とある魔獣の一日   前編




















『朝』


朝…それは一日の始まり。
寮員の大半が学生であるここ、さざなみ寮の朝は割と早い。
そういう決まりがある訳ではないが、耕介の朝食の準備が終わる頃には皆(たまに、漫
画家などの例外あり)食堂に集まって、一緒に食事をとるのがここの慣習だった。
そのはずなのだが…







「すぅ…」
暫定寮員である彼女はとにかく朝に弱い。
三百年湖の底にいたせいか、眠るという行為自体に慣れてしまったようで、起こしても
二度寝することも度々ある。
「んにゃ…む」
窓から差し込む光に銀に近い白髪が綺麗に輝く。
実年齢に不相応な幼い顔には、幸せそうな笑みが浮かんでいた。
「ぬ…」
彼女が寝返りを打って、体の向きが変わる。
その時、布団を出て振り上げられた腕は…
「きゅ〜!!」
体に悪い音と、悲鳴に変わった。
彼女に叩かれた氷那は、小さな体を引きずって離れようとするが、そのままホールドさ
れ、布団に引きずり込まれた。
「ふわ…」
欠伸をかみ殺して、同室で寝ている雪が起き上がる。
雪は目を擦って大きく伸びをするとベッドから降り、床に敷かれている布団をめくった。
「おはようざから。そろそろ氷那、離してあげて」
「ふえ?」
彼女―ざからはそこで初めて薄目を開け、腕の中でか細くうめく氷那を離した。
雪と同じく、大きな伸び。
「おはよう、雪」
笑顔で挨拶。ざからの朝はこうして始まる。










「ご主人様と同じ所に住めないのはつまらないです」
「そのうち、私達も住めるようにしてくれるから。それまで我慢してね」
部屋着を着るのに苦戦しているざからを微笑ましげに眺め、雪が答える。
そもそも、彼女達は真一郎預かりであるはずなのに、どうしてさざなみ寮に住んでいる
のか。
第一の原因は、彼の部屋が狭いという物理的な問題である。
無論、まだ一介の高校生に過ぎない真一郎に引越しする金など用意できないし、そうか
と言って、退魔師の修行をしていることすら秘密にしている両親に同居人が増えたと宣
言する訳にもいかない。
それ以前に、これ以上真一郎の周りに女性を増やしたくないという一部の女性の猛反対
があったため、今の状態で真一郎が雪達と暮らすのは不可能だったのである。
そんな中、真っ先に名乗り出たのが耕介だった。
まだ部屋が空いているからと行く当てのなかった二人を招き入れ、することのなかった
雪に管理人手伝い仕事を与えた。
ついでに彼女の戸籍も耕介が世話をし、今の彼女は「槙原雪」。一応、耕介の義娘という
ことになっている。(長崎の両親には未連絡)



「できました!」
ざからは会心の笑みで振り向くが、雪は無言で掛け違いになっていたボタンをかけ直し
た。
「…難しいです」
「ふふ…さ、行こう」
身なりを整えて、雪達は部屋を出た。
ちなみに二人の部屋は耕介の部屋の隣、102号室で居間には一番近い。
「おはよう、耕介」
「よう。今日も氷那目覚ましだったみたいだな」
「おかげで氷那はまだ寝ていますけど」
「後で何か持っていってあげるか?」
耕介は最後のおかずを大皿に盛り付けてエプロンを外し、雪達を連れ立って食堂に移動
した。
食卓には既に人数分の膳が並べられていて、彼ら以外の全員が着席していた。
「おはようございます、みなさん」
「おはよ〜さん」
「ああ…おはよう。お嬢、毎朝続くとあの生物潰れるんじゃねえか?」
「だいじょうぶなのです。氷那ちゃんは頑丈ですから」
「いくら封印の獣と言っても限度がある。寝相くらいだったら直した方がよかよ」
「えへへ…とりあえず頑張るのです」
「まあ、そのことは追々話すとして…ご飯が冷めちゃいますからいただきましょう」
「そうですね…では」
『いただきます!』









「しっかし…よく食うな。岡本君が二人になったみたいだぞ」
「耕介のご飯はおいしいから好きです」
「ちなみに、美少年の飯とどっちが好みだ?」
「ご主人様です!」
耕介が哀れに見えるほどの即答である。
「…果報者なんだな、美少年は」
真雪は面白がるように笑みを浮かべ、ポケットから取り出した煙草に火をつけた。
「真雪、私は煙草って嫌いです」
「あたしの十倍は軽く生きてるくせに子供だな。これを理解できないと人生の半分は損
をするぞ」
「後の半分は何ですか?」
「酒と漫画と…人の愛かな?ちなみにこれらは全部同じウェイトだ」
「計算があいませんよ?」
「いいんだよ。人生そんなもんだ」
真雪が紫煙を吹きかけると、ざからは涙を浮かべて咳き込み始めた。
そこはかとなくいじめな感じがするが、かつては異名を取っていたほどの真雪も、筋の
通らないことは根本的に嫌いである。
「上で仕事してくるから、お嬢はここで昼寝でもしてな」
煙草の火を消しざからの頭をぽんぽんと撫でると、真雪がさっさと二階に消えていった。
彼女はその後姿を眺めて、ソファに腰をおろす。
「暇です…」
学生達は全員学校。雪は耕介と共に買出し。
今日は猫達も現れないし、真雪は先の通り仕事である。
現代っ子の最終手段、一人でゲーム…はできない。
たとえ、ソフトを入れてスイッチを押すだけでも、時間が三百年前で止まっているざか
らには未知の分野なのだ。
「…ざから、いますか?」
「十六夜様!」
唐突に乱入した声に、ざからは満面の笑顔で立ち上がった。
その声の主―十六夜はゆっくりとざからの隣まで移動すると、手探りでざからの頭に手
を置いた。
「暇を持て余しているようですね」
「そうなのです…あの、十六夜様、お話してください」
十六夜の手を取って、ざからは子供のようにねだる。
彼女は十六夜の話を聞くのが好きだった。
三百年…自分が湖の底にいた間の世界を彼女は知っている。
十六夜の生きた世界はざからのような者を祓う言わば、闇の世界。
そんな中にあっても、彼女と彼女を取り巻く「神咲」の一族が幸せな生活を送っていた。
人の温もり、優しさ…かつて自分が奪った、そして教えられた物がそこにあった。
「そうですね…それでは、今日は薫が子供の頃の話をしましょうか」
ソファに腰を降ろし、ざからを膝の上に乗せると、ざからが敬うただ一人の女性は静か
に語り始めた。




「…あら?」
相槌がなくなったことに気付いた十六夜がざからを「見る」と、少女は小さな寝息を立
てていた。
十六夜は静かに微笑み、ざからを起こさないように注意してその場を離れると、植物の
世話のために庭へ出て行った。







『夕刻』 風芽丘高校校門前

「ねぇ…ざから。私達目立ってないかな?」
「そうですか?私はそうは思わないですけど…」
一応周りを見回しても、十数人の無害な視線(主に男子)を感じるだけで、取り立てて
変わったことはない。
…今の二人は、耕介に買ってもらった外出着を着ていて、雪はいつもの帽子、ざからは
白髪をポニーテールにして、校門脇の壁に寄りかかっていた。
ざからが気にしていないだけで、彼女達はとにかく目立っていた。
遠めに見ている男子の中には声をかけようとしている者もいるが、彼女達の周りの何か
「触れてはいけない物」のようなオーラのせいで近づくことすらできないでいる。
「それにしても、ご主人様遅いですね…」
「連絡を取った訳じゃないから、もしかしたら別の出口から出たのかも」
「それは…ないですね。ご主人様は間違いなくこの場所にいます」
「友達と話してるのかな…」
「『けいたいでんわ』っていうのがあると便利だって耕介が言ってましたけど…」
「それは真一郎さんも考えてるみたいだけど…厳しいみたい」
「学生っていうのも大変なんですね―」
ざからは途中で言葉を区切り、急にある方向を振り返った。
彼女達は知るべくもないが、その方向には体育館や武道館などの施設がある。
「ご主人様が戦おうとしてます…」
「え?ちょっと…」
だが、雪が声をかけるよりも早く、ざからは陸上部も腰を抜かすようなスピードで武道
館へと駆けていった。
「もう…勝手なんだから」
そんなざからを放っておくわけにもいかず、雪はなけなしの体力を振り絞って彼女の後
を追った。