「これが仕事というのなら文句はないのだが……」

 廊下を行きながら、恭也は独り言のように口にした。

 クラナガンにある聖王教会系としては最大の規模を誇る病院に件の少女は入院している。身柄の安全を確保するに辺り管理局系よりは……ということでカリムに紹介してもらった。少女の護衛にはカリムが手配してくれた教会騎士がついており、二十四時間警護に当たっている。

 超の付くVIP待遇に病院関係者の間にも『あの少女は何者なのだ』という動揺が広がっているが、少女が先の事件の被害者ということ以外は何も公開されていない。聖王のクローンである可能性が高いという情報は、教会の中でも上層部で止められていた。教皇を含めた枢機卿会議でゴーサインを出さない限り、教会が公的にそれを発表することはない。

 しかし、噂というのはどこから漏れるか分かったものではない。この情報を保有しているのは教会や六課だけではないのだ。少女のクローンを受け持った組織、あるいはアリシアを派遣してきた組織は少女の重要性について把握している。

 それだけに少女の護衛には万全を期さなければならない。このまま教会組織に預けておくのも手ではあるものの、聖王の遺伝子を盗まれた事例を見るに、聖王教会とて安全とは言えない。外部から干渉しにくいことを考えると、事が起こった時の対処に六課が後手に回ることだって考えられる。

 その点、六課は警備状況こそ教会に劣るが、幹部クラスに内通者がいる可能性はゼロに近い。例の変身能力者が現れたとしてもブレイド分隊の誰かがいればそれを看過できるし、食堂のおばちゃん達も含めメンバー全員にそれがいないことは確認済だ。

 恭也個人としては教会に預けることに否やはないものの、はやてを始めリンディやレティなどの後見人たちも少女を六課で預かることを望んでいる。その方針に沿って既に引渡しの交渉済んでおり、少女の意思さえ固まれば明日にも移送できるような手はずとなっていた。

 これが地上本部のゲイズ派であれば、教会も意固地になって話は固まらなかっただろう。普段から教会と良好な関係を持っているハラオウン派ならではの手際の良さである。

 課の方針として、少女は引き取らなければならない。それ故に、今日の少女への面会では万全の人選が成された。万に一つも失敗があってはならないこの場面で、はやて達幹部の相談で選び出された人材が恭也・テスタロッサなのだった。

 その人選に思うところはないではない。

 自分のような無愛想な人間ならばなのはやフェイトの方が良かろうと反論はしたのだが、六課の中では恭也=幼女担当というのは定説らしく、幹部全員が賛成という圧倒的多数で恭也の任務は可決された。

 これが仕事であるというのならば文句はないが、昔から病院という施設はどうにも苦手な恭也である。黒を好む性質から、白衣ばかりのこの場所に違和感を感じるのかもしれない。教会系の病院であるだけに、職員の視線を集めているのも問題と言えば問題だった。

 教会施設を利用する時のお約束のようなものである。

 これが騎士関係の施設であればあっという間に囲まれていたのだろうが、流石に病院ともなるとそこまではない。精々『有名人を見た!』という顔をされるくらいだが、これも何度も続くと鬱陶しく感じる。

 早く少女の部屋にでも逃げ込むかと足を速める恭也だったが、少女の部屋につくよりも先に足を止めた。その少女の部屋の前が騒がしい。病院ということで控え目な声で話しているが、何かあったというのは離れていてもわかった。

「どうかしたのですか?」

 目的地の前で話されていては関わらない訳にもいかない。幸い、集まっていた人間の中で一番立場が上の人間は恭也も良く知る人間だった。

「テスタロッサ卿。お着きでしたか」

 騎士カリムの従者であるシスター、シャッハだった。シャッハの言葉で恭也の姿を認めた騎士達が、慌てて居住いを正す。

「シスター、何か問題が?」
「実は……」

 シャッハが耳元に顔を寄せて言うには、少女が癇癪を起こしたということだった。少女はシャッハを始め全ての人間を拒絶しているという。こういう時は自傷行為に走る危険があるため目を離すのは非常に不味いのであるが、同じ部屋に誰かがいるとそれだけで大騒ぎをするため全員が外に出ているという有様だ。

 サーチャーを置いてあるので中の様子は確認できるのが、不幸中の幸いである。

「おかげで聴取も全く進んでいないのが現状です」

 少女の身元についての情報は、既にシャッハにも行っているはずなので少女から聞くべき話はそれほど多くはない。逃げてきた場所について何か知っていれば、という程度のものであり、それについては期待薄というのが教会六課双方の見解だ。

 だが、対外的には身元不明の幼い少女である。保護するという段階はクリアしたので、身元確認は性急に行わなければならない。現状、少女の衣類などから身元を示すようなものは何一つ見つかっていないので、それを調べるために少女から直接話を聞く必要があるのだが、その少女本人が話を拒絶しているのならば、それもままならない。

「という訳なのです。私達も途方にくれてしまって……」

 こんな難敵は初めてですというシャッハに、騎士たちが重々しく頷く。カリムが推してここにいるだけに真面目で実直な騎士たちなのだろうが、それだけに子供の相手が上手いとも思えない。

 この中ではシスターであるシャッハが一番、子供と触れ合う機会は多いのだろうが、そのシャッハが匙を投げている時点で無骨な騎士たちには出番などないだろう。

「ですから、ここはテスタロッサ卿に少女のことをお願いしたいのです」
「いや、意味が分からない」

 恭也は反論するが、シャッハの言葉は恭也・テスタロッサならば何とかしてくれる……という並々ならぬ信頼に溢れていた。居並ぶ騎士たちもシャッハの言葉に力強く頷いている。断れるような雰囲気ではなかった。

「……何故俺ならと思った?」
「騎士はやてから聞き及んでおります。テスタロッサ卿はあれで、子供に好かれるのだと」

 言葉を濁した感じに聞こえたのは、錯覚ではないだろう。はやてのことだから、幼女キラーくらいのことは言っているはずだ。

 人前で気を使われたことに心にダメージを受ける恭也だったが、少女を説得するべき人材が他にいないのならば仕方がない。何より騎士たちの期待の眼差しが暑苦しかった。これが失望の眼差しに変わるのだと思うと、子供を相手にするのは割に合わない仕事だと思う。

 できることならこのまま帰りたかったが、やらずに投げ出す訳にはいかない雰囲気だ。シャッハも他の騎士たちも、少女をどうにかしてやりたいと心の底から思っているのは本当のようだ。カリムの信頼が厚いだけに心根の真っ直ぐな人間たちばかりであるらしい。

 それが信頼であるのならば、どういうものであれ裏切るのは心苦しいものだ。

 少女に号泣される覚悟まで固めて、恭也はドアの前に立った。

 気息を整え、気配を調整する。

 男性に比べて女性は気配に敏感であることが多い。子供は更にその傾向が強く、神経が過敏になっているのならば尚更だ。不安な内心を顔に出さないのは勿論のこと、雰囲気で感じられてもいけない。気配を断ってそれで終了というのならば簡単だが、気配が感じられないと今後は相手に『得体が知れない』と感じられてしまうこともある。

 こちらがどう思っていようと、第一印象というのは相手が感じたことが全てだ。癇癪を起こした少女が相手ならば、注意を払って払いすぎるということはない。尖っておらず、かといって不自然に静かでもない。相手に不信感を抱かれない程度に気配を整え、一つ深呼吸をする。

 不安が外に漏れるのならば、好意を撒き散らすことも理屈の上では可能であるはずだが、そこまで気を自在に操ることは恭也たちの誰にもできていない。リスティたちの研究では外見にも依存するらしいとのことなので、自分には一生無理だなと諦めてもいる。

 いずれにせよ、これが今の恭也の精一杯だった。後は野となれ山となれ、だ。

 意を決して、恭也は部屋に足を踏み入れた。

 清潔で広い、それだけに寂寥感を感じさせる部屋に少女はいた。ベッドの上で布団を被って震えていた少女は、新たに部屋に侵入してきた恭也を見て小さく悲鳴をあげた。

「俺は恭也・テスタロッサという。怪しいものではない」

 このナリで怪しいものではないというのも、説得力のないことだと思いつつも、そこそこに足音を立てて、少女に歩み寄る。少女の反応を見つつ、近づける限界の距離を探る。二メートルを切ろうとした段階で、少女に恐怖の感情が芽生えた。
 
 これが限界、と悟った恭也はそこで足を止めた。近付くことはできた。第一段階は終了である。

 いきなり失敗するよりは遥かに上出来だったが、問題はこれからだ。少女に心を開いてもらい、話を聞かなければならない。場合によってはここから他の施設に移動してもらわなければならないのだ。全面的な信頼は無理としても、せめて日常生活を送るのに十分な精神状態になってもらわないと、始まらない。

 状況を説明して理解してくれるのならば良いが、相手は子供だ。何を話すのが良いのか。

 故郷でのなのはは物分りの良い子供だったし、フェイトも一緒に暮らすようになってからは良く懐いてくれた。懐いていなかった時はそれどころではなかったため、関係の改善に気を払った記憶はほとんどない。少女も負けず劣らず特殊な環境であるものの体育会系のノリでどうにかできたエリオとはまた状況が違う。

 前途は多難だった。

「できれば、君の名前を聞かせてほしい」

 資料を読んだが、少女の名前すらまだ解っていない。いい年をした大人が雁首を揃えて単純なコミュニケーションすら成立していない有様なのだ。

 少女の反応は薄い。目に涙を溜めて、恐る恐るといった感じで恭也を見上げている。

 ここにきて、言葉が通じない可能性すら恭也の脳裏を過ぎるが、理解できないという雰囲気は感じない。少なくともこちらの言っていることは理解できているはずだ。

「……ヴィヴィオ」

 それが少女の名前であるらしい。こちらの言葉を理解してくれたこと、そしてこちらの意を汲んでくれたことに心の底から安堵する。

「よろしく、ヴィヴィオ」

 姓を名乗ってはくれなかったが、まずは前進と考えることにした。名前を呼ばれたことで少女の顔から恐怖が薄らいでいく。完全に消えた訳ではないが、少なくとも部屋に入った時よりは、こちらを警戒することをやめたようだった。

 そっと、ヴィヴィオとの距離をつめる、2メートルだった距離が、1・5メートルにまで縮まった。

「早速だが俺の話を聞いてほしい。俺は時空管理局という所で働いているのだが……時空管理局は知っているか?」

 ふるふると、ヴィヴィオは首を横に振った。ウェーブのかかった明るい色の茶髪が、それにあわせて揺れる。

 管理世界において、時空管理局というのは最も著名な組織の一つだ。育ちの良くない子供であってもその名前くらいは聞いたことがあるはずである。それを知らないということは、よほど特殊な環境にあったのか、それとも単に記憶がないのか……

 様々なことを考えながらも、管理局と自分のしている仕事について子供でも分かるように噛み砕いて説明する。子供が聞いて面白いような内容でもないはずだが、ヴィヴィオは僅かに身を乗り出してこちらの話に耳を傾けていた。

 より警戒心が薄れたのを感じた恭也は更に距離を詰めた。残り、1メートル。

「管理局についてはこんなところだな。後はそうだな、俺個人のことだが……俺は実は魔法使いなのだ」
「魔法使い?」

 その言葉を聞いたことがないとでも言うように、ヴィヴィオは首を傾げる。聴衆として、ヴィヴィオは実に優秀だった。話を聞きたいと身体全体で訴えてくるその様は、話す人間の満足感を適度に刺激してくる。

「ああ、この場で見せてやりたいところだが、緊急時以外に病院内部で魔法を使うと怒られてしまうのでな」
「えー」

 期待を裏切られたヴィヴィオが抗議の声をあげる。随分と気安い反応に、不満を表されたことよりもその仕草のかわいらしさに思わず微笑みが浮かんでしまう。

 それを笑われたと解釈したらしいヴィヴィオは頬を膨らませて抗議をしてくる。機嫌を損ねられたら実に面倒だ。後で怒られるくらいなら安いものだと思い直すことにして、内緒だからな、と扉の外を伺う振りをしながら小声で告げる。ヴィヴィオは瞳をキラキラと輝かせてベッドの上で身を乗り出した。

 こちらからも踏み込んで、ヴィヴィオとの距離をゼロにした。ヴィヴィオの目の前に指を出し、そこに気を集中する。ぽぅ、と指先に気の光が灯った。ただそれだけの小技であるが、何もせずにただ指先に気を留めておくというのは案外に疲れるもので、恭也の額にはじわりと汗が浮かんでいく。

 これで受けなければもっと派手な技を、と覚悟していたが、線香花火のような地味さがヴィヴィオには受けたらしく『おー!』と声をあげて喜んでいた。

 気の光を指から指へ移してヴィヴィオの目を楽しませた後、唇に指を当てる。

「誰にも内緒だからな」

 恭也の言葉に、ヴィヴィオはこくこくと頷いた。

 さて、と小さく息を吐き、ヴィヴィオのベッドに腰を降ろす。ヴィヴィオはベッドの上を移動して恭也の隣にぴたりと寄って来た。次は何をしてくれるのかと期待に満ちた瞳に、子供を楽しませるネタの少ない恭也は内心困りながらも、打ち解けたことを無駄にはできないと慣れない会話を続ける。

「ヴィヴィオ。これからどうしたいという希望はあるか?」
「パパと一緒にいるー」
「お前、パパがいるのか?」
「んー」

 ヴィヴィオが指を刺す先にいるのは、当然自分だった。その行為の意味が理解できないずにいると、パパーと声をあげてヴィヴィオが抱きついてくる。制服に頬擦りをするヴィヴィオを見下ろしながら、恭也はじわじわと湧き上がる恐怖に震えた。

 この年にして、ついに子持ちである。

 さて、家族に何と説明したら良いのだろうか……

























「兄貴、お帰りなさい」

 六課施設に帰った恭也を最初に迎えたのは移動中のヴァイスだった。まだ日も高い時間である。昼番要員である彼が外にいるのは不思議なことではないが、できるだけ誰にも会わずにいたいと思っていた恭也にとって、それは不意の遭遇だった。

 どうやってやり過ごすかと考えている内に、ヴァイスの視線は恭也と手を繋いでいるヴィヴィオを往復する。事情については聞いているはずだが、ヴァイスの視線には隠し切れない驚愕の色が浮かんでいた。

 ヴィヴィオを気にしながら、ヴァイスが顔を寄せてくる。

「兄貴、隠し子を職場に連れてくるのはどうかと思うんですが……」
「所帯も持っていない身で、そんな不誠実なことはせんよ」

 苦笑を浮かべる恭也を、ヴィヴィオは不思議そうに見上げている。病院で癇癪を起こしていたのが信じられないほど、今のヴィヴィオは落ち着いている。並んで歩いていても、親子と思う人間は少ないだろう。明らかに東洋人然とした恭也とヴィヴィオに、外見上の共通点はないと断言して良いほどない。

 それでもヴァイスが隠し子と冗談を言えるのは、連れられるヴィヴィオの全幅の信頼があってこそだった。

「他の連中はどうしてる?」
「新人どもは訓練っす。今日の担当はなのはさんとシグナムの姐さんっすね」
「随分と珍しい取り合わせだな……」

 なのはがいるのはいつもとして、シグナムが面倒を見るというのは珍しいことだ。コンビを組むのなら部隊の同じヴィータか、同じ隊長であるフェイトであるのが常である。

 シグナムのことであるから気が向いた、という理由で訓練を見るのも不思議ではない。新人四人の訓練も形になってきたし、そろそろ実践的な訓練としてシグナムが相手をするのも悪くはないだろう。指導者としてその環境の変化は喜ばしいことであるのだが……余っている人間がフェイトとヴィータという状況に、恭也は深い溜息を吐く。

「あの二人はどこに?」
「フェイトさんが食堂でお待ちです」

 両手を合わせた東洋的な仕草でヴァイスは答える。

「お前も一緒に来ないか? 食事くらいなら俺が奢るぞ」
「遠慮しておきます。女に雷が落ちるところにいたいって男は、この世にいませんので」

 幸運を、とだけ言い残しヴァイスは去っていった。後に残された恭也は空を見上げて途方に暮れる。思うのはフェイトのことだ。自分には似合わないくらい良い子であるが、家族に関わることだと少しばかり思い込みが激しいところがある。

 特に、自分の女性関係については気を揉んでいる所があった。元から家族であるアルフはそうでもないが、レティやカリムなど外部の人間については敵視している傾向がある。

 手を繋いでいるヴィヴィオが、無邪気にこちらを見上げていた。

 この少女も、女性関係と言えば女性関係だ。疚しいところは何もないが、それが相手にも共通するとは限らない。

 フェイトは思い込みが激しいのだ。事件の資料には目を通しているだろうし、ヴィヴィオについての情報は既に頭の中に入っているはずであるが、ヴァイスが冗談で言ったように手を繋いで歩いている様は隠し子を連れ歩く父親に見えないこともないだろう。

 何よりヴィヴィオにパパと呼ばれている。隠し子は冗談で済まされるとしても、その事実だけは覆しようがない。この時勢に『パパ』というのは色々不味いと何度も止めるように言ったのだが、効果はなかった。ヴィヴィオにとって恭也・テスタロッサはもうパパなのである。

 父親代わりになることに否やはない。ヴィヴィオの境遇を考えたら力になってあげたいというのは事実だ。

 しかし、使命感だけで物事を全て乗り越えることはできない。どんな歴戦の剣士だったとしても怖いものは怖いのだ。

 例えば、気が立っている時の義妹的存在であるとか……

「ヴィヴィオ、何か食べたいものあるか?」
「クリームソーダ飲みたい」
「わかった。手配しよう」

 メニューにあったか知れないが、作ってくれと言えば作ってくれるだろう。管理局の施設だけあって、食堂もメニューは充実しているのだ。

 わー、と声をあげてはしゃぐヴィヴィオを横目に見つつ、食堂の奥に目を向ける。一番奥の窓際の席にフェイトは座っていた。黒い執務官の制服に長い金髪。物憂げな表情がとても絵になっている。

 その憂いを帯びた赤い目が、恭也を見た。そこに浮かんだ感情は……なんだろうか。

 殺気ではない。いきなり刺されるという展開にはならなそうなことに恭也はこっそりと安堵した。

 だが、女性は本能のままに行動しても男を翻弄する生き物だということを、特共研で働いた十年で嫌というほど思い知った。大丈夫そうに見えても、絶対に油断してはならないというのが恭也の女性に対する行動哲学だった。

 できる限り、堂々と。クリームソーダを受け取ったヴィヴィオを伴い、フェイトの前の席に座る。フェイトは笑みを浮かべてクリームソーダに口を付けるヴィヴィオをちらりと見てから、恭也に視線を向けてきた。

 言葉はない。発しそうにもない。何かある? とその視線は無言で語っていた。

「この娘はヴィヴィオ。一昨日の事件で保護した少女だ」
「知ってる。パパって呼ばれてるんだよね?」

 淡々としたフェイトの言葉に恭也は押し黙ってしまう。口止めをしていた訳ではないが、自分で言いふらした訳でもない。それがどうして一番耳に入れたくなかったフェイトが知っているのだろうか。

「シスターシャッハが騎士カリムに知らせたみたい。その騎士カリムから私に連絡があったんだ。色々と世間話もしたけど、要約するならくれぐれも抜け駆けはしないようにってことだった」
「抜け駆け?」
「うん。ここで自分がママと呼ばれるようになれば、一歩も二歩もリードできるじゃない?」

 外堀を埋める作戦を本人を前に暴露したフェイトは、獲物を狙う狩人の目でヴィヴィオを見つめていた。視線に気づいたヴィヴィオはコップを持ったままさっと恭也の影に隠れる。子供の正直な反応に少なからずショックを受けたようだったが、気を取り直して微笑みを浮かべた。

 子供好きで、どちらかと子供に愛されるタイプのフェイトであるが、その微笑は恭也の目から見てもどこか胡散臭い。力が入っているというか欲望が透けて見えるというか、無理して笑顔を浮かべているというのが恭也の目から見ても分かる笑顔だった。

 これが気の回る、例えばキャロのような子供であれば違ったのだろうが、事件の後ということもあるのか、攻略すべきヴィヴィオはとても人見知りだった。病院を出てからこちらに来るまで、まともな会話をしたのは恭也だけという有様だ。今後生活する上でそれでは不味いとは思うものの、境遇を考えると強く出ることもできない。

 案の定、フェイトを前にヴィヴィオは怯えたような表情を浮かべた。向こうから話しかけてくることを期待するのは、無理そうだ。ママと呼べと切り出すのは、もっと無理だろう。十年前に比べれば相当マシになったものの、ここぞという時以外は押しの弱いフェイトである。

「まあ、気にするな」

 明らかにしょぼーんとしているフェイトに、かけることのできる言葉は少ない。クリームソーダを飲み終わったヴィヴィオは実に暇そうだ。フェイトに怯えていたのも過去の話なのか、恭也の服の裾を弾いて早く行こうと促している。

 ヴィヴィオに関して伝えなければならないことはあるが、それは仕事の話として六課の幹部全員に纏めて話すことになっている。ここでフェイトに話しても二度手間だ。あちらの方から話がないのならば、ヴィヴィオの言う通り場所を変えた方が良いのだろう。

 これから六課施設で暮らすことになるのなら案内は必要だし、多くの職員に顔を覚えてもらう必要がある。それは早いに越したことはない。

 まずは寮母のアイナと医療担当のシャマルに顔見せをしなければならない。仕事の最中は彼女に面倒を見てもらうことになるだろうし、急な病気ということいなれば、シャマルを頼らなければいけなくなる。

 特にヴィヴィオは生まれが生まれだ。事情を話すことのできる医療魔導師は限られているので、命に関わることだけに信頼関係は十全に築いておかなければならない。

 六課の中では人当たりの良い方であるシャマルだ。ヴィヴィオも、彼女のことならば気にいってくれるだろう。

「おー、いたいた」

 どういう順で紹介していくかシミュレートしていると、そこに現れたのはヴィータだった。手には大きな包みを持っている。十年前に比べて僅かに身長は伸びたが、それでも小柄なヴィータだ。こういう物を持っているとその小ささが強調されて愛らしさすら感じさせるのだが、その足取りに迷いはなく表情には大人っぽさが感じられた。

 ヴィータが偉そうなのは六課ではいつものことであるが、今日は特に背伸びをしているように思える。原因は考えるまでもなくヴィヴィオだろう。見た目こそ六課の中で12を争う幼さのヴィータであるが、これでも新人たちには姐御肌で知られている。新人だからこそ騙せているところはあるものの、面倒見が良いことに変わりはない。

 特殊な境遇のヴィヴィオが来ると知って、黙っていられなくなったのだろう。

 生暖かい目でヴィータを見ていると、その視線に気づいたヴィータがぎろりと睨み上げてきた。愛らしいが、それでもベルカの騎士である。こういう時の凄みには凄まじいものがあったが、それも一瞬で霧散した。どうやら自分に用事があるらしいと悟ったヴィヴィオが、恭也の背中から顔を出す。

 怯えた様子のヴィヴィオにも怯むことなくヴィータは歩みより、その包みを差し出した。どうぞ、も何もなくただ突き出されたそれにヴィヴィオも困った顔で、恭也を見上げた。

 どうすれば? という無言の問いに、恭也は無言で頷きを返す。この状況、この装いでこれがプレゼントでないということはないだろう。ヴィヴィオにこれを受け取る理由はないが、ここで拒否するのはヴィータに悪い。

 恐る恐る包みを受け取ったヴィヴィオは、もたもたした手付きで包みをはがしていく。脅かされることを疑っている様子だったが、中身が何であるのかを知ると、表情がぱっと輝いた。

「ふわぁ……」

 中から出てきたのはウサギのぬいぐるみだった。薄いピンク色の肌につぶらな瞳がチャーミングな一品である。

 目を輝かせているヴィヴィオを満足そうに見つめているヴィータに、顔を寄せる。

「いつの間に用意したのだ?」
「お前がちびっこを連れてくるって聞いたからな。何もないのは寂しいだろうと思って買っておいた」
「すまんな。後で何か埋め合わせをしよう」
「お前、本当に父親気取りなのな……埋め合わせとかは別に良いぞ。あたしはウサギの良さを広めるためにやっただけだからな」
「何故うさぎなんだ?」
「そりゃあお前、ウサギは全世界で一番かわいい動物だからだ」

 何一つ疑問を持っていない様子のヴィータに、恭也は両手をあげて降伏の仕草をする。この性格で、ヴィータは結構な少女趣味なのだった。誰かを呼んだ時に恥ずかしいという理由であまりファンシーな物を持ちたがらないが普通の少女と同程度にはかわいいものを愛しており、動物の中ではウサギをこよなく愛している。

 ヴィヴィオへのプレゼンにウサギを選んだのも、その感性によるところが大きい。

 ともあれこれでヴィヴィオからの好感度はうなぎのぼりに違いない。良かれと思ってやったことだろうが、今まさに撃沈したばかりのフェイトからは恨めしそうな視線が向けられている。遅まきながらその視線に気づいたヴィータは居心地悪そうに身を震わせた。

「……キョウ、フェイトはどうしたんだ?」
「野望が潰えたばかりらしい。あまり構ってやるな」
「パパ、ウサギさん!」

 うさぐるみを一頻り愛で終わったらしいヴィヴィオが、それごと恭也に抱きついてくる。幸せそうに微笑んでいるのを見るに、プレゼントは大成功したと言えるだろう。眺めるヴィータもうんうんと頷いている。全ての人が幸せになる。そんな素晴らしい光景だった。

「物をもらったらきちんとお礼を言わないと駄目だぞ。自己紹介も忘れるな」
「わかった!」

 ヴィヴィオはうさぐるみを抱えなおすと、ヴィータの前で居住いをただし、ヴィータに向かってきちんと頭を下げた。

「はじめまして、ヴィヴィオです。ウサギさん、ありがとうございました」
「あたしはヴィータだ。ウサギはギガかわいい生き物だからな。ちゃんと大事にしてやるんだぞ」
「うん、大事にするね、ヴィータママ」

 鷹揚に頷いていたヴィータが、ん? と疑問の表情を浮かべるのと同時に、フェイトが動いた。

「獅子身中の虫とはこのことだ!」

 芝居がかった仕草で声をあげるフェイトにヴィヴィオがまた怯えるが、それが気にならないほどに頭に血が上っているらしい彼女は勢いに任せてヴィータの肩を掴み、がくがくと揺さぶる。
 
「プレゼントは良いよ!? でもママってどういうことヴィータ!! それは私の役目だったのに!!」
「知らねーよ! つーか離せこのヤロー!」

 こうなってしまえば後は泥試合である。二人とも高位の魔導師であるが、指導者でもある。魔法を使っては取り返しのつかないことになると理性で理解しているせいか、まるで子供の喧嘩のような取っ組み合いを始めた。魔導師としての力量こそ拮抗しているが、ヴィータとフェイトの間には絶対的な身長差がある。

 身体を使っての勝負ならこれは相当なアドバンテージになるはずなのだが、泥試合にそんなものは関係なかった。小さな身体を存分に生かしたヴィータはフェイトの飛びついて体勢を崩し、そのまま床をごろごろと転がる。

 二人の外面しか知らない人間がこれを見たらどう思うだろうか。二人とも容姿が優れているだけあって名前が売れており、フェイトはエリート執務官として、ヴィータはベルカの騎士として方々から尊敬を集めている。

 それがまるで子供の喧嘩をしているのである。食堂のおばちゃんたちも何事かと目を丸くしてるが、恭也は喧嘩を見ても溜息を吐くだけだった。止めよう、とは思わない。ヴィータの喧嘩っぱやさも、フェイトの頑固さも知っている。やれる時に喧嘩をしておいた方が後に遺恨も残らないというものだ。

「パパ、止めなくて良いの?」
「……二人はあれで仲良しなんだ。俺たちは気にしなくても大丈夫だ」
「わかった。気にしない」
「お前は素直な良い娘だな」

 言外にああはなるなよ、という意味を込め、ヴィヴィオの頭をそっと撫でる。貰ったばかりのウサギを抱いたまま、ヴィヴィオは花咲くように可憐な微笑みを浮かべた。