1、



 身の危険を感じて悪夢から目を覚ますと、直近に少女の顔があった。



 何を考えるよりも早く手は動き、少女の顔を顔を受け止める。寝起きであることを考えれば

信じられないほどの瞬発力を持った反応だったが、顔を受け止められた少女は尚も力を緩めな

い。



 寝転がったまま、渾身の力を込めて押しのけようとするものの、少女は物ともしなかった。



 漫画家先生――悪夢に出てきた彼女ではない。暫く前に知りあいの少女から管理局の同僚に

昇格した月村すずかが、瞳を閉じて顔を近づけてきていたのだ。



「すずか! 起きろ! すずか!!」



 あらん限りの大声で呼びかけるものの、すずかには聞いた様子もない。物凄い低血圧である

とすずか本人や月村のメイドから聞いていたが、まさかここまでとは……と、恭也は戦慄する。



 だが、まずは現状をどうにかしなければならない。すずかの侵攻を防ぐことが出来なければ、

朝からラブシーンだ。顔を押しのける作業と平行しつつ身体をずらそうと試みるが、寝ぼけて

いても身体は技術を覚えているのか、絶妙なタイミングで体重をかけてこちらを逃そうとしな

い。



 実は起きているのではないか、と疑わずにはいられない所作であるが、何しろすずかの顔は

タヌキ寝入りをしていたら直ぐに看破できるような距離になる。本格的に寝ぼけているのかま

では解らないが、正気でないことは見て取れた。



 正気でないというのが、尚更性質が悪い。普段は理性でセーブしている力が、今は遠慮なく

振るわれている。テスタロッサ研究室の三人の中で最も力が強いのはすずかで、それは気を使

わない状態であっても変わらない。



 逃げられないような状況に追い詰められた時点で、恭也の負けは確定したようなものだ。そ

れでも、抵抗している間に正気に戻れば、と淡い期待を抱いて抵抗を続けていたが、すずかの

顔はじわり、じわりと近付いてくる。



 それが5センチになり、3センチに近付き、やがて0になる。



 すずかの唇が、恭也の首筋に触れる。きらりと光る犬歯が、そこに遠慮なく突き立てられた。

そうして赤ん坊がミルクを飲むように、そこから恭也の血を啜る。



 寝起きの状態で動脈から血を抜かれることがどれだけ危険なことなのか、知らない恭也では

ない。血を失ったことで早速眩暈が襲ってきたが、意思の力でもって激しく抵抗する。



 幸運なことに、恭也が意識を保っている間にすずかの『食事』は終わった。満足したらしい

すずかは止血のために恭也の首筋に舌を這わせると、満ち足りた笑みを浮かべて再び夢の世界

に。



 抱き枕にするようにすずかの拘束は今も続いていたが、力は確実に弱まっていた。逃げるな

らば今しかないと、すずかの下からずりずりと這い出る。



 そこまでで、恭也はようやく危機を脱することが出来た。半裸の少女を前に、深く、深く溜

息を吐く。



 見方に寄れば幸福な状況なのだろうが、意図しないトラブルを楽しめるほど恭也の人間は出

来ていなかった。



 むしろ、上司として人間として男として、すずかの態度を注意しなければならなくなったこ

とが、恭也の心を陰鬱にしていた。注意することに抵抗はないが、どういう風に言えば良いの

か、まるで検討がつかない。



 彼女の名誉を傷つけないようにするにはどうしたら良いのか、眩暈の残る頭で考えていると、

背後で何かをノックする音が聞こえた。扉は既に開いている。その距離に近付か、あまつさえ

ノックされるまで気づかなかった自分に辟易としながら振り返ると、管理局の制服の上にエプ

ロンを着た美由希が、胡乱な眼つきでこちらを眺めている。



 美由希は首筋に噛まれた跡のある恭也と、その傍らで寝息を立てるすずかを――そこはかと

なく着衣の乱れた恭也に好意を持った少女を交互に眺めると、口の端をあげて厭らしくに笑っ

た。



「昨日はお楽しみでしたね」

「俺は今さっき襲われたばかりの被害者だ」

「こういう時に女の子に責任を押し付ける男って最低だと思うなー」



 恭也もその通りだと思ったが、美由希の言葉に責めるような色はなく、今の状況を楽しもう

とする意図が見て取れた。まるでリスティのような物言いに朝から苛立たしさを覚えながらも、

ここでキレては性犯罪者になる、と恭也は努めて冷静に言い返す。



「すずかはお前と一緒に隣の部屋のベッドで寝ていただろう。どうして居間のソファで寝てい

た俺がお楽しみなんだ?」

「私には分からない二人だけのサインとかあっても私は驚かないよ。恭也の方から今夜は一緒

に楽しもう、とかエロいサインを送ったんじゃない?」

「推測で人を追い詰めるのはフェアではないな」

「半裸の女の子が傍らで寝てる以上の状況証拠が、この世にある?」



 恭也と美由希の間に、視線の火花が散る。視線を先に逸らしたのは恭也だった。



「仮に俺が誘ったとして、お前が隣の部屋にいる状況ですずかが乗ってくるとも思えん。内気

な性格であるのは、お前も知ってることだろう?」

「すずかはヤる時はヤる娘だと思うけどね、でもロマンチストだし、いざという時には二人き

りって演出をすると思う」

「では、これが不慮の事故というのを認めるんだな」

「認める。でも、恭也が朝から美味しい思いをしてた、ってことに変わりはないよね?」

「俺は事故についてまで責任を取らねばならんのか……」

「男の子ってほんと、こういう時立場弱いよねー」



 まったくだ、と頷きながら、恭也は考えを巡らせる。



「お前が朝食の支度を始めるために起きた時、すずかは何をしていた?」

「ベッドで寝てたよ。すずかが朝弱いのは私も聞いてたから、起こさないように静かにこっそ

りとベッド出たよ」

「お前がここまですずかを運んだ訳ではないのか?」

「まさかー。私は恭也やリスティと違って、悪戯にそこまで人生賭けないよ」



 リスティと一緒にするな、と反論しかけた恭也だったが、コレに関しては似たようなものだ、

という結論が一週間前、特共研のオフィスで出たばかりだった。恭也は俺はここまで酷くない

と、リスティはこんなに低レベルではないと反論したのだが、その他ほとんどのスタッフがこ

う言った件に関しては似たもの同士だ、という結論を出したため、本人達には全くもって不本

意なことであるが、今では特共研の常識として処理されている。



 元より、リスティと比較されることを今言っても仕方がない。今大事なのは、どうしてこの

件が引き起こされたのかということだ。



「お前が連れてきたのではないというのは解ったが、お前が何かすずかに吹き込んで、すずか

を誘導したのではないのか?」

「酷いなぁ、私がそんなことする女に見える?」

「見えるから聞いてるんだ。お前の身に疚しいことはあるか?」

「さぁ……私がしたことと言えばすずかの耳元で恭也の名前を囁き続けたくらいだけど、それ

が原因とは思えないし」

「解った。諸悪の根源はお前しかいないようだな」



 舐めたことを言うメガネは、叩きのめさなければならない。使命感に従って立ち上がろうと

するが、凄まじい力で腕を引き寄せられその場に蹈鞴を踏む。



 見る間でもないことだったが、一応義務として見やると、すずかの手ががっちりと恭也の腕

を胸に抱いてホールドしていた。



 馬乗りになって押さえられていた先ほどと違い、身体も動く部分が大半だが、美由希は手が

届く範囲にはいなかったし、投げられるような物もない。すずかを抱えれば動くことも可能だ

が、そこまでやってメガネに制裁を加えても、後に残るのは物笑いの種だ。早い話が手詰まり

なのである。



 恭也が珍しく何も出来ない状況であると理解しているからなのだろう。美由希の態度はいつ

になく強気で、笑顔も二割増しで憎らしくなっていた。



「ご飯が出来たらすずかを起こしてあげるよ。それまで二人でごゆっくり」

「待て――」



 叫び声は殺気によって中断された。息の触れそうなほどに近い距離で、すずかが半目を開け

てこちらを見ている。意識がしっかりしているようには見えなかった。まだ寝ぼけている様子

のすずかは、にへー、と締まりのない微笑みを浮かべて、頬を寄せてくる。



 その仕草はまるで猫だ。首筋に、胸元に遠慮なく頬を鼻を寄せて、自分の匂いを擦り付けて

いく。



 させたいようにさせるしかないと諦めるのに、それほど時間はかからなかった。元より、単

純な力比べではすずかに勝てるはずもない。すずかから漂う男心を擽る匂いやら、際どい感じ

の胸元から目を逸らしつつ、部屋を見回す。



 リビングの中央に置かれたソファ。恭也とすずかが身体を寄せ合っているそれ以外に置かれ

ているのは備え付けのテレビだけだ。普通のリビングには不可欠な調度品の類は一切見当たら

ない。



 およそ人が暮らしているとは思えない、まるで恭也・テスタロッサが一人でコーディネイト

したかのような殺風景な部屋だったが、この部屋は多くの人間に求められてこういう様相をし

ているのであって、決して恭也が手を入れた訳ではなかった。



 この部屋――を含むこのマンションの1フロアは、全て特共研が借り上げている。職員用の

社宅と言う訳だ。クラナガンの中央部からは若干離れているが、本局に行きの転送ポートまで

徒歩二十分とそれほど悪い立地条件ではない。



 特共研の職員は全体的に給料が少ないため、その少ない給料で色々やろうと画策した部長の

リスティがレティ相手に掛け合ってもぎ取った権利で、この部屋のような特共研が管理する社

宅扱いの部屋が、クラナガンだけではなく本局行きの転送ポートが存在する都市に散在してい

る。



 恭也たちが利用しているのはクラナガンにあるそういう部屋の一つで、そこには特定の入居

者はなく、有事の際には特共研の職員ならば誰もが利用できるようにと、解放されている部屋

だった。使用する際には泊まる人数と使用目的を部長室にまで直接申請しに行かなければなら

ないが――ちなみに、そこで嘘を吐くと死よりも恐ろしい罰ゲームが待っている――その面倒

な手順さえパスすればタダ同然の金額で利用できることから、仕事の入り具合で海鳴に帰れな

い時などは、恭也も素泊まりで利用することの多い部屋だった。



 いつもは一人で利用するのだが、今日はテスタロッサ研究室の三人で使用している。部下と

は言え女性二人と同じ部屋に泊まることには抵抗がないではなかったが、今日が新しい職場で

ある機動六課の開課式であったため、海鳴に戻って下手に遅刻するのは不味いということでリ

スティに申請して部屋を借りたのだった。



 素泊まりのためにあるような部屋なので、ベッドは一つしかない。そちらのベッドは女性二

人に譲り、恭也はソファで寝ていたのだが、朝起きたら今のような状況になっていた訳だ。



 こんなことになるのなら、ベランダに寝袋でも吊るせば良かったか……と後悔しつつ、特に

することもなかったため、すずかの髪を指で梳いてみた。くすぐったかったのか、猫がするよ

うにゴロゴロとすずかは喉を鳴らす。普段の彼女からは考えられない、幼い仕草だった。



 普段は内気な彼女が正気を取り戻したらどんな有様になるのか、想像するのも恐ろしかった

が、それで困るのは恭也本人ではなく、すずかである。人は欠点を知って成長するとも言う。

寝ぼけてそんな奇行に出たと本人が自覚すれば、次にこういうことが起こる確率はぐっと減る

だろう。健全な男性としては惜しい気がしないでもないが、恭也・テスタロッサでも保身とい

う単語くらいは知っているのだった。



「朝ごはんできたよー」



 暢気そのものな美由希の声が聞こえる。美由希と朝ごはんという劇薬でも出来そうな組み合

わせに以前は恐怖すら覚えたものだが、『こちら』の美由希は出だしこそ平均から大きく劣っ

ていたものの失敗にめげずに地道な努力を続け、料理に関しては平均的な技術を習得していた。



 簡単な朝食くらいだったら、一人でも作れるという訳だ。自分で手を入れるタイプの料理を

作れる美由希など、故郷にいた時は想像したこともなかったが、人間、希望を捨てずに努力を

続ければどうにかなるものらしい。



「さて、お姫様を起こそうかな」



 エプロンで手を拭きつつ、美由希がやってくる。相変わらず抱きついて離れないすずかのお

腹に手を回すと、よいしょ、という掛け声一つで恭也から引き剥がした。あれだけ抵抗しても

びくともしなかったのに、あっさりとしたものである。



 仕事をこなした美由希はそれで退散しようとはせず、離れただけでまだ寝入っていたすずか

の頬をぺちぺちと叩いていた。



「すずかー、そろそろ起きないと初日から遅刻だよー」

「ちこくは……いやですー」

「嫌なら起きないと。あと、すずか本人のために早急に正気を取り戻すことをオススメするか

な。年頃の女の子がワイシャツ一枚っていうのは女の私から見ても十分過ぎるほど眼福だけど、

一応男の目もある訳だから、ね?」



 ね? という音と共に視線を向けられるが、無視する。男の目からだって眼福それ以上であ

るが、正直に発言して弱みを見せるのは遠慮したい。すずかに解放されて自由になった体を解

しながらリビングの隅にかけてあった地上の制服と腕章に手を伸ばす。



 腕章に記されているのは先日、リスティの知りあいの漫画家にデザインを依頼した、恭也が

取り仕切ることになる分隊の分隊印である。交差する二刀と赤い瞳の烏が意匠されたそれは、

流石プロと思わせるだけの存在感があった。



 美由希やすずかには甚く好評で、恭也も密かに気に入っていたのだが、なのはやフェイトの

分隊の分隊印がもっと簡素な物であったのを受けて、ここまでやっている自分達が間抜けなの

ではと思えてきた。



 六課の面々にはまだ見せていない。もし、なのは辺りにからかわれたら公衆の面前でも彼女

に関節技をかけてしまうかもしれない。なのはの名誉など知ったことではないが、乱暴物と思

われるのは如何にも不味い。



 自分の名誉を守るためにはどうしたら良いのか。その原因を潰そうと分隊印の変更を考えた

恭也だったが、リスティが音頭をとった企画を潰せるはずもなく、その他地味な抵抗はしてみ

たが、仕事中は腕章をつけること、という要らないオプションまでつけられてしまった。



 何もしない方がダメージは少なかった、ということに気づいたのは、昨晩この部屋に足を踏

みいれてからである。



 そんな中途半端に甘酸っぱい思い出が詰まった腕章の隣には、ほとんど袖を通したことのな

い地上の制服が一式揃っていた。ワイシャツには昨晩すずかがアイロンをかけてくれ、茶色の

上着には皺の一つもない。昨日の時点で何度も確認したことだから、寝て起きたくらいで変わ

ってはいないはずだが、念には念をだ。一通り確認を終えて、ハンガーを壁にかけなおす。



 何も問題はない。



 何事もないのは良いことだと恭也が何とはなしに頷くと、背後からひ、とぴ、の中間くらい

の音で息が漏れるのが聞こえた。



 呼吸音だけでも誰かは分かる。すずかが正気に戻ったのだろうか、と思い振り返り――その

一瞬の後に、それが不幸の始まりであったことを理解した。



 振り返ると、真っ赤な顔をしたすずかと目が合った。蒼い瞳には今ははっきりと意志の光が

宿っている。羞恥一色で染まったすずかは恭也が振り向いたのを知ると、とっさに脇に在った

物に手を伸ばした。



 どこでも買えそうな、プラスチック製のシンプルな置時計である。すずかが手で掴めるくら

いの大きさなので、それほど高価でも頑丈でもないはずだが、すずかはそれを電光石火の速度

で振りかぶる。



 振りかぶれば、後は振り下ろすだけだ。防御することも回避することも思い浮かばなかった

のは、相手がすずかだったからだろうか。



(こういう時に、男は損だな……)



 心中で一人ごちながら、恭也は飛来した置時計が自分の額に直撃する音を遠くに聞いた。




















 




 

2、



「中で待ってもいいんじゃないか?」

「気分の問題です。春先とは言え日差しは強いですからね、何でしたら陸曹は中でお待ちいた

だいても構いませんよ」

「男は自分で言い出した事を翻したりしないもんだ」



 ふん、と息を吐いて強がるが、言葉をそのまま解釈すると今の状況に不満を抱いているとい

うことでもある。付き合うと言い出したのは確かに彼の方だが、外で待っているのは多分に個

人的な事情に寄るものである。



 そんな小さな苦行に部下である彼を付き合わせるのは、上司としていかがなものか。機動六

課部隊長補佐グリフィス・ロウランは心中で葛藤したが、短い付き合いであっても彼が自分で

言い出した言葉をそう簡単には翻さない人間であることは理解している。



 やると言った以上、彼は最後までやるだろう。それがどんなに些細なことであっても、約束

は守る。見た目は軽薄なところもあるのに、芯の通った人柄だった。



「ところでヴァイス陸曹、貴方はテスタロッサ准陸尉と親しいんですか?」

「いや、会ったことはねえよ。姐さんから話に聞いたことがあるくらいさ。剣の腕は天下一品

と聞いてるが、戦ってるところは見たことねえ」

「シグナムさんが言うのなら、それは相当なものなんでしょうね」



 剣の騎士という二つ名を自ら名乗るだけだって、シグナムの剣の腕は当代一級の物だ。管理

局内は元より、ベルカ自治区や聖王教会を含めても彼女ほどの使い手は数えるほどしかいない。



 そのシグナムをして天下一品の腕、それも魔導師でない身でありながらその誉れを受けると

いうのは、それだけで恭也の非凡さを示していると言っても良い。



 事実、恭也は聖王教会では尊敬と信頼の念を集め、排他的な管理局内にあってもその地道な

活動が実を結んで、現場では大きな支持を集めている。階級こそ准陸尉であるがそれは彼の扱

う魔法体系が認められていないだけで、認められさえしていればたちまち軍功を重ねて上の立

場に上るだろう、とも誠しやかに囁かれていた。



「お前の方はどうなんだよ。会ったことはないのか?」

「名前を方々から聞くのですけれどね。お会いしたことは一度もありません」



 同じ派閥に属している、という点では会う機会はあったのかもしれない。所属が地上と本局

とは言え、リベラルな気風を持つハラオウン派には本来ほどの垣根は存在しなかった。



 それでも会ったことがない、というのは……自分に原因があるのだろう。その原因について

は考えるまでもない。一度も顔を合わせたことのない恭也とグリフィスを結びつけるものは、

一つしかなかった。



 グリフィスの母、レティ・ロウランである。

 

 グリフィスが物心ついた時には、両親は離婚していた。そこにどういう経緯があったのか、

興味はあったが問いただしたことはない。



 そんなことは気にもならないほど、レティは自分に愛情を注いでくれた。激務であるはずな

のに定時には必ず帰宅し、朝食も夕食も作ってくれた。相談したい時には相談に乗ってくれ、

行事などには必ず参加してくれた。



 尊敬する人物を問われて躊躇いなく母と答えられるほど、グリフィスは母のことを尊敬して

いた。人間としても局員としても彼女のようにあろうと努力し続けてきた。今でも母以上の局

員はいないと思っているし、尊敬の念は微塵も薄れてはいない。



 だが、レティに関してグリフィスが受け止め切れていないことが一つだけある。



 レティは良く言えば奔放、悪く言えば多情な女性だった。



 生まれてこの方男女付き合いをしたことがないグリフィスには良く解らないことだが、特定

の相手を複数つくり、同時に関係を持っているようである。それを離婚してしばらくしてから

現在まで続けているようで、噂に上る人間の数は今では中々の数になっている。



 普通であればこういう類の噂が立てば沈静化に乗り出す物だが、英雄色を好むとでも言うの

か、レティに関しては黙認されている節がある。レティ・ロウランならば可笑しくはない、と

いう風潮が管理局の中で既に出来上がっているのだ。



 大人の付き合いに関しても管理局内では公然の秘密となっているようで、息子のグリフィス

相手にも誰も気後れしているような様子はない。



 その相手と結婚しようとか思っている訳ではないのは、レティの姿を見ていれば分かる。本

当に付き合いだけに留めているようで、それが家庭に持ち込まれたことは一度もないかったか

らだ。



 不純な目的で付き合っているかと言えば、それもNOなようだった。レティはレティなりに

相手は選んでいるようで、問題が拗れたなどということは噂であっても聞いたことがない。



 恭也がその中に名を連ねている、というのも少し噂好きならば分かることだった。優秀でデ

キる人間をレティは好む。出世競争には参加すら出来ていないが、能力だけを見れば恭也は間

違いなく優秀だ。関係を持っていたところで何も不思議はない。



 尤も、噂があるからと言って、実際に関係を持っているかという確証は得られない。本人達

に聞ければ一番なのだろうが、噂に登るような人間は皆口が固く、実際はどうなのかというこ

とを語りたがらない。人によって信じる信じない、というのがあるようで、例えばフェイトや

なのはなどは、これを信じていない部類に入るはずである。



 グリフィスは、恭也に関して言えば噂を信じていた。他の噂と何か違いがあった訳ではない。

恭也ならばありそうだ、という思いが何故だか直ぐに確信に変わった、それだけのことである。



 母親とそういう関係にある男性だから、避けていた。言葉にすればただそれだけ。たったそ

れだけだ。自分に関する限り恭也には何も落ち度はない。そんな恭也を避けるのはこれから一

緒に働く上で決して好ましいことではない。



 自分の気持ちに決着をつける。グリフィスはそのつもりで恭也を待っていた。



 とは言え、具体的に何を言うでもないが、その場面はあまり人に見られたい物ではない。人

目につかないように、出勤してきた恭也を直ぐに捕まえようと六課施設の入り口でぼーっと恭

也を待っていたのだが、ヴァイスがこちらを気遣うような調子で声をかけてきて現在に至って

いる。



 ヴァイスの軽いノリがグリフィスの肌には合わなかったが、話してみて彼が良い人間である

というのは理解できた。人間関係に関しては消極的である自分には、ヴァイスのように踏み込

んできてくれるタイプの方がありがたい。



「准尉どの、来たみたいだぜ?」



 考えに耽っていると、ヴァイスの声が聞こえた。待っていたのは自分なのに先に見つけたの

がヴァイスというのも格好悪い。せめてしゃきっとしようと背筋を伸ばし、ヴァイスが指差す

方を見やる。



 そこには確かに恭也・テスタロッサの姿があった。その両隣には女性を従えている。二人と

も資料で顔は知っていた。恭也と同じ特共研、同じ研究室に所属する高町美由希と月村すずか

である。



「なにやってんだろうな、あの三人」

「さあ……」



 ヴァイスの問いに、グリフィスも首を傾げる。同じ研究室からの出向なのだから三人一緒に

出勤してくるのもそれほど不思議なことではないが、すずかが恭也に対して只管頭を下げてい

る状況は、グリフィスにもヴァイスにも理解できなかった。



 何か不手際があったらしい、というのは想像できるが、恭也も美由希も苦笑を浮かべるばか

りで気にしているのはすずかだけ、というのがグリフィスの抱いた印象である。



 何が起こればそうなるのか、個人的興味がないではなかったが、それを突っ込むのは後回し

である。三人の遣り取りに注いでいた視線に恭也と美由希がほとんど同時に気づいた。軽く会

釈をする美由希に、遅れて気づいたすずかが慌てて追従する。



 恭也の視線を受けて、グリフィスとヴァイスは姿勢を正した。恭也の階級は六課に出向が決

まった時に一つ上がって准陸尉である。陸曹であるヴァイスから見れば上司であり、准陸尉の

グリフィスとは同格ではあったが、年齢は彼の方が上であるため敬意は払わねばならない。



 畏まった様子の二人に恭也は苦笑を浮かべたようだった。歩調を少しだけ早めると同時に、

美由希とすずかに『先に行け』と手で合図をする。仲間ハズレにされたことに美由希は片眉

を上げて抗議をするが、大した話ではない、と恭也は同じ仕草を繰り返す。



 不満そうな顔をしたまま、それでも上司の決定には従うことに決めたらしい。先ほどより

も少しだけ深い会釈をすると、美由希はすずかを伴って施設の奥に消えていった。



 その美由希の姿が見えなくなってから、恭也はそっと溜息をついた。



「朝から見苦しいところを見せた。出来ることなら忘れてくれると嬉しい」

「何があったのか聞いても良いっすかね」

「諸々の事情が重なって俺の額に置時計が直撃し、置時計は大破した」



 そう言って恭也が晒した額には、痛々しい傷がまだ残っていた。時計が大破するほどの衝撃

を受けたにしては小さな傷だが、恭也・テスタロッサと置時計が喧嘩をすれば、勝つのは当然

恭也だろう。傷が小さいのはそれほど不思議なことではない。



 ヴァイスの感嘆の溜息が終了するのを待って、恭也は額を再び前髪で隠す。傷と先ほどの遣

り取りに関しては、それで説明は終わりらしい。視界の隅で、ヴァイスが肩をこけさせるのが

見えた。



 気持ちは解らないでもない。恭也のそれは説明になっているようで、なっていなかった。聞

き手からすれば聞きたいのは時計が直撃するに至った『諸々の事情』の部分である。それをボ

カされていては片手落ちだ。ヴァイスは突っ込んで聞こうと身を乗り出すが、グリフィスには

恭也が梃子でも動かないだろうことが見て取れた。慌ててヴァイスの腕を引き、やめるように

視線を送る。



 以心伝心、とまではいかなかったものの、言いたいことくらいは理解してくれたらしい。身

を乗り出したヴァイスは中空に視線を彷徨わせ、当初の予定とは全く異なる、至極真っ当なこ

とを口にした。



「お初にお目にかかります。俺はヴァイス・グランセニック陸曹っす。ヘリのパイロットをし

てますので、准陸尉殿とは顔を合わせる機会も多いのではないかと」

「恭也・テスタロッサ准陸尉だ。現地までの移動手段は俺達にとっては生命線だ。厳しい仕事

になるかと思うが、共に頑張ろう」



 固い握手を交わす恭也とヴァイス。今さっきまで興味本意の話題を振ろうとしていたとは思

えない切り替えの早さだった。握手を終えた恭也の視線がグリフィスを捕らえる。深い茶色の

瞳に、グリフィスは身を固くした。



「……とって食ったりはしない。女所帯で少ない男同士だ。仲良くやっていこう」

「お気遣い痛み入ります。グリフィス・ロウラン准陸尉です。隊長補佐と、交代部隊の責任者

を務めます」

「交代部隊か……古強者が多いから上に立つのは大変だと思うが、彼らは現場のことを知り尽

くしている。アドバイスを求めれば親身になって答えてくれるだろう。シフトの関係で俺も交

代部隊と協力することは多いだろうから、困ったことがあったら遠慮なく言ってくれ」

「ありがとうございます」



 ヴァイスにしたのと同じように差し出された恭也の手を握り返す。今まで握ったどんな手よ

りもゴツゴツとした手だったが、不思議と暖かい。



「准陸尉殿は女所帯はあまりお好きではないので?」

「その質問にはどういう意図があるのかな、陸曹」

「いえいえ、特共研と言えば管理局の中でも女所帯の筆頭株。そんな部署に所属してるのに、

男を歓迎しているように思えたのでつい」

「そりゃあ、俺も男だ。女性に囲まれて悪い気はしないが……考えても見てくれ。周りを見れ

ば全て女。比率で言えば約300:1だ。それだけ差がつくと男の権利なんて物はあってなき

がごとし。仕事の上でのことは流石に聞いて貰えるが、そうでない時は流されるままだ。他所

から見れば羨ましい環境なのだろうが、俺からすれば気を使わなくて済む男所帯の方がよほど

良い。代われるものならば代わってやりたいよ」

「准陸尉殿も苦労してるんですね」

「その苦労を分かち合ってくれるというのなら、飲み会の席をセッティングしても良いぞ」

「本当ですか!?」

「ああ。女の中に男が一人という環境を指して『地獄のようだ』と思うようになっても良いな

らだが」

「兄貴っ!!」



 跪きそうな勢いで、ヴァイスが恭也の手を握る。ノリは冗談そのものだが、兄貴という言葉

には本物の敬意があるように思える。飲み会の約束を対価に子分を得られるのなら安いものな

のだろうが、子分を得たはずの恭也は酷く憂鬱そうな顔をしていた。



「予め断っておくが、女性不信になってとしても俺を恨んでくれるなよ」

「恨むだなんてとんでもないっすよ。いや、あんたは何て良い人なんだ!」

「約束を果たした後もそう言ってくれることを、今から望んでやまないよ」

「意外ですね。女性の扱いにはもっと慣れているものだと思っていましたが、今の貴方を見て

いると、苦手にしているように思えます」



 グリフィスが正直な感想を言うと、恭也は驚いたような表情を浮かべて見つめ返してきた。

しばらく見詰め合うとどこか遠くを見るように苦笑を浮かべた。この手の表情を、グリフィス

は何度も見たことがある。



「その顔で言われると説得力があるな」

「面差しは似ていると良く言われます」



 恭也は居心地が悪そうに目を逸らす。この顔から、レティのことを連想したのかもしれない。



 母の容姿を色濃く受けついだこの顔はグリフィスの自慢の一つだったが、容姿が生み出す物

も様々だった。



 悪い点よりも良い点の方が多いのが救いであるが、男に怪しげな対応をされると身の危険を

感じることもある。男性に無遠慮に身体を見られることに比べれば、恭也のこの反応はまだ良

い方だ。



「女所帯にいるからか、どうも女性の扱いが上手いように思われることが多いのだが、それは

大きな間違いだ。それに普段身を置くなら気を使わなくても良い男所帯の方が良いに決まって

いる」

「贅沢な悩みっすねー。俺なら拝んででもそっちにいたいって思うのに」

「いざその環境に身を置いてみると考えも変わる。女ばかりだと男は全ての面において劣勢だ。

頼られていると言えば聞こえは良いが、良い様に使われているというのが実情だな。オマケに

気は常に使わなければならん」

「女性はお嫌いなんですか?」

「俺も男だ嫌いではないが……一言で言うなら面倒な存在だと思う」

「聞かなかったことにしておきますよ」



 クリフィスの軽口に、恭也は助かる、とだけ答える。六課は交代部隊まで含めれば男女比率

は若干女性に傾いているといった程度だが、恭也が共に仕事をすることになるフォワード部隊

は、恭也の部下二人を含めて全員が女性だ。



 300:1に比べれば遥かにマシだろうが、特共研は科学者がほとんどであるのに対し、六

課フォワードは全員が魔導師である。何かあった時には、物理的な被害を被る可能性もないで

はないのだ。グリフィスは彼女らが理性的な対応を取ってくれることを信じているものの、い

ざそういう場面に出くわした時、相手が自分ではどうしようもない力を持っているというのは、

恐怖以外の何者でもない。



「僕が貴方の環境に放り込まれたら、とっくに逃げ出しているかもしれません」

「慣れればどうってことはない……と言いたいところが、俺は全く慣れた気がしないな」

「合う合わないがあるのですよきっと。恭也さんは、合わない方ということで」

「察するに、お前もそのようだ。気は合いそうだな」



 照れたように、恭也は微笑む。朴訥な人柄が表れたようなその微笑に、グリフィスは恭也を

取り巻く環境が何故形成されているのかを理解できた気がした。



 

 






























3、



「エリオ! キャロ!」



 遠くに見知った姿を見つけたスバルは、声を挙げて大きく手を振った。普段ならば往来で恥

ずかしいことをするな、と小言を言うティアナも今は沈黙している。誰憚ることなく手を振る

と、キャロは満面の笑顔でパタパタと、エリオは恥ずかしそうに俯きながら駆けてくる。



 駆けてきた勢いそのままに飛びついてくるキャロを抱きかかえ、その場でぐるぐると回転す

る。



 小さくて女の子してて可愛らしいキャロ。あぁ、私にもこんな感じの妹がいたらなぁ……と

妹のいない人間特有の妹幻想を持っているスバルは、キャロの笑顔に軽くトリップしかけてい

たが、そのままだとその妹分のキャロを放り投げてしまいかねないので、慌てて彼女を地面に

降ろした。



「お久し振りです、スバルさん」

「うん、久し振りだねキャロ。背は……あんまり伸びてないみたいだけど、今日もちゃんとか

わいいよ」

「ありがとうございます」



 照れて微笑む姿もまた可愛かったが、抱きしめるのは鉄の意志で堪える。キャロならばいつ

までだって抱っこしていたいが、それだと日が暮れてしまうのだ。



「エリオも久し振り。私が訓練校に入る前に会って以来だね。少し背が伸びた?」

「おかげさまで。スバルさんはお変わりないようで、何よりです」

「む。これでも少しは成長したよ?」



 おもにおっぱいが、とは言わないでおく。年齢相応の体型なことがキャロの悩みであるのは

スバルも知っている。今目の前にいるキャロは可愛いが、スバルの記憶にある姿と寸分も違わ

ない。当然胸囲もだ。



 反対に、エリオには幾らかの成長が見られた。男性の制服を着ているのは相変わらずだが、

身体つきが全体的に丸みを帯びてきたように見えるし、胸元には在るとはっきり認識できるだ

けの膨らみがあった。



 確かエリオとキャロは今年で十歳だったはずだが、自分が十歳だった時よりもエリオは成長

しているように思えた。記録映像にあった、なのはやフェイトの十歳当時と比べても上かもし

れない。



 今の時点でこれならば将来が楽しみと、はやて辺りならば言うのかもしれないが、成長が始

まるのが早いと終わるのも早いというのは、どの世界でも往々にしてあることだ。



 エリオもそれに分類される保障もないのだが、何となく将来も小さく可愛らしいままの気が

するキャロの手前、例え想像の中だけであってもエリオが『わがまま』に成長するヴィジョン

を持つのは可哀想なことなように思えた。



(まぁ、自分ではどうしようもないことってのはあるよねー)



 勉強然り、運動然り、容貌もまた然りだ。そろそろ身体的な成長が頭打ちになってきた自分

と違って、キャロにはまだまだ未来がある。どうにもならないことは確かにあるが、未だ来て

いない先の時間については、希望くらい持っていても構わないだろう。



「スバルさん、こちらの方は?」

「あ、二人とも会うのは初めてだよね。ごめん、忘れてた」



 忘れるな! と普段であれば拳骨くらいは飛んできただろう。スバルも反射的にそれを覚悟

してしまったが、ティアナの拳は飛んでこなかった。



 相棒の手応えのなさに、スバルは溜息を漏らす。もしかして私ってばマゾ? と自問しつつ、

ティアナを見やった。



 地上の制服を着こなした姿は相変わらず凛々しいが、いつも自信と知性に満ちたその顔には

今は不安ばかりが浮かんでいる。態度もどこか落ち着きがない。視線は彷徨っているし、手は

頻りにツインテールの先を弄っている。



 スバルは派手にキャロやエリオとの再会を喜んでいたつもりだったが、それにも気づいた様

子はなかった。普段のティアナならば考えられないほどに意識が散漫になっているが、今朝寮

の同室で起きた時から……いや、昨晩寝る前ぐらいからこの調子だった。



「ティア、ほら、自己紹介しないと」



 身体をスバルが揺すって、漸くティアナは自分とスバル以外の存在に気づいたようだった。

慌てて姿勢を正すが、眼前にいるのは今日から一緒に働くことになる同僚だ。畏まり過ぎるの

も良くないと考えなおしたのだろう。敬礼しそうになっていた手を引っ込め、不器用な微笑み

を浮かべる。



「ティアナ・ランスターよ。スバルとは訓練校の同期で、今も腐れ縁が続いてるわ。階級は二

等陸士。よろしくね」



 挨拶と共にティアナは右手を差し出したが、右手は一本しかなく相手は二人である。どちら

を先にしたものかとティアナが迷っていると、二人は一瞬だけ視線を交錯させ、キャロが一歩

踏み出し、ティアナの手を握り返した。



「キャロ・ル・ルシエ三等陸士です。スバルさんには、以前から良くしてもらってます」

「この娘に良くしてもらってるっていうのが、私には想像できないけど……大丈夫? 振り回

されたりしてない?」

「そんなことありませんよ、頼りになるお姉ちゃんです」

「キャロ! ありがとう!」



 お姉ちゃん、という言葉に感激したスバルがキャロを抱きしめようと一歩踏み出すのとほぼ

当時に、ティアナの手が閃き、スバルの頭に拳骨を落とした。いつも通りの感触にスバルは何

処か安堵を覚える。



 やっぱりティアはこうでなくちゃ、とは思ったが言わない。身体の頑丈さには定評があるス

バルだったが、痛いものは痛いのだ。特にティアナの拳骨は愛が篭ってでもいるのか、恭也の

デコピンよりも痛みを感じることがある。



 いつものティアナに戻れるのだ、と理解はした。もう重ねて拳骨を喰らう理由はない。



「……僕は、エリオ・モンディアル二等空士です。先日訓練校を卒業しまして、機動六課に配

属になりました。ここが初めての部隊になりますので、よろしくご指導ご鞭撻のほどを」



 型どおりの見事な挨拶にスバルは戦慄した。六歳も年下のエリオがキラキラと輝いて見える。

というか、ご指導ご鞭撻なんて言葉をスバルは生まれて一度も使ったことがない。出会った時

から精神年齢の高い少女だと思っていたが、訓練校に通ったことでさらに磨きがかかったよう

だった。



 目標としている人間が古風であるせいか、彼の気風も知らずに取り入れているようにも見え

る。指摘したらエリオは怒るのだろうが、傍からテスタロッサ家を見る身としては、こういう

共通点の発見は嬉しく思う。



「空士?」



 エリオの手を握り返しながら、ティアナが問い返す。



 空士というのは本局地上を問わず空戦部隊に配属されている者の階級である。そこに所属す

る魔導師は、バックアップの医療魔導師を含めて全員が空を飛ぶことが出来る。



 スバルやティアナのように陸士訓練校を卒業してから飛行魔法を習得し、空士になる人間も

いるが、空戦魔導師の多くは空士訓練校の出身者で、陸士訓練校を卒業してから後に飛行魔法

を習得し空戦魔導師に転向するのは稀なケースであると言えた。



 スバルが気まずそうにティアナを見る。



 ティアナはその、陸士訓練校を卒業して後に飛行魔法を習得しようと考える、稀なケースの

一人だった。当初は空士訓練校に入ろうとしていたようだが、諸々の事情により断念。スバル

と同じ訓練校に入学し現在に至っている。



 彼女の口から空士訓練校に対するコンプレックスの言葉を聞いたことはないが、自分より大

分年下の実例を見ては、流石に心中穏やかではいられないだろう。



 空士訓練校に入学する人間は、陸士のそれよりも優秀であるというの定説だ。全てが全てと

いう訳では勿論ないが、二等空士という肩書きはそれだけでエリオという少女の非凡さを示し

ている。



 今朝からどこか様子が可笑しかったし、もしかして機嫌を損ねてしまったのではと、スバル

がティアナの未来を心配していると、彼女は静かに微笑みを浮かべた。そこに妬みとか嫉みの

色は一切感じられない。



「優秀なのね。同僚になってくれて頼もしいわ」

「ご期待に沿えるよう、微力を尽くします」



 肩肘を張った返答に、今度はティアナが苦笑を漏らした。



「これから同じ部隊で働くんだし、もっとざっくばらんでいいわよ」

「ですが、年長者には礼を払うべしと教えられました」

「度合いにも寄るのよ。そりゃあ、立場に差があるんだったらそれも必要でしょうけど、私達

にはそれほど違いはないでしょう?」

「それはそうですが……」

「だから、私のことはティアでいいわ。呼んでみて?」

「ティア……さん?」

「良く忘れなかったわね。呼び捨てにされてたら、拳骨を落としてたわ」



 苦笑を微笑みに変えて、ティアナがエリオの頭を撫でる。顔合わせが上手く行ったことに、

スバルはそっと胸を撫で下ろした。



「そう言えば、フリードは? 一緒じゃないの?」

「さっきまでは一緒だったんですけど、恭也さんを見つけたら飛んでいっちゃいました。今

は恭也さんの頭の上で休んでると思います」

「フリードって好きだよね、キョウ兄の頭の上。そんなに居心地がいいのかな」

「どうなんでしょう。私は乗ったことありませんからちょっと……」



 と、キャロは言うが、キャロならば小さいし無理をすれば乗れないこともないと思う。自分

がやったら投げ飛ばされるのだろうが、恭也はあれで子供には優しい。キャロが一生懸命やっ

たことならば、無碍にはしないはずだ。



 全く、昔は自分も今のキャロと同じくらい大事にされていたのに、今では扱いもぞんざいに

なってしまった。自分を投げ飛ばすようになった恭也の態度に最初は嫌われたのでは、と心配

になったもので、その原因を探るべく色々とアタックもした。



 その結果、恭也は過度なスキンシップが苦手なのだということが解ってきた。全てが全てと

言う訳ではないようだが、人前で、唐突に、過剰な抱きつきや頬擦りをしようとすると、条件

反射で投げ飛ばしているように思う。



 思う、というのは自分以外で被害にあっている人間をなのはと美由希しか見たことがないか

らだ。彼女らの扱いは自分とはまた違う気もする。スバルは前述のようなスキンシップを仕掛

けないと投げられたりデコピンされたりしないが、あの二人はそういうことがなくても頻繁に

デコピンを喰らっている。



 なのはや美由希、それから自分とキャロ。恭也の中でどういう線引きがされているのか、そ

の詳しいところは良く解っていないが、低い年齢だと大体全てのことが許されるというのは、

自分の過去を振り返り、かつキャロなどの扱いを見ていると何となく察しはついた。



 キョウ兄ってばロリコンなんだね! と覚えたての言葉を言って、地獄車を体験した日のこ

とは忘れられない思い出である。



 とにかく、恭也は基本的に女性に優しいが、彼の基準でデコピンなどの制裁を加えて良し、

と判断されている女性に対しては結構容赦がない。嘘も吐かれるしからかわれることもある。

普段の性格に反してそういうことを楽しむ節もあり、唐突にからかわれると一方的に丸め込ま

れることもあった。



 見方によっては特別扱いされていると思えなくもないが……一応、女の子の自覚がある身と

しては、もう少し紳士的に接してくれた方が嬉しい。



 しかし、時間は巻き戻らない。ロリっていた日々はもう過去のことなのだ。ならば先達とし

てキャロが自分と同じ道を歩まないように、温かく見守るのが使命である。



 尤も、キャロは成長して同じことをしても、自分のような扱いを受けないような気がひしひ

しとするのだが……それを言及すると自分の身が悲しくなってくるので、しないでおく。



「キョウ兄は元気してた?」

「さっき男性二人と仲良さそうに歩いてるのを見ました! 恭也さんには男性のお友達が出来

ない呪いがかかってるってアルフさんが言ってましたけど、冗談だったんでしょうか?」

「うーん、どうなんだろう」



 恭也の交友関係全てを把握している訳ではないが、恭也が男性と一緒にいるところをスバル

は見たことがない。逆に女性の知りあいは数多いらしく、会う度に違う女性を連れている恭也

のことを、だらしない男なのではと勘ぐったこともあったが、そういうことは特になく、恭也

の言葉を信じるのならば、連れて歩いているのはほぼ全て『友人』であるらしい。



 らしい、というのは恭也の妹であるフェイトの弁だ。恭也の女性関係の話をする時のフェイ

トは、聊か情緒が不安定になるために情報の信用性に不安が残るものの、全てではなくほぼ全

てと言う辺り、全くの嘘という訳でもないようだ。



 フェイトに聞く限り、恭也と親しく付き合っている人間のほぼ全てが女性であり、その中に

は『特別』仲の良い女性もいると言う。『特別』がどの程度のものなのか大人ではないスバル

にはイマイチ理解できないのだが、フェイトの鬼気迫る表情が、その『特別』がその他の女性

達と明確に区分できる何かを持っていることはスバルにも解った。



 幸いなのは、スバルもギンガもフェイトの目する恭也の『特別』には入っていないようであ

る。覚悟完了しているギンガはフェイトと全面対決をしようと取っ組み合いの喧嘩をすること

になろうと誰にも文句は言わないだろうが、スバルは命は惜しい。



 恭也のことは素敵だと思っているし大好きではあるが、男性として見てどうかというのはま

た別の問題である。



 出自から強面好きの母や姉と男性の好みまで被る可能性は高かったが、今の恭也に心を奪わ

れたとかそんな兆候はない。スバルはもう少し、柔らかな風貌の男性が好みなのだ。



「スバルさん、スバルさん」



 背伸びをしてスバルの後方を伺っていたキャロが、耳を寄せてくる。



「何だかティアさんがいきなり挙動不審になりましたけど、どうしたんですか?」

「あーわかる? 今朝からずっとあの調子なんだ、キョウ兄に会えるからって」

「うっさいわよ、バカスバル」



 いつものようにティアナの声が飛ぶが、そこにはいつもの覇気がない。キャロ達が来るまで

と同じように、しきりに指を髪にやり辺りに視線を彷徨わせ始める。今朝からずっとこの調子

なのだから、根も相当に深い。そんな親友の姿に、スバルは深い溜息をついた。



「あのね、ティア。何度も何度も何度も言ったけど、今更見た目を気にしても、何も変わらな

いと思うよ」

「そんなの解ってるわよ。でも気になるんだから仕方ないじゃない」

「ティアさんは恭也……さんに会うのにそんなに緊張してるんですか? どうしてまた」

「昔、キョウ兄に助けてもらった時から、キョウ兄がティアの王子様なんだ。今日が初めての

再会だからって緊張してるの。今さら気にしてもしょうがないのに、ほんとティアってばかわ

いいよね」

「緊張する必要はないと思いますよ? あの人は女性には無駄に優しいですから」



 何処かトゲのある口調のエリオが気にはなったが、自分以外の人間に慰めの言葉をかけても

らったことが効いたのか、ティアナの態度にも落ち着きが見られた。



「その……本当?」

「本当です。少なくとも今の状態から更に見た目を気にする必要はないと思います」

「でも、ツインテールって子供っぽくないかしら。今からでも髪を降ろした方が――」



 面倒臭い人だな……と言う言葉がエリオの口から漏れるが、ティアナには聞こえなかったら

しい。思わぬ毒舌にスバルが引いていると、エリオは笑顔を浮かべなおし、



「大丈夫ですよ。あの人はよほど奇抜でもない限り女性の服装髪型に忌避感など持ちません。

女性のファッションとかそういうものに致命的に鈍いんです。ええ、多少髪型を変えたくらい

では気づいたりしませんよ」



 エリオの物言いには妙な実感が篭っていたが、一応恭也を兄と慕うスバルとしてはいつもツ

インテールにしている女の子が髪を降ろしているのに、何も突っ込まないような愚鈍な人間で

あるとは思いたくはなかった。



 ティアナへの励ましなのか恭也をただ貶したかったのか。ともかくエリオの聊か歪んだ助言

によって、ティアナは意を決したようだった。



「さ、行こうかティア。新人なのに遅れていったらかっこわるいもんね」



 努めて明るい声を出して、スバルはティアナの背を押す。意を決してくれたのはありがたい

のだが、何か切欠があれば直ぐにうじうじモードに戻ってしまうのだ。今回の復帰で六度目。

出来ることならば、七度目はナシにしておきたい。



「ね、ねえスバル」

「あーほらティアさん。髪が乱れてますよ、歩きがてら僕らが直しましょう」



 早速気分が下がりそうになったティアナの言葉を遮るようにエリオが背後に回り、キャロが

そのアシストをする。打ち合わせはまるでない、完璧なコンビネーションだった。後輩二人に

髪を触られてしまえば、流石にティアナも言葉を続ける事が出来ない。



 傍から見れば新人三人が残りの一人を囲んで歩いているという間抜けな光景だ。



 しかし、ここは機動六課の施設であり、本日は開課日。業務のために訪れる外部の人間など

いないし、職員は全て――少なくともスバルが知る限り、昼番部隊の人間は全て――開課式の

ために集まっている。周囲に人影はなく、今はスバル達四人しかいない。



 さっさと恭也と顔合わせをしてくれれば問題などなかったのだが、キャロの言では恭也は男

友達と連れ立って中に行ってしまったとのこと。



 本当に困った時にはヒーローのようにかっこよく駆けつけてくれるのに、こういう細々とし

たピンチにはまるで気が回らない。それが恭也・テスタロッサだった。



 親愛なる兄貴分に対して随分な批評だと自分でも思う。



 だが、その前者のヒーローのような部分が、間違いなくティアナを救ったのだ。その思いが

彼女の強さ、その根幹となるほどに。



 スバルはティアナがどれほど恭也に感謝し、尊敬しているか知っている。恭也が近付く、そ

の予感だけでこれなのだ。本人を前にしたらどうなってしまうのか。スバルにも予想はつかな

い。



(大丈夫なんですか? あの人に勝手な幻想を抱く人って多いですけど、ティアさんは結構深

刻な部類ですよ?)



 ティアナを構う手は休めぬま、エリオが念話で問うてくる。恭也幻想とは最も縁遠い少女が

言うと説得力があったが、そんなものは二年も同じ部屋で暮らしていたスバルが一番知ってい

た。伊達に毎晩恭也話を聞かされてはいないのだ。



(大丈夫……ではないと思う。ここまで来たら私の手にはもう負えないよ)

(どうするんですか、こんな調子で。仕事が始まってからもこれだったら、僕も流石に抗議し

ますよ?)

(キョウ兄なら何とかしてくれるって、大丈夫だよ! ……多分)

(だといいんですけどね……)



 念話の中にすら諦念の感情を漂わせながら、スバルの隣でエリオはそっと溜息をついた。



 



























4、



 気がつけば、機動六課の開課式は終わっていた。他人の拍手に、ティアナも慌てて追従する。



 最初から最後まで間違いなく参加していたはずなのに、誰が何を喋っていたのか全く思い出

せない自分にティアナは愕然とするが、この後に待つ『イベント』に比べたら儀礼的な開課式

など些事も些事であると、心を落ち着かせる。



 何しろ、恭也・テスタロッサがここにいるのだ。顔を合わせたことはあるが、それも兄の葬

式の時に一度だけ。会話などはしたこともない。今日、何を言いどう振舞うかでティアナ・ラ

ンスターの第一印象が決まるのだ。



 恭也に会ったら何を話そうか、というのはあの日恭也に出会って以来ずっと考えてきたこと

である。それだけに話したいこと聞きたいことが山のようにあって、何から言えば良いのかす

ら決められず、それを考えるだけの日々をここ数日は過ごしてきた。



 昨晩も、興奮で一睡も出来ていない。日が昇ってスバルが目覚めてから、隈が出来ていたら

格好悪い、ということに気づき慌てて見たのだが、幸いにもそういう物は出来ていなかった。

気をつけていただけのことはあり、身体のコンディションは近年では最高の物を保っている。



 だが、好意的に解釈できる要素はそれだけだった。緊張はかつてないほどに高まっているし、

何を喋ったらいいのか解らない。フォワード部隊はこの後簡単な顔合わせの後に訓練となって

いるから、恭也を含む特共研の面々もそこには来るだろう。



 再会の時間は刻一刻と迫っているのだ。それまで頭の中が真っ白では、感動の再会にどんな

水を挿すか解ったものではない。



「スバル、ちょっと話があるんだけど――」

「スバルさんならいませんよ?」



 聞きなれない少女の声にティアナが勢い良く振り向くと、そこには苦笑を浮かべるエリオが

いた。慌てて周囲を見回すが、いつも能天気な笑みを浮かべた相棒の姿はどこにもない。



「あの子が私に気づかれずに動けるなんて、初めて知ったわ」

「声はかけてたんですけどね。気づいていなかったみたいなので、スバルさんだけ一人で何処

かにいかれました」



 エリオの言にティアナは深々と溜息をついた。まさかスバルの言葉に気づかないなんてこと

があるとは……



「で、スバルは何処にいったのかしら」

「さあ、そこまでは。ティアさんが気づかないみたいだったので、隠れるようにして向こうの

方に行きましたけど」



 向こう、とエリオが指すのははやて達フロントメンバーがいる方を正面にして、左手の方角

である。昼番フォワードたるティアナ達は向かって右手の端の方に並んでいるから、左手側に

はほとんどのメンバーが並んでいることになる。



 もちろん、恭也・テスタロッサもだ。



 相棒の姿が見えないことに、ティアナは軽い恐怖を感じた。スバルは基本的に良い子だが、

同時に物事を深く考えない。長期的な視野を持って物事を考えることがどうも苦手なようで、

目先の結果がよければそれでよし、と考えている節すらあった。



 友人としてスバルのことは信頼している。一番の親友と言ったって良い。彼女が自分のこと

を考えてくれているのは痛いほど理解できているが、善意で行った行動が必ずしも良い結果を

生み出すとは限らないのが世の中というもの。



 無二の親友が感動の再会を演出しようと思いつきで暗躍していることを察したティアナは無

理やりに心を落ち着かせ、冷静に思考する。やっつけな再会にならないために、果たしてどう

行動することが最良なのか。



「逃げましょう」



 その結論に達するのに、二秒もかからなかった。



 スバル主導で行われる再会が、感動的になるはずがない。彼女のことは信頼していたが、い

くら信頼を向けたところでスバル本人の性質が大きく変化するはずもない。演出とか計算とか、

そういったものにスバルは致命的に向いていないのだ。



 早く逃げなくては。



 ミーティングは直ぐに始まるのだから、逃げたとしてもたった数分の先延ばしにしかならな

い。



 しかし、その数分こそが重要なのだ。時間の多寡は問題ではない。必要なのは体勢を立て直

すためのインターバルなのだから。



「ティアさん、どちらへ?」

「ちょっとお手洗いに。直ぐ戻ってくるから、スバルが来たらそう行っておいて!」

「あ、でも――」



 エリオが止める間もあればこそ。ティアナはさっと踵を返し、場所もうろ覚えのお手洗いに

向かって駆け出した――はずだったのだが、



 同僚の動向を気にして正面を見ることが遅れたティアナは、そこにいた人間に正面から衝突

してしまう。駆け出し始めだったおかげて勢いはそれほどなく、どちらもひっくり返るという

ことはなかったが、不意の一撃を受ける形になったティアナは、衝突した反動で体勢を崩して

しまう。



 体勢を立て直そうと腕を振るが、もう遅い。あぁ、これは転ぶな、とティアナは覚悟を固め

て受身を取る準備をする。が、その腕は突然誰かによって捕まれ、引き寄せられた。ティアナ

の身体は後ろではなく前に倒れ、正面の、先ほど衝突した人間によって抱きかかえられる。



「お怪我はありませんか?」

「いえ、大丈夫です。申し訳ありません、こちらこそご迷惑を――」



 前方不注意は自分の責任である。迷惑をかけ、その上助けてくれた人物に礼と謝罪の言葉を

言おうと、ティアナは顔を上げ――



「怪我がないようなら、何よりでした。『世界一大事な妹』に怪我をさせたとあっては、アレ

に呪われてしまいますからね」



 苦笑を浮かべたその男性はティアナを腕から解放すると、その髪にそっと触れ、そのまま慌

てたように手を離した。反射的に頭を撫でそうになったのを、周囲の人間の視線に気づいて取

りやめたのだが、当のティアナはそれにも全く気づかないでいた。



 視線は男性の顔、それだけしか見ていない。背後のエリオが思わず心配になるほど全くの動

きを止めたティアナに、何処か打ったのか、とぶつかった男性も心配そうに眉根を寄せる。



 男性の表情に変化があったことで、ティアナも現実に復帰する。前方不注意でぶつかった。

原因となる事柄を綺麗にすっ飛ばし、公衆の面前で抱きしめられたという結果に赤面したティ

アナは、男性から慌てて距離を取った。



「きょ、恭也・テスタロッサ陸曹長っ!」

「如何にも、俺は恭也・テスタロッサです。しかし今日付けで階級が一つ上がったようで、今

は准陸尉でありますが」

「それは……おめでとうございます!」

「階級は給与に直結するので嬉しくはあるのですがね……反面、責任をより伴うようになるの

がいけません。俺は使われる方が向いていると思うのですが、我らが上司殿はどうも違う意見

をお持ちのようで」



 肩を竦めた恭也が、ちらり、とはやての方を見やる。視線に気づいてひらひらと手を振って

くるはやてに、恭也は軽く手を挙げて応える。



 二佐相手のあまりにも気安い所作にティアナが気後れしていると、恭也の肩口からスバルが

顔を出した。首に手を回して抱きついている、という恐れ多い事実に気づいたティアナは思わ

ず卒倒しかけたが、ここで倒れては第一印章――厳密に言えば第一ではないが――は最悪な物

になってしまうと、なけなしの精神力を振り絞って堪える。



「スバル、アンタなにしてんのよ」

「なにって、んー……だっこ?」

「そんな脊椎反射でも答えられるようなこと聞いてるんじゃなくて! どうして今、そういう

ことをしてるのかって聞いてんの!」

「いつものことだよー、ねえ、キョウ兄?」

「年齢を考えるとそろそろやめた方が良いとは思うがな。ついでに言えば、お前とは違う分隊

の分隊長さんが怖い顔でこちらを睨んでいるようだから、さっさとやめた方が良いと忠告させ

てもらう」

「こういう時でもないと投げ飛ばされるから、もう少し堪能させてー」



 ぎゅー、とスバルが抱きつくと同時に、遠巻きにこちらを眺めていたフェイトがあ! と悲

鳴を上げた。そのまますっ飛んでこようとする彼女を、なのはが慌てて引き止めている。ただ

でさえ人目を引いていたのが、それで更に注目されるようになってしまった。



 目立つことが悪いとは言わないが、好奇の視線に晒されるだけというのは、恥ずかしいだけ

で益がない。恭也も似た考えを持っているようで、なのはに抱えられて唸りを上げているフェ

イトを気にしつつ、スバルを強引に引き剥がしにかかる。



 腕を絡めてがっちりと抱きついていたはずのスバルだが、恭也はそれが当然であるかのよう

に腕を外してしまう。あれー? と不思議そうに首を傾げるスバルを他所に、彼女を脇に降ろ

す。



「今度やったら遠慮なく投げ飛ばすからな」

「キョウ兄横暴ー」

「今は仕事中だろう。公私を分けることをそろそろ覚えろ」

「じゃあ、両方ともプライベートだったら抱きついても良い?」

「投げ飛ばす作法にも無駄に力が篭ると思うが、それでもよければかかって来い」



 スバルは抗議の声を挙げるが、恭也は全く取り合わない。彼女のことだからそういう時が訪

れたらめげずに挑戦するのだろうが、何の苦労もなくスバルの腕を外してみせた恭也の技術を

見るに、組み合ったら即座に投げ飛ばされるのがオチだろう。



 密着する男女という見世物がなくなったことで、野次馬は散り、仕事へと戻っていく。殺気

だっていたフェイトもその原因が取り除かれたようで、今では落ち着きを取り戻していた。時

折ちらちらと視線を向けてくるのは、まだスバルを警戒してのことなのだろうか。四度に一度

くらいの割合でスバルではなくこちらを見ているような気がしないでもないが……きっと気の

せいなのだろう。



 スバルのような大胆な行動をした覚えはないし、する予定もない。出来たら良いなぁ、とは

思うものの、自分のキャラくらいは把握している。いきなり抱きつくというのはスバルのよう

なキャラだから出来るのであって、ティアナ・ランスターにとっては無理難題である。



 スバルはいいわよね……と思う瞬間だった。



「ところでキョウ兄、どうしてティアに敬語なの?」



 小首を傾げてスバルが問う。それはティアナも疑問に思っていることだった。丁寧に接して

くれるのは感激の極みだが、階級や立場の上下を無視した振る舞いは指揮系統にも混乱を生む。



 恭也のようなタイプはそういうことにはきっちりと線を引くように思えるのだが……スバル

の言葉を受けて、恭也は苦笑を浮かべる。助けを求めるように視線を彷徨わせると、彼の視線

を受けたのは、真っ赤な体毛の狼だった。



 使い魔と思われるその狼は、恭也の助けを求める視線にをじっと受け止めると、顔を逸らし

て大きく欠伸をした。取り合うつもりは欠片もないようで、足で耳の裏を掻き始めるその狼に

恭也は溜息をつく。



「……俺はこう見えて、死後の世界や霊魂を信じる性質でな。亡くなった人間は残された人間

を見守っている、という思想を持っている」

「聖王教会とかの教えにもそういうのあるよね。キョウ兄のは管理外世界の思想とか?」

「当たらずとも遠からずといったところだな。でだ、彼女の――」



 恭也がこちらを手で示す。彼女、とちょっと持ち上げられた感じがこそばゆい。



「彼女の亡くなった兄は、兄バカで有名でな。二言目にはうちの妹は世界一かわいいんだと言

うような男だった。妹自慢も好きな男で、俺を含めた奴の同僚は彼女が書いた私のお兄ちゃん

という作文の内容も、誕生日に書いてもらった手紙の内容も暗唱出来たほどだ」



 何度も聞かされたからな、と当時を思い出すように苦笑する恭也にティアナは何も答えるこ

とが出来なかった。へー、とからかうような視線を送ってくるスバルが実に憎らしい。うちで

は優しい穏やかな兄で、可笑しな行動を取っている兆候など全く見えなかったのだが、知らな

いところでそんなことをやっていたとは……



「そんな訳だから、奴の妹であるランスターに無礼な口を聞くのは憚られるのだ」

「でもキョウ兄がティアに敬語って不味いよね?」

「言われるまでもない。だから改めようとは思っているのだが……」



 うん、と恭也は一つ咳払い。



「今でもティーダがそこの角から飛び出してきて、ティアに近付くな! とか言ってきそうな

気がするよ。努力はするが、敬語に戻ってしまうこともあると思う。その辺は許してほしい」

「許すも何も……」



 こうして会話をしているだけでも満たされているのだ。ざっくばらんに接してくれるという

のなら、ティアナにとってこれ以上のことはない。



「そう言ってくれるとありがたいな」

「親愛を込めてティアって呼んであげると、ティア喜ぶと思うよ」

「それは追々な」

「今呼んであげれば良いのに……」

「名前だけ呼ぶというのもむず痒くていかん。同じ部隊で働くのだから、そのうち呼ぶ機会も

あるだろう」

「キョウ兄ってこういう時地味にヘタレるよね」

「何とでも言え」



 と言いつつも反撃しないのは、自覚があるからなのだろう。拗ねたようにそっぽを向く恭也

にスバルやエリオから笑みが漏れる。



 ここに居ても立場は悪いと思ったのか、ティアナに対して一礼すると、恭也はさっさと踵を

返した。離れて待っていた美由希ともう一人の女性と合流し、施設の奥に消える。



「どうだった? キョウ兄」



 フフーフ、と厭らしい笑みを浮かべてスバルが擦り寄ってくる。こういう時に助けになって

くれそうなキャロは、エリオに連れられて先に行ってしまった。この後は軽いミーティングを

挟んで訓練である。訓練着に着替えて外に行かなければならない。



 スバルと並んで更衣室へと歩きながら、スバルの言葉について考えてみる。



「どうって……かっこいい人だったわよ。想像通り、いえ、想像以上かも」

「それなら良かった」



 ゴシップ好きのご婦人のような笑みから一転、晴れやかな笑顔に変わる。友人が褒められる

と自分のことのように喜べるのが、スバルの美点の一つだった。



「これから訓練だね。キョウ兄も見に来るんだよ。かっこいいところ見せないとね」



 そうね、とティアナは答えなかった。一緒に訓練をやるということは、スバルやエリオと比

較されるということでもある。努力という点において自分が他人に劣っているとは思わないが、

実績はそれに必ずしも直結しない。



 エリオの方が成果を出せる、という事態は十分に考えられたし、見た目に派手な結果を出す

ならばスバルの方が向いているだろう。射撃と幻術を主体にしたティアナ・ランスターの戦い

方はどちらかと言うまでもなく、玄人好みの戦い方で人目を惹くようなものではない。



 それが恭也の目まで惹けない、となると悔しいが、そればかりは仕方のないことだった。他

の技術を磨くことなど、考えたこともない。ティアナ・ランスターは、これで強くならなけれ

ば意味がないのだ。



 これで恭也の興味を惹けないのならば、惹けるようになるまで努力すれば良いだけの話だ。

今出来ることを、全力でやれば良い。結果などなるようにしかならないのだ。天才でも凡人で

も、そこだけは変わらない絶対のルールである。