのそれが三、四本。
円形に束になった金属製の糸が数個。
両手足に巻くためのバンド、それからその中に入れるための重りが何点か。
それから、アイリーンには用途の解からない物が詰められていた。
「・・・こんなん何に使うん?」
「俺と、日本に置いてきた妹で古流剣術をやってまして。こっちにいる間その鍛錬を怠るのも
なんですから、その道具です」
「恭也、膝に怪我したんでしょう。もうだいじょうぶなの?」
「無理しなければ問題ない」
そう素っ気無く言って、恭也は重いほうの荷物を持つと、フィアッセを振り返った。
「早速で悪いけど、俺の部屋はどこかな?とりあえずこの荷物を運んでおきたい」
「あ、うん。じゃあ私が案内するね」
そして軽いほうの荷物に伸ばされた恭也の手と、アイリーンの手が重なった。
しばらくお互いそのままで硬直する。
「・・・私が、運ぶから・・・」
「すいません。お願いします・・・」
やはりアイリーンから目を逸らし、恭也はフィアッセの後について歩き出す。
(自己紹介すらできなかった・・・)
やはり、恭也には嫌われているのだろうか?
嫌われる理由は、少なくともアイリーンの方にはない。
恭也に会ったのは今日が初めてのはずだし、彼に失礼な事をする機会だってなかった。
「・・・あの」
廊下の先で、恭也が立ち止まってアイリーンを振り返っている。
「名前・・・まだ聞いていませんでした・・・俺は、高町恭也」
「私は、アイリーン・ノア」
「よろしく・・・」
最低限の自己紹介だけをすると、恭也は踵を返し歩き出した。
友好的というには程遠いが、まあ、最悪ではなかった・・・。


なんであんなことをしてしまったのだろう?
別にああいう風に当たるつもりはなかった。
ちょうどあの頃覚えた言葉・・・そう、自己嫌悪だった。
できることなら仲良くしたい、何度もそう思ったものだ。
俺だって、あの人のことを嫌いな訳ではなかったからだ・・・




「・・・どうでしょう?」
「う〜ん、まあまあとちゃうかな。素人さんにしては」
「私はこれでもいいと思けど・・・」
「だめね。私の歌なんだから、もっと頑張ってもらわないと」
スクールの面々が好意的な感想を漏らす中、一人だけ手厳しいことを言うアイリーン。
全員の輪から抜けて自分で歌った時の注意などを、恭也に事細かに説明していく。
指導としては、これほどの物はないだろう。
「なんか・・・私たち完全に忘れられてませんか?」
今や恭也達は完全に二人の世界に入っていて、周囲には目もくれていない。
同じ指導に来たはずのフィアッセとゆうひも、もはや蚊帳の外である。
「ええやん。二人は楽しそうなんやし。それよりも、うちらはなんか他のことして遊ばん?」
「あ、いいねぇ〜。じゃあ、みんなで演奏でもしようか」
こっちの人達もこっちの人達で意気投合して隣りの楽器室へ移動する。
もはや、当初の目的を忘れている一同だった。




「とまあ、そういう訳だから最後まで気を抜かないように」
「ご指導ありがとうございます・・と、あれ?」
一応の区切りをつけて―アイリーンに言わせればまだまだらしいが―部屋を見回すと、フィア
ッセ達が消えていた。
アイリーンに目で問い掛けても、首を横に振るだけである。
「どうしちゃったのかな?まさか、ゆうひ辺りの発案で私達を二人きりにしたとか?」
「いや、あの連中に限ってそれは―」
ぎぃぃいぃぃぃぃ!!!
途轍もないとしか言えない音に、二人は耳を塞いだ。
この謎の音の発生源は隣りの部屋。
要するに、その根源は隣りにいる連中の誰かということだろう。
「まったく・・・何をやってる・・・」
ぼやきながら歩く恭也の後をアイリーンもついていく。
「おい、何をやって―」
ぎゃぎゃぎぃぃぃぃぃぃ!!!
そして、またも騒音。
フィアッセ達は、二人と同じく耳を塞いでその発生源を見て、それでも止める訳にもいかずに恭也に
目で助けを求めていた。
その視線をそのままアイリーンに流すが、彼女はあさっての方を見て受け流してくれた。
「・・・美由希!やめろ!」
恭也の怒鳴り声で、今まさに騒音を発しようとした美由希の動きがぴたりと止まる。
「あれ、恭ちゃん。もう練習終わったの?」
今まさに気付いたといった様子でそれ―さっきまで騒音を発していたとはどうしても思えない物を置い
て、美由希は恭也に歩み寄る。
恭也は微かに笑みを浮かべると、子犬のように近付いてきた妹の頭を思いっきり叩いた。
「・・・なんか、恭ちゃん最近いじめっこ・・・」
「そんな騒音を聞かされれば、誰でもいじめっ子だ」
どう控えめに聞いても「音楽」とは形容しがたい騒音を発していたそれ―多分ヴァイオリンだろう―をいそ
いそと片付ける忍を見ながら、恭也はため息をついた。
「まあ、人間不向きな物の一つや二つはあるだろう。何も心配することはない」
「あう・・・」
「で、恭也はどうでした、アイリーンさん」
ヴァイオリン(多分)を美由希の届かない所に隠してきた忍が尋ねる。
「一通り指導しておいたから、後は毎日少しずつでも練習すればだいじょうぶ。私も暇な時には付き合うか
ら、頑張ってね」
毎日少しずつ練習。
夜中、家族に隠れて細々と練習する自分の姿はどこか滑稽だった。
「ちゃんと歌詞を覚えて、私の言ったことは全部できるようになっておくこと、OK?」
「了解しました」
「GOOD!さて、一通り済んだことだし、みんなで翠屋にでも行こうか?」
『賛成!』
アイリーンのその提案は、女性陣にあっさりと受け入れられた。




海鳴市に住む者ならば誰もが知っている翠屋。
金曜の夕暮れ時ともなれば、帰りがけの学生で埋まるのも当然のことだ。
そんな中で、いくら分散しているとは言っても十人近い人数の席を確保できたのは奇跡と言ってもいい。
「でも、フィアッセから聞いた時は驚いたよ。まさか、恭也が私の歌を歌うなんて」
注文した紅茶に軽く口をつけて、隣りのカウンターに座ったアイリーンが呟く。
ちなみに席割りは恭也とアイリーンだけがカウンター、それ以外は四人ごとに分かれて座っている。
一応恭也達だけがカウンターになったのは、指導上の名目があったりするが、ゆうひ以下全員の配慮があ
ったのは言うまでもない。
それは、ある意味鈍感な恭也でも感じ取れるほどで、今こうしている間も体内から沸き起こる自分を否定す
るようなむず痒さでいっぱいだった。
「・・・なりゆきですよ」
恭也の答えはそっけない。
そのまま話題を終わらせようとしたが、目を逸らせてブラックのコーヒーを飲む仕草も、そのぶっきらぼうな物
言いも、恭也の照れ隠しであることはアイリーンにもばれていた。
「なりゆきでも・・・うれしいかな」
浮かべた笑顔に恭也も一瞬目を奪われる。
その一瞬の隙をついて、アイリーンは恭也のケーキに手を伸ばすと、一気に半分を平らげてしまった。
「ごちそうさま」
恨めしげな視線で彼女を見つめる恭也。
甘い物は隙ではないが、このケーキは桃子の特性で恭也好みのビターな味に仕上がっていたのだ。
対して、当のアイリーンはそんな視線など、どこ吹く風である。
「この姿をファンの人が見たら、一瞬でイメージが崩れるんでしょうね・・・」
今のアイリーンの印象は、メディアに出ている彼女から受ける「綺麗」や「かっこいい」からは掛け離れていた。
実際、店内にいる学生の誰もがここに「アイリーン・ノア」がいることに気付いていない。
それは、恭也達とは離れて会話に花を咲かせているゆうひにしても同じことだ。
「あはは、いつもあんなに肩肘張ってちゃ疲れちゃうでしょ?」
「まあ、確かにそうですね」
気を取り直して、残されたケーキとコーヒーに手をつける。
向こうの席では、ゆうひが中心になってかなり話は盛り上がっているようだ。
「恭也は、変わったね」
「そうですか?」
「うん。最近はちゃんと笑うようになったと思うよ。初めて会った時は、もう本当に無表情だったからね」
「言わないでくださいよ・・・」
「聞かせてほしいな。最近何があったのか、すごく興味があるから」
「少し長くなりますけど・・・いいですか?」
「構わないよ。今日は時間があるから、閉店までだって付き合っちゃう」
「では・・・」
恭也はゆっくりと、最近あったことを語り始めた。
何気ない話でもアイリーンは熱心に耳を傾け、ちゃんと相槌を打つ。
そして、やはり二人の世界に入ってしまい、気付いた時には閉店時間だった。
桃子に聞くと、フィアッセ達は「二人に悪いから・・・」とか言って、さっさと帰ってしまったという。
「あいつら・・・」
「いいじゃない。楽しかったからさ」
アイリーンの笑顔に、それでもいいかと思う恭也だった。