そ〜ど・だんさ〜 最終話













「嘘…ですよね?」
この一週間一緒に過ごしてきた真一郎が、人間でない?
とても、信じられるものではなかった。
だったらあの赤い目は、一体何なのだろうか?
美由希には、一応人体の知識がある。
あそこまで目が赤くなるというのは、『普通の人間』ならありえない。
そう、ありえない。
「本当だよ」
今までとなんら変わることのない口調に戻して、真一郎は言った。
「…退魔師の力か何かなんですよね?」
「いや、退魔技術の中にこんなのはないよ。これは―」
ふっと、何の前触れもなく真一郎が美由希の視界から消える。





「…これは、俺の中に入ってる『血』の力さ」
声は、美由希の背後から聞こえた。
振り返る。そこには、やはり真一郎がいた。
美由希の目でも捕らえきれなかった。
それでも分かることはある。あれは、消えたのではない。
一瞬だけ視覚で認識できないような速さで動いたのだ。
まるで、御神の『神速』のように。
「俺の生い立ちを話そうか」
昔の何かを探るように、真一郎は虚空に視線を彷徨わせる。
「相川真一郎。当年二十三歳。ちなみに、両親は共に『人間』で、生まれた時は間違い
 なく人間だった」
淡々と語る。何の事はない、これはただの身の上話だ。
美由希はそう必死に自分に言い聞かせていた。
「退魔師の修行を始めたのが、高校二年の三学期。その頃にうちの家族と一緒にいるよ
 うになった。それから、薫さんが海鳴に残ったから俺は一年ほど葉弓さんの下につい
 て全国を回った。それで、晴れて退魔師の仮免許みたいな物がもらえた」
なんとなく、その話は聞いたことがある。
ここまで危なげはない。
ひょっとしたら、何もかも冗談なんじゃないか…そんな気もする。
ただ、真一郎の声にそんな様子は微塵もなかった。
「劇的な変化があったのはそれからかな…さくらと和音さん…那美のお婆さんの要請で
 俺はドイツに行くことになった。そこで俺は『先生』に会って…人間をやめた」
真一郎は美由希の目の高さにまで腕を持ち上げた。
いきなり、真一郎の手のひらに光が灯る。
いつもの美由希ならば驚きもしただろうが、彼女はただその光景を黙って見ているだけ
だった。
「これは霊力を手のひらに集めただけ。要するに退魔能力ね。薫さんも那美もこれくら
 いのことはできる。人間を止めて得たのはこの『目』と―」
真一郎の姿が、また消える。
今度は美由希は自然に、その姿を追って左を向いた。
欄干の上に真一郎。そこが地面であるかのように悠然と立っている。
「身体能力。早く動けたり、腕力が上がったり…まあその程度かな。あと、年を取るの
 がかなり遅くなるって話だけど今は実感がわかない」
真一郎は淀みのない足取りで欄干の上を歩く。
生徒に講義をする先生のように、左手を挙げ―突然その手が、炎に包まれた。
「魔術って物がある。先生はそれを俺に教えてくれた。俺はあまり才能がないけど、雪
 さんは結構天才なんだ。もう何年かしたら瞬間移動くらいできるようになるかもしれ
ないね」
さっと腕を振ると、真一郎の手の炎が消える。
真一郎は軽く飛び上がって欄干を降りると、美由希の前に降り立った。
赤い瞳が美由希を見つめている。
「何か、質問はある?」
「どうやって…そんな、そんな風になっちゃったんですか?」
「…どうって?」
「だって…おかしいじゃないですか!目が赤くなって、あんな『神速』みたいに…」
真一郎の服を掴んで叫ぶ。
信じたくなかった。見てきた物を全部否定されたみたいに、目の前の物を認めるのがす
ごく恐かった。
彼は苦しいようなおかしいような、そんな笑みを浮かべて美由希の頭を撫でようとした。
気づいた美由希は、とっさに頭を引く。
笑みが苦しさを増したが、それでも真一郎は続けた。
「吸血鬼ってものについて、美由希ちゃんはどれくらいのことを知ってる?」
「え…」
突然の質問。脈絡がないようで核心に迫っている。
読書家だけに、本人は非常に恐がりではあったが美由希にはそういう『怪物』の知識も
少なからずあった。
吸血鬼―主に西洋に残る伝説である。
話としては、実在の人物をモデルにしたドラキュラが一番一般的だろう。
細かい部分は読む本によって違う時もあるが、だいたい共通していることはある。
名前の通り人間の血を吸って生きること。
そして、吸血鬼に血を吸われた人間は、死ぬか、その同属もしくは眷属になる。
「血を吸われたんですか?」
「そう。もっとも、正確には吸ってもらったんだけどね。それは俺の意思だよ。仕事の最
中に不覚を取ったとか、そういうことはない」
「嘘です…」
「は?」
「吸血鬼なんて本当にいるはずないじゃないですか…からかうのは、やめてください」
「いるんだよ。吸血鬼、人狼、彼らは自分達のことを『夜の一族』って呼ぶ。ちなみに
 普通の吸血鬼には人間を同属にするような力はない。せいぜい、言いなりにするくら
 いが関の山なんだけど…それにも例外があって、俺の先生はその数少ない一人」
『夜の一族』の中でも最古参の純血の吸血鬼。
彼女は誰よりも強く、誰よりも賢く、そして誰よりも―
真一郎の話はどれにも真実味があって、否定したいと思う美由希の考えをことごとく壊
していった。
すべてを否定するように、美由希は固く目を閉じて首を振った。
そのまま耳をふさごうとする手を、真一郎が掴む。
「これは俺が勝手に話していること。美由希ちゃんが気にする必要はないけど、でも最
後まで聞いてほしい」
美由希から僅かに離れ、真一郎は腕をあげた。
右の人差し指を美由希の額に突きつけ、静かに言う。
「そして、一族には掟があるんだ。今聞いた話を覚えて秘密を共有して生きていくか…
 それとも、話を聞く前に時間を戻して、何もなかったことにするか。これを選ぶのは
美由希ちゃん自身だから、俺は干渉はしない」
「時間?…」
「比喩だけど、そういうこともできるんだ」
真一郎はそれ以上語らず、美由希を見つめ続けた。
すべてを任せる。
自分を見つめる赤い瞳がそう言っていた。








『共有』か…『忘却』か…
選択肢を選ぶ権利は、美由希にしかない。
共有すれば、美由希の中で何かが決まってしまう。
忘却すれば、今まで通り何も恐い思いをすることもなく過ごせる。
この一週間の楽しかった思い出だけを持って、家に帰ることができる。
我知らず、美由希は胸のペンダントに手を伸ばしていた。
微かに震えているような感触は相変わらず美由希を不安にさせる。









「私は…」
恐い。できるなら、今すぐにでも逃げたい。
時間を戻せると真一郎は言った。さっきの話を聞かなかったことにできる、と。
できるなら、そんな恐いことを知らずにいたころに戻れるなら、それは―
(違う…)
逃げたい。それは美由希の本心。
すべてを忘れて楽になりたい。嘘偽りのない美由希の心。
でも、それはきっと…裏切り。
真一郎には七瀬達がいる。彼は決して孤独ではない。味方がいないではないのだ。
どうしても秘密を知る者を増やす必要は、どこにもない。
それでも美由希に話したのは…
「…嫌です」
はっきりと、それは美由希の口をついていた。
小さかったが、それは真一郎の耳に届いた。
彼は一瞬だけ驚いた表情を見せ、赤い瞳で美由希を見返した。
「忘れる?」
「忘れません。私は、その秘密を共有して生きます」
「これは一生の問題だよ。美由希ちゃんの人生の何かが決まってちゃうんだ」
「後悔しません。相川さんは私を励ましてくれました。人間じゃないのは…恐いですけ
 ど、でもよく考えたら相川さんなんですから恐くありませんよ」
「俺って…貫禄がないのかなぁ」
真一郎はとたんに表情を崩して、決まりが悪そうに頬を掻く。
その笑顔を久しぶりに見た気がして、美由希はなんだかほっとした。
自然に笑みがこぼれる。気づくと、ペンダントの震えは止まっていた。
「相川さんが…その、人間じゃないのを知ってる人はどれくらいいるんですか?」
「ん?七瀬達と、後は一族の中でも中のいい人だけだよ。今の所は退魔師ってことでと
 おってるけど…」
それを聞いて、美由希の気分がよくなったのは言うまでもない。
おかげで彼女は思わず笑ってしまいそうになる顔を抑えるのに必死にならなければなら
なかった。
「で…その、なんだ」
決まりの悪い顔をそのままに決まりの悪い物言いをする真一郎。
その一気に人間味の増した表情を美由希はきょとんとした顔で見つめ返す。
「約束の慣例みたいなもので『友好の証』みたいなのがあるんだ…でも、別にやらない
 といけない訳でもない」
「するんですか?」
「いや…だから別にやらなくてもいいんだけど…」
やらなくてもいいとか言われると、やってみたい気もする。
一般人としてとてつもないことを信じたばかりなのだから、今の美由希に恐いものなん
てなかった。
きっと、長年乗れなかったジェットコースターにだって今なら乗れる…かもしれない。
「やってください」
「は!?」
言ってみたら、真一郎はこれ以上ないくらいに驚いてくれた。
その表情を見て、笑う。さらに困る真一郎。なんか面白かった。
「やってください。私は驚きませんし、恐がりもしません」
「いや…そういう問題じゃないんだけど…」
それでもまだしりごみする真一郎に美由希はずいっと詰め寄った。
「やってください」
赤い瞳を真正面から見つめ、はっきりと言う。
それでもまだ真一郎は美由希の目を見返していたが、やがて観念してため息をついた。
「わかった。でも、痛いよ?少しだけど…」
「いいですから安心してください。これでも私は御神の剣士です」
「そう…じゃ、目を瞑ってくれる?」
「はい」
美由希は何の疑問を抱かずに目を閉じる。そして、真一郎の手が両肩に置かれ―
(え!?)
いくら鈍感な美由希でも、これには驚いた。
驚いても声には出ないので真一郎は止まらず、息がかかるくらいの距離に彼の顔が近付
いた時には、美由希は目を固く閉じて全身を強張らせていた。
が、予想に反して真一郎は美由希の顔には触れずに、首に顔を寄せ――噛み付いた。
そこが急所だと知って、美由希は一瞬戦慄する。
食い破られた所から美由希の血が流れ、それを真一郎が吸う。
痛いようなかゆいような不思議な感覚がしばらく続いた。
そして、今度はそこから温かい感触が体全体に広がっていく。







気づくと、美由希は真一郎にしがみつくようにして抱きついていた。
ぼ〜っとしている間に、真一郎は首から口を離した。
噛まれたはずなのに傷口からは血が流れておらず、痛みもまったくない。
「これがその『友好の証』なんだけど…」
「…」
「その、お互いの体の中にお互いの血が流れていることが、一族の間では最高の友情の
 証明になる訳で…」
言い訳する表情もどこか情けない。
美由希はあくまでも無反応である。
それに真一郎が困り果てていると―彼はいきなりその場にくず折れた。
「!…真一郎さん!だいじょうぶですか!?」
我に帰った美由希が慌てて蹲った真一郎の背中を摩る。
彼はこの世の終わりのような顔をして顔を上げるとうめくように言った。
「…ごめん、かなり気持ち悪い」
「だいじょう…いや、どうしてですか?」
美由希に支えられて真一郎はしばらく息をついていたが、何かよくない物を振り払うよ
うに頭を振って、
「…血なんて飲むんじゃなかった…」
聞いててかわいそうになるくらいのか細い声である。
美由希はぽかんと真一郎の顔を見つめていたが、堪えきれなくなってふきだした。
「笑いごとじゃ…ないんだけどなぁ…」
真一郎の情けない声を無視して、美由希は笑いつづけた。

いつまでも、笑い続けた。