誰かのための歌 最終話











「恭ちゃん、大変!」
ふと思い至って庭に出て盆栽を眺めていると、慌てた美由希が縁側に駆けてきた。
「どうした?お前の花畑がモグラに襲われて壊滅したか?」
結構本気で聞いたのだが、美由希は首を横に振って否定した。
さっきまで今で家族揃ってテレビを見ていたはずである。
耳を澄ますと、他の女性達の声も聞こえるから間違いは無い。
「あのね・・・アイリーンさんがテレビに出てるの・・・」
「別に珍しいことでもあるまい・・・」
高町家の人間はいまいち忘れがちであるが、アイリーンの知名度は世界クラスである。
例えば、一週間くらい何のメディアにも顔を出さなければ家族一同が心配するほどだ。
それがテレビに出ているのに慌てているとは、どうにも的を得ない。
「それどころじゃないの。そんなの置いて早く来て」
言うが早いか、美由希は恭也の腕を取って強引に居間へと引っ張っていく。
頭の中には自慢の盆栽を「そんなの」呼ばわりした文句が怒涛の如く浮かんだが、居間
に揃った家族の複雑な表情を見て、思わず沈黙してしまう。
「どうした?」
皆は無言でテレビを指す。そこには美由希の言の通りアイリーンがいた。
最後に会ってから三ヶ月が過ぎていたが、テレビの中の彼女は元気そうだった。
(そう言えば、今日がコンサートの最終日だったはずだな)
時間を見ても、コンサートが終わってすぐのはずだ。
事実、テレビの中の彼女も衣装替えをしないままたくさんのフラッシュに晒されている。
(フラッシュ!?)
そして、何気なく目を向けた画面の隅にあるテロップに恭也の視線を釘付けになった。
「は?」
恭也は思わず間抜けな声を挙げて、恭也はテレビを掴んでいた。
見間違いではともう一度見てもやはり変化はない。家族の態度もそれを裏付けていた。
『――――以上が、アイリーン・ノアの今後のスケジュールです』
マネージャーの発表が終わると、記者たちの質問がアイリーンに集中した。
そのほとんどが突然の行動についての言及だったが、彼女はその答えを全て受け流すと
最後にこう言った。
『歌手として、私は様々な経験を積みました。そして今日引退を宣言します。その理由
についてはお話できませんが、歌手として人間として色々考えた末の結論です。無論、後
悔はしていません。急なことではありますが、ご理解をいただけたらと思います』
言うことはそれですべてだとでもいうように、アイリーンとそのマネージャーは記者会
見の会場を後にした。
その後、画面は切り替わりその場ではキャスターの根拠のない憶測が飛び交っていたが、
意識の飛んでいる恭也にはまったく聞こえていなかった。
――――、――――、
「あ、電話―」
美由希が言い終わるよりも早く、恭也は居間を飛び出し受話器を取った。
「もしもし、アイリーンか!」
『そうだよ。その様子だと、テレビ見てたみたいだね』
「ああ。で、あれはどういうつもりだ?俺は全く聞いてなかったが・・・」
『驚かせようと思って隠してたから、事前に知ってたのは先生と一部の関係者くらいで
―』
「ティオレさんがOKしたのか?」
『うん。貴女の好きになさいって』
「・・・・・・で、何時帰ってくるんだ?」
何か、アイリーンにたいして怒るべきことがあった気がするが、会話をしている内にど
うでもよくなった。
「予定通り・・・とはいかないかな?明日の内には帰れると思うけど、やっぱり少しだ
 け遅くなると思う」
「海鳴駅に着いたら連絡しろ。詳しい話はその時だ」
「分かった・・・ねえ、恭也?」
「何だ」
「怒ってる?」
「アイリーンが決めたことに口を挟む気はない。考えた末の結論なんだろう?」
「うん・・・これでもかってくらい考えたよ」
「それなら俺が全面的に支持してやる。だから、安心して我を通せ」
「ありがとう・・・」
「もう切るぞ」
「うん・・・おやすみ恭也」
「・・・おやすみ」
電話を切るとふいに静けさが戻ってきた。
今の気持ちは・・・複雑だ。不安と喜びと、とにかく様々な感情が入り乱れている。
それでも彼女の行動を好意的に受け止められるのは・・・愛の成せる業か・・・
「そこで覗いている家族一同。アイリーン曰くさっきの記者会見は本当だそうだ」
覗いていたことがばれるのはたいしたことではないのか、一同はそ知らぬ顔で居間へ戻
っていく。
「フィアッセも聞いてなかったのか?」
「うん・・・だから私も凄く驚いてるんだけど・・・」
「徹底してるな、今回は」
もっとも、スクールの生徒はティオレの影響でこういった人を担ぐようなことには命を
かける。芸人根性が座っているのは何も今に始まったことではない。
「それでね恭也。か〜さんとしては少し気になることがあるんだけど」
「ん、まあ聞いておいた方がいいか」
「アイリーンさんと恭也はお付き合いしてる訳でしょう?それで、あの人が歌手をやめ
 ちゃったらその後どうするの?」
「それに関して、か〜さんとフィアッセに相談がある」
「な〜に?」
桃子もフィアッセも何を聞かれるのか気付いているようで、既に満面の笑顔である。
ちなみにこれはアイリーンに関わることだが、彼女には何の相談もしていない。
あっちも何の相談もなしに決めてくれたのだから、全面的に受け入れるとはいえ、これ
くらいの報復はあってもいいだろう。
(まあ、半分は俺の願望だけどな・・・)




「・・・ありがとうございました」
今日何組目かの客を送り出して、息をつく間もなく戦場へと戻る。
相も変わらず翠屋は繁盛していた。
恭也も毎日手伝っている訳ではないが、美由希や周りの反応を見る限りこの繁盛ぶりは
いつものことのようだ。
(客入りが増えたか・・・)
それは恭也の苦労も増えたということである。
普通であればバイトを増やす所であろうが、空いている『戦力』をわざわざ遊ばせてお
のは勿体ないという桃子の弁で恭也と美由希が―さすがに他のバイトと同じ時給で導入
されている。
元々することもなかったし、美由希の方が手伝う時間は多いので恭也にさしたる苦労は
ない。
もっとも、定期的なバイトを引き受けた理由は他にもあるが・・・
「いらっしゃいませ!」
新たな客の来店を告げるカウベルの音色に綺麗な声が店内に響く。それはフィアッセと
並ぶこの翠屋の看板娘の声だった。
実際、客足が増えたのも彼女がこの店に就職してからだ。よくよく観察してみると男子
の割合の方が多い気がする・・・というのは恭也の邪推である。
本当の所はやはり女性の割合の方が圧倒的に多い。
その女性の割合が増えたのは恭也の知らない、いや気付くことのないもう一人の客寄せ
によるものだ。まあ、本人が気付きさえしなければ平和である。
「恭也、八番テーブルのお皿下げちゃって」
さらに彼女は仕事ができる。接客も恭也や美由希よりも気が回るし、料理の腕前もさす
がに桃子には及ばないが、それでも他の店員一同が舌を巻いたほどだ。
ここに来て二月と少々、すでに彼女はこの店の主戦力になっていた。
「了解」
そう短く答えて、恭也はそのテーブルに向かう。
すれ違いざま、彼女が軽く恭也の肩を叩いた。恭也はその返事に遠ざかっていく彼女の
背中を軽く叩いた。二人で決めたある「合図」である。
(さ、今日は残業か・・・)
誰ともなしに呟くが、口調とは裏腹にその顔は笑顔だった。




「はい、お疲れ様」
人気の無くなった店内。カウンターに座って外を眺めていると、目の前に差し出される
コーヒー。
「ああ、そっちこそな」
改めて店内が汚れていないか確かめると、恭也はそれに口をつけた。
アイリーンはそんな恭也の様子を嬉しそうに眺めてから、自分の紅茶に手を伸ばす。
「しかし、アイリーンが翠屋で働いている光景・・・何度見ても慣れないものだな」
「確かにね。電撃引退した歌手が喫茶店で働いてるのは・・・少しだけ面白いね」
学園祭以来気に入って毎日かけている伊達眼鏡を弄びながら、アイリーンは言った。
その口調も笑顔も子供のようで、働いている時も含めて彼女は楽しそうだった。
言葉には出さないが、彼女の引退に少しの負い目を感じている恭也にそれは嬉しかった。
「少しだけな物か・・・ばれたら今以上に暇がなくなる」
「ふふ・・・それでもいいじゃない。私はこの生活好きだから」
笑顔を止めたまま、アイリーンは恭也の肩にもたれかかる。
「俺だって・・・嫌いじゃない」
頬を染めて視線を逸らしながら、恭也はわざとぶっきらぼうに言った。
「・・・それでも、仕事には慣れたみたいだな」
「うん。みんないい人だし。ここで働くのは楽しいよ」
「それは、何よりだ」
こんな笑顔で言ってもらえるなら、仕事を進めた甲斐があったものだ。
アイリーンはここの人間としてうまくやっていけている。嬉しい。
何より、以前よりも一緒に過ごせる時間が増えたのはいいことだと思う。
「あ、そうだ。恭也一つ聞いておきたいことがあるんだけど・・・」
「ん?なんだ?」
「私達って恋人だよね?」
「世間的には・・・まあ、そういう関係になるんだろうな」
仕事が終わればこうして語り合い、休みの時には二人で何処かに行ったり家で暇を潰し
たりする。それを世間では明らかに恋人の関係とかデートとか言ったりするのを理解は
しているが、それを認めるのは覚悟ができてるとはいえ生粋の朴念仁だけにどこか恥ず
かしい。
アイリーンは、そんな恭也の考えを読んだかのようにジト目になって恭也を睨む。
「恭也・・・私に一度だって愛してる・・・って言ってくれたことある?」
「そう言えば・・・ないな」
「ねえ。今言って」
「妄りにそういったことは口にしないもんだ」
「今はいいの。ねえ、言って」
「・・・・・・そう言えば、美由希が最近腕をあげてな。最近大変なんだぞ」
「とぼけたって無駄だからね。今日は言ってくれるまで粘るつもりだから」
「しょうがないな・・・」
「うん。観念して―」
その言葉を言い終わるのよりも早く、恭也はアイリーンの唇を自分のそれで塞いだ。
元々こうなると思っていたのか、彼女は早々と抵抗を諦め大人しく恭也の腕に収まった。
「・・・ずるい」
彼女は口を尖らせて反論するが、言葉には説得力がない。
「なあ、アイリーン。歌ってくれないか?」
「もう・・・しょうがないなぁ〜」
アイリーンはカウンターから立ち上がると、振り返り恭也に一礼した。
「何かリクエストはある?」
「そうだな・・・ここはやっぱりあれだろう?」
「あれだね。分かった」
彼女は笑顔を浮かべると、その唇は望みどおりの歌を紡ぎだした。
過去と呼べるほど昔ではないが、二人にとってはいい思い出のあの曲。
周囲のバカ騒ぎに乗せられて始めて、それでも終わってみれば楽しかったあの時の曲だ。
(いい歌だな・・・それにいい声だ)
二人以外には誰もいない照明を落とした店内に、彼女の歌声だけが響いている。
『若き天才』とまで呼ばれた彼女がこの場所で、こんな自分のためだけに歌ってくれて
いる。
「幸せだな、高町恭也は・・・」
何もかも頭の中から追い出して、彼女の歌声に耳を傾ける。
そして、余韻を残して歌は終わった。
「どうだった?」
そう尋ねるアイリーンを恭也は無言で抱き寄せた。
「・・・愛してる、アイリーン。誰よりも」
「妄りに言わないんじゃなかったの?」
「今は・・・いいんだ。俺が言いたかったから」
「恭也らしいよ」
アイリーンは身を離し、店内を見回した。
彼女が厨房、恭也がフロア担当の清掃はすでに終わっている。これなら、店員の誰に見
せても文句は言われまい。
「帰ろうか、恭也」
「ああ、そうだな」
恭也は近くに置いてあった彼女のコートを放ると、自分の物に袖を通した。
アイリーンは先に出入り口に立っていて、恭也に向かって右手を差し出している。
恭也は、しばらくその手を眺めていたが観念したようにその手を握った。
アイリーンはそれで満足したようで、笑顔で戸締りをすると恭也を引きずるようにして
歩き出した。
「ねえ、最近楽しいよね」
「そうか?特に変わったことはないと思うが」
「だから楽しいんだよ。恭也と一緒にいられるでしょう?」
「はいはい。楽しいよ」
負かされてしまうため、なるべく話に乗らないようにしながら恭也は足を速めた。
恭也が照れているのが分かるので、アイリーンは尚も話を続けようとする。
こんな平凡な・・・彼女が生きてきた世界と比べれば取るに足らないような毎日。
それでも、二人は幸せだった。すべてを捨てても欲しい物がそこにある。それだけで・・・


「そうだ。今度行ってみたい所があるんだけど、付き合ってくれる?」
「ああ、どこだって付き合うからどこにでも連れて行ってくれ」
「うん。ありがと、恭也」

そう言って微笑むアイリーンは、本当に晴れやかだった。