「……ってことらしいんだけど、恭ちゃんが晶を助けたの?」



 昼休みの屋上――兄兼師匠の指令により翠屋の桃子に電話をかけてまで確認した妹分の

実態を説明すると、彼は黙って首を横に振った。



 晶を助けた恭也。目の前の兄の言葉を信じるなら、晶の見間違いということになる。毎

日顔をあわせているはずの彼女が間違えるのだから相当に似ているのだろうが、この海鳴

の街にそこまで恭也に似ている人物がいるなどと、美由希だって聞いたことはないし、桃

子だって知らないだろう。



「晶には話は聞けないのか?」

「大事を取って今日は病院らしいよ。今も寝てるだろうって話だけど」



 そう言えば、途中寄った海中一年の教室には、小さい方の妹分はいなかった。大方、午

前の授業が終わると同時にすっ飛んでいったのだろう。



昼時の屋上には人もまばら……冬ならこんな状況も当たり前であるが、人に聞かせる話

をしている訳でもないので、寒さを除けばこういう時にはうってつけだ。



「恭ちゃんも気になるなら学校サボっちゃったら?」

「そんな訳にはいかない。無事なのだったら帰りにでも寄れば済むことだ」

「だって恭ちゃん、あまりお弁当食べてないでしょ? 食べものが喉を通らないくらい心

配なんだったら――」

「あわよくばお前まで授業をサボろうという魂胆だろう。己の不正のために卒業間近の兄

を巻き込むんじゃない」



 核心を見抜かれた美由希は、舌を出してそっぽを向く。その視界の隅で恭也はため息を

つき、のろのろと箸を動かし始めた。それに倣って黙々と箸をすすめていると、階段を上

る足音。こんな場所に他に来る人間がいると思っていなかった二人は、怪訝な思いでドア

を見つめる。



 しばらくして――



「やっほ。恭也、美由希、いる?」



 入ってきたのは見知った顔だった。ほっと息を吐く美由希の隣りで、ペットボトルの緑

茶を空にしたばかりの恭也が、忍に目を向ける。



「ん? 赤星君に聞いたら多分ここだろうって」



 目を向けられただけなのに忍はその意図を察したのか、淀みのない答えを返した。表情

の乏しさは折り紙付きなのに、この女性(ひと)はどうしてここまで以心伝心するのか…

…高町年長組の間では一時期かなり興味を集めた話題であったが、今のところその原因は

分かっていない。



 もっとも、『何かあった』ことは確信を持っているらしく、彼女らが恭也達を見る目はど

うにも生暖かい気がしてならないが……



「こんなところにまで来たってことは、何か用事があるのか?」

「そうそう。恭也にお礼言おうと思ってさ。昨日助けてくれたでしょ?」

『……昨日?』



 身に全く覚えのない高町の兄妹は、揃って首を傾げる。そんな反応をされると思ってい

なかったのか、聞いた側であるはずの忍の方がより怪訝な顔を見せるが、どんな顔をされ

たところで、知らないものは知らない。



「忍、すまないが何があったのか話が見えない。その、昨日会ったことを最初から説明し

てくれまいか?」

「いや、だからね――」



























 その日、忍は特に暇を持て余していた。月村の屋敷にいても家庭用のゲームは一通りや

りつくしてしまったから、愛猫『ねこ』と共に昼寝をするくらいしか、することがなかっ

たのだ。



 暇潰しくらいにはなるかと、ノエルに車を出させて向かったゲーセンでは、文句なしの

三十連勝。決して相手のレベルが低かった訳ではないが、ゲーマーである忍にとっては役

不足でしかなかった。



 その後は大した挑戦者もなくさっさと全クリをし、忍は消化不良を感じたままゲーセン

を出た。やはり屋敷に戻ってねこと戯れようかと思い携帯を取り出したところで、忍はい

かにもな男数人に囲まれた。



 曰く、最後のゲームは『はめ』だった、だから落とし前のために付き合え。忍の都合を

まったく無視した物言いだったが、この日初めて、忍は心の底から色めきたった。



 見たところ、男どもはただの不良のようである。恭也や勇吾のような独特の雰囲気など

微塵も持ち合わせていないから、忍にとっては絶好のカモだった。向こうは女と思って油

断しているが、こちとら夜の一族である。力を全開にすれば言うに及ばず、このくらいの

雑魚が相手だったら、素の状態でも楽に半殺しくらいにはできる。



 暇つぶし、暇つぶし、と心の中で小躍りしながら、男どもに促されるまま、忍は歩いた。

段々と一目のない路地に入って行き、行き着いたのは閑散とした行き止まり。



 先頭を歩いていた忍を、男どもが包囲する。何を考えているかは知らないが、彼らの顔

に例外なく浮かんでいる下卑た笑みを見れば、少なくてもロクでもないことである、くら

いの確信が持てる。



 この時点で、忍の中で男どもは滅殺が決定していた。少しばかりの社会正義と多分な自

己満足のため、思う存分力を振るおうとしたその時 ―― 一番離れた場所にいた男が、ま

るで自分の全力にでも殴られたかのような勢いで、吹っ飛んだ。



 何が起こったのか理解する間もあらばこそ、忍の視力を持ってしても黒い風としか捕ら

えようのなかった何かが、男どもを一瞬で地に伏せさせたのだ。男どもはうめき声すら上

げていない。完全に気を失っているそれらを呆然と見下ろしていると、忍は自分に向けら

れている視線に気がついた。一瞬だけの視線の交錯……それだけで、その人物は何もかも

に興味を失ったのか、何も言わずにその場を去っていった。



後に痴態を晒す男どもと、何がなんだか理解のできていない忍を残して……















「……ってことがあったの。顔を見たのは少しだけど、それでも恭也だって思ったから、

お礼言いにきたんだけど……」



 違うの? と首を傾げる忍に、恭也は渋面を作って首を横に振った。



「じゃあ、人違い。その割には似すぎてた気もするけど」

「恭ちゃんのそっくりさん……晶を助けたのも恭ちゃんだって話だし、最初は私も晶の見

間違いだって思ったけど、忍さんまで見たなら、本当にいるみたいね、ニセ恭ちゃん」

「安っぽくて仕方がない。その表現はやめろ」

「でも気になるでしょ? 自分の偽者だもん。忍ちゃんは興味あるな、『ニセ恭ちゃん』に」



 今回は全くの部外者である忍は、暢気に笑う。



 恭也とて、放っておくつもりだった。だが、こうまで知り合いに目撃されては一々言い

訳するのも面倒くさいし、実を言えば不気味でしょうがない。



「放課後、少し街をふらついてみる」

「ニセ恭ちゃん狩り?」

「簡単に言えばそういうことだ。それで見つかるとも思えんが、何もしないよりは遥かに

マシだろう。晶に会った後に行くつもりだが、帰りは少し遅くなるかもしれん。か〜さん

やフィアッセにはそのように伝えておいてくれ」

「自分で言えばいいのに……」

「こんな馬鹿らしいこと、俺から言えるか」



 頼んだぞ、と念を押して、弁当を平らげた恭也はすたすたと屋上を出て行った。話を聞

きながらでも弁当だけはしっかりと食べていたらしい。忍の話に聞き入っていて全く箸の

進んでいなかった美由希の弁当は、蓋を開けた時からほとんどその姿を変えていない。



「私も探してみようかな、恭也の偽者」

「忍さんもですか?」

「てことは、美由希ちゃんもそのつもりなんだ」

「はい。帰りに那美さんも誘って行こうかと思ってるんですけど」

「那美も一緒なんだ……美由希ちゃんなら心配ないと思うけど、一応、気をつけといた方

がいいと思うよ」

「どうしてですか?」

「警告……になるのかな? 私はまだ恭也と付き合い短いから違うけど、美由希ちゃんは

恭也って要素が入るだけで、何だか安心しちゃいそうだからね」

「そうだった……んですか?」

「そうなの。純粋一途は魅力だと思うけど、それでも一度距離を持って見てみるってこと

を思えた方がいいと思うな、私は」

「何だか、難しい話ですね」

「でも、素敵な話だよ。それでも信用できるなら、相手のこともっと好きになれるでしょ?」



 美由希の隣りに腰かけ、無邪気に微笑む忍。手にした弁当は、ノエルの手製らしかった。





















「いませんね……恭也さんの偽者」

「そうですね」



 放課後、肩を並べて歩く少女が二人。風芽丘の制服を着た少女が商店街を歩くのは珍し

くはないが、この時間、どちらかと言えばがらの悪い連中の集まるこの辺に彼女達のよう

なタイプがいるのは稀であった。ゲーセン通いの連中が奇異の目を向けるも、美由希は剣

士たる自信から、那美は一般人には計り知れない修羅場を潜ってきた経験から、その程度

の視線にはびくともしない。



「もう少しこの辺りを探しますか?」

「そうしましょう。久遠でも連れてきた方が良かったんでしょうか?」

「久遠なら、お菓子のにおいにつられて人探しどころじゃないかも……」

「言えてます」



 甘い香りにつられてふらふらする久遠の姿でも想像したのか、那美は静かに笑った。あ

わせて美由希も微笑むが、心中では逆に今日の捜査が空振りに終わることを悟ってため息

をつく。



美由希は元々、恭也の偽者が簡単に見つかるとは思っていなかった。美由希の知りうる

限りでは、実母の美沙斗に次ぐ実力を持つ恭也の偽者である。何の武芸も嗜んでいない忍

ならいざ知らず、あの晶に勘違いをさせるほどの人間なのだ。久遠の鼻と勘を信用してい

ない訳ではないが、その程度で発見されるのなら、恭也の偽者など務まるはずもない。





 晶が目撃したのは明け方の住宅街。忍が目撃したのが休日の夕方、それもがらの悪い連

中に呼び出された裏路地だ。共通点は、どちらも人気のない場所。偽者とは言え、何とも

恭也の好みそうな雰囲気である。



 だからこそ、そんな危険度の高い場所を那美を連れて歩く訳にもいかない。当の偽者を

発見する確率はぐっと低くはなるが、駄目元なのだからそれもいたしかたない。手掛かり

が見つかれば御の字。美由希はそんな気持ちで歩いていたのだが――



「……美由希さん?」



 一時間も歩いた頃、変化が訪れた。問いかける那美の言葉を手で制して、美由希は神経

を集中する。雑踏に紛れた中、ともすれば見逃してしまいそうなほどの薄い気配。明らか

にこちらに何かを促している、熟練者の存在を美由希は感じ取っていた。



 そして、その気配は自分達につかず離れずの距離を保ち続けている。ずっと尾行されて

いたのか、たったいま気付かれたのか、それすらも確信はもてない。それでも唯一言える

のは、後ろの人間は美沙斗や恭也に匹敵するレベルの使い手であるということだ。



「次の角を左に曲がってください……」

「……いたんですか? 恭也さんの偽者」



 ただの女学生から退魔師の顔になり、那美が問いかけてくる。



「分かりませんけど、後ろの方に誰かいます。大丈夫だと思いますけど、もし危なくなっ

たら……」

「邪魔にならないように隠れてますね」



 頷きあって、二人は角を曲がった。そのまま足を速めて、さらにその次の角を曲がる。

その際に那美は先行して隠れ、美由希は道の真ん中で振り返り、姿の見えない相手を待つ。



 おそらく相手は、こちらの誘いに乗ってくれるだろう。罠でも用意できればよかったの

だが、生憎と学校帰りにそんな便利な物は持ち合わせていない。



 装備は懐に隠し持った小刀が一本。相手の意向も戦力も計り知れないのだから状況は圧

倒的に不利で、こちらから戦いを仕掛けるなど愚の骨頂としか言いようがない。



 だが恭也なら、美沙斗なら、勝てそうもない勝負だからと言って、ここで退いたりする

だろうか? 考えなくても答えは、否だ。那美を連れて退いたところで逃げ切れる確証も

ない。目的が分からない以上、不用意に相手を連れて回るのはかえって危険。なら――



(どういう形にしろ、ここで一つのケリをつけなきゃ……)



 美沙斗の追う『龍』、かつての汚名……御神・不破の名には相変わらず敵が多くて仕方が

ない。



小刀を手に取り、どんな些細な情報も漏らさない覚悟で全神経を集中する。だが、一分、

二分が過ぎても、例の気配が追ってくる様子はなかった。



「……諦めちゃったのかな?」



 戦わずに済むなら、それにこしたことはない。張り詰めていた神経を緩め、美由希は角

を覗き込み――



「我慢が足らんよ、お嬢さん」



 『頭上』から、その声を聞いた。



「はぁっ!!」



 自分の愚かさを心中で呪いながら、小刀を投擲。交錯するように飛んできた物を鞄で受

け、全速で飛びのいて振って湧いた相手との距離を取り、その姿を目におさめる。



「いい勘、それにいい動きだ。それでまだ学生ってんだから、全く恐れ入る」



 黒い髪に黒い瞳、全身を包む服は全て黒一色。その統一のせいか、普通であるはずの肌

の色は、やけに白く見えた。



 道を歩けば誰も足を止めるほどの整った顔立ち……だが、視界に捉えてもその存在を疑

いたくなるような気配の薄さが、まるで兄の生き写しである相手に底の知れない不気味さ

を感じさせる。



 鞄に刺さったナイフ――相手の投げた物だ――を抜き、構える。慣れない武器、不利な

状況……事態を好転させてくれそうな要素は何一つない。勝てないかもしれない、最悪こ

こで死ぬかもしれない。それでも、逃げる訳にはいかない。そんなものは、理由にならな

い。



「……殺気も十分だよ。並の使い手だったら、それでもう尻込みするだろうさ。油断もし

てない覚悟もある……本当なら満点をあげたいところだが――」



 軽い音と共に、体勢が崩れる。予備動作なしに振り上げた足でナイフを払った相手は、

足を引き戻した勢い殺さぬまま踏み込み、こちらの首筋に右手を当てた。



「――実戦不足は否めない。マイナス三十点」



 目だけを動かすと、相手の右手には最初と同じナイフが出現していた。ナイフは皮膚に

触れる寸前で止まっている。今はかすり傷一つついていないが、急所の上でこいつをもう

一押しされればどうなるか、嫌でも分かる。



「貴方は……誰ですか?」



 それは、美由希にすればごく自然な問いかけであった。突然、自分達の周りに現れた謎

の人物。しかも、その顔立ちは美由希の目から見ても限りなく恭也に似ていた。殺される

かもしれない状況でも、疑問に思うのはそれほど不思議ではない。



「…………は?」



 だが、相手の方はその質問がよほど意外だったのか、眉根を寄せた首を傾げていた。何

を言っているか分からない、そんな風に考えているのが手に取るように分かる。ついでに

油断でもしてくれればいいのだが、ナイフを突きつける手だけは、最初の位置から一ミリ

も動いていなかった。



「あたしのことを何も知らないのか? あの馬鹿とお前さんには話しを通しておくように

美沙斗には頼んどいたはずだんだが……」

「母さんを知ってるんですか?」

「いや、知ってるも何も――」

「美由希!!」



 その一瞬で色々なことが起きた。その声が聞こえると同時に美由希は神速を発動。大き

く後ろに飛びのき、ナイフの間合いの外に逃げる。追撃することもできた偽者はそれをせ

ず、出した時と同じように手品じみた仕草でナイフをどこかにしまうと、実に楽しげに声

のした方へ振り返った。



「本命の登場か。おいしいところを掻っ攫うって資質は、やっぱり遺伝かね」

「戯言を聞くつもりは毛頭ない。うちの弟子に武器を突きつけたんだ、無事に済むと思う

なよ」



 今度こそ本物である恭也は、触れれば切れてしまいそうなほどの殺気を放っていた。一

度家まで帰ったのか、深夜の鍛錬の時と同じ完全武装である。それに対する偽者はいくつ

かナイフくらいは仕込んでいるだろうが、万全とは言い難い。対してこちらは二人……致

命的なことにはならないまでも、ニセ恭也の勝ち目は薄い。



 だが、その偽者は構えを取ることもせず、コートのポケットに手を突っ込んだまま、殺

気だった恭也を値踏みするように、眺めた。



「なるほど……ちゃんと鍛錬してるんだな。膝を壊したって聞いていたが、自棄にはなっ

てない。故障者なりに伸びる可能性は十分にありってところか……」

「聞いておこう。貴方は何者だ?」

「……まあ、そっちのお嬢さんが気付いてなかった時点で予想はしてたがな。美沙斗の奴

は何やってんだ……」

「美沙斗さんのことを知っていることも含めて、だ。俺達家族の損失になるようだったら

――」

「ああ、安心しろ。それはない。そっちのお嬢さんに手を出したのも、ちょっとした興味

からだしな」



 その興味だけで投げナイフをした美由希をちらりと横目で見て、ニセ恭也は自分の背中

に手をやった。よっという小さな声を共に、背中に広がる長い黒髪。それに伴い、今まで

感じることすら困難だったニセ恭也の存在感が、ぐんと増した。



 無表情の代表のような恭也には一生かかっても出来そうにない、皮肉気な笑み。ふてぶ

てしいまでの存在感は、目撃した人間に嫌でも印象を刻み付けることだろう。日頃から美

人を見慣れている美由希の目から見ても、ニセ恭也は美形の部類に入った。



「さて、今回はこれでお暇しよう。今日明日はこの街にいるから、どうしても会いたけれ

ば、恭也、あたしとお前の唯一の共通点が眠る場所まで来い。日付が変わるくらいに、一

人でな」

「待て――」

「待たんよ」



 小憎らしい声と共に発生した閃光が、美由希達の視界を焼いた。どんな隠し玉を用いた

のか……閃光が消え、視力が元に戻る頃には、ニセ恭也の姿は消えうせていた。



「…………美由希、無事か?」

「私は大丈夫だよ。ちょっと鞄に穴が開いちゃったけど」

「問題ない。鞄は傷を付けられても文句を言わんし、代わりはある」

「美由希さ〜ん!! だいじょうぶですか!?」



 戦闘が終わったのを感じ取ったのか、路地の奥に隠れていた那美が姿を現す。慌てて駆

け寄ってくる彼女の姿を見て、恭也は酷く胡乱な目をこちらに向けてくる。



「お前は、那美さんまで連れてきていたのか?」

「いや……あの……」

「恭也さんも、怪我してませんか?」

「いえ、大事はありません。俺が来てほとんどすぐに相手は逃げてしまいましたから」

「それなら良かった……じゃあ、すぐに逃げましょう。今の光、かなり目立ったみたいで

すから」

「それなら申し訳ないのですが、うちの馬鹿弟子をお願いできないでしょうか?」

「馬鹿弟子はひどいよ……」

「お願いはされますけど、恭也さんはどうするんですか?」

「さっきの相手に少しばかり心当たりがありまして……それを当たってみようかと思いま

す」

「恭ちゃん、さっきの女の人知ってるの?」

「知ってる……いや、知らないでもないと言ったところか」

「もしかして、御神に関係があったりする?」

「あるのかもしれないが、少なくとも高町美由希には何の関係もないはずだ。あるのはき

っと、俺とあの人の言っていた共通点だけだろうな……」

「共通点って……」

「お前は別に知らなくてもいいことだ。とにかく、俺は急用ができたので今日は帰らない

かもしれない。今晩の鍛錬は中止だから、そのつもりでいてくれ」



 あくまで一方的に言い切って、恭也は踵を返す。弟子としては、敬愛する師が得体の知

れない状況に向かっていくのは、何としても止めるべきなのだろう。先ほどの女性はいか

に恭也と言えども、簡単に勝てる相手ではないはずだ。まだまだ恭也には及ばないが、自

分とて御神の剣士の端くれ、少なくとも無様に足手まといになったりはしない。



「恭ちゃ――」

「やめておきましょう、美由希さん」



 追いすがろうとした美由希の肩を、那美が掴む。恭也のことを憎からず思っている那美

のことだ。恭也のことを考えたら、喜んで送り出しはしないまでも、反対はしないはずで

ある。それなのに、こちらに伸ばした彼女の手には確固たる意思が感じられた。



「覚悟を決める時って、誰にでもあると思うんです。多分恭也さんは、今がその時なんじ

ゃないでしょうか……」

「恭ちゃんにとって、私達よりもさっきの人の方が大事なんですか?」

「今の恭也さんにとっては、そうなのかもしれません……」

「納得できないですよ、そんなの」

「それでも、納得しなきゃいけないんです」

「分かってます……分かってますけど……」



 心配な物は心配だ。美由希の短い人生の中で、士郎を除けば恭也はただ一人の近しい男

性である。兄であり、師匠であり、父親の代わりでもある彼は、最も大切な存在であると

言っても過言ではない。



 恭也を立てるか、我を通すか……ここでの選択肢はそれしかない。どちらを選べばいい

か、それはもう分かっている。高町の誰に聞いても、最終的には皆、きっと同じ答えを出

すはずだ。



「那美さん、今日はそちらにお邪魔してもいいですか?」

「私は構いませんけど……いいんですか? 家に帰らなくても」

「今晩の鍛錬はないですから。それに、何だかお友達と夜明かししたい気分なんです」



 誰にでもいいから、今は我侭を言いたい気分だった。那美は、しばらく美由希を眺めた

後、目を細めて微笑った。



「……じゃあ、今晩は二人でお話でもしましょうか」

「はい」



 学校のこと、家族のこと、友達のこと……さざなみ寮へと行く道すがら、二人の少女は

学生らしく色々なことを話した。だが、その中に高町恭也の名は、一度として上げられる

ことはなかった。