晶は夜道が怖くない。友達などは痴漢がでそうだから怖いとか、夜に一人歩きなどもっ

てのほかみたいなことを言ったりするが、こんな夜中にただ徘徊しているだけの連中に自

分が遅れを取るとは思っていなかったし、それよりも何倍も怖い物を晶はいくつも知って

いた。なにしろ今も、そのうちの一つと戦っている最中なのだ。痴漢なんぞにかまけてい

る暇はない。



「うう……まだ腹の調子が……」



 何か底知れない雰囲気に負けて口にしてしまった高町家の姉貴分の料理。自分ともう一

人の料理番で最初から最後までしっかりと監督していたはずなのに、完成したのは『あん

なもの』だった。



 十分すぎるほど警戒はしていたのだ。それなのに、まさかこんなことになるとは夢にも

思っていなかった。あれを口の中に入れ、最初にあの味がじわ〜っと広がった時のことを

思い出すと、まだ金縛りにでもあったかのような感覚に囚われる。これはしばらく不調を

きたしそうだ。もしかしたら、彼女の顔を見るだけでも危ないかもしれない。



「だめだ……帰ったら薬飲まないと……」



 夜道をランニングでもしていれば気分も安らぐかと思ったが、あの物体の力はそんなも

のではなかったらしい。薬に頼るのはあまり好きではないが、頑丈が売りの身体にここま

でしてくれる物体に対抗するためには、何某か、文明の力に頼らざるを得ない。



 お腹を摩りながら、晶は身体を引きずるようにして走る。いつものランニングコース。

夜ではあるが、そこにあるのは見慣れた風景だった。調子が悪いせいでいつもの半分のペ

ースも出せていないが、この分でもあと十分もすれば家に帰りつくだろう。



 そうすれば、薬を飲んでぐっすり眠れる。さすがに夜を越せば、『あんなもの』の力も少

しは弱まってくれるはずだ。もし明日になってもこのままだったら、生死の境を見るくら

いは覚悟しないといけないかもしれない……



 とても長くて短い時間、晶は必死に走っていた。腹の中の物体と、ひいては己と戦いな

がら、懸命に誰もいない我が家を目指す。いつだって最後まで諦めたりしない、城嶋晶は

そんな少女だ。だが、この時ばかりは聊か相手が悪かったのだろう。







 そして、その時はあっさりと訪れた。不調にも関わらず酷使された足が突っ張り、晶は

地面に顔から転がってしまった。荒い息をつきながら、起き上がろうと懸命に身体に力を

込めるが、ぴくりとも動いた様子はない。



(あぁ、こりゃ……まずいかな……)



 暦の上ではもう春であるとは言え、こんな状態で地面に倒れこんでいたらどうなるかな

ど、頭の弱い晶でも容易に想像ができた。良くても数日の欠席、悪ければ入院なんてこと

もありえるかもしれない。今年こそはと狙っていた皆勤賞が、頭の中でどんどん遠くなっ

ていく。



(せめて、誰か見つけてくれないかな……)



 自分でも都合のいい考えと思ったが、この時ばかりは晶は少しばかり真剣に神様に祈っ

た。















「おい、大丈夫か? 坊主……いや、お嬢……なのか、一応」



 倒れた晶の額に当てられるひんやりとした手。少し硬くてざらざらとしたそれは、自分

と同じ、明らかに武道を嗜んでいる者――それも、相当な修練を積んだ者の手であった。



 朦朧とした意識のまま、晶はどうにか目だけをその手の先に向けた。視界に入ったのは

黒――周りに広がる夜の闇よりも深い色を纏ったその影の顔すら晶には分からなかったが、

心配そうにこちらを見下ろしているのは雰囲気だけでも分かる。



 抜き身の剣のような鋭さと、隠しきれない不器用な優しさを併せ持った漆黒の人間。晶

の記憶の中に、それらの要素に符号する人間は、一人しかいなかった。



「師匠……」



 その呼びかけに、影が応えることはなかった。ただ、そっと頭を撫でてくれた手がとて

も温かかったことだけは、闇に沈んでいく中でも、はっきりと分かった。





















「あの晶が道で倒れてたなんて聞いた時には何事かと思ったけど……」



 高町家の面々にとっては御馴染みになってしまった海鳴総合病院。入院患者のための一

室でしゅんとしている晶の安否を確認して、高町の長である桃子は安堵のため息をついた。



「無事なら、良かった。調子悪い時に無理したら駄目なんだからね?」

「うう……ごめんなさい」



 根本的な原因は別にあるが、夜の街を全力疾走という自分の行動も原因の一つではある

ので、晶としてはただ小さくなるばかりである。意識を取り戻したのが朝だったために、

一応の保護者である高町の家に連絡がいったのは皆が出かけようとしていた時間帯。それ

でも一番忙しいはずの桃子がこの場にいるのは、一重に彼女の人柄に寄るものであろう。



「それで、いつまで入院するの?」

「今日検査をして、それで大丈夫だったら、明日には退院できるって」

「それは何より。晶が入院したって聞いて、レンなんて血相変えて飛び出そうとしてたん

だから。おサルが死んでまったらどうしようって、泣きそうだったのよ?」

「あのカメが……ですか? 見たかったな、俺も」

「ふふ……退院したら、真っ先にレンのところに行ってあげてね」

「……あ、ああ、そうだ。俺、師匠にお礼言わないといけないんだった」

「恭也に? どうして?」



 照れ隠しのために行った話題転換。晶としては知っていて当然の話題を振ったつもりだ

ったのだが、当の桃子は晶の言葉が理解できないのか、不思議そうな顔をして首を傾げる

だけだった。



「倒れた俺を助けてくれたの、師匠なんでしょう? 俺を探しに来てくれたのかなって思

ってたんですけど」

「恭也だったら、昨晩はずっとうちにいたわよ。調子が悪いって言って鍛錬まで中止にし

てたから」



 一番早く寝たのも恭也だったし、と桃子は付け加えた。無論、その後起きだして、家族

の誰にも気付かれることなく、夜道で倒れていた晶を助け出したとも考えられなくないが、

その推論を信じるためには、恭也の朴念仁ぶりに匹敵するくらいの楽観が必要だろう。そ

して、晶も桃子も物事は明るく考える性質であるが、そこまでのレベルではない。



「じゃあ、俺を助けてくれたのは誰だったんでしょう?」

「恭也じゃないことは確かみたいだけど……ねえ、どうして恭也だって思ったの?」

「どうしてって言うか……雰囲気、ですか? それが師匠にそっくりだったんです。助け

てくれる時に手を握ってくれたんですけど、何だかその感触も師匠っぽかったですし、何

より黒尽くめだったし……」



 恭也や美由希には及ばないが、晶だってこれでも武道家の端くれである。相手の雰囲気

を観察することにはそれなりの自信があるし、ましてやそれが最も尊敬する人物の一人で

ある恭也ともなれば、間違えるはずもない。そう思っていたのだが……



「でも、恭也みたいな剣術をやってて黒尽くめの人が他にいたのかもしれないし……」

「師匠みたいな人がもう一人この街に住んでるんだったら、俺達の誰かが気付きますって」



 言い換えれば、それほどまでに高町恭也という人間の気配は特殊なのだ。武道をかじっ

ていない人間でも、彼に一度会えばまず忘れるということはあるまい。況や、晶なら、だ。



 だが、それでも状況はそれが恭也でないと言っている。自分もその時は調子が悪かった

のだし、見間違いだったと言ってしまえばそれで済むはずなのだが、それだけで片付ける

には『高町恭也に間違えられた人間』の存在は小さくない。



 その『高町恭也』に対して晶も、そして桃子も興味が沸きあがった。似ている人間がい

る、本来ならばそれだけで終わるはずの話題をそうはさせないのが、彼女達の『趣味』で、

高町という家庭のルールのようなものなのだ。



「じゃあ、私は翠屋に行くから。学校の帰りにレンちゃんが来ると思うけど、喧嘩したら

駄目よ?」

「それはカメしだいです」



 これに関しては断固譲るつもりはない晶。おそらく、レンに聞いたとしても同じ答えが

帰ってくることだろう。仲がいいのか悪いのか、本当に妙な関係の二人である。



 苦笑しながら晶の頭を撫でると、桃子は病室から出た。入院患者や看護婦で賑わう廊下

を歩きながら、考える。



 恭也の偽者……興味はあるが、果たして係わり合いになってもいいものなのだろうか、

と。根拠はないが、その言葉の中に何か危険な物を感じるのだ。人間としてでも、女とし

てでもない、母親としての感覚が、それに関わることに待ったをかけている。



 だが、こちらが望む望まないに関わらず、起こるべきことは必ず起こる。もし、その偽

者との邂逅が決定付けられているのなら、自分ひとりがどう思ったところで、もはや手遅

れだ。



 ならば、後はもう祈るしかない。その偽者との邂逅が、大切な家族に不幸をもたらさな

いうように、大事な物を、奪い去らないように。今この時を、壊さないように……























※ 偽者は全くのオリジナルではありません。