午前の訓練を終えて昼食を取ろうと食堂まで行くと恭也がいた。制服でもなく戦闘服でもない。珍しく私服姿である。生で見るのは初めてだが噂通りに黒ずくめだった。凡百の男性が狙ってやると痛々しく見えるそれも、恭也がやると様になっていた。制服や戦闘服の時よりも凄みが増しているような気さえする黒ずくめは、ティアナの心を激しく揺さぶった。

 はっきり言うならときめいた。ほう、と熱い溜息がティアナの口から漏れる。目の前でひらひらと手を鬱陶しく振るスバルに肘鉄を食らわせ、焦らずさりげなく恭也の元へ。

「こんにちは、恭也さん」
「ああ。こんにちは。午前の訓練はどうだった? 今日が一つの試験のようなものだったと思うが」
「四人とも無事に合格をもらいました。明日からステップアップです」
「それは何よりだ。難度も上がるだろうが、油断しないようにな」
「ありがとうございます。ところで恭也さん、今日はお洒落してますけどどこかにお出掛けですか?」
「半休を貰った……というか取らされてな、お前達と一緒で午後は休みだ。街の方に行ってくる」
「それで出掛けるの? キョウ兄なら鍛錬でもしそうなのに」
「俺もそうしようと思ったのだがな。シャムから『たまには休め』と鍛錬禁止を言い渡された」

 困ったように頬をかく姿は、叱られた少年のようでもある。こうと自分で思ったら神様が相手でも我を貫き通す人なのに、聞くべき時は聞く柔らかさもある。

 と言っても、恭也にこうしろ、と言える人間は少ない。恭也の言うシャム――医務室のシャマル先生はその少ない一人だ。白衣をきたあの人が、学校の先生のように恭也を説教する姿が思い浮かぶ。

 なんとなく、ティアナは微笑んだ。そういう関係は良いなぁ、と思う。

「お前たちは午後どうする?」
「スバルと一緒にでかけようかなと思ってます」
「六課に来る前に良く行ってたアイス屋さんに行くんだー」

 いいでしょーと、スバルは当然のように恭也の隣に座る。そのストレートさを羨ましく思いながら、ティアナは対面に座った。

「良くはないな。俺が甘い物を苦手なのはお前も知ってるだろう?」
「でもキョウ兄がアイス食べてるところってちょっと見てみたいかも。ね、ティア?」
「私に同意を求めるんじゃないの」

 とは言いつつも、見てみたいとは思った。食べそうにない人間が食べるというそのギャップが良い。その光景を写真に収めることができれば、そのネガにいくらでも出すという人間は大勢いるだろう。かく言うティアナもその一人だ。

「キョウ兄も一緒にどう?」
「誘ってくれるのは嬉しいが先約がある。エリオやキャロを誘ったらどうだ? 奴らも半休だろう」
「エリオにはもう断られてしまいました。自主訓練をするって」
「あいつは休むということを知らんのか……」

 はぁ、と恭也は溜息を吐くが、スバルはそんな彼から顔を逸らしてにやにや笑っている。お前が言うな、という心の声が聞こえてきそうだ。それに関してはティアナも同意見だったが、勘の鋭い恭也の前で態度に出すような真似はしなかった。

 案の定、恭也に看破されたスバルはあっという間に額にデコピンを食らった。隣に座っていたので、避ける暇もない。

「キャロはどうした?」
「あの娘は本局に向かいました。無限書庫に行くらしいです」

 半休と言っても『一時間以内に六課隊舎まで戻ってこられる範囲で』という制限つきである。無限書庫はその制限に照らし合わせるとギリギリの範囲だったが、キャロはその点抜かりなく『勉学のため』という部隊長の許可を貰っている。有事の際は司書長ユーノ・スクライアが責任をもって、キャロをこちらまで送り届けるという手はずになっている……らしい。

 というのも、幸せそうなキャロに聞いただけなので、真偽の程は定かではない。キャロはユーノに送って貰えると決めてかかっているようだが、世の中そこまで甘くないということをティアナは知っていた。ただ、喜ぶキャロに水を挿すのも悪いので、責任の所在は明確にしておくように、という助言だけ与えて今日は別れている。

 キャロの乙女心のためにも、召集がかかるような事態にはなってほしくないと祈るティアナだった。

「先約って誰?」

 仲間の未来を祈るティアナを他所に、スバルは無神経に質問を続けている。やめなさいよ、と視線で訴えるも、スバルはそれに気づかない。ここぞという時には動物的な感性を発揮するのに、こういう時には本当に鈍感でアホの娘だ。相棒の子供っぽさに心中で溜息を吐いていると恭也はむ、と小さく唸った。

 普段お洒落をしない人間がそうしている理由など、一つしかない。それを態々聞くのも野暮というものだ。その可能性を恭也の姿を見た時に思いついていたティアナだが、意識して考えないようにしていた。憧れの男性が誰かと出掛ける様というのは、見ててあまり面白いものではない。

「お待たせしました」

 その声にティアナとスバルはびくり、と背筋を伸ばした。自分のいない間に待ち人が、異性と話していたら気分が悪いに違いない。そのことに本能的に思い至った二人は居心地の悪さと共に振り返り、そこで息を飲んだ。

 とてつもない美人の月村すずかがそこにいた。

 制服でも戦闘服でもない姿を見るのは恭也と一緒で初めてだったが、その気合の入りっぷりといったら尋常ではない。髪型も服装もメイクも雰囲気まで、全てに不可視のオーラが感じられた。

 男性ならば一目で恋に落ちそうな月村すずかが、恭也の周りに女が二人もいることに怪訝な顔を浮かべる。こいつらは敵か否か。それを考えている顔だ。

「じゃあ、私達はこれで失礼します」

 恭也すら一目置くすずかに敵と認定されては敵わない。敵でないことをアピールしながら、その場を後にしようとスバルを引き摺る。スバルはえー、と不満そうな声をあげて抵抗するが、拳骨を落として黙らせた。大して意味もないのに身の危険をおかしてまでデートの邪魔をするなど、正気の沙汰ではない。

 温厚なすずかがこちらに当り散らすなど考えられないことではあるが、恋は女を強くするものだ。恋に追い詰められた人間が何をするかなど、わかったものではなかった。被害が出てからでは遅いのだ。すずかとケンカして勝つことなど、できるはずもない。

「そうか。お前達も久し振りの休日だろう。ゆっくりしてくると良い」

 内心を見抜かれていたようで、見送る恭也は苦笑を浮かべている。恭也のそんな気遣いに感謝しながら、今度は拳骨に対して文句を言い続けるスバルの頬を引っ張る。スバルの頬はいつも以上にうにょーんと伸びた。

















 夜天の王、八神はやての騎士シグナムはかつてないほどの居心地の悪さを感じていた。

 ベルカ自治区、聖王協会本部。教皇庁に程近い高位聖職者のオフィスの集まる施設にいるシグナムは、ここに来るまでの間に過剰なまでの歓待を受けた。

 歓待を受けるのは初めてのことではない。古代ベルカ式の使い手で騎士でもあるシグナムは、騎士やシスターを始め一般人にも高い人気を誇っている。男性よりも女性にモテることが悩みと言えば悩みだが、持ち上げられて悪い気はシグナムもしなかった。管理局にあっては好悪様々な視線を向けられる身であっても、ベルカの世界ではそれもない。

 管理局よりも居心地が良いくらいだ。はやての一件がなければここに居を移し、後進のために剣を教えながら悠々自適の生活というのも悪くはない。そう思えるくらいにはシグナムもベルカ自治区に馴染んでいた。

 だからこそ、彼ら彼女らの態度には納得がいかなかった。度を過ぎた歓待に首を傾げながらもしかし無碍にする訳にもいかず、海鳴での生活で習得したアルカイックスマイルを浮かべてやり過ごすと、逃げるようにしてカリムのオフィスに避難する。

 部屋の中には二人。主であるカリムとその秘書シャッハしかいない。旧知の人間だけになったことで、シグナムはようやく安堵の溜息を漏らした。

「おめでとうございます、と言うべきでしょうか、騎士シグナム」
「お前もかシスター。先ほどからそればかりだが、皆は一体どうしたのだ?」

 皆はおめでとうを繰り返すばかりで、こちらが聞き返しても何も答えてはくれない。意地悪をしているのではないだろう。彼らにはシグナムの言葉が冗談と映っているらしく、渾身のジョークを聞いたとばかりに一笑いして勝手に去っていくのだ。

 これでは情報収集も何もあったものではない。せめてシャッハからは何か情報を引き出そうとするも、彼女の第一声はこれまでの面々と同じものだった。流石にシグナムも辟易した表情を浮かべるが、シャッハにとってはそれも想像通りだったのだろう。苦笑を浮かべた彼女はシグナムに椅子を勧めると、その『原因』を見せてくれた。

「良い写真ですね。今朝からローエン服飾店の店先に飾られているそうです」

 シャッハが寄越したのは、店先の映像だった。シグナムも幾度か足を運んだことのある服飾店のセンスある店先に写真が飾られている。ホテルアグスタで着るドレスを用立ててもらった際、その対価として撮られた写真だ。

 提供したドレスを着て写真を撮り、それを店先に飾ること。ドレスを無料で提供してくれた店の出したそれが唯一の条件だった。決して薄給な訳ではないが、その程度で無料にしてくれるのならばこれに乗らない話はない。写真を飾られる程度で済むのなら安いものだというのが、提供を受けた三人の共通見解だった。

 写真の中央には椅子が置かれ、赤いドレスを着たヴィータがちょこんと座っている。正面から見て右にシグナム、左に恭也だ。着ている服が良いからか写真家の腕が良いのか、自分で言うのも何だが良い写真に仕上がったと思う。これならば自分の部屋に飾るのも悪くはないかもしれない、と内心で自画自賛していると、苦笑を浮かべたままのシャッハが種明かしをしてくれた。

「これを見た教皇庁の職員の一人が、騎士シグナムがテスタロッサ卿と結婚されたものだと勘違いをされたそうで。自治区は今その噂で持ちきりなのですよ」
「私たちが何時結婚したというのだ」
「家族の写真と思ったのではありませんか? 無論、私や騎士カリムはそれが間違いであると知っていますが、写真を見ず噂だけを聞いた者はそうではないでしょう。道中、貴女に祝いの言葉をかけた人間の大半は、そういう類の人間であると思われます」
「真ん中にいるのがヴィータな時点で解りそうなものだと思うのだが」

 写真の三人は揃って、ベルカ自治区では顔も名前も売れている。写真を見れば一目でそれが勘違いだと確信できるだろう。噂の方は放っておけば鎮静化するだろうと気にしないことにし、今日の案件をさっさと片付けるべく騎士カリムに相対する。

 清楚な雰囲気を持った金髪の騎士は、シグナムの視線を受け止めると頬を膨らませてみせた。子供染みたその仕草にシグナムは目を疑うが、次の瞬間にはそれが夢か幻であったかのように平然と、カリムは資料を展開させた。

「さて。幸せ絶頂な最中にお呼びだてして申し訳ありません、騎士シグナム」

 妙に棘のある物言いに、シグナムは心中で溜息を漏らした。カリムが恭也に懸想しているのは公然の秘密である。一目で嘘と分かるとは言え、思い人が誰かと結婚したという噂が広まることは、彼女にとって愉快なことではないだろう。デキた才女と教会で評判の人間であっても人の子だ。怒りもするし、不愉快な思いもする。

 年頃の少女――というにはお互いに年齢を重ねすぎているような気もするが――らしい感情を向けられて、背中も少々むず痒い。

(こういう色恋関係の話は私の領分ではないのだがな……)

 槍玉に挙げられることの多い恭也の気持ちが少しだけ解ったような気がした。その恭也が本日、すずかとデートする予定だということは絶対に口にしないようにしようと心の決める。

「教会の内部調査に進展があったとのことですが」
「ええ。それに伴い聖遺物に付着したDNAのデータが人造魔導師製造グループに渡ったことが確定的となりました」

 シグナムの前に置かれるのは、デジタル全盛の時代に珍しい紙の資料だった。視線で許可を取って中身を確認する。持ち出されたと思しきDNAの持ち主、その管理者、DNAデータを最終的に持ち出したと思われる人間。およそ調べられる範囲で分かりそうなこと全てが記されていた。

「管理者であった人間は教会から離籍後に亡くなっています。本格的な聴取をしようとした矢先の出来事でした」
「手引きをしたと思しきシスターについては何か解っているのですか?」
「そちらの彼女も、遺体で発見されました。実行に関わった人間はその二人ですので、聴取はこれで不可能です」
「八方塞ですね……」
「ですが、周辺の人間の聞き込みも合わせると、可笑しな点が。遺体から割り出した死亡推定時刻と、教会施設で最後にそのシスターが目撃された時刻に食い違いが出ているのです。見間違いかとも思ったのですが、監視カメラの映像などからその日、その時刻にシスターがいたことは間違いないという結論に達しました」
「では、死亡推定時刻の方が間違いであったと?」
「可能性もないではありませんが、こちらは三度検証しています。誤診である可能性は限りなく0に近いです」
「であるなら……偽物が紛れ込んだということでしょうか?」

 その時間に死んでいたというのが本当で誤診もないのなら、そうとしか考えられない。

 しかし、監視カメラに映っていたとは言え、目撃証言もある。その人間のふりをすることは案外難しくはないが、誰にも看破されずにというのはハードルが上がる。

 教会の人間が他の部分を検証するまで気づかなかったことを鑑みるにその精度はかなりのものだが、死亡時刻を擦り合わせなかった辺り最終的にはバレても良いと考えていたことが伺える。

「偽物と言えば、以前美由希が遭遇したと言っていましたね」
「ルーテシアちゃんを誘拐しようとした人間、とのことですが」
「ええ。魔法技術と思われるものを使って管理局員に成りすましていた輩です。美由希は中々面妖な感性をしているので看破することができましたが、普通の魔導師であれば気づきもしなかったろうと言っています。恭也が以前に空港で遭遇した機人も透明化していたといいますし、隠密行動に特化した能力を持った者が、あちらにはいるのかもしれません」

 変身していた者の気配は美由希に覚えられてしまったので、次に遭遇すれば問答無用で捕らえられることだろう。そう考えると大したことのないように思えるが、それは美由希や恭也が特殊なだけで大多数の人間は変身を見破ることもできないし、透明になった敵を見つけることもできない。

 脅威に感じる人間が多いほど、その能力は有用である。外面的には誰にも気づかれない変身能力を持った人間がいることは、それに対処しなければならないシグナム達にとっては、相当な脅威だった。

「その能力で教会や管理局に籍を作られると厄介ですね」
「美由希の情報があってから、情報部と監査部が秘密裏に調査しています。報告があがっていないところを見ると状況は芳しくないようですが、やらないよりはマシでしょう。教会の方ではどうです?」
「枢機卿会議の指示で内偵を進めていますが、こちらも同じようなものです。私としては警戒を怠らないというのが精一杯ですね」

 シグナムとカリムは揃って溜息をついた。シスターの一件を見れば、変身能力者が調査する側に入り込む可能性もないではないのだ。平時でも大事なのに、緊急時にそれでかき回されれたら手に追えない。今はその能力を持つ人間が、複数いないことを祈るばかりだ。

 それから二、三の情報を遣り取りした。通信に乗せるのは憚られる案件である。どうするかという判断の必要な物もいくつかあったがそれを考えるのはシグナムではなく、上司であるはやて、引いてはその上の立場であるリンディやレティなど上層部の人間の仕事だ。

 中長期的な物事を考えることは、やはり向いていない。騎士は前線で剣を振るうのがあるべき姿だ。話し合いが終わり、肩の荷が降りたシグナムは密かに溜息をつく。

「お疲れですか?」

 目敏く見つけたのはシャッハだった。シスターという肩書きではあるが、彼女も武人である。教会でも重要人物の一人であるカリムの護衛を勤めているだけあって、中々の腕前だ。魔導師ランクこそシグナムに劣るが武の腕であれば拮抗している。

 時間があれば鍛錬に付き合って欲しいと心から思う存在であるが、彼女の行動基準は第一がカリムである。カリムの秘書の役目を放ってまで自己の鍛錬に務めることはない。

「いや、何でもない」

 忠臣の言葉に苦笑を返し、彼女の淹れてくれた紅茶に口をつける。祖父に枢機卿を持つ由緒ある家柄のカリムに仕えているだけあって紅茶の腕も悪くない。使っている茶葉が良いこともあり、少しばかり温くなっていてもその味は聊かも損なわれていなかった。

「ところで騎士シグナム、例の写真の件ですが」

 しばらく無言で紅茶を楽しんでいた所に、カリムの言である。綺麗な金髪を指でくるくるとしながら、視線をこちらに向けずに聞いてくる。さり気ない風を装っているが、今までの仕事上のやりとりよりも、こちらが聞きたかったのだということが手に取るように分かる。普段の毅然としたカリムとは異なるあまりにも乙女な仕草に、シグナムは笑いをかみ殺すのに必死になった。

 シャッハも同様だ。こちらはカリムが主筋に当たるので、シグナムよりもずっと笑わないことに神経を使っている。カリムからの死角になるよう、そっとシグナムの後ろに移動する辺り、抜け目がない。

 くくっ、というシャッハの笑い声を背後に聞きながら、シグナムはカリムを促す。十秒くらい躊躇ってから、カリムはそれを口にした。

「私も恭也さんと写真を撮ってみたいのですが、何か良い知恵はありませんか?」
「直接頼めば良いのではありませんか? 奴も貴女の頼みならば無碍にはしないでしょう」

 意思が強いように見えて、恭也は女の頼みを断れない男だ。しかも気の強いなのはのようなタイプよりも、カリムやすずかのような穏やかなタイプに弱いように思える。レティやリンディなど年上の女性に絶対的に弱いことも加味すれば、カリムの頼みを断るなどありえないことだ。

 ある意味周知の事実のである恭也情報はカリムも知っているはずのことだ。それでもなおシグナムに問うてきたのは、貴女ならば大丈夫という言葉を他人から聞きたかったからに他ならない。

「騎士シグナムにそう言ってもらえると励みになります。ですが、直接頼むというのも、その、はしたない女だと思われたりしませんか?」

 面倒くさい人だと思ったが、それは顔には出さず、良いですか、と前置きして噛み砕くように言った。

「あれは騎士ではありませんが、ベルカを良く知る男です。女性からの頼みを無碍にしたりはしませんし、そう思えるほどに女性に器用ではありません。ご心配なさらなくとも大丈夫です」

 これで通じなければ、話上手なシャマルでも連れてくるしかない。いずれにせよ、この話は早急に切り上げるべきだと思った。話の展開によっては、カリムが一緒に写真を撮りたがっているということを、恭也に伝えることにもなりかねない。世話になっているカリムの頼みだからきいておいて損はないのだろうが、色恋事に積極的に関わるのが自分のキャラではないことは自覚しているだけに避けたかった。

 カリムはシグナムの言葉に少し悩んでいたようだが……やがて小さく頷いた。自分で頼む、ということに納得した様子に、シグナムは心中で安堵する。

「それにしても、騎士シグナムは恭也さんのことを良くご存知ですね」
「私達皆、あれと一緒に暮らしていたことがありますのでね。もう十年も前のことになりますが、今でも家族ぐるみの付き合いは続いています」

 皆が職を持つようになり忙しくなった。昔ほど皆で顔を合わせる機会は少なくなったが、それでもその関係は変わっていない。六課が結成されて皆が同じ職場になったことを、内心楽しんでいるのはシグナムだけではないだろう。

「恭也さん、家ではどんな風にしているのですか?」
「今はどうか知りませんが、外と大して変わりありませんよ。盆栽や釣りをしたり、鍛錬を除けば見た目通りの趣味の爺むさい男です」

 爺むさいという表現にカリムは苦笑を浮かべる。

 もっとも、それがどう映るかというのは個人の感性に寄るだろう。例えばフェイトなどは恭也の趣味についてはどちらかと言えば好意的な印象を持っている。動かなくても済む趣味ならば、自分も一緒に座っていることができるから、というのがその理由だ。ちなみにフェイト自身は盆栽も釣りもそれほど好きではない。恭也と一緒にいられるというその一点のみで、付き合っているようなものだった。

 逆になのはなどは、恭也の趣味を爺むさいの一言で切って捨てる。いかに恭也に興味を持っていると言っても、万人に受ける訳ではないのだ。

 カリムはどちらかと言えば前者のタイプのように見える。恭也の隣にいられれば幸せ、と如何にも考えそうな雰囲気がシグナムにも感じられた。

「次に六課が教会と会議を持つような機会があれば、奴を寄越すように配慮いたします」
「感謝します、騎士シグナム」
「逆に六課に来る用事がある時は、私にご一報ください。奴の予定が空くよう、可能な限り調整いたしますので」
「何から何まで申し訳ありません」

 カリムの顔に、笑みが浮かぶ。教会でも管理局でも存在感を持つ才女である。普通の人間ならカリムほどであればその縁を大事にするのだろうが、恭也は権力欲とは無縁の所におり、良くも悪くも美人を見慣れている。外面的な要素で落ちるということはまずない。

 ならば普通にアプローチをするしかない訳だが、その仕事の性質上、一つところに留まっていることが少ない。恭也がどこで仕事をしているかというのは、今現在派遣されている部署か、彼のシフトを管理している特共研くらいのものだ。関係を深めようと思っても人に囲まれていることが多く、一見の人間が個別に時間を取るには聊かにハードルが高い。

 六課に拘束されている現在は、恭也を狙う人間にとってはチャンスなのである。少なくとも六課の施設に行けば恭也に会うことができるのだから、今までと比べれば雲泥の差だろう。六課が結成された時には、これからは用もないのに六課を訪れる女性職員が増えるのではと内心楽しみにしていたのだが、今のところそういった女性は見受けられない。

 面白くない、とはシャマルもはやても言っている。たまには面白おかしいことが起こっても良いと、シグナムも思わないでもない。カリムがやってきてくれるのならばこれ以上はないが、フェイトとバッティングすると面倒でもある。

 恭也に懸想する人間を、フェイトはあまり快く思っていない節がある。不倶戴天の天敵であるギンガ・ナカジマほどではないだろうが、小耳に挟んだところによれば、カリムも相当フェイトに警戒されているはずだ。

 まぁ、自分に関係ないところで盛り上がる分には、大した問題でもない。後からそういうことがあったと聞くだけならば、美味い酒の肴になることだろう。カリムが来る時には、なるべく恭也に関わらないようにすれば良いだけの話である。副隊長であるシグナムには簡単なことだ。

 後は適当に世間話でもして帰るだけ。そんな風に気を抜いたところに、緊急を告げるアラームが鳴った。恋する女から教会騎士の顔に戻り、カリムが投影モニタを操作する。

 第一報。文字だけの情報を素早く読み取ったカリムは、その目を大きく見開いた。

「緊急事態発生です。レリックと、それから人造魔導師の素体と思われる少女がクラナガンで発見されたとのこと。レリックの一部と少女は保護しているとの情報が入りました」
「一部、とは……まだ他にも?」
「状況から複数のレリックが存在すると判断。現在、地下道の捜索が行われている模様です。第一陣は恭也さんと、月村さんです」
「休日にご苦労なことではありますが、奴らに任せておけば安心でしょう。それで、人造魔導師の少女の方は?」
「おそらく、教会で探している少女に間違いはないかと」

 重々しく、カリムは溜息をついた。

「その少女は、聖王のクローンです」

















 私の時代が来た。

 生まれて初めてそう思ったすずかに敵はなかった。恭也の休日の予定を押さえることに成功したその日から、すずかの戦いは始まっていた。

 まず最初にしたことは、他の面々の予定を調べることだった。せっかくの休日なのに、邪魔が入っては敵わない。予定が分かったからと言って妨害できる訳ではないが、知っているのといないのとでは状況は大きく変わってくる。彼を知り己を知れば、という奴だ。

 幸いなことに、その日邪魔をできるようなスケジュールの人間は一人もいなかった。なのはとフェイトは本部待機、アルフは無限書庫、一番割って入ってきそうなリインははやての手伝いをすることが決まっていた。ついでに本局勤務のアリサがその日仕事なこともチェックした。死角はない。私のターンだ。

 邪魔が入らないとなれば、後は準備をするだけだ。着ていく服や下着については一週間以上前から検討を重ね、ファリンやノエルに見せて確認もした。汗くさいとか思われないように前日、当日にはきっちりとシャワーを浴び、鏡の前で二時間も格闘して髪もセットした。

 男性と二人ででかけた経験など恭也を相手にしかない。男性の視線を惹くという技術について、聊か経験不足であることは自覚しているが、そのすずかの知識、経験を最大限動員した結果が今日の装いだった。百点満点で百二十点を出せるくらいの、気合の入りようである。

 これならイケる。もしかしたらもしかするかもと内心喜んで待ち合わせ場所に行ったら同じく午後は休みを言い渡されたスバティアがいたことに内心戦慄した。二人とも凄く良い娘であるが、スバルは子犬のように恭也に懐いていたし、ティアナは尊敬する人間は恭也・テスタロッサと公言して憚らない。

 恭也が今日これからフリーだと知れば、ついてきたいと言う可能性は大いにあった。本心を言えば、ついてきて欲しくはない。ずっとずっと楽しみにしてきた、久し振りの二人きりなのだ。皆一緒が楽しいのは分かるけれど、今日だけは……と思うだけで口にはできなかった。そういう心の狭いことを言う女性を恭也は好まないだろうし、そんな自分をすずかは好きになれない。

 だから内心は嵐のように吹き荒れていても、何も声には出さなかった。ついてくるなら、それで仕方がない。心で涙しながら二人の行動を見守っていると、ティアナと視線が一瞬だけ交錯した。それからティアナは上から下まですずかの身体を見回し、ああ、と得心の行った顔をした。

 その後の行動は迅速だった。恭也に構ってもらおうとするスバルの頭を叩くと、その襟首を引き摺って退場する。その間ほとんど視線をこちらに向けなかったが、その配慮は十分に感じられた。今度からもっと優しくするようにします、とティアナの背中に感謝する。

「何やらばたばたしてしまったが、行くか」
「はい。今日はよろしくお願いしますね」
「俺と一緒にいても退屈するばかりだと思うが……期待が外れても、あまり恨んでくれるなよ」

(貴方と一緒なら何処へでも)

 心中で呟く。流石に言葉にはできなかった。離れすぎないように速度を落として歩いてくれる歩く恭也の背中を見ながら、心の中ではきゃーきゃーと大騒ぎだ。あまりにも恥ずかしくなってしまったので、本局で仕事中のはずのアリサにメールを出してみる。

『これから恭也さんとデートです。楽しんできます』

 送信してから十秒で返信が来たが、華麗に無視した。今日は目一杯恭也を独占するのだ。アリサは十年来の親友だが邪魔はしてほしくない。六課施設を出て駅に移動する間もメールは大体30秒置きに着信し続ける。本局の仕事は暇なのだろうか……と友人の勤務状況が不安にならなくもないが、流石に鬱陶しくなってきたので携帯デバイスはサイレントモードにして鞄の奥に押し込んだ。仕事の連絡は仕事用のデバイスでくるから、後々のアリサの機嫌以外は何も問題はない。

 今日はこれからデートだ。恭也本人はそう思っていなくてもデートなのだ。恭也の後ろを歩きながら、自然と笑みも零れてくる。これで腕でも組めたら……いやいや、それは高望みし過ぎだ。手でも繋ぐことができたら、最高に幸せなのだが、手を繋いでくれますか? とは恥ずかしすぎて言い出せない。

 これがフェイトなら当たり前のように腕を組めるだろうことを考えると、家族というのはズルいなと思う。それでいて血が繋がっていないのだから、そのズルさは留まるところを知らない。あんな金髪美人が間近で恋する乙女オーラを出していたら男性は気が気ではないはずなのに、恭也がフェイトに手を出していないのは、フェイトの様子を見ても明らかだ。

 仙人のような人である、というのははやてが言ったことだったと思うが、性欲がない訳ではないらしい。手当たり次第という訳ではないものの、誰それと関係を持っているらしいという噂は女のすずかだからこそ良く耳にする。聞いててムカムカしてくするばかりだが、レティ・ロウランなどは本人の立ち姿を見ると、アリだなぁ、と思わせる。同じ女性としては悔しい限りだ。

 だが、悪い話ばかりでもない。要はレティ・ロウランくらいに魅力があれば、恭也も否やとは言わないということでもある。

 考えるだけで気の滅入る話ではあるものの、希望がないよりは随分とマシだ。自分から誘えるようになるというのが一番の近道なのだろうが、それはそれ。女を磨く努力を怠るようになったら、身の破滅である。恭也の方から愛を囁いてくれるのなら、女としてこれほど嬉しいことはない。
 

 恭也の言う通りクラナガンの街に出ても、何をするでもなかった。昼食後の待ち合わせだったから食事をすることもない。疲れたから喫茶店にでも、というにはお互いに体力が有り余り過ぎている。これだけ気合の入った服を着ているのに服を見に行くというのも何だ。

 何をするでもなく、ただ歩く。これなら街に来る必要もない。静かな郊外の自然区域にでも行った方が雰囲気は出ただろう。恭也もどちらかと言わずとも、静かな環境を好むはずだ。

 しかし、今から目的地を変更するには遅すぎた。街に出れば何かあるかという、自分の甘さを呪うすずかである。自分たちにあった場所はどこかないか、恭也と並んで歩きながら必死に考えを巡らせ――

「図書館、とかどうでしょうか」

 結局、そこに行き着いた。自分たちの出会った場所。読書という共通の趣味は、時間を潰すのにはちょうど良い。二人の時間、というと首を捻らざるを得ないものの、沈黙が絶対の掟であるあの場所ならば、こちらを邪魔する人間はいないだろう。

「俺は構わないが……すまんな、こっちで用事がなかったせいか、図書館の場所を知らないのだ」
「チェック済みです。実は何度か利用しているんですよ、私。管理世界でも中心地にある図書館ですから、とても大きいんです」

 恭也を前に本のことを語るすずかの顔には笑顔が浮かんでいた。月村の家に大量の書籍があるが、自分の趣味に合致するものは読みつくしてしまった。海鳴の図書館でも同様で、楽しくはあるが新しい発見というのは実を言うとあまりない。

 だが、こちらのの図書館は違う。何しろ世界の成り立ちからして違うのだ。民話も、童話も、小説も、ありとあらゆる物語がすずかの知らないものばかりだ。仕事でこちらの世界に住むようになってしばらくになるが、図書館を訪れる度に新発見をする毎日である。この世界で最も楽しめる場所と言えば、すずかは迷いなく図書館を挙げるだろう。

 図書館の良さを語る口は、留まることを知らない。これがデートであることも、雰囲気について考えていたことも忘れて、すずかの演説は数分も続いた。はっと気づいた時にはもう遅い。苦笑を浮かべる恭也を前にして、すずかはぱっと距離を取った。穴があったら入りたいとはこのことである。

「申し訳ありません。私ばっかり喋ってしまって」
「俺からすると、話してくれた方がありがたい。それよりも図書館だったか。俺はこっちで仕事をするようになって長いが、あまり顔を出したことはないな」
「ユーノくんが無限書庫に勤めていると聞きますけど?」

 無限の書庫なんて、素敵過ぎる響きだ。本当に無限に本があるのだとしたら、理想が具現化したような職場である。自分と同じ読書が趣味なユーノにとっては、天職だろう。

「自分から訪ねたことはほとんどないな。情報部みたいな側面もあるから、関係のない人間は入りにくいという理由もあるが……無重力というのはどうも落ち着かん」
「……書庫なんですよね?」
「行ったことはなかったか。まぁ、一度くらいは行ってみるのも良いかもしれんな。ユーノもお前なら、無碍にはしないだろうし」

 無重力の書庫というのにも興味は沸いたが、今は恭也だ。行く先が決まれば、もたもたしている理由はない。何度か足を運んだ場所であるので迷うはずもない。今までは恭也に先導されるように歩いていたが、これからは自分が恭也を引っ張るのだ。

 自然と笑みが深くなる。エスコートされるのも良いが、これはこれで気分が良い。大好きな人が一緒にいると、何でも楽しいのだなと思いながら歩き――

 足を止めた。

 常人よりも遥かに発達したすずかの聴覚が、その音を捉えたのだ。街の中である。他にも沢山人はおり音に溢れているが、異質に塗れたその音は確かにすずかの耳に届いていた。

「恭也さん」
「どうも厄介ごとのようだな」

 足を止めていたのは恭也も一緒だったが、彼の場合は音に気づいてという理由ではないだろう。気配を察知することに関しては、恭也に一日の長がある。恭也の鋭敏な感覚はすずかが五感で音を捉えるのと同時に、気配を感じ取っていた。

 その気配を、今はすずかも感じている。魔導師の気配は大きく一般人は小さく感じるものだが、その気配は非常に大きい。なのはやはやてなど高位魔導師が近くにいるが、彼女らと比べても遜色のない気配だった。

「応援を呼びますか?」
「確認が先だろう。俺が先行する、援護を頼む」
「了解しました」

 休暇の途中であっても、緊急時ならば仕事が優先する。局員の顔になった恭也に続いて、すずかは路地に踏み込んだ。ミッドチルダ首都のクラナガンであっても、光の届かない場所は存在する。音が聞こえたのもそんな裏路地の一つだった。重い金属をどかしたような音……おそらく、マンホールをどかした時の音だろうが、そこから出てきたのが魔導師であれば話は違ってくる。

 考えればいくらでも理由はあるだろう。地下道を捜査していた魔導師という可能性もなくはないが、高位魔導師が単独でというのは尋常ではない。確認するのは当然とも言えた。

 無論、間違いの可能性も否定できない。地上本部がある場所だけに間違いであった場合、その魔導師は地上の局員である可能性が高い。今は地上の部隊に属しているが、恭也とすずかは元々本局の所属で、しかも恭也は顔が売れている。本局の局員に疑われたということが後々の問題に発展しないか、すずかが気にするのはそこである。

 路地を小走りに行きながら、角を曲がる。不意に恭也が足を止めた。彼の背中に隠れてその先は見えないが、恭也が僅かに緊張を緩めたのを背中から感じた。身を乗り出して、その視線の先を見る。

 何を言うよりも先に、すずかはデバイスを起動した。

『ロングアーチ02。すずかさん、休暇中にどうしました?」
「ブレイド03。クラナガン南部で少女を発見しました。拘束具のようなものをつけられた少女で、見たところ怪我はありません。事件の可能性が高いので手配をお願いします」
『了解しました。救急車を手配しますので、その場で待機をお願いします』
「ブレイド01。すずかの情報に一部追加、救急車は中止だ。シャムに連絡、ストームレイダーで大至急こちらに来てもらってくれ」
『緊急の案件ですか?』
「大至急と伝えておいてくれ。少女の近辺にレリックを発見した」

 少女の足から伸びた鎖、その一端に繋がっていたケースの中身の中身には、現在六課が優先的に追っている案件である、レリックがあった。すずかの知識では見ただけでは判別できないが、恭也は既にプレシアでの分析を終えていた。空間投影モニタには、間違いなくレリックであると表示されている。
 
 それだけでも問題だが、鎖を検分するに、ケースは本来二つ以上ついていたように思えた。ここにあるケースは一つだけ。残りはどこにあるのか。

 中身が空であるとか、大したものでないのならばとりあえず捨て置いても構わない。この場合優先するのは少女の身柄であって、そんなものは二の次だ。

 しかし、それが危険物となれば話は違ってくる。特にレリックである可能性となれば、見過ごす訳にはいかない。

「応援が到着次第、俺とすずかで地下を捜索する。地上でも同様に手配を頼む」
『その少女については、スバルちゃんとティアナちゃんを向かわせます。二人とも近くにいるみたいで、五分で到着するそうです』
「了解した」

 そこで一度言葉が途切れた。途中から報告は恭也の役目に変わり、すずかは少女の身体を確める。触ってみた限り、骨をいためている気配はない。内出血他、痣になっているところもないから外部からの衝撃によって身体を痛めているということはないだろう。鎖をひきずって地下からレリックを持って出てくるなど気になることばかりだが、今現在に手に入る情報はこれだけだ。

 後は少女が目覚めるのを待つより他はなかった。

「すずか、済まないのだが……」
「お前だけ帰れという話なら聞きませんから。地下に降りるなら私もご一緒します」
「……良いのか?」
「ここにいるのが美由希さんだったとしても、恭也さんは同じ質問をしましたか?」

 少女から視線を上げ、責めるように恭也を見据える。地下に同道させまいとしているのは、恭也の気配から分かった。それが自分を慮っているからというのも痛いほど分かる。大切にされていると思えて幸せな気分になると同時に、認められていないのかという怒りが湧き上がった。

 すずかは今、確かに怒っていた。

 見詰め合うこと、数秒。先に折れたのは恭也だった。

「すまない。失言だった。俺一人では困るから、同道してほしい」
「了解しました」

 素直に謝る恭也に笑みを返し、自分の体を見下ろした。地下に降りるのに、ひらひらした服は邪魔である。躊躇うことくすずかはスカートの脇を裂いた。チャイナドレスのように足が露出するのも構わず、邪魔にならないように裾も切り詰める。袖をまくって襷のようなもので固定すれば、戦闘モードの出来上がりだ。戦闘服ほど動きやすくはないが、これならいくらかマシになったろう。

「この埋め合わせはいつかしよう」
「別に恭也さんのせいじゃないですよ?」
「それでも、だ。いつというのは約束できないが、必ずする」
「わかりました。それではお言葉に甘えます」

 大切な一張羅ではあったが、ここでそれを躊躇うような人間を恭也は好まないだろう。何が大切かを見失っては、こんな仕事はできるはずもない。すずかは自分の信条に従って行動しただけだったが、仕事のために服を駄目にしたという事実は、恭也の心に重く刺さったらしい。苦虫を噛み潰したような顔を見れば、恭也がどれほど苦悩しているのかが良く分かる。

 怒りはもうなかった。大切に思われている。その事実だけで、地下にでも地獄にでも行けるような気がした。

 やっぱり、私はこの人が大好きなんだ。

 その事実を心中で噛み締め、決意を新たにした。


「ティアナとスバルが来たようだ。事情を説明したら、俺たちは潜るぞ」
「無事に済めば良いですけど……」
「残念だがそれはないだろうな。経験上、こういう時に待ち受けているのは更なる厄介ごとだ」
「恭也さんの悪い予感、当たりますからね」
「品行方正に生きてるつもりなのだが、何故だろうな」

 拗ねたような恭也の物言いに、すずかは苦笑を浮かべて答えた。そんな表情もかわいい、というのは口に出さなかった。