「ブラックだ。目標確保。指示を頼む」

 チンクが質問をしようとするよりも早く、空から雨が降り始めた。男は無線機に声を飛ばしながら、チンクに指で『移動しろ』と指示を出す。チンクは黙ってそれに従った。

 チンクの足元に、狼が寄ってくる。その狼が口に靴をくわえているのを見て、チンクは初めて自分が裸足であることを思い出した。

「ありがとう。助かった」

 礼を言うと、狼は嬉しそうに鳴いた。

『こちらマオなのだ。コトラを送ったからその先導に従うように』
「了解した。そっちの準備はできているか?」
『問題なし。お前待ちだから、さっさと来るのだ』
「寄り道しないでまっすぐそちらに向かおう」

 苦笑を浮かべて男は交信を打ち切り、無線を懐に仕舞った。白いファーコートが雨風に待っている。薄汚れてはいるが、それは間違いなくクアットロのコートだった。

「恭也・テスタロッサ。一つ訪ねたいのだが――」
「また人違いだ。俺はそんな名前ではない」
「お前のように特徴的な人間が二人といてたまるものか。冗談も大概にしてもらおう」
「事実だ。ちゃんと管理局員証もあるから見せてやろう」

 ほら、と男は皮のケースに納められた局員証を差し出してきた。偽造したものを何度か使用した関係で、その造りはチンクも記憶している。確証は持てないが、おそらくは本物だろう。局員証には男の写真と、その所属、階級、そして名前が記載されていた。

 所属、本局情報部。階級、三等海尉。名前は――

「ヒカル・G・リバー……何の冗談だ」
「人の名前に冗談とは随分だな。まぁ、俺の名前などどうでも良い。移動するぞ。さっさと歩け」
「待て。何故私がお前について行かねばならないのだ」
「行くアテがあるなら別に良いぞ。助けられるから助けただけ。利が目減りするだけで、こちらに損失はない。しかし、お前が俺達に命一つの借りがあるのは事実だと、そう思うのだが……どうだ、ナンバーズのチンク」

 これだけ目立った後ではアジトまで戻れないし、何より足がない。妹達が多数拘束された今、救助も望み薄だろう。恩着せがましい物言いだが、一理あった。

「道中、呼び名がないと不便だろう。お前のことは何と呼べば良い」
「好きに呼べ。だがヒカルとは間違っても呼ぶな」

 やはり偽名なのではないか……とは思ったが、口には出さなかった。指摘したところでこの男は、それを認めないだろう。先に立って歩き出した恭也について歩き出す。最後尾には狼がついた。人目につかないように廃墟の中を歩いていく。無目的に歩いているのかと思ったが、そうではなかった。恭也の視線の先から小さな猫が駆けてくる。その猫は恭也の前で立ち止まると、なー、と小さく鳴いた。

 恭也は膝をついて、その猫の喉を撫でる。気持ち良さそうにごろごろと鳴く猫を前に、恭也は優しい笑みを浮かべていた。

(こんな顔もできるのだな……)

 チンクは素直に感心していた。スカリエッティが収集したデータに映っている彼は、いつも仏頂面をしていた。笑うことなどない鉄面皮だと勝手に思っていたが、人間ならば怒ることもあれば笑うこともある、ということに遅まきながら気付いた。

「彼女が道案内だ。さぁ行くぞ」

 声をかけただけで恭也はチンクを待たなかった。怪我人を導く所作ではない。薄情な奴め、と内心で毒づいていると、狼が足に鼻を寄せてきた。狼は言葉を話さないが、その上目遣いで気遣われているのだと感じた。言葉などなくても、気持ちは通じるのである。

「ありがとう。私は大丈夫だ」

 言葉を口にすると、本当に身体が軽くなったような気がした。足を引きずらないようにしながら、恭也の後を歩き続ける。

 何も喋らない恭也の後を無言でついていく。その背中を見ながら、チンクは恭也が周囲を警戒し続けているのだと気付いた。空気が張り詰めているのを感じる。ミッドともベルカとも違う、異なる魔法体系の技術であるという。生命の持つ気を操り、それを探知するその技術を応用するとデバイスなどに頼らずとも周囲の生命体の反応をかなりのい精度で感知できる――特共研の情報を収集し自身もテスタロッサ式の研究者となったクアットロから聞いた話を、チンクは漸く身体で理解した。

 この警戒網の中では、彼の不意を突くことなどできないだろう。思考までを見透かされているような微かな、しかし鋭いプレシャーは果たしてどこまで続いているのか……
考えれば考えるほど、恭也の底が見えなくなっていく。

 トーレやクアットロは、こんな男に好き好んで挑もうとしている。姉妹のことながら、正気の沙汰とは思えなかった。人間を遥かに凌ぐ身体を持っているチンクをして、ただの人間であるはずの恭也を倒すビジョンがまるで見えないのである。

 この男には勝てない。そんな思いがチンクの心に広がっていく。

「お前の姉妹の話だが」

 何もしないうちに心の折れかけていたチンクに、恭也の静かな声が届く。姉妹、という単語にチンクの意識は引き戻された。

「どこまで聞いた?」
「マリエルという技師から、私と共に機動六課施設に向かった姉妹は全て捕らえられたと。ノーヴェ、オットー、ディード、ウェンディ、それから高町なのはと相対したはずのディエチの五人だ」
「間違っていない。地上本部や本局のタカ派から引渡しの要求が着ているが、それを突っぱねているらしい。六課にいる限り、人道的に扱われるだろう。つまり、お前達が勝ち姉妹を奪還する、そんなシナリオにならない限り、俺達と共にいるのがお前たちにとっては安全ということだ」
「お前たちが今後も私の妹たちを人道的に扱うという保障はない」
「ないな。だが、俺はともかく俺達の上に立つ人は人道的な感性と共に組織を先々まで運営するための計算高さも持っている。彼女らはお前たちの存在を望んでいる」
「力、の間違いだろう」
「そうでもない。機械と人体の融合というのは、ある種の希望ともなりえる。何事も使い方次第ということだな。俺には想像もできないが、あの人たちならお前たちのことも平和的に運用できるだろう」
「信用しているのだな、自分の上司を」
「俺にできないことをやってくれるからな。尊敬しているし、信頼もしている。だからお前が今後も協力してくれるなら、今拘留されている妹達全員の安全と、今後の待遇改善を約束しよう。希望するなら、社会復帰できるようにも手配する」
「お前にそんな権限があるものか」
「尊敬する上司達にはある」

 恭也は振り返らない。チンクから見えるのは彼の背中だけだった。しばらくの間思考して、チンクは溜息をついた。スカリエッティの計画がこのまま成功する可能性と、恭也たちの世話になる道。自分が手を貸した上で、どちらがより妹達の安全が確保できるか。

「わかった。お前の言うことに従おう」
「決断が早いな」
「姉とは妹のために尽くすものだ。私の身一つで、妹達全員の身柄が約束されるのならば、安いものだろう」
「今現在拘留されている妹に限定されるがな。まだスカリエッティ側にいる連中については、保障の適用外だ」
「そこまで望んだりはせんよ。私は、私にできることをするだけだ」
「話が早くて助かる。では、共闘の約束が成立した記念にこれを」

 恭也が後ろ手に放ってきたそれを、慌ててキャッチする。先ほど見せられたIDと同じものだったが、写真は自分のものだ。本局情報部所属。階級は海曹。名前はチンク……それだけだった。姓はない。

「流石にこれは適当過ぎないか」
「管理世界は広いからな。姓を持たない人間も大勢いる。それに堂々とさえしていればバレないものだ。演技力に期待してるぞ」
「お前に賭けることに決めた私の判断が、間違ってないことを今は祈るばかりだ……」

 呆れて見せると、恭也は小さく息を漏らした。

 チンクには背中しか見えなかったが、それが恭也の笑みなのだと初めて知った。



















 周囲に誰もいなくなったのを確認して、ティアナはずるずるとその場に崩れ落ちた。

 壁に背中を預けながら、腹のそこから溜息を漏らす。

 今や対スカリエッティの最前線の一つとなった機動六課の空気は、最悪の一言に尽きた。行き交う人間の誰の心も荒んでいる。恭也を殺したというあのクアットロの映像は広域に配信されており、多くの管理局員の知るところとなった。六課に集まった人間は、本局の人間、地上に所属していても本局よりの人間である。その中には恭也と交流のあった人間も大勢いた。

 ここに集まった全員が恭也の死を悼んでいるが、彼を殺したクアットロに関する情報は全くと言って良いほど集まっていなかった。あれほど大規模な攻撃をしたのにも関わらず本拠地は元より逃走ルートも謎のまま。六課を襲撃し、そこで捕縛された五人を除いて、その全てが逃げおおせたのである。マリエルが治療することになっていたチンクも、局員に偽装した何者かの手によって連れ出されたという。

 その際戦闘行為があったというが、その偽装した局員もチンクの行方もつかめていない。

 唯一の頼みは捕縛した戦闘機人たちの持つ情報であるが、彼女らの情報を元に割り出した施設は既に爆破され瓦礫の下に沈んでいた。今はその撤去作業が進められているが、それが掘り起こされる頃にはスカリエッティたちは別の手段を打ち出してくるに違いない。

 それに、対抗しなければならない。

 それが仕事だ、と気落ちする度に思い直すが時間が経つと泣き出しそうになっている自分がいる。それでも愚痴一つ涙一つこぼさないでいられるのは、自分以上に心を痛めている仲間がいたからだった。

 尊敬するなのはは、見た目は平然としていたが、会議など必要な時以外は一人でいることが多くなった。屋上で座り込み、海の彼方を見ている彼女の背中を見たが、肩に触れた枯葉が燃えて塵になるのを見て、彼女の怒りの深さを知った。もし『アレ』が爆発したら、ヴィータよりも酷いことになるのは明らかである。

 そのヴィータは訓練区画で暴れることこそなくなったが、参加必須の会議以外はやはり人を寄せ付けない。誰かれ構わず怒鳴り散らしてしまう自分に嫌気が差したらしい。現在はシャマルが時間を作って様子を見に行っている。現在、ヴィータの顔を仕事以外で見ているのは彼女一人だ。

 六課襲撃の際、ナンバーズの二人と戦い右腕を失ったギンガは、恭也死亡のニュースを受けて調子を大きく崩している。昏睡状態こそ脱したが、いまだにベッドから起き上がることはできていない。失われた腕の修繕にも取り掛かれていない有様だった。腕の破損によって彼女も戦闘機人であることが一部の人間に明るみとなったが、それには重い緘口令が敷かれていた。六課の外には漏れていないが、それも時間の問題だろう。

 今は機人という言葉にさえ、全ての人間が過敏になっている。今ギンガの立場を悪くすることは、六課全体の立場を悪くすることに他ならない。体調を戻すことができたとしても、決戦に参加することができるかは微妙なところだった。

 体調を崩しているといえば、エリオもそうだった。

 彼女は機人の一人セッテと戦い敗北している。その際、ブーメランブレイドに腹部を貫かれて重傷を負った。幸い命に別状はなく処置も早かったことで既に現場に復帰できるくらいには復調しているが、恭也敗北のニュースは彼女の心に大きな影を落としていた。今は誰とも口を利いていない。指示こそ聞くものの、暇を見つけては人の居ない方、居ない方へと姿をくらませようとしている。

 このままでは手首でも切るのではないか、という思いを抱いたのはティアナ一人ではなかったらしい。常に誰か一人は張り付いていること、という厳命がシャマルから下され、現在はキャロかアルフがその任についている。

 後は、すずかである。あの日以来すずかの姿を見た人間はいない。あのアリシアを戦い、海に落ちたのが美由希によって目撃された最後の姿だった。普通であれば捜索が行われたのだろうが、無事である、という連絡がほどなくして彼女本人からもたらされた。ならば何故合流しないのか、という疑問は残るがいずれ合流するという本人の言と、今は放っておいてよし、というはやての上――クロノ提督などからの指示によりすずかの件は放置されている。

 多くの人間が、あるべき姿ではない。その事実は六課に大きな影を落としていた。それでもいつも通り。いや、いつも以上に仕事で成果を出さなければならない。スカリエッティは管理局に公然と喧嘩を売った。これに敗北すれば管理局の権威は地に落ち、治安は乱れ多くの命が失われることになる。

 今、ティアナたちの肩にはいつも以上に地上の平和がのしかかっていた。

 何度目になるか知れない溜息をつき、目頭を揉む。


「ティアナ。ちょっと良いかな」


 クアットロのあの映像を見た時、最初にティアナの脳裏をよぎったのはフェイトのことだった。全てを放り出してクアットロを殺しに行くのでは、とそんな未来をかなりの確度でもって予想したのだが、そんな予想を裏切り、フェイトはいつもどおりに仕事をこなしていた。なのはのように怒りが抑え切れない、という風でもない。積極的に他人のケアに周るなど、周囲に目を配るだけの余裕もあった。

 完璧すぎて逆に気味が悪い。裏で何か危ない計画を企てているという方が、まだティアナのイメージにしっくりとくる。

「なんでしょうか、フェイトさん」
「ここじゃ何だから、場所を変えよう。ついてきてもらえる?」

 断る理由はない。先に立って歩き出すフェイトに、ティアナは黙ってついていった。

 連れられた先は会議室だった。襲撃の際のガレキもそのままの埃っぽいその部屋には、先客がいた。

 シグナムが奥の壁に寄りかかりながら目を閉じており、その横に設えられた椅子に腰掛けたシャマルは空間モニタに指を走らせている。医療関係の責任者であるシャマルには処理しなければならない案件が山ほどあった。空いた時間まで仕事をしているその姿に、ティアナは申し訳ない気分で一杯になったが、ティアナが部屋に入ってきたことに気付いたシャマルは、そんな心配を振り払うようにモニタを消し、微笑んで見せた。自分以上に働いているはずなのに、そんな様子を全く見せない。

 気遣いとはこういうことを言うのだな、と思いながらティアナは頭を下げた。

「ティアナにしたんだ」

 そう呟いたのは美由希である。どういう意味かとティアナが声を挙げるよりも先に、フェイトがドアを閉めた。フェイトはそのままドアを塞ぐように立っている。閉じ込められた。何となくそう感じたティアナは、自分の背中に汗が流れるのを感じていた。

「うん。キャロとどっちにするか迷ったんだけど、一番余裕がありそうだったから」
「あんな小さい娘にこれ以上負担かけるのもね……いや、ティアナなら良いって言ってる訳じゃないよ? ほんと」

 言い訳を始める美由希に、ティアナは苦笑を浮かべるしかなかった。話が見えない。誰か説明をしてくれないと状況に流されるばかりなのだが。誰か説明してくれる人はいないものかと視線を彷徨わせると、最初に目があったのは美由希の影でふよふよと漂っていたリインフォースだった。

 ちんまい少女は視線に込められた意味を正しく理解してくれた。してしまった。目を輝かせる少女にできるなら他の人が良いと言うだけの図太さはティアナにはなかった。お願いします、と両の手のひらを上に向けるとリインフォースはティアナの肩に腰を下ろした。頼られたことが純粋に嬉しいらしい。

「実はですね、リインたちはティアナに秘密を共有してほしいのですよ」
「秘密……ですか?」
「そうなのです。この部屋から外に出たら、誰にもそのことは言ってはいけません。勿論、リインたちにもですよ?」

 随分と本格的な話である。口にしているのがリインだからか、これが妄言なのではという思いがティアナの脳裏をよぎるが、シグナムやシャマルなど、他の面々はリインフォースの言葉を真面目な顔で聴いている。全員が了承していること。秘密、という言葉がティアナに重くのしかかった。

 仲間のことは信用しているし尊敬もしているが、この状況でさらに厄介ごとが増えるのかと思うとティアナの心はじくじくと痛んだ。できれば勘弁してほしい、ということは顔に出さないように気をつけながらリインフォースに先を促す。彼女は小さく頷くと、

「まず、リインのファータ。恭也・テスタロッサは生きているのです!」
「……は――いえ、ちょっと待ってください」

 思わずスバルにするように聞き返しそうになったティアナは、まず、深呼吸をした。そしてゆっくりとリインフォ―スの言葉の意味を考える。言葉が理解できなかった訳ではない。その意味自体は単純だ。恭也が生きている。リインフォースが言いたかったのは、ただそれだけだった。

 その意味を本当に理解したティアナの心に喜びが広がる。溜まった疲労が一気に吹き飛ぶような、久しく忘れていた純粋な喜びだった。リインフォースが嘘を言っているとは考えなかった。『死んだ』ことには何か理由があるのだ。そう考えることに特に抵抗を持たなかったのは、恭也の人となりのせいだろう。

 あの男ならやりかねない。それはティアナに限らず、恭也を知る人間の共通認識だった。

「整理できました。続きをお願いします」
「続きは私が言うね」

 美由希がリインフォースを野菜でも引っこ抜くように自分の脇に抱えなおす。邪魔された形のリインフォースは抗議の声を挙げるが、美由希は気にしない。リインフォースを胸の中に抱えなおし椅子に座り、手近にあった椅子を視線で示した。ティアナはその椅子を引き寄せ、座る。

「そんなに慌てなくてびっくりかな。もしかして予想してた?」
「考えもしませんでした。でも、恭也さんならそれもアリかな、と思いましたので……」
「信用することにした、と。うん、話が早くて助かるよ。ここで取り乱したりされちゃうと、落ち着いてもらうのに苦労しただろうからね」

 苦笑を浮かべた美由希が頬に手を伸ばして、空振りする。トレードマークだった長いおさげは、先の戦闘で切り飛ばされていた。刃による雑な切り口もそのままである。慣れ親しんだ感触がないことに美由希は一瞬だけ悲しそうな顔をするが、それを振り払うように頭を振った。

「とにかく、ティアナには『恭也生存』の情報を共有しておいてもらいたいんだ」
「秘密にしろということですが、なのはさんやヴィータ副隊長には知らせなくても?」
「秘密を共有する人間は少ない方が良い、ということだな。奴らが信用できない訳ではないが、どこから情報が漏れるかは解らん」

 警戒するに越したことはない、ということである。ティアナは混乱しそうになる頭脳を強引に稼動させ、状況を整理していく。

「恭也さんは何か、秘密の作戦に従事しているということですか?」
「らしいんだよね。詳しくは知らないけど」

 美由希も、曖昧な答えを返す。思わず肩をこけさせるが、その顔を見れば本当に知らないことは解った。シグナム、シャマル、フェイトを見るが彼女らも同様である。

「つまり誰一人、今恭也さんが何をしているか知らないということですか?」
「そうなるね。まぁ、恭也のことだから上手くやると思うよ。私達は恭也がいない間、六課の皆が暴走したりしないように監視をすること。危ない娘がいるでしょ? 何人か」

 こともなげに言うが、その危ない娘を直接見ているだけに笑い飛ばすこともできなかった。

「そんなところかな。何か聞いておきたいことはある?」
「恭也さんが生きていることは解りましたが、皆さんはどうやって確信を持ったんですか?」

 ここしばらくの間、恭也に関する情報はクアットロが送ってきたあの映像しかない。何度も見たいものではないが、一見する限り、映像に特に不審な点はなかった。ティアナの疑問を受けた美由希がそれはね、と得意そうな笑みを浮かべる。見ればシグナムや他の面々も似たような表情をしていた。仲間はずれにされたようで、ティアナの心が波立った。

 イライラとしている自分を表に出さないようにしながら、ティアナは続きを促した。

「恭也もあれで用心深い性格でね。何かあった時のためにサインを決めてたの。簡単なことなら、仕草だけで伝えられるようにね。そのサインによれば『恭也 生存 独自行動』ってことだったから。連絡なしっていうのは色々と思うところもあるけど、無事ならまぁ良いかなってほっとくことにしたんだ」
「私についても同様だ。ご丁寧に全員に違うサインを伝えていたらしくてな。皆で確認したが、全員同じ内容だったから恭也の生存を確信したということだ」
「ちょっと待ってください。そのサインを送ってきたのは恭也さん本人じゃありませんよね?」
「そうだね。あのメガネのクアットロだね」

 クアットロの名前を口にする段になって、美由希の表情にも険が混じる。

「恭也があのメガネにサインを伝えたんでしょう。無理やり聞き出されたって可能性もありえなくはないけど、あの恭也が全員分のサインを白状するとも思えないし、ならあのメガネをどうにかして味方に引き込んだと考える方が、恭也としてはありえると思ってね」
「あれをですか?」

 ちょっとやそっとで味方に引き込めるような精神構造をしてるとは思えなかった。恭也ならば、とは言うが見るからにぶっとんだ性格をしていそうなあの女に、一体どんな餌をぶら下げれば味方に引き込めるというのか。

「それは知らないよ。でも、ああいう癖のある女の子を相手にするの、何気に得意技だしね、恭也」

 美由希の言葉に、リインフォースを覗いた全員がうんうんと頷く。自分達も癖があると認めているようなものだが、そこには一切触れようとしない。

「他にサインを託されている人がいるかも?」
「かもね。女帝陛下とか怪しいと思うけど、確認するのもバカらしいし。アルフも含めて五人かぶれば十分でしょう。恭也にしては、随分手のこんだことしたと思うけど」
「リインはサインがなくてもわかりましたよ! ファータが生きていることくらい」

 ついに我慢できなくなったらしいリインフォースが話に割り込んでくる。美由希は微妙に迷惑そうだ。シグナムは手で額を押さえており、シャマルは苦笑を浮かべている。リインフォースがその話をすることを意図的に妨害しようとしていた節がある。普通ならば聞くべきではないことなのだろうが、腕ききの女性三人が隠そうとしていることにティアナは興味が沸いた。

「どうして解ったんですか?」
「あの腕は、ファータの腕ではないのです!」

 どーん! と効果音が聞こえてきそうなポーズでもってリインフォースは宣言した。言われて、ティアナはクアットロの持っていた腕を思い出そうとする。傷だらけの男の腕だ。いや、腕だけなのだから男と確信が持てた訳ではないが、太さと肌の色からして男と判断するのは間違ったことではないだろう。

 そして、その腕を恭也のものだと確信するに至ったのは、恭也たち三人しかしていない腕章と、クアットロの発言があったからである。

 だが美由希たちの言葉を信じるなら、クアットロはこちらに傾いている。そこにどういう事情があるのか知れないが、恭也が死んでいてはその傾きは成り立ち難い。それにクアットロがこちらに傾いているのならば証拠の一つである腕章も意味がなくなる。協力関係にあるのなら腕章を提供することくらい訳はないだろう。誇りとかそういう問題はあるものの、大義の前には些細なことだ。

 後は腕をどうするかの問題であるが、カメラ越しであればいくらでも誤魔化しはきく。情報ではクアットロは幻覚の扱いを得意としているらしい。腕一つを偽装するのはお手のものだろう。

「腕が本物でないから、というのは納得できました。参考までにどこが本物と違うのか伺っても?」
「細かなところは色々ありますけど、一番は肩口の大きな傷がないことなのです。そもそも、リインがファータを見間違えることなどありませんが!」

 いくらでも調子に乗りそうなリインフォースを視界の外に追いやりながら、ふむ、とティアナは考える。

 自分には無理な判別方法だ。そもそも、恭也が腕をまくっているところを、ティアナは見たことがなかった。写真は基本的に長袖であるし、訓練の時も長袖以外は着用しない。どれだけ汗をかこうとも、腕捲くりすら最後の手段にするほどの徹底っぷりだった。肩口の傷を見るなど、全裸になるような状況でないと無理に違いない。

 バスルームであるとか寝室であるとか、その前の着替えるタイミングであるとか、普通ではない環境に遭遇しないと見ることは不可能だろう。リインフォースはまだ良い。はやてと色々と揉めているようだが、恭也にとっては娘のようなものだ。恭也と触れ合う機会もあるだろう。

 ティアナはすっと目を細めて美由希たちを見やる。

 だが美由希たちはそうではない。彼女らは血縁でもなければ、姻戚関係にある訳でもない。当然、幼馴染でもない。そんな女性が服を脱ぎたがらない男と、服を脱がなければならない場所にある傷を知る理由は……おそらくは、そういうことだ。

 見ればフェイトだけは面白くなさそうな顔をしている。血縁はないが家族である彼女は、お子様のリインフォースと同じ経緯で同じ結論に至ったのだと想像できる。

「……隠そうと思ってた訳じゃないよ? ただ、言いふらすようなことでもないかな、と思っただけで」
「いえ。私も同じ立場ならばそうしたと思います」

 気まずい雰囲気を察したティアナは席を立った。聞くべきことは聞いた。美由希たちも、言いたいことは言っただろう。

 今するべきことは、時を待て、ということだ。先ほどまでのティアナならばそれも残酷な指示と受け取っただろうが、恭也が生きていると解った今ならば、話は別だった。彼が秘密裏に行動している。その事実だけで何とでも戦えるような気がした。あの恭也・テスタロッサならばそれくらいやらなくては。無駄な興奮がティアナを包む。

 そうして色々なことを考えているうちに、ティアナは一つの事実に思い至った。

 恭也がいずれ戻ってくるのならば、その時に秘密は秘密でなくなる。きっとサインによって生存していたことを伝えていたことは、やさぐれているなのはやヴィータにも伝わる。その時、どうして秘密にしていたのか、と追求される可能性もないではない。秘密を知る人間は少ない方が良いということは二人もわかっているだろうが、理屈で納得できないことなど往々にして存在する。白い魔王や鉄槌の騎士の追及をかわす自信はティアナにはなかった。

「もしかして、巻き込まれただけだったりします?」
「赤信号、みんなで渡れば怖くないって言うでしょ?」

 くすり、と美由希は笑う。仲間と言ってくれるのは嬉しいが、できればこういう時に使ってほしくはなかった。怒り狂うなのはやヴィータのことを考えないようにしながら、ティアナは部屋を後にした。




















 何もない部屋の中央に狼がいる。薄紫色の体毛をした、雌の狼だ。狼は意思を持った瞳で部屋を見回し、扉が確かに閉まっているのを確認すると小さく唸り声をあげた。

 淡い光が狼を包む。光はやがて、部屋を埋め尽くした。光がはじける。その時には、狼は全裸の女性へと姿を変えていた。犬の姿勢のまま女性はぶるりと身体を震わせ、立ち上がった。無駄な肉のない引き待った身体だが、出るべきところはきちんと出ている、女性として理想的な身体だった。自分の身体が人の形をしていることを確かめると、女性は部屋の隅に畳んであった訓練着に袖を通す。

「これ、必要なんじゃない?」

 ブーツを履いて顔を上げると、部屋の入り口に別の女性の姿があった。勝気な瞳をした、少女のような女性である。

「ありがとう、アリサちゃん」

 狼だった女性――月村すずかはにこりと微笑むと、投げ渡されたヘアバンドを受け取る。慣れ親しんだ感触が戻ってくると、意識も引き締まった。

「戦闘機人の女の子はどう?」
「クラウゼ博士が手術に入ったわ。この業界の第一人者だって言うし、大丈夫でしょ」
「そう。なら良かった」

 すずかはほっと溜息を漏らした。アリサと並んで廊下を行きながら、身体の具合を確かめる。

 しばらく前に身体に大穴を空けられたとは思えないほど、力に満ちていた。気もかつてないほど高まっている。今ならどんな敵にも勝てそうな、そんな気さえする。その余裕が顔に出ていたのだろう。アリサがこちらを覗き込む顔には、無粋な笑みが浮かんでいた。下世話な話題で盛り上がる、近所のおばちゃんのような顔だった。

「何か言いたいことがあるのなら、聞くけど?」
「聞いても良いなら聞くけど……まぁ別に、聞いてダメでも聞くんだけどね」
「だったら最初から聞けばいいんじゃないかな」
「こういうのは形が大事だって最近学んだのよ。で、私を差し置いて大人の階段を一人で上った感想はどう?」

 すずかの歩みが、僅かに乱れた。内心の動揺を隠すように、深く息を吸い込む。アリサを納得させうるだけの言い訳はないか、と頭を捻るが、彼女はすずかの知りうる限り一番聡明な女性だ。そもそも子供の頃から言い合いで彼女に勝てた試しはない。

 それに、彼女はやると決めたら、何が何でもやる人だった。魔法の力を持たない身でもできることはあるはずだと管理局に身を投じた親友にすずかはあっさりと白旗をあげた。

「皆には黙っててほしいの。特に、フェイトちゃんには」
「恭也絡みのあの娘の鼻の良さは知ってるでしょ? 隠しておいても無駄だと思うけどなぁ」
「それでも、お願い」
「……まぁ良いけどね。私も親友に先を越されたなんて話、喧伝したくもないし」

 今日のアリサの言葉は、チクチクと痛い。こちらに落ち度はないはずだが、先を越したというのも事実である。それに優越感を持っていないと言えば、嘘になった。なのはでもフェイトでもアリサでもはやてでもない。自分が、月村すずかが、だ。そう思うとこのチクチクした攻撃もやり過ごせるような気がしてきた。

「ところでそんなに解りやすいかな。その、大人の階段を上ったこと?」
「女帝陛下は処女かどうかなんて見れば解るって言ってたのよ。はじめに聞いた時は何を言ってるかしらこの色ボケはと思ったものだけど、あんたを見て確信したわ。ほんとに見れば解るのね。どこが違うって言われると困るんだけど、明らかに雰囲気が違うのよ。それに今のすずか、この世の春を謳歌してますって顔してるわ。このまま死んでも悔いはないってくらいにね」
「流石にここまできて死にたくはないかな」

 苦笑を浮かべる。今までにない幸せを知った。ならばそれ以上を掴み取りたいと思うのが人間だろう。無欲な方だと自分では思っていたが、今では際限なく欲が湧き上がってくる。これも、大人になった影響だろうか。

「で、話を戻すけど、感想は?」
「…………のーこめんとでお願いします」

 素面では言えないことを色々言ったし、やった。それを事細かに話すことは、いかに親友と言えども憚られた。

 アリサは胡乱な目つきで睨み挙げていたが、すずかが梃子でも動かないことを悟ると大きく溜息をついた。お互いがどういう人間かは、嫌というほど知っているのだ。

「今度何かおごりなさい。それで勘弁してあげるわ」
「アリサちゃんみたいな親友を持って、私幸せだよ」
「その親友が友情より愛情を取るようになるんじゃないかって、私今から心配よ」

 せめてもの仕返しにと、皮肉をたっぷり込めてアリサは言う。ふん、と悔しそうに顔を背ける親友に、すずかは心中でこっそりと謝った。




 あの時、アリシアの放った魔力弾は確かにすずかの身体を貫いた。正確に心臓を狙った弾丸は、しかし正確すぎた故に身体を僅かに捻っただけで回避することができた。それでも直撃を免れることはできなかったが、即死しないで済んだことはすずかにとって僥倖だった。海に落ち、生死の境を彷徨いながらも、どうにか岸まで泳ぎきり、人目を避けて廃墟に身体を引きずった。

 その時には、胸の傷はふさがりかけていた。

 吸血鬼。

 ある時は自分の出自を呪いさえしたが、その時ばかりは生き汚い自分の身体に心の底から感謝した。

 最悪の状態は脱したが、しかし、それだけだった。傷を塞ぐのに大量の血を消耗した。どれだけ超人的な生命力を持っていても、その糧となるものがなければどうしようもなかった。吸血鬼たるすずかの場合、それは血だった。視界が赤く明滅する。元々、体調も悪かったのだ。

 吸血鬼に、子供は出来にくい。だが一時的に、子供を授かる確率が跳ね上がる次期がある。一族は皆それを『発情期』と読んでいる。犬猫のようで下世話極まりないと思うが、それ以外に表現のしようがないのだから仕方がなかった。二ヶ月に一度くらいの周期で発現する。期間は一週間。その間、身体は子孫を残すためのモードに切り替わり、意識もそれに引きずられる。

 どうしようもなく淫乱になる、と姉の忍は率直に表現した。姉はそれを楽しめるだけの度量があり、それを発散するための伴侶もいたが、すずかはそうではない。片思いの相手はいたが、定期的に発情する自分の面倒を見てもらうにはすずかはまだ男女の関係にロマンを持っていたし、それを口にするだけの度胸もなかった。

 しかし、恭也の力になると決めた時から、この発情期ははっきりと邪魔になった。二ヶ月に一度、一週間もアホになるというのは、許容できるものではない。どうにかできないかと自分の戦闘技術の師匠でもある叔母、エリザベートに訪ねたところ、ないでもないと彼女は答えた。

 内在する気を扱う術を学んだすずかは、体内周期もある程度コントロールできようになっていた。気の高まりが身体の作用に直結し、発情期が始まる。ならば発情期をなくすこともできるのではないか。

 幼かったすずかはそう考えたが、それでは一生子供ができなくなると叔母に止められた。代わりに勧められたのは、発情期の一週間を限りなく薄めてしまう方法である。

 その代わり常に弱い発情状態となってしまうが、アホになることは避けられた。

 ただし、根本的な解決にはならない。そもそも発情期は子孫を残すために備わっている『夜の一族』として正常な機能だ。どうしてもアホにならざるを得ない日というのが存在し、それがあのアリシアと戦った日だった。アホになっては仕事ができないと、発情しそうになる体を強引に気で押さえ込んでいた。身体には良くないが、背に腹は変えられない。おかげでいつもの半分の力も出せなかったが、万全の状態だったとしてもアリシアには勝つことはできなかっただろう。

 生命力が枯渇しかけた状態で、本能全てが刺激されていたが意思の燃料となる血が不足していた。遠からず、自分は死ぬ。浅ましく、獣のような本能で埋め尽くされていく身体を引きずりながら、すずかは身体を抱きしめ、恭也のことを思った。

「すまない、遅くなった」

 目を開けると、そこには恭也がいた。恭也は歯で人差し指の先を噛み千切ると、それを口元に運んでくる。泥で汚れた指先にある血の塊が、この世の何よりも極上の食材に見えて、すずかは夢中でそれにしゃぶりついた。体内の血全てを吸い出さんばかりに、音を立てて吸い付いていく。吸収された血の量は僅かだったが、待ち焦がれていた血液だ。にわかにすずかの身体に熱が灯り、力が戻ってくる。

「応急処置はこれくらいで良いだろう。不衛生で申し訳ない上に、あまり取られると俺も死にそうだから、加減してもらえると嬉しい」

 差し出された首筋に、すずかは躊躇いなく牙を突きたてた。牙が皮膚を破り、口の中に慣れ親しんだ血の味が広がる。一つ喉を鳴らす度に、身体に生命力が戻っていく。比例して恭也の顔色がどんどん悪くなっていくが、そこに配慮するだけの余裕はすずかにはなかった。

 一分ほども口をつけていただろうか。止血のために傷口を舐めて、脱力する。心地よい満足感がすずかの身体を満たした。当然のように恭也の首に腕を回して、胸に頭を預ける。血を抜かれ、体力を消耗しているはずの恭也だが、すずかの頭を撫でる腕は優しかった。

 そこで気を抜いたのがいけなかったのだろう。自分を取り巻く環境に、すずかは理性を忘れ去った。本能の赴くままに恭也を強引に押し倒す。血を抜かれてぼーっとしていた恭也は、すずかの行動に反応が遅れる。年下の少女に組み敷かれたことで、ようやく状況を察した恭也はそこから逃れようと身体を動かすが、元来、単純な力比べではすずかに軍配が上がる。加えて、クアットロとの戦闘の後に血を抜かれたという状況も最悪だった。一暴れした時点ですずかの腕が全く動かないことを悟ると、恭也は深く溜息を漏らした。

「この展開は予想していなかったな……」

 すずかの脳に届いた恭也の言葉は、それが最後となった。




 要約すると、助けにきてくれた憧れの人の血を吸った挙句、本能に任せて押し倒したということになる。どう考えても淑女の行いではない。おまけに理性は吹っ飛び本能に任せてはいたが、所々記憶は残っていた。全てが終わって理性を取り戻した後には恥ずかしさのあまり死にたくなかったが、恭也は何事もなかったかのように振舞ってくれた。あそこで気を使ってもらわなければ、そのままどこかに逃げていたかもしれない。


「まぁ、親友が外で男を押し倒すようなエロい性癖を持ってたことは、なのはたちには内緒にしてあげる」
「どうしてそれをっ――」

 と反射的に口にして、すずかは自分の失敗を悟った。アリサもまさかひっかかるとは思っていなかったのだろう。恥ずかしい過去を勝手に暴露したすずかに、哀れみの視線を送ってくる。

「まさか深窓の令嬢タイプのすずかが、そんな風になるなんてねぇ……」

 それがトドメだった。すずかは頭を抱えてその場にうずくまる。しくしくと泣き始めると、アリサも流石にバツの悪い顔をする。

「悪かったわよ。悪のりが過ぎたわ」

 アリサはすずかの隣に膝をつき、幼子を諭すように、その背中を優しく撫でる。聖母のような笑みを浮かべてすずかを慰める様は、一枚の絵のように様になっていたが、そもそもすずかを泣かせたのはアリサである。自分で泣かせて自分で慰める。すずかがアリサと喧嘩をした時の、お決まりのパターンだった。こうしてお互い仕事を持つようになってからは顔をあわせることも少なくなり、喧嘩をすることも少なくなったが、幼い頃からの変わらない力関係に、アリサは苦笑を浮かべる。

「うぅ……フェイトちゃんたちには、本当に秘密だからね?」
「わかったわよ。絶対に言わない。私と、すずかの秘密よ」
「うん。ありがとうありさちゃん」

 目を擦りながら、すずかは微笑みを浮かべる。正面から見据えると、アリサは照れたようにそっぽを向いた。素直に感情を向けられることに、ツンデレ気質の少女はなれていないのだった。

「さて、気を取り直してお仕事の話よ」

 ツンデレ少女の顔を消し去り、管理局員の顔に戻ったアリサが歩みを止める。

「他の面子は集合してるわ。すずかは恭也の隣にね」
「私が参加しても良いのかな」

 恭也の助けになりたいがために管理局に入ったのだ。局内の政治的な話には興味がないし、されても解らない。そんな自分が参加しても意味があるとは思えないのだが、アリサは興味なさそうに、

「別にいいんじゃない。ここにいる時点で一味みたいなもんだし、それなら事情は共有してた方が良いでしょう。あちらさんは良い顔しないかもだけど、その辺りは我慢してね」
「恭也さんに迷惑がかからないなら、私はそれで良いよ」
「OK。じゃ、行くわよ」

 ドアを開けるアリサに続いて、室内に入る。コンクリート打ちっぱなしの部屋に椅子とテーブルが設えてあるだけの殺風景な部屋。そこに三人の人間がいた。その中で唯一の見知った人間――恭也の姿を見つけると、その後ろに足早に移動する。

「身体は大事ないか?」
「問題ありません。ご心配をおかけしました」
「いや、問題ないならそれで良い。とにかく無理はしないようにな」

 こんなやり取りもいつものことだが、ああいうことがあっただけに色々なことを考えてしまう。自分の痴態を思い出して軽く死にたくなったが、恭也がさっさと視線をそらせるのに合わせて、すずかも気持ちを切り替える。すずかの分の椅子も用意されていたが、合えて恭也の後ろに立つことにした。その方が自分の立場をアピールすることができるし、何より恭也の顔を見て心を乱されなくて済む。

 立ちっぱなしを選んだことにアリサが視線を送ってくるが、追求してくることはなかった。一番奥にあった席にアリサが腰掛ける。

「揃ったところで質問があるのだ」

 口火を切ったのは、黒い猫耳の女性だった。作り物のアクセサリーではなく本物であるが、アルフのような使い魔ではなく人猫という種族の女性である。名はミオ・ジンナイ一尉。情報部部長ケイゴ・ジンナイ准将の養女であり、自身も情報部に籍を置く才媛である。

「今更聞くなとかそこのクロスケは言いそうだけど、気になって仕方がないから一度だけ聞く。クロスケ、お前はあのメガネの機人が信用できると言った。それは本当か?」「本当だ。納得できるような材料を用意することはできないが、あれが内応し、こちらに提供する情報に間違いはないと断言することはできる」

 殺気すら篭ったミオの視線を、恭也は涼しげな顔で受け流す。

「実際、今も情報は入り続けているだろう。それとも内容に何か問題でもあったのか?」
「敵からの情報をそのまま使う訳にもいかんのだ。それは今、おとーさんたちが洗っている最中なのだ」
「現状、問題は出ていないという訳だな。何か問題が出たら、その時にはまた言ってくれ」

 俺の首くらいならば、喜んで進呈しよう。と締めくくった恭也に、ミオはつまらなそうに息を漏らした。気の短そうなその反応を見て、すずかは何となくアリサに視線を送った。親友の視線の意味するところに気付いたアリサは、いーっと歯をむき出しにしてすずかを威嚇する。

「……情報に誤りがあるようだったら、我々にも報告を願います。さて。『保護』した戦闘機人チンクはクラウゼ博士達が手術に入りました。術前の観察では命に別状はないということで、三日もあれば問題なく戦闘行動もできるようになるとのことでした」
「三日とはまた、随分な早業だな?」
「その道の専門家ということですからね。他に、マリエル・アテンザ技師から情報を『もらって』いるとか。まぁ、正規の手段で入手したのかは、知りませんし興味もありませんが」

 他人がいるせいか、アリサは恭也にも敬語で話していた。半端ない違和感に恭也ですら苦笑を浮かべるが、その態度がアリサの癇に障ったらしい。すずかの目にはアリサの額にはっきりと青筋が浮かぶのが見えたが、短気ということでからかわれたばかりということを思い出したのが、深呼吸をして気持ちを落ち着かせている。ツンデレ少女は耐えることを覚えたのだ。

「チンクから情報を引き出すのは手術の後ということになります。途中で口を挟むこともできますが、終了してからの方が良いでしょう。クアットロから聞いた情報も情報部が調査中です。今後取るべき方針については、両部とも変更なしということで良いでしょうか」

 アリサの問いに、ミオともう一名の女性が頷いて応える。

「結構。では、これまでの仕事の進行状況の報告に入りましょう。まずは運用部から。両部の協力により最高評議会直属の部隊、その洗い出しは終わりました。現状生存しているメンバーは二十六名。意外に少数です。うち五名はさきほどのチンク誘拐の件で捕縛してくれたそうですから、残り二十一名となりました。その所在についても把握しているとのことですが……監査部さん、相違ありませんか?」
「その通りです」

 応える声は、どこか不思議なイントネーションをしていた。眼鏡をかけた事務員でもしていそうな女性であるが、すずかはその女性を一目みて、猛禽の類だと直感した。ユンファ・レンフィールド三佐。今回の件における監査部の代表である。

「正規の局員としての身分を持っていますが、戸籍については偽造されたものでした。採取した証拠などから、ほぼ全員が過去死亡したことになっている犯罪者の魔導師ということも判明しています。逮捕しようと思えば今すぐにでもできますが……」
「それについては上の判断を仰ぐという形になるでしょう。私と、お二方全員の上司の同意が必要です」

 わかっているとは思いますが、というアリサの捕捉に、ユンファは苦笑を浮かべた。自然と上から目線になるのは、アリサの悪い癖である。

「先ほど捕縛した五名から情報は引き出せそうですか?」
「現在仲間が締め上げていますがおそらく無理でしょう。大事な証人ですから死なないように厳重に監視していますが、立場が立場です。秘密を守るために命を断つこともありえない話ではありません」
「刺客が皆そういう根性の座った奴だとしたら俺たちの苦労も増すばかりな訳だが、能力のみを買われて犬に成り下がった人間が忠誠心を持っているとも思えない。奴らを縛っているのは恐怖か、金だろう」
「奴らに払ってやる金なんてないのだ」
「ですから我々はその『恐怖』を排除するという目的のもと、行動してきました」

 アリサが紙の資料を机の上に放る。

「最高評議会メンバーの所在が割れました」

 その資料に、ミオとユンファが目を剥いた。メンバーの所在は彼女らが血眼になって調査していた案件である。そも、調査の類は情報部や監査部の領分だ。それを運用部が出し抜いたというのは、両部の沽券に関わることである。二人の鋭い視線がアリサに向く。僅かな殺気すら篭ったその視線を、アリサは嫣然と受け止めた。

「まさか人の形をしてないとは……」
「ここまで形にするのに苦労した、とロウラン部長は言っていました」
「どうやって、とは聞かないでおきましょう。これでロウラン部長には借りができましたね」
「諸々の処理で帳消しにしてもらう、と言伝を預かっています」
「それで、どうするつもりだ?」

 恭也の言葉は危険な色を孕んでいた。全てを白日の下に晒し、法の裁きを受けさせる。そんな健全な目的ならば秘密裏に集まったりなどしない。裏仕事に関わりテロリストと通じていたなどということになれば、それは管理局の恥部である。今後のためにもそれは隠し通しておきたい。

 ならば下手なことになる前に消すしかない。今まで謎に包まれた組織であった最高評議会だが、メンバーが割れ、その所在も解っているとなれば排除も容易い。

 恭也の問いは、それを実行するか否か、ということだ。

 ミオとユンファ、そして恭也が顔を見合わせた。可能か不可能かと言われれば、可能である。資料を見る限り本人に戦闘能力はない。彼らがその絶対優位を保っていられたのは、所在が謎のヴェールに包まれていたからだ。あちらの強権が発動するよりも早く行動し、始末してしまえばその分の椅子が空く。汚れ仕事に関わっていた人間も纏めて排除できて組織の風通しが良くなる上に、椅子がいくつも空く。上昇志向の強い人間にとっては良いこと尽くめだ。

 そしてそれを排除したとなれば、勲功は第一である。表沙汰にできない功績であるが、そもこの計画に関わった人間は一蓮托生。秘密は墓場まで持っていくという固い決意と、沈む時は道連れれにしてやるというド汚い暗黙の了解で結ばれている。協力者であると同時に、ライバルでもあるのだ。

 恭也自身は出世などに興味はないが、運用部部長のレティ・ロウランはハラオウン派の重鎮であり個人的にも知らない仲ではない。派閥絡みの色々な借りを考えると、運用部の支持に回らざるを得ない立場にあった。

 三つの組織が、首級を狙っている。それを改めて浮き彫りにしたところで、恭也たちは肩の力を抜いた。利益の分配を決めるのは自分達の仕事ではない。上司がどれだけ切れ者であるかは皆知っている。今更自分達が気付いて話し合うようなことは、もう上で話がついているだろう。

「処理については局員でない人間を使うことでまとまりました」
「委託するのか!? それはまた随分と思い切ったことをしたものだな」

 管理局は大組織であるが、ここに所属しない実力者というのも大勢いる。非合法な分野においてもそれは同様であり、情報部や監査部など、各方面に金で雇ったスパイを潜入させているという『噂』もあった。そういう人間に重要な仕事を任せることだってあるが、今回は重要の度合いが違う。スピード勝負であり、これをしくじったら恭也たちには後がないというほどに重要な案件だ。きっちりと仕事ができるのか、またその人間が信用できるのかなど色々と問題はあるが、これも、レティたちが決めたというのならば、その刺客は信用できるということなのだろう。

 恭也が驚きながらも、小さく安堵の溜息を漏らすのをすずかは見逃さなかった。どうしようもない悪人で人の形をしていなくても、人を殺すのは嫌なのだ。それが必要となれば殺すことにも躊躇いはないだろうが、それと心を痛めないというのは話が別である。甘いと思う人間もいるだろうが、冷徹な機械であるよりはずっと良い。そんな恭也のことが、すずかは嫌いではなかった。

「まだ交渉はまとまり切っていないらしいですが、ロウラン部長の話ではほどなくということです。決行時期はこちらの方で調整させるということなので、スケジュールにも余裕ができるでしょう。ジンナイ一尉、レンフィールド三佐については現状の任務を引き続き、と話を聞いていますが、相違ありませんか?」
「しばらくはここを拠点に活動しろと言われているのだ。会議は一日一回ということで構わないのか?」
「欠席の場合は連絡を。それだけ守ってくだされば問題はありません。ただ、情報交換の場でもありますので、できるだけ参加してくださると助かります」
「わかってるのだ」

 ミオは立ち上がり、部屋の隅に控えていた猫を連れて会議室を出て行く。恭也はミオは意に介さず、足元の猫にだけ手を振った。猫は律儀になー、と鳴いて返事をする。誰が聞いても懐いていると解るその声に、ミオは耳を逆立てて声を荒立てた。

「コトラ! さっさと来るのだ!」

 ミオの声にコトラと呼ばれた猫がさっと駆けていく。去り際、ミオが強烈な視線を向けてくるが、恭也は取り合わない。ドスドスという荒い足音が遠ざかって聞こえなくなると、恭也は短く溜息を漏らした。

「あれでは猫も大変だな」
「だったらもう少し仲良くしてくれると助かるんですけどねー」

 上座のアリサがジト目で言ってくる。すずかにとってはいつものやり取りであるが、随分と砕けた感じのアリサを見たユンファは目を丸くしていた。

「驚きました。聞いていたのと随分違うのですね」
「私の噂など、どうせ悪いものばかりでしょう」
「いえ。。小女帝(リトルエンプレス)の評判は上々ですよ。ついに紫紺の女帝が後継を得たと」
「その仰々しい名前、好きじゃないんですけどねぇ……」

 言葉の割りには、嬉しそうである。持ち上げられるのは大好きなのだ。

 そんなアリサを横目に見ながら、恭也は立ち上がる。

「どこへ? リバー三尉」
「チンクは手術中。他の案件は殺し屋待ち。俺は貴女方と違ってできることは少ないので、鍛錬でもすることにします」
「少し休まれては? 顔色、よろしくありませんよ?」
「お気遣いなく」

 ユンファに頭を下げて、部屋を出て行く恭也についていく。肩越しに振り返ると、アリサがひらひらと手を振っているのが見えた。ごゆっくりー、という内心が聞こえてきそうである。親友の配慮に心中で感謝しながら、すずかは足を速めて恭也の隣に並んだ。ユンファの言う通り、顔色はあまり良くはない。

「さっきリスティから連絡があった。お前のデバイスが完成したらしい。すぐ、六課に戻れ」
「恭也さんが休んでからです。顔色が悪いのは本当ですから」
「俺の体力は知っているだろう。これくらい、何のこともない」
「知っているからこそ、申し上げています。貴方は休むべきです」

 じっと、恭也の瞳を見つめる。恭也・テスタロッサは自分でこうと決めたら梃子でも動かないが――

「……解った。休む」

 女性の頼みには弱い。満足のいく答えを引き出したすずかは、恭也に道を譲る。言い負かされた形なった恭也は、どこかぞんざいな足取りで廊下を進み、とある部屋の前で立ち止まった。

「ついてくる必要はないぞ」
「見ていないと逃げてしまいますから」

 小さく溜息を吐き、部屋に入る。簡易ベッドが置いてあるだけの、仮眠のためだけの部屋だった。隅にはバッグが一つ。見たことはないが、はみ出しているものが全て黒だから、恭也の私物だろう。その上のハンガーに、白いファーコートをかける。その白さを見てすずかの心は波立ったが、この場に激情を持ち込むのは厳禁だと自分を戒める。

 ベッドに横になる恭也を監視するように、反対側の壁に腰掛ける。そのまま寝顔を見てやろうと思ったら、恭也はすぐさま寝返りをうって背中を向けた。ほどなくして、小さな寝息が聞こえてくる。リラックスした、静かな寝息だった。感性の鋭すぎる恭也は、寝ている時でも気を張っている。完全に安心して眠ることのできる環境は、実は驚くほど少ない。自分がこれと信用した人間の近くでないと、安心して眠れないのだ。

 すずかの知る限り、今までそれは美由希だけだった。そこに自分が加わったことに、誇らしさを覚える。頼られている自分がいる。その事実が、凄く嬉しかった。




























 本局の食堂で、女は一人歯噛みしていた。

 予定が大きく狂ったのである。目標を達成することはできたが、味方も大きな損害を出した。

 おまけに協力関係にある組織が、怪しい動きを見せている。まさか今すぐこちらを切ったりはしないだろうが、疎ましく思っているのは事実だろう。何しろこちらが疎ましく思っているのだから。向こうにだけ良好な関係を期待するのは、小門違いというものである。

 問題は、こちらからあちらの問題を追及することはできないということだ。彼らはパトロンだ。彼らの指示によりこちらは動き、結果を出す。管理局に対する襲撃も、彼らの指示があってのこと。細々とした演出こそ入っているが、大筋は彼らの計画から外れていない。

 そうでさえあれば、スカリエッティは行動を起こさないだろう。戦闘機人は希少ではあるが替えがきく。既に確保されている姉妹を、彼は助けようとはするまい。

 助けるとしたら、自分で動くしかないが、そのための手段がなかった。せめて彼らが協力的でさえあれば良いのだが……

 考え、女は自嘲した。頭を下げて頼んだところで、彼らは聞き入れてはくれないだろう。

 救いがあるとすれば、全員が六課の連中に確保されたことであるが、彼らも管理局という組織に属している。何かの間違いで妹たちを手放さざるを得ない状況に陥ることは十分に考えられた。そうなる前に、妹たちの安全を確保しなければならない。薄氷の上を歩むような、勝率の低い賭けではあるが、やるしかない。妹たちを助けることができうるのは、自分しかいないのだから。

「ここ、良いですか?」

 降って沸いた声に、無意識に背筋を伸ばす。深く考え過ぎて、接近に気付かなかった。

「構いませんよ、どうぞ」

 笑みを浮かべて席を勧める。どうもー、と軽い声で席に着いたのは知らない女だった。人好きのする笑みの耐えない童顔の女である。

 いただきます、と手を合わせて食事を始める童顔の女に小さく会釈して、女は立ち上がり――

「座ってください。ナンバーズのドゥーエ」

 あくまで軽いその声に、女――ドゥーエは動きを止めた。殺意を込めて童顔の女を見下ろす。その気になれば首を落とすこともできる。それを理解していない訳ではないだろうが、彼女は平然と食事を続けていた。

「座ってください」

 変わらない調子で、女が続ける。選択肢はない。ドゥーエは観念して女の正面に座りなおした。

「おかしな真似はしないでください。質量兵器で武装した仲間が私達を囲んでいます」
「誰が裏切ったのかしら。心当たりが多すぎて困っちゃうんだけど」
「我々の努力の賜物です。ですが裏切っているかも、とは察せられます。貴女はともかく、貴女の妹たちについては、立場が危ういのでは?」

 この女はどこまで知っているのか。食事を続けながら淡々と言葉を続ける女にドゥーエは危機感を強めた。女が彼らの一味で工作を仕掛けてきている可能性もないではない。その場合、ここで食いついたら終わりだ。利用されるだけ利用され妹達は助からない。それだけは、断固として避けなければならない。

「担当直入に申し上げましょう。私たちと手を組みませんか? 貴女が我々の要望に応えてくださるのなら、現在管理局で『保護』している貴女の妹達と、これから『保護』される姉妹について、大きな便宜図る用意があります」
「その代わり、仲間の情報を売れとでも?」
「情報はいりません。我々の要求はただ一つ。貴女が予定をそのまま遂行してくださること。ただし、タイミングについては我々の要求を呑んでもらいます」

 彼らの仲間ではないと、ドゥーエは確信を持った。

 同時に、悟る。こいつらは正気を保ったまま狂っている。主たるスカリエッティのことをドゥーエは狂人だと認識していたが、人間も中々負けてはいない。

 交渉をするに足る。そう思い定めたドゥーエは身体の力を抜き、椅子に背を預けた。女はフォークを置き、笑みを浮かべる。


「自己紹介が遅れました。私は運用部人事課課長、ナナカ・マルグリット三佐です。以後、お見知りおきを」












あとがき

クアットロと恭也のやりとりについては、もう少し後でのお届けとなります。申し訳ありません。