うぃざ〜ど・おぶ・うぃざ〜ず  第五話
















 機嫌良さそうに微笑む師匠、もっと機嫌がよさそうに笑っている少女。そして、内面
に抱える不機嫌さを持て余している少女…それが今、真一郎の周りにいる人間だった。

 時刻はもうすぐ日付も変わるといった所か。血と職業柄、真一郎本人がこんな時間に
床に着くことなど稀であるが、ここ最近のいじめとも取れるエリザの行動に疲れも出て
いるので、こっちに来てからはだいたいこんな時間に自分の部屋に入ることにしている。

 里帰りして疲れていたのでは、何をしにドイツまで来たのか分かったものではないが、
そんな無意味なことを気にするのは当の昔にやめてしまった。

(俺が女の子のことで疲れるのはいつものことだしね…)

 この年にして悟った考え方をしているが、真一郎とて何も好き好んで疲れている訳で
はない。今日にしたって、美女と美少女が三人こんな時間に自分の部屋にいるのも、彼
が原因ではない…はずなのだ。

 女性が男の部屋にいるにしては、少々遅い時間帯である。それでも、寝る前に何かを
話したくなる、ということはあるし真一郎もそれなら疲れることはない。

 だが、三人が三人とも自分の枕を持ってきているとなれば話は別だ。要するに、ここで
寝るということになるが――ため息をつきたくなる気持ちを抑えて、真一郎は部屋を見回
した。

 まず、久遠。これは機嫌が良さそうに既に真一郎のベッドに入っている。何が楽しい
のかは知らないが、ごろごろと転がっているだけなのにどこか嬉しそうだ。

 海鳴にいた時だって一緒に寝るくらいのことはあったし―たまに、無意識のうちに変
身されて七瀬や雪に文句を言われることはあるが、彼女自身に悪気はないので久遠だけ
なら、別に大した問題ではない。

 問題は残りの二人…真一郎のベッドの隣にわざわざ自分のベッドを『転移』させたエ
リザと、その彼女と反対側に自分のベッドを用意した美由希。ちなみに、そのベッドを
運んだのは七瀬だったりするが、この際関係はない。

 ベッドの上で何をするでもなく微笑みながら真一郎を見つめるエリザ。その彼女の目
から真一郎を守るように、エリザを睨んでいる美由希。間に置かれている真一郎は気が
気ではない。この部屋で、平和なのは転がっている久遠だけである。

 どうしてこんなことになってしまったのか…話は夕食の時にまで遡る…












 夕食を終えた後、真一郎達はノエルの入れてくれたお茶を飲みながら、優雅なひと時
を過ごしていた。

 色々あったあの日からすでに五日―滞在期間も半分を過ぎたせいか、初めてここを訪
れたはずの美由希や久遠も、どうにかここでの暮らしに慣れてきている。話を聞く限り
では、美由希もエリザと一緒にこの屋敷を探検したり(その時にティオレのデビューレ
コードを発見したそうな)、彼女とざから鍛錬に付き合ったりと、関係は割りとうまく
行っているようだった。

 まあ、エリザとざからの戦闘が美由希の参考になるかどうかは知らないが、仲良く過
ごしてくれるのはいいことだ。自分を巻き込んで喧嘩をされるよりはずっといい。

「あ、そうそう。今日の夜のことなんですけど…」

 トランプに興じている美由希達の傍らで静かに読書をしていたエリザが、本から顔を
上げてそう呟いた。その声が自分に向けられている物と気付いた真一郎は、何気なく外
を眺めていた視線を彼女の方に向ける。

 何?と視線で問いかけると、エリザは読書の時にかけるメガネを外しながら―

「今晩、久しぶりに一緒に寝ませんか?」

 がたっ!! と、これは美由希が勢いよく椅子から転げ落ちた音である。それ以外に
どうという変化はない。つまり驚いたのは彼女だけ、ということだった。

「エリザ…真一郎と一緒にねるの?」
「そうですよ。久遠ちゃんも一緒に寝ますか?」
「ねる〜」
「ま…待ってください」
「ああ、美由希ちゃんもどうですか?」
「どうって…」

言葉を止めて、思考。しばらくすると、美由希は面白いくらいに耳まで真っ赤になった。
『一緒に寝る』という言葉に対して、妙な考えに行き着いてしまったらしい。

「みんなで一緒に寝た方が楽しいんですから〜」

 取りようによってはさらに爆弾な発言に美由希はさらに真っ赤になる。

「エリザ…あまり美由希ちゃんをからかっちゃだめだよ…」
「からかっていませんよ。真一郎だって緒に寝るのも初めてじゃないでしょう?」
「確かにそうだけど…」
「何度も…その、一緒に寝てるんですか?」

 蚊の鳴くような声で問いかけてくる美由希。その拗ねるような非難するような表情に罪
悪感を覚えないでもないが、真一郎は素直に頷いた。すると、美由希の目が少しだけ険し
さを増した。

「じゃあ、今から私の枕を持ってきますから――」
「駄目です!」

その大声が美由希の物であると気付くのに、そこにいた全員はしばらくの時間を要した。

「どうしてですか?」

 どうしたも何もないがエリザの反応は美由希の態度など、どこ吹く風だった。こんな風
に返されるとは思っていなかったのだろう、美由希の勢いが急速に弱まる。

「私は真一郎のこと好きですよ好きな人と一緒にいたいと思うのは当然のことだと思いま
すけど、違いますか?」
「それは…そうだと思いますけど…」

 言い合いでも、美由希の方が分が悪いようである。
 言っても説得力がないことを自覚しているので何も言わないが、真一郎もエリザの考え
には賛成である。かわいいものはかわいいし、好きなんていう気持ちは歯止めの効く物で
はない。一緒にいたいと思う時もあるし、思わず抱きしめたくなる時もある。

 ただ、真一郎の場合はそのたまにでも抱きしめたいと思ってしまう女性が人に比べて多
過ぎるのが問題なのであるが…

「さくらさん達は、いいんですか?」
「エリザに嫉妬してもしょうがないですから…」
「真一郎さんは真一郎さんですよ。それは先生も同じです」
「まあ、大人の余裕ってやつかしら」

 後に続く雪も七瀬も助けてはくれない。美由希は藁にも縋る思いで忍達を見るが…

「考え方は賛成。相手が恭也だったら私も迫っちゃうと思う」
「でも、ご主人様?私の時は一緒に寝てくれないじゃないですか」
「ざからの場合、俺と一緒に寝ると寝相が悪くなるからだよ。全力で寝返りなんて打たな
くなったら、考えておくよ」
「で、美由希ちゃんはどうしますか?」

 どんな答えを返すか解かっているのだろう、エリザは―いや、そこにいる女性のほとん
どは、美由希の楽しんでいる。それを意識しているのかいないのか、美由希は決然とした
表情で顔をあげ――














 こうなってしまった訳である。

「本当は真一郎と一緒のベッドで寝たかったんですけど…」
「それだけは駄目です」
 これだけは譲るつもりのないという、断固たる口調の美由希。真ん中に久遠付きの真一
郎、その両側に美由希とエリザ、美由希の出した折衷案通りの形になっている。本来であ
れば、人数分ベッドを用意したかったのだが、久遠がごねたのでこういう結果となる。

「美由希ちゃん、もう眠いんじゃないですか?」
「いえ、いつもこれくらいの時間まで起きてますから…」

 真一郎のベッドを挟んで、二人は火花を散らしている。一緒に探検なんてしたと聞くか
ら仲良くなったのかと思っていたのだが、さっきからずっとこの調子だった。真一郎とし
ては仲良くしてくれと切に願うばかりなのだが、一度相手をからかうと決めてしまったエ
リザが相手では、それも無理な相談だろう。

(いい人なんだけどね…どっちも)

 転がりつかれて寝てしまった久遠の頭を撫でながら、真一郎は心の中で呟いた。

「じゃあ、みんなでお茶でも飲みましょうか」

 おかしな睨みあいをやめ、エリザはすっと両手を上に向けた。一瞬にして、その上にお
盆が転移してくる。ティーポットとカップが四つ、そのお茶の香りなのだろう真一郎の部
屋に暖かい香りが漂う。

 それは、覚えのある香りだった。大方ノエル辺りが用意でもしたのだろう、その香りの
中にある物が混じっていることに真一郎は気付く。

「これを飲んで落ち着いてください」

 気付いたことを真一郎が口にするよりも早く、エリザはそっとウィンクした。しゃべる
なということだろう。確かに、彼女にとってこんなにも面白いことはないだろう。後から
自分に降りかかる火の粉を想像しながらも、真一郎はとりあえず口を噤んだ。

「じゃあ、いただきます」

 いいかげん睨み合いにも疲れていた美由希は何の疑いもなくカップを手に取り、そのま
ま口を付けた。

 カップのお茶を半分ほど飲み干した頃だろうか、顔を上げた美由希は―真一郎の予想通
り真っ赤になっていた。

「なんか…ほ〜いひいでふね、こえ…」

 間の悪いことに、既に呂律まであやしくなっていた。やはり止めておけばよかった…と
真一郎は一人で頭を抱える。

「さあ、まだまだありますからぐっとどうぞ」

 何の後ろめたさもなくどんどん薦めるエリザ。美由希は彼女の言葉そのままにぐいぐい
と飲み続ける。結果としては、かなりの悪循環だった。

 香りからして、お茶に混ぜられているのはかなり度の強いブランデーだろう。それも、
ちょっとやそっとでは気付かないように味にも香りにも気を使っている一品だった。以前
月村邸でご馳走になったことがある。この紅茶は間違いなく、ノエルの仕込みだ。

(それにしても…)

 エリザもエリザで、凄いことをする。美由希が酒に強くないことくらい、エリザも承知
していただろう。にも関わらず、彼女はこうして美由希にブランデー入りのお茶(もはや、
お茶入りのブランデーであるが…)を薦めていた。何故こうまでして…と考えるまでもな
い。一緒に寝ようの提案があった時から、こうなってしまうことはなんとなく予想してい
た。

くいっくいっ

 ベッドに座って二人を眺めていた真一郎の服の裾を、いつの間にか起き上がった久遠が
引っ張っていた。見ると、久遠は物欲しそうに真一郎を見上げてからじっとエリザ達の方
を見た。

「駄目だよ。久遠はお酒に弱いでしょ?」

 美由希は止めなかったのに、久遠は止める真一郎。だが、既に定着してしまったお父さ
んぶりを発揮して宥めようとしても、久遠はいやいやと首を横に振った。どうしたものか、
と真一郎が困っていると…

「久遠ちゃんも飲みたいですか?」
「のみたい…」
「じゃあどうぞ、まだありますから」

 エリザはにこやかに笑って、カップにお茶を注ぐ。それを見て恐々と真一郎を見上げる
久遠。怒られるかも…と気にしている顔だったが、そんな顔をされては彼に強く言えるは
ずもない。

「いいよ。でも、飲みすぎないでね」

 真一郎がそう言うと、久遠はぱっと顔を輝かせてエリザからカップを受け取った。美味
しそうにゆっくりとお茶入りブランデーを飲むその姿を見て、許してよかったと思う真一
郎だったが…ある意味予想通りに、久遠はぴたりと動きを止めた。

「久遠…」

 恐る恐る声をかけると、久遠は振り返って微笑んだ。そして、ちょこちょこと真一郎に
駆け寄ると、いきなりその膝に倒れこんだ。真一郎は慌てて抱き起こした時には、既に久
遠からは寝息が聞こえていた。酒にやられたようで、今度の寝息はかなり深い。

「あら、久遠ちゃんには強すぎたんでしょうか…」
「確信犯がそういうこと言わないの」

 酔いつぶれた久遠をベッドに横たえると、エリザがカップを差し出してきた。一瞬ため
らってから、真一郎はそれに口を付ける。前に飲んだ時よりもブランデーの度が強い気も
するが、全体として概ね酒に強い夜の一族にはこのくらいがちょうどいいだろう。

「真一郎は全然酔わないですね」
「俺の一応、夜の一族の端くれだからね。エリザほどじゃないけど酒には強いの」

 強いと言ってもやはり酔うものは酔う。どうやら、お茶のブランデーは予想していたよ
りも強かったようで、真一郎も少し酔い始めていた。それでもぼ〜っとする頭で、お茶を
飲み続ける。エリザもそれに付き合って飲んでいるはずなのだが、彼女はまったく酔った
気配を見せない。さすがに生粋の夜の一族である彼女は、人一倍酒には強いようだ。

「しん…いちろう、さん?」

 忘れていた。お茶入りブランデーを飲み続けていた女性がもう一人。美由希はエリザの
狙い通りかなり酔ってきているようで、もうすぐダウンしそうな気配だ。彼女はとろんと
した目つきで真一郎を見つめている。

「なあに、美由希ちゃん」
「えへへ…」

 美由希は、久遠やざからのようにあどけない微笑みを浮かべる。こんな風に笑う女の子
だったか、と気にしていると美由希はさらに笑みを深くして、

「真一郎さん!」

 いきなり抱きついてきた。あまりにとっさ上に酔いも回っていたので、何も抵抗するこ
とはできない。

「美由希ちゃん?」

 とりあえず、呼びかけてみても美由希は無反応。彼女はただ一生懸命に腕に力を込めて
真一郎に抱きついている。いい香り、押し付けられる柔らかい体。女性との付き合いには
慣れているつもりだったが、今こうして抱きしめられて熱くなっている自分がいる。何だ
か、こういうのも久しぶりの感覚だった。

「もてますね、真一郎」
「エリザ、ちゃかさないで…」

 最近の彼にしては珍しく情けない声で苦笑する。美由希に抱きつかれて固まっている真
一郎の図など、七瀬辺りにでも知られたらしばらく笑い物だ。

「ほら、美由希ちゃん起きて」
「う〜」

 引き剥がそうとすると、美由希は恨めしそうな顔で真一郎を睨む。すると、何も悪いこ
とはしていないのに途端に罪悪感がこみ上げてきた。このままでもいいんじゃないか、と
いう気持ちすら持ち上がってくるが、エリザの手前そういう訳にもいかない。

 睨まれ唸られつつも真一郎は美由希の腕を放しベッドに横たえた。そのまま離れようと
して彼女に腕を掴まれる。目が合うと潤んだ瞳で見つめ返され、何もできなくなってしま
う。

「困っているみたいですね」
「何とかしてくれると、すっごく嬉しいな」
「…こういう時に女の子にちゃんと応対できると、もっともてると思いますけど」
「いいよ、別に。これ以上女難の相を抱えたくないし…」
「贅沢ですね」

 エリザは真一郎の横を通り過ぎ、真一郎の手を掴んでいる美由希のそれに、自分の手を
重ねた。ひと時を邪魔されたと思ったのか、酔った者特有の剣呑な視線がエリザを捕らえ
る。それにも迫力はあったのだがエリザは平然として、

「美由希ちゃんは、真一郎のことが好きですか?」

 何を聞き出すのか、と止めようとする真一郎をエリザの腕が制する。納得はしかねるが
反論できずそのまま黙って見ていると、美由希の手はゆっくりと力を抜かれていった。

「私は…真一郎さんのこと…好きですよ。かっこいいから、優しいから…好きですよ…一
緒にいたい…大好き…」

 柔らかな微笑みを浮かべ、美由希は眠りの中に落ちていった。エリザは美由希の頭を
優しく撫でて振り返る。

「女の子は―特に美由希ちゃんには、こういう手が一番ですね」
「て言うか、そんなことで目を染めるのはどうかと思うけどな…」

 夜の一族の十八番、『魅了』の魔眼。最古参の中の一人であり、魔術師でもある彼女なら
少女一人を眠らせることなど、造作もないことだ。その『魅了』の名に相応しく、エリザ
のその真紅に染まった瞳は、他人を魅了するに足るものだった。

「いいじゃないですか、これで解決したんですから」

 目を閉じて瞳の色を戻して振り返り、真一郎の手を取るエリザ。美由希も久遠も起きる
気配はない。実質、この場にいるのは彼ら二人だけだった。

『悠久の箱庭、定められし領域。エリザベートの名において命ずる、空間に満ちたる者よ、
 わが意に従いて、我らを誘え』

 一瞬だけ、視界が暗くなる。それだけで、その魔術の効果は終了した。相変わらずここ
は真一郎の部屋である。ベッドが三つあって、エリザの持ってきたカップの場所もそのま
ま。その場所には、真一郎とエリザ――二人だけである。

「久しぶりに見るけど、何かやっぱり違和感があるよね」
「これが魔術の片鱗ですよ。私の弟子なんですから、これくらいはできるようになってく
 ださいね」
「自信ないなぁ。俺、魔術に関しては十人並みだし」
「努力してください。私が時間を…あげたんですから…」

 唐突に、エリザの目に涙が浮かぶ。彼女はふらふらと真一郎に歩み寄り、力なく彼の体
にもたれかかった。真一郎は、エリザの背中に腕を回して抱きしめる。

「ごめんなさい…ごめんなさい…」

 か細い声でそう繰り返すエリザの頭を何度も何度も、優しく撫でる。二人きりの時だけ
に見せるこんな表情、誰にも見せないエリザの泣き顔。それを見るようになったのは、数
年前のあの日、真一郎が人間をやめた日からだった。

「だから、エリザのせいじゃないって何回も言ってるでしょ? 俺は自分の意思で盟約を
交わしたんだ。エリザのせいなんかじゃ、ないよ」

「でも、私が何も言わなければ…貴女は人間として生きられた。人間として、死ねた。人
間として、女性を愛することができた…私がそれを――」
「『私だって女の子なんですよ。普通に笑って、人を愛したかった…』」

 こんな言葉だったか、と記憶の中を探りながら呟く。エリザは顔に驚きを浮かべて、そ
れから小さく微笑んだ。昔を懐かしむように目を細め、真一郎を見つめる。

「『人を愛するのに、種族なんて関係ない』 貴方はそう言ってくれました」
「今考えると、とてつもなく青臭い台詞に聞こえるし…」
「でも、私は嬉しかったですよ」

 いつしかエリザの顔からは涙が消え、真一郎の背には彼女の腕が回されていた。さっき
の美由希の時とは違って、真一郎はごく自然にエリザの頬に手をかけ唇を重ねる。

「『共に歩むのなら、盟約を―』
「繰り返さなくてもいいよ。気持ちは今も変わってない、『それで、貴女が笑ってくれるの
 なら、俺は喜んで人をやめましょう』」
「なら…」

 ゆっくりと、エリザは真一郎の首筋に歯を立てた。ちくりと、小さな痛みが走る。そし
て、物理的に力は吸い取られていくかの脱力感が真一郎を襲った。

「ごちそうさまでした」

 傷口を舐めて止血をし、努めて明るい口調でエリザはそう言った。真一郎の体から離れ、
窓の方に歩いていく。

 窓の外には月があった。向こうの世界と何ら変わることのない、満月。真一郎とエリザ
しか存在しないその世界でも、月は変わることなく大地を照らしている。魔術の産物…エ
リザによって造られた、平行世界。

「人間を止めて、貴方は何を見ましたか?」
「強くなった以外はまだ実感はないかな…あと、まだ血を飲んでもあまり美味しくない」
「吸血鬼化した人間は歴史上数少ないですからね、もしかしたらそのまま血は飲めないか
 もしれないですけど…」
「なら、それでもいいかもね。魔術の腕前に関しては…まあ、聞かないで」
「時間はありますよ。少なくとも、私がいる限り貴方が老いるということはありません」
「てことは、このままずっと女顔なのかな? もう少し渋さが欲しいんだけど…」
「……そういう風に言えるのが、きっと真一郎の強さだと思います」

 窓の外を見るエリザは、随分と幻想的だった。普段は破天荒で真一郎を困らせるだけの
師匠である彼女も、今はただの一人の女性である。真一郎はゆっくりとその背中に近付い
て、そっと抱きしめた。

「いつまで…ここにいますか?」
「エリザの気の済むまで…でも、美由希ちゃん達が起きるまでには帰してね。ここから問
題が起こったら、俺この先生きていけない」
「真一郎を困らせるのって楽しいんですけどね…」
「そんなこと言うと、いじめるぞ」
「冗談ですよ。いい娘でいますから、今だけは優しくしてください」

 こんな顔をされると、真一郎は激しく弱い。エリザは腕の中におさまって、こちらを見
上げている。何かを期待している顔…こんな顔を、真一郎は前に見たことがあった。たし
か、これは…

「自制してね…」
「駄目ですよ。もう、その気ですから…」

『あの時』のさくらや、忍と同じ目だった…