生まれいずる一つの命



















 
 恋は人を変えると言うが、彼女の場合はその最たる例であると言えるだろう。事実、入
寮当事と今の彼女とを比べたら、同一人物だと気付かない人間だっているはずだ。

 だが、そんなにも人を驚かせるくらいの変化があったのに、彼女本人とその変化をもた
らした人物の間ではそれは些細なことでしかなかった。愛さえあれば…当てられる他の人
間にすれば迷惑な話ではあるが、要はそういうことである。

「……」

 そんな二人の片割れ、槙原耕介はただいま料理に従事していた。作っている物は普通で
何の変哲もないただの煮物なのだが、その集中力たるや半端ではない。僅かな焦げも見逃
さず栄養面にも細心の注意を払っている…その煮物は家庭科の教科書にでも載りそうなほ
ど些細な妥協もない一品であった。

 それはいかに煮物とは言え、一般家庭の夕食に出す料理にしてははっきり言って凝り過
ぎなのだが、今の耕介にしてみればこれでも注意し足りないくらいである。と言うのも…

「耕介…」

 耕介の愛妻にして、その集中力の原因でもあるリスティが台所に現れる。すると、あれ
だけ集中して料理をしていた耕介がガスを切ってそちらの方を向いた。そのせいで味は落
ちるかもしれないが、耕介はそんなことは気にしない。それよりも優先するべきことがあ
るからだ。

「あんまり動かなくてもいいぞ。俺だけでも大丈夫だから」
「だからって…僕が働かないのは変だろう?」
「でもな…もうすぐなんだし…」
「口答えしない、『お父さん』」
「はい…」

 この言葉を出されたら口答えもできはしない。それでも、身重の彼女には働いてほしく
はなかったのだが、一度こうと決めたらリスティは何をやっても動くことはない。その頑
固さがここ最近になってさらに強くなったのを、耕介だけでなくさざなみ寮の他の寮員も
感じ取っていたのだ。

(母は強いってことか…)

 あのはねっかえりだったリスティが、と思うと感慨深い物があった。いったい誰がここ
を訪れたばかりの彼女を見て『母親』になると予想ができたであろう。しかも、その旦那
がやっと仕事が板についてきたばかりの管理人とあっては、当時の寮員達は卒倒したかも
しれない。

 とにもかくにも、できることなら働かずに静かにいてほしいのだが、さざなみ寮管理人
兼コック兼神咲一灯流退魔師という無類な肩書きを持つ耕介でも、身重の奥さんには頭が
上がらないのである。過保護過ぎると真雪には言われるのだが、耕介にしてみればやはり
これでも過保護し足りないのであった。

「心配し過ぎなんだよ、耕介は」
「とは言ってもな…」

 心配している本人にまでそう言われてしまうと耕介にも立場はなかった。今の言葉が真
実であることを示すように、リスティはいつも通り棚から皿を取り出し耕介の手伝いに回
る。

 こんな風に料理の手伝いをするようになったのも結婚してからだった。最初は危なげな
い手付きだった料理も、耕介の指導の甲斐もあって今ではだいぶ上達してきている。

 喧嘩もした。それで一週間くらい口を利かなかったこともある。それでも最後には仲直
りをして、二人はより一層愛し合うようになった。今では、お互いのいない生活など考え
られないくらいに、二人の絆は強くなっている。

「本当に無理はするなよ」
「心配しすぎ。僕はそこまで柔じゃないよ」

お盆に人数分の椀を乗せ、リスティは台所を出て行く。その身のこなしは身重の体にし
ては随分と機敏で滞りがなかった。

(やっぱり過保護なのかな、俺は…)

 今更ながらに実感する耕介である。すると――

―――!!!

陶器の割れる大きな音に、人の倒れる音が重なった。その音に何かを考えるよりも早く
耕介は台所から飛び出す。そこでは…

「う…ぁう…」

 リスティがお腹を押さえて床に蹲っていた。顔にびっしりと脂汗を浮かべ、誰が見ても
唯事でないことは明白なのに、気丈にも立ち上がろうと懸命になっている。

 耕介は…何もできなかった。目の前でリスティが苦しんでいる…それなのに、頭の中に
霞がかかり体も、心すら動いてくれない。

「耕介、ぼうず、どうした!」

 音を聞きつけ二階から飛んできた真雪が蹲るリスティを見て愕然とする。だがそれも一
瞬のこと、自分のすべきことを悟った真雪はすぐさまリスティに駆け寄り、具合を確かめ
た。話しかけられたリスティの方は、痛みのためかまともに返事すらできない状況だった
が、真雪は人望強くそれを聞き、自分ではどうにもならないと判断すると、耕介を仰ぎ立
ち上がった。

「あたしは他の準備をするから、お前は救急車呼んでぼうずに付き添ってろ」

 言うが早いか真雪はすぐさま行動に移ろうとするが、耕介はまるで呆けたように動こう
としなかった。

「耕介!!」

 それに気付いた真雪が凄みを付けて怒鳴りつけるが、それでも耕介はただ蹲るリスティ
を見つめ続けるだけだった。

「もういい…」

 燃えるような怒りを抑えつつ、真雪が電話に駆け寄る。電話口に怒鳴りつける真雪の声
を聞きながら、耕介は自分だけが世界から隔離されたかのように感じていた…











 その後何があったのかあまり覚えていないが、気が付いた時耕介は分娩室に運ばれるリ
スティの隣を歩いていた。

「耕介…」
「…すまん、何もできなかった…」

 倒れた直後よりはある程度冷静さを取り戻していたが、耕介の返す声には力がなかった。
苦しんでいる最愛の妻を見ても何もできず、ただ呆然としているしかない自分がとにかく
情けなかった。もし目の前にリスティしかいなかったら、何も考えずに泣き喚いていたか
もしれない。

 耕介の瞳に何かを感じ取ったのか、リスティはそっと手を握ってきた。それは悲しいま
でに力のない握手だったが、耕介の心の波をほんの少しだけ落ち着かせた。同じく力のな
い物ではあったが、耕介の顔に笑みが浮かぶ。

「俺も、ついていこうか?」
「いいよ。たまには僕も一人でできるとこ見せないと、かっこ悪いし…」
「……リスティ?」
「分からない? 今、嬉しいんだ。暗闇の中から生まれた僕が、こうして…愛した人の子
供を生めることが。僕は、槙原耕介の奥さんなんだって…胸を張って言える今この時が
誇らしいんだ…」

 リスティは、笑った。痛みから来る弱々しさも儚さも、すべてその身に内包した笑み。
それは、ただの女性から母親に変わった瞬間だったのかもしれない。耕介は、足を止めた。
その笑顔が眩し過ぎて足を止めてしまった。

 そして、医師や看護婦に囲まれて分娩室に消えるリスティを、ただ見送った。













 一言で言ってしまえば、それは意地だったのだろう。彼女が他人を拒むから関わってや
ろう…そんな子供のような意地だった。ただ、彼女の笑みが見たかっただけなのかもしれ
ない。ただ、彼女と話して一緒の時を過ごしたかっただけだったのかもしれない。いずれ
にしても、あの時の自分は傍からすれば性質の悪い大人に見えたことだろう。それでも耕
介は彼女に――リスティ・C・クロフォードに関わり続けた。


 いつの間にか、意地は愛情に変わった。頑なだったリスティの心の氷は溶け、耕介に笑
みを向けてくれるようになった。どこかの誰かの影響で酒も煙草もやるようになってしま
ったが、それでも耕介は幸せだったし、今ももちろん幸せである。


「耕介さん?」

 耳に届くのは明るい声。顔を上げると、声の主は軽く手を上げて応えた。明るい茶髪を
腰まで伸ばし、それを首の辺りで無造作に縛っている。それは目の覚めるような絶世の…
美青年だった。

「真一郎君か…どうしてここに?」
「槙原の話を聞きましてね。時間があったのでここまで飛んできたら真雪さんに耕介さん
 の所に行けと言われまして…迷惑でしたか?」
「いや、ちょうど俺も話し相手が欲しかった所さ。助かるよ」
「それはよかった。そして、もう一人お客さんです」

 言って真一郎が退くと、これまた耕介の見知った顔があった。真一郎を陽とするならこ
ちらは陰の魅力を持った少年である。黒髪に黒瞳、おまけに格好まで暗い色なのだが、彼
自身に暗いという印象はなかった。

 少年は、耕介と目が合うと軽く頭を下げた。

「恭也君も真雪さんに?」
「ええ。人生の勉強になるからと言われまして…」

 大真面目に答える恭也。その瞳には人をからかうような色はなく、さっきの言が本当で
あることを示していた。

 真雪の気遣いに感謝しながら耕介が二人に席を勧めると、二人は耕介を挟んで座った。
分娩室の前のベンチに男が三人…見ようによってはかなりシュールな光景である。

「前から聞こうと思ってたんですけど…」

 真一郎が話を切り出すのだが、どうにも歯切れが悪い。

「今なら何を聞いてもいいよ。君らの人生の勉強のためだ」
「…じゃあ、本当に遠慮なく聞きますけど…耕介さんってロリコンなんですか?」

 聞いた瞬間、恭也が静かに吹き出した。かなりつぼに入ったようで、顔を伏せ肩を小刻
みに震わせている。耕介はその背中を胡乱な目で見やりつつ、

「またどうして?」
「さざなみ寮の女の子の中で槙原を選んだじゃないですか。そりゃ、槙原がかわいいのは
 認めますけど、一番あの中では幼かった訳だし…」

 言いよどんでいた割には随分と不躾な物言いである。耕介は未だに隣で静かに笑い続け
ている恭也にデコピンをして、言い訳を探すために色々と考えを巡らせる。

「だからって、俺がロリコンってことにはならないと思うけど…」
「ん〜愛さんやゆうひさんよりも槙原を選んだ訳で…」

 要は、他にも選択肢があったのに、ということを言いたいらしい。確かに美緒を除けば
あの当時、さざなみ寮の寮員の中ではリスティが一番幼かった。年の差は、現在の耕介と
リスティを見ればさほど不自然でもないが、耕介が既に成人していたのに対し、リスティ
はまだ世間的には十分子供と判断されるような年齢だったのだ。そう考えると、ロリコン
でない、と力いっぱい断言するのは少々難しいかもしれない。

「ほらほら〜」

 耕介が頭を抱えて悩み出したのを見て、真一郎は嬉しそうにそう言った。一瞬、本気で
この美青年をぶん殴ってやろうかとも思ったが、残された理性を総動員して自制する。

「…俺がロリコンか、ということよりも真一郎君の方はどうなんだい? 浮いた話は頻繁
に聞くけど、身を固めたって話は全く聞かないな…」

 学生の時分からモテていた真一郎には、本当に今になっても女性に纏わる話が後を耐え
ない。それも、そのすべてを同時に相手にしているにも関わらず全く問題が起こっていな
いのだから、女性と付き合う天性の才能があると言っても過言ではなかった。

 もっとも、それが真一郎にとってはあまり人に誇れることではないらしく、この話を耕
介が(もっと性質の悪い所で言えば真雪が)し出すと途端に彼は言動に余裕がなくなる。
神咲の兄弟子であるとか人生の先輩とかそういったことは抜きにしても、本格的な言い合
いになると、真一郎は耕介に勝てないのだった。

「まあ、俺の話はどっかその辺にでも置いておいて――」
「なあに、ロリコンな男は執念深いんだよ…」

 素人目には非常に怖い目をして、真一郎に詰め寄る耕介。実は案外、理性がなかったの
かもしれない。やっとツボから回復した恭也が見かねて耕介を止めに入るが、

「耕介さん…そこまでやらなくてもよろしいのでは?」
「恭也君、さっきまで爆笑してくれた君に言われたくはないんだけどな…」
「いや、でも…人間可笑しかったら笑うわけで…」
「分かった、もう聞かないことにする。恭也君の結婚式の仲人は俺がするってことで妥協
 してあげよう…」
「何となく気の長い話ですね」
「そんなに先の話じゃないって。真一郎君と違って、恭也君は身を固めるの早そうだし…
那美とはうまくいってるんでしょう?」
「あ…いや、うまくは行ってますけど…」
「結婚式には俺も呼んでよ。何か困ったことがあったら、俺がアドバイスできると思うし
…」

 真一郎は、女性ならそれだけで落ちかねないウィンクを恭也にすると、彼を促してベン
チから立ち上がった。その察する所を理解できなかった恭也は、顔に疑問符を浮かべて真
一郎を見るが、彼は笑って答える。

「感動の場面に無粋な観客は必要ないでしょ?」

 それでも恭也は首を捻っていたが、真一郎は有無を言わさずその腕を取って彼を引きず
っていった。恭也と同じく耕介も真一郎の行動の意味を理解できなかったので、去り行く
彼らの背中を呆然と見送っていたのだが、やがて一つの結論にいたると苦笑した。

「逃げたな…」

 言いくるめられなかった悔しさと少しばかりの感謝を込めて、耕介は呟く。気持ちを落
ち着けると、見えない何かが見えてくるようだった。真一郎は、耕介や恭也にも早くそれ
を察知したに過ぎない。逃げる口実にしたのは事実だが、そういう所は耕介も認めなけれ
ばならなかった。

 …聞こえた、新しい命の生まれた声が。その産声を子守唄に、父親になった耕介は力を
抜くと壁に力を預けた。












「頑張ったな…」

 ベッドで並んで眠る母子を前に、耕介はそうとしか言えなかった。少しでも気を抜くと
出てきそうな涙を懸命に堪える。生まれて初めて会う我が子の前で父親が泣くというのは、
耕介のプライドに反した。でも、それでも…

「耕介、なに泣いてるんだ?」
「…嬉しくてな。リスティが頑張ってくれたことが…」
「別に僕は当たり前のことをしただけだよ。耕介の妻として、この子の母親としてね…」

 手を伸ばして、リスティは自分の隣に眠る我が子の頬を撫でた。まだ名もないその子は
泣きつかれたのか、彼女の手にも気づかずにすやすやと眠っている。

「抱いてもいいか?」
「駄目なわけないけど…今はそっとしておいて…」
「そうだな…そうだ、名前どうする? 俺も一応考えてあるんだけど」
「僕だって考えたさ。でもね…」

 そこで言葉を切り、二人は窓の外を見上げた。雲一つもない夜空に、満月が煌々と輝い
ている。都会と違ってここは田舎、綺麗な星空も月もそれほど珍しい物ではなかったのだ
が、この夜の月は二人の心を引き付けて離さなかった。二人は示し合わせることなく、顔
を見合わせる。

「名前、今決まったんだが…」
「奇遇だね、僕も考えた所だよ」
「せ〜ので言ってみるか?」
「いいよ。でも、不安じゃない? 違った名前だったらどうしようかとか…」
「そんなはずないだろう。俺とリスティが同時に思ったんだ、違ってるはずがない」
「だね。じゃあ決まりだ。坊や、君の名前は――」

 その時、その名は彼の物になった。夜空には静かに輝く月…それは、街と彼ら親子を優
しく照らし出していた。