とある魔獣の一日   後編



















一方その頃…鷹城唯子率いる護身道部の集まった武道館で、「ざからのご主人様」相川真
一郎は途方に暮れていた。
「どしたの…真一郎?」
「なあ唯子。俺は誰だっけ?」
「そんなの真一郎に決まってるでしょ?」
「そうだな…俺は相川真一郎。で、ここに俺は何をしに来たんだっけ?」
「今日は練習始まる前に唯子の組み手に付き合ってくれる約束だったでしょ?」
「うん、確かに約束した。それで最後に、これは何?」
「何って…護身道の道着。でも、唯子が昔使ってた古いのだから真一郎のサイズに合う
と思うけど…」
(それを俺に着ろと…)
真一郎が唯子のお下がりを着るのは何も初めてではない。
だが、真一郎が現れるとの情報が漏れたらしく、いつもより若干人の入りがいい武道館で
そう言って渡された道着を着るのには、男として聊かの抵抗があった。
「やっぱりちょっと大きいかな?」
「いや、そういう問題じゃなくてだね…」
「なんだったら、ななかちゃんのがロッカーにあったはずだけど」
「それはもっとまずいだろう?だから、俺が言ってるのは…」
「ご主人様!」
聞きなれたその声を武道館で聞いて、最初に真一郎が感じたのは眩暈だった。
頭を抱えて目を閉じる彼を余所にその声はどんどん近づいてきて、派手な音と共に扉を
開け放った。
急いでいたわりに律儀に靴を脱いで武道館に入ったざからは、真一郎の姿を見つけ、そ
の場に固まった。
「あれ…ざからちゃん?」
動けない一同を代表して、唯子が彼女に問いかけるが、ざからは無反応。
そのまま数秒の沈黙が流れる…そして、
「雪〜早く来てください!ご主人様がかわいいのです!」
ざからは外に向かって大声でそう叫んだ。
その内容にギャラリーの少女達から、笑い声があがる。
今の彼の服装は、以前まで来ていた短ランではなく、一年の前半まで着用していたブレ
ザーで、夏休みの間に伸びた髪は唯子のお下がりの古いリボンで、無造作に縛っていた。
誰がどう見ても、今の真一郎にはかわいいとの結論を下すだろう。
卒業した後援会のメンバーがこれを目にしたら、狂喜して泣き出すかもしれない。
「……勝手に行動しちゃ駄目って言ってるでしょ…」
息も絶え絶えの雪がドアに寄りかかるのを見て、硬直から脱した真一郎と唯子は慌てて
彼女に駆け寄った。
その時に、雪は真一郎と目を合わせたが、ざからのように騒ぐことはなかった。
「雪は驚かないですか?」
「真一郎さんがかわいいのはいつものことでしょう?」
「そういわれると照れるけどさ…それからざから、ご主人様はいつもやめてって言って
るでしょ?」
「そうでした…それで、真一郎様は何してるのですか?」
「ん?今日は唯子と果し合いの約束をしてたの」
「果し合い!」
戦いを感じさせるフレーズに、ざからの目が輝く。
その目に宿った純粋な光…純粋だからこそ、こんな時の彼女は危険なのだ。
「そうだよ。でも、護身道ルールだけど」
真一郎としては、果し合いをやるからには全力を出し切りたい。
だが、「何でもあり」のルールでやると唯子が対応できないとのことなので、話し合い
の結果、そんなルールで落ちいついたのだった。
一応、真一郎も瞳や唯子から護身道の技術は学んでいたが、それだと今度は彼が実力を
出し切れないので、不完全燃焼になるのは否めない。
「じゃあ、私が相手をしましょう」
「は?」
そんな真一郎の考えを見透かすように、ざからはとんでもない提案をした。
それまで黙って成り行きを見守っていたギャラリーからも驚きの声が上がる。
「ハンデとして私はこの短いの一本使うだけでいいですから…あ、もちろん真一郎様が
何をしてもいいですよ」
「それよりも…いいの、唯子?」
「あたしは別に構わないよ。ざからちゃんは知ってる子だし」
「ざからはその服で大丈夫?」
するとざからは不敵な、それでいてとても楽しそうな笑みを浮かべて、棒を真一郎の顔
に突きつけた。
「そういうことは、一度でも私に勝ってから言ってください」
「そうだね…」
真一郎はざからの頭を撫でると、更衣室の方へ回れ右した。
「真一郎?」
「やっぱりこれ、借りることにする。その方が動きやすいからね」













数分後、着替えた真一郎とざからは道場の中央で対峙していた。
ギャラリーの数はいつの間にか少しだけ増えている。
雪はその集団から少しだけ離れて、二人の様子を見守っていた。
「始めていい?」
「いいよ、いつでも」
「始めてください」
「じゃあ…始め」
唯子の声を合図に真一郎は足を前後に開いて、構えを取った。
その数瞬の間に、ざからは距離を一気に詰めてくる。
右手に持った棒を振るって攻撃。それが二発、ほとんど同時にきた。
夏休みの間、嫌と言うほどざからの相手をしてきた真一郎は、何とかこれを下がって避
ける。
ギャラリーのほとんどは何が起こったのか理解できていない。
この勝負についていけているのは、当事者の二人と唯子くらいのものだろう。
「避けるだけですか?」
片時も手を休めずにざからが聞いてくる。
こんな常識外のスピードでも彼女の本気ではない。
余裕ぶった態度が少しだけ頭にきたが、余計なことを考えるとその時点で負ける。
(とは言え、これはまずいな…)
夏休みの鍛錬の間、ざからの武器は魔剣「ざから」だったため、徒手の真一郎有利度は
高かった(それでもかすることさえできなかったが)のだが、今彼女が使っているのは、
「ざから」よりもはるかにリーチの短い棒である。
手数が多くなった分、避けつづけるのもかなりの体力を浪費する。
もちろん、それだけ一撃の威力は下がってしまうが変身前さくらと力比べをして勝った
腕力を持ってすれば、例え柔らかい素材の棒を使ったとしても、人を悶絶させることは
造作もないだろう。
どんっと音がして、背中に衝撃。
開始三十秒も経たずに、真一郎は道場の端まで追い詰められていた。
ざからが棒を手元に引き寄せ、今までの最速で突きを放つ。
(取った!)
真一郎は心の中で叫んでステップを踏むと、棒を避けつつざからの背後に回った。
そのまま彼女の背に向けて吼破を放つ。が…
「あまいですね〜」
そんなことは予想の範疇だったざからはダッビングして彼の拳を避けると、向き直る勢
いを利用して棒で真一郎の胴を薙ぎ払った。
「ぐ…」
短い呻き声を上げて、真一郎がくず折れる。
「取ったと思ったら出の遅い技なんて使わないでさっさと決めちゃってください。後、
 そう思わせること自体が誘いである可能性だってあるので注意するのです」
「分かりました、先生」
「でも、動きはよくなってますから。このまま行けば、私の相手くらいはできるように
なるです」
「ま…努力はしてみるよ」
「それでは私達は外で待ってますから、用事が済んだら来てください。七瀬も連れて翠
屋へ行きましょう」
「もしかしなくても…俺の奢りなのかな?」
「負けたんですからあたりまえです。では、さようなら〜」
頭の中には既に真一郎の金で食べるメニューが展開しているのか、夢見る笑顔で去って
いくざから。
雪は、唯子に何事か呟くと真一郎に頭を下げて、彼女の後を追った。
「はぁ〜」
真一郎はため息をついて、畳の上に起き上がった。
ざからに払われた胴がまだきりきりと痛んでいる。
負けたんだから奢り…と彼女は言っていたが、勝つ見通しすらつかないこの状況が続け
ば、大食いのざからの翠屋行きは真一郎の経済を圧迫し続けるだろう。
(退魔師の給料っていいのかな?)
薫は修行をつけてはくれてもそういった話はしないので、高卒で就職するつもりの真一
郎の不安は募る一方だった。
考えてみれば、薫が特別お金を持っているなど見たことも聞いたこともないので、案外
依頼を受けるだけで、本人も知らないのかもしれない。
(まさか…ボランティアってことはないよね?)
一瞬、そんな怖い考えが真一郎の頭を過ぎった。
「真一郎…強くなってたんだね〜」
「まあ、あんなのとほとんど毎日打ち合ってるからね。未だにかすりもしないけど…さ
て、少し遅くなったけどやるか、一勝負」
「今日はいいよ。雪ちゃん達待たせてるみたいだから行ってあげて」
「悪いね…今度埋め合わせはする」
言って微笑むと、真一郎は更衣室へと消えていった。
「あの…主将?」
「なあに、美奈ちゃん」
「さっきのすごく強い人誰ですか?」
「そだね〜唯子も詳しいことは知らないんだけど…あえて言うなら、真一郎のお仲間さ
んかな?」
「お仲間…」
その言葉だけで納得できない美奈は首を捻った。
真一郎とざから…正確には雪と七瀬も含めた四人は、他人には―それこそ、真一郎と付
き合いの長い唯子でもよくは理解できない絆で結ばれている。
健全な男性の周りに女性ばかり三人というのは、さすがに彼女の目から見ても問題があ
ると思うが、それに関する天才なのか、真一郎はうまくやっているようだ。
瞳やさくら、小鳥にも彼女達と平等に接している。
ばれれば八方美人と非難されるだろうが、それこそが真一郎の魅力なのだ。
かく言う唯子も、まだ完全に諦めたわけではなかった。
「さあ、練習始めよう。ざからちゃん達には負けてられない!」
「唯子さん…私達じゃあの娘に勝つのは無理ですよ〜」
「弱気なこと言っちゃ駄目!」





その日、鷹城護身道部の練習はいつにもまして厳しかったそうな…











「うわ〜」
真に純粋な物が存在するとしたら、それは今の彼女のことかもしれない。
真一郎達のお気に入りの翠屋の中でもさらにおいしいと評判のデザートを前にして、ざ
からの目はとにかく…期待の光で輝いていた。
「いいですか?食べても」
「うん。遠慮なく頑張って食べて」
「いただきます!」
ざからはまずは手近なケーキから手をつけ始めた。
赤ん坊のようにフォークを握って、かちゃかちゃと音を立てながらデザートを食べるざ
から。
行儀がいいとはお世辞にも言えないが、その光景はどこか絵になっていた。
(そんなこと言ったら、ざからは怒るかな?)
「ざから…行儀が悪いよ」
「いいのよ。子供はこのくらいの方がかわいくていいんだから」
子供…雰囲気でかなり誤魔化されているが、ざからの外見は真一郎達と大差ない。
言動、行動は幼いが、高校生と言っても十分に通じる。
そんな、不可思議な子供の育て方を巡って、七瀬と雪の考え方はしばしば食い違ったり
しているが、幼いなりにある種の悟りでもあるのか、ざから本人はどちらにも従ったこ
とはなかった。
「それよりごめんね七瀬、退屈でしょ?」
ざからには数品のデザート、真一郎と雪も軽めの食事を注文しているが、七瀬の前には
水しか置かれていない。
それは、ここにいる四人の中で彼女だけが毛色の異なる存在だからだった。
人間の真一郎、「妖怪」の雪とざから、三人はあくまで肉体をもつ「生物」であるが、
霊体である七瀬は普通の食事を取ることはできない。
彼女自身は達観していて割り切っているが、事情を知っていてその光景を見る者として
は心が痛むときもある。
「気にしなくてい〜よ。ざからの食べっぷりを見るのも楽しいし…その代わりに私にし
か解らない「味」だってあるんだから」
「それでも悪いよ。学校にいる間は俺の「中」か旧校舎でしょう?何か縛りつけてるみ
たいで…」
「仮にも私の「夫」が何を言ってるの?私は嫌なことは嫌っていうから、真一郎が気に
することはないの。でも、それでも何かしたいって言うなら、今度瞳と薫と雪と一緒
に買い物に行くから、その時に服でも買ってくれる?」
「それで七瀬の気が済むなら喜んで…」
「服なんて買って楽しいですか?」
「花よりだんごのざからには解らないでしょうけどね…女の子はね、程度の差はあって
もお洒落するものなの」
「私は、服よりもこっちの方がいいです」
言って、ざからは三皿目のパフェに手をつけ始めた。
その様子では今テーブルに乗っているだけでは満足しないだろう。
同時に、それは真一郎の懐のダメージにも繋がる。
(今度、耕介さんに小遣いくれるようにお願いしよう…)














『夕食後』 さざなみ寮にて





「今日もいっぱい食べました〜」
「ああ、確かにいっぱい食ったな。岡本君と競い合うかのように…」
幸せその物の顔をしているざからに対して、少しだけ体調の悪い真雪は、彼女達の食事
風景を見ているだけで、腹が膨れてしまった。
(しっかし…あれだけ食ってその体型か?羨ましい限りだよ…)
だが、運動不足のうえ毎晩飲んでいるくせに体型を維持している真雪も、世間の基準か
ら見れば十分羨望の対象である。
「みなみはどうしてあんなに食べられるんでしょう?」
「さあな…そういうことは岡本君の腹にでも聞いてくれ」
「二人とも…そういう会話はみなみちゃんに悪いですよ」
洗い物を済ませ、運動着に着替えた耕介が苦笑しながら会話に入る。
「ざから、今日も付き合ってもらえる?薫はもう外に出てるから…」
「分かりましたです」
耕介から二本の木刀を受け取ると、食事の直後だということを微塵も感じさせない素早
さで、庭へと出て行った。
耕介も、台所を一通り確認すると、その後に続く。
「よくやるねぇ〜あの二人も」
耕介の焼いたするめを裂いていると、庭から木刀の打ち合う音が響いてくる。
「未だにかすりもしねぇんだろ?耕介も神咲もさ」
「真雪さんだって全然かすらないじゃないですか…」
今まで黙ってやり取りを眺めていた雪は苦笑して、空になった真雪のジョッキにビール
を注ぐが、
「あたしは剣ができなくても困らないからいいんだよ」
真雪はにべもなくそう言って、すぐにジョッキを空にした。
雪はまた酌をしようとして、手元の瓶も既に空になっていることに気付いた。
その瓶を軽く振って、真雪に見せる。
「しゃ〜ない。今日はこれくらいにしとくか…」
真雪は火照った体で大きく伸びをすると、外を見た。
あの三人の鍛錬。
いや、そのうち実力の飛びぬけた一人にしてみれば「遊び」のようなこれを鍛錬と呼ぶ
のは不適当かもしれない。
もっとも、耕介達が殺すつもりで放っている攻撃を両手に一本ずつの木刀で軽々とさば
く「遊び」ができるのは、彼女くらいのものだろうが…
「しかし…楽しそうだよな。あのお嬢は…」
「そうですね。三百年何もしていませんでしたから、余計に楽しいのかもしれません」
「その間にイメージトレーニングでもしてたのか?そのくせ、戦いが楽しくてしょうが
ないって顔してんのに、「修羅」の資質がある訳でもない」
「それは、戦いの他にも楽しいことを知っているからだと思いますよ」
「それが…食物であり、ご主人様の面倒な訳か…」
三百年の暗い湖の束縛。
若くして実家を飛び出した真雪にすれば、気の狂ってしまいそうな時間の中、ざからは
じっと目覚めの時を待っていた。
そんな彼女を愛しいと思う。力の及ぶ限り楽しませてあげたいと思う。
雪もざからもいつかは「ご主人様」について、この寮を出て行くだろう。
でも、それまでは…
「んじゃあたしは一眠りすっから。あのお嬢が遊び終わったら、何か冷たい物でもいれ
てやってくれ」
「はい。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」











「さっぱりしました〜」
「ざから、ちょっと待って」
雪は風呂上りの濡れた髪のまま布団にダイブしようとしたざからを引き止め、彼女をそ
の場に座らせると、丁寧にその髪を拭き始めた。
「このままだと風邪をひくでしょう?」
「私は絶対にそんな物には負けないですからだいじょうぶです」
「でも、そうするの。真一郎さんと一緒に暮らすんだったら、ちゃんとそういうことも
できないと駄目なの」
「なら、頑張ってみます」
「…真一郎さんの力ってすごいね」
「ご主人様はまだダメです。もっともっと強くなってもらわないと困ります」
「今のままでも十分だと思うけど…」
それは偽りのない雪の本心だった。
彼女はざからの求める強さのレベルを知っている。
それと同時に真一郎の漠然とした才能のような物も把握していた。
正直に言って、このまま進んだ所で真一郎はざからに一生追いつけないだろう。
退魔道を極め、武術を修めたとしても、二人の間を埋める壁を越えられはしない。
それは真一郎本人もざからも解っていることだ。
「真一郎さんせっかくかわいい顔してるんだから、傷つけたりしないでね」
「それは、瞳とさくらにもう何度も言われました」
「安心した。はい、終わったよ」
雪の作業が終わると、ざからは布団に飛び込んだ。
ひとしきり転がってその感触を楽しむと、彼女は雪を見上げて笑った。
「……楽しいですね」
「そうだね。楽しいね」
その笑顔に雪も微笑み返すと、明かりを消してベッドに入った。
「…雪。そっちに行ってもいいですか?」
「いいよ。いらっしゃい」
ざからは枕を持って立ち上がると、すぐに雪の隣にもぐった。
掛け布団から顔だけを出して、眠そうな顔を雪に見せると、また微かに微笑む。
「おやすみ、ざから」
そう言って、雪がその小さな体を抱きしめると、彼女は夢の中に落ちていった。
ベッドの脇では、氷那がまた静かに寝息を立てている。
明日こそは氷那が悲鳴をあげないように祈りながら、雪は目を閉じた。





「きゅ〜!!」
そしてまた、彼女の一日が始まる。