この場所に来るまでに自分がどんな道を通ってきたのか、恭也は記憶していなかった。

子供の頃から、思い出したように足を運んでいた場所だ。海鳴市を無意識に流離ったとこ

ろで、ここまで辿りつくくらいの自信はあったが、今日のこの感覚は、そんなものではな

いように思えた。



 何を考えているでもない。今の恭也は、空だった。空にされた、と言った方がいいのか

もしれない。昼間に会ったあの女に、高町恭也は、空っぽにされたのだ。



(我が事ながら、なんて押し付けがましい……)



 ため息をついて、そんな思考を追い払うかのように、頭を振る。何が原因であったのだ

としても、そうなる道を選択したのは自分だ。他のものに責を押し付けるなど、惰弱以外

の何物でもない。



 あの女に突きつけられたのは、自分の弱さだ。高町恭也という人間は、あらゆる意味で

あの女よりも弱い。剣士としての技術も、存在としての力も。



 だから、求めに来た。あの女が今まで何を見て、どんな道を歩んできたのか。何を知っ

ていて、何をすることができるのか……




 少なくとも、知るくらいの権利はあると思う。あの女は――



「いい晩だな、恭也」

 
 自分との唯一の共通点――父である士郎の墓前に、 あの女はいた。こちらには背を

向けたままの何気ない呟きにも、隠し切れない皮肉げな雰囲気が漂っている。


「俺はそうは思わない。今日は、月が出ていない」

「月の光は、姿を映し出す。古来からあたし達のような人種は、月明りを避けたものだ。

今でも言うらしいな。月の出ていない夜には、気をつけろって」

「……他人がどうか知らないが、少なくとも俺は言わないし、言っているところを聞いた

こともない」

「だろうな。常からそんなこと言ってるのは、ただの馬鹿だ」




 火のついた煙草を加えたまま、女は器用に喉の奥で笑いながら振り返る。腰まで届くよ

うな長い髪も、その身を余すところなく覆っている服もコートも、その全てが黒一色であ

ったが、同じく黒いはずのその瞳だけは、夜の闇の中でもその存在を主張していた。




「とりあえず、自己紹介でもしようかね」

「その必要はない……」





 間髪を入れずに答えるが、それがあまりに予想通りだったのか、女は笑う。何も笑うこ

とはないと憮然とする恭也に、女は悪びれなく答えた。




「あたしが言うのもなんだが、元気そうで何よりだよ、恭也」

「一応、はじめましてと言っておく。それで、俺は貴女を何と呼べばいい?」

「何とでも。お前の好きなように呼んだらいい」



 願ってもない答えだ。この晩、恭也は初めてその顔に笑みを浮かべた。そして、生前の

悪乗りした時の父のように、あらん限りの皮肉を込めて口を開く。



「はじめまして、母さん。昼間の落し前をつけにきた。決着をつけよう」












破らざる者 最終話













 不破夏織。旧姓は知らない。素性も知らない。ただ、彼女が自分を生み、そして父と番

であったことは間違いがない。つまり、彼女は自分の母である。


 だが、彼女について知っているのはそれだけだ。それ以外は何も――どうして父と自分

を捨てたのかも、恭也は何も知らなかった。





「落し前ってのは、何だ。あたしは昼間の嬢ちゃん達を傷物にした覚えはないし、するつ

もりもなかったぞ?」



 墓地から移動した森の中、僅かに開けた場所――恭也からすれば、いつもの修練の場の

一つでもある――に向かい合って、立つ。



 黒コートの、高町恭也という人間と瓜二つである実母、夏織はしかめっ面で抗議の声を

上げるが、



「したこと、そのものが問題だ。気持ちがどうこういうのは、この際関係がない」


 息子はその言に取り合わず、にべもない。



「街中で弟子が、見ず知らずの人間に襲われたとあっては、師として見過ごす訳にもいか

ないだろう?」

「あたしにゃあ、適当な理由をつけて、子供が駄々をこねてるようにしか見えないんだが

ね……」

「そうなのだろうな……」





 左の腰に釣られた、八景。その柄に手をかけて、瞳を閉じる。



 思い返すのは、父の姿である。あの男は、何を思ってこの女と番になり、自分を生み、

そして別れたのか。



「俺は、自分で思っていたよりもずっと子供だったらしい。割り切っていたつもりだった

が、いざ目の前に自分を捨てた母親が現れてみれば、この様。ましてその母が、自分と同

じ顔をしているとなれば、こうしない訳にもいくまい」

「あたしに似たんだ。今までの人生、引く手数多だっただろ?」

「残念ながら、そんな話は一度もなかった。多分、貴女に似たせいだろう」

「己を知らず……士郎の奴は傲岸不遜を絵に描いたような奴だったが、お前はほんと、誰

に似たのかねぇ……」

「なあさ。不肖の息子としては、貴女に似たのではないことを、祈るばかりだ」





 もはや、言葉は不用と、恭也は殺気を放ち、それを研ぎ澄ませる。



 不穏を感じ取った森々に住む小さな生き物達が慌てて逃げ出し、静かな森の中にひと時

の騒々しさが生まれる。



 それを直接向けられた夏織は――動じない。得物であるはずの日本刀をだらりと下げた

左手に持ったまま、戦う気概に溢れた恭也を見据え、ため息。





「こう見えてもな、面倒くさいことは嫌いなんだ。わざわざ斬り合うなんて時間の無駄、

やめにしないか?」





 恭也は、無言。その瞳に宿った、戦うという意思は微塵も揺らぎはしなかった。



「……分かったよ。付き合ってやる。ただし、やるならとことんまで、だ。実母を敬うこ

とを知らん馬鹿息子に、一つ、あたしの偉大さってもんを教育してやる」









 そうして夏織は無造作にその一歩を踏み出し――忽然と、姿を消した。

























(消えた! 空間転移、いや、高速移動……神速か!?)





 本能的な、思考とも呼べぬ瞬時の判断を経て、恭也は鍛えた勘を頼りに、前方へと跳ん

だ。一瞬だけ送れて、先程まで恭也の胴体があった場所を、鋭い風が通り過ぎて行く。





 夏織がどんな攻撃をしてきたのか知らないが、とりあえず、やり過ごした。そう思った

瞬間だった。



「よう、久しぶりだな」



 目の前に、その夏織が現れた。



 日本刀は鞘に納めたまま、にやり、と笑うその姿は悪戯を楽しむ小悪魔のようで――





「居合の極意は刀を抜かずに克つにあり……ってな」





 腹に、重い衝撃。



 柄頭での一撃を喰らい、しかし無様に地面を転がることだけは避けた恭也だが、さすが

に受け流しきれずに、数歩蹈鞴を踏んだ。体勢は崩れた。これが戦いであるなら、完全な

好機であるはずなのだが、夏織は追撃をかけずに彼我の距離を元に戻すと、



「まあ、なんだ。美沙斗から話には聞いてたが、そんなもんだよな」



 苦笑しつつ恭也を、出来の悪い良い生徒を見る教師のような目で、夏織は眺める。



「教える奴がいなかったにしては、正直、お前の腕前は奇跡だな。しかしそれだけに残念

でならないよ。あたしとあれの息子なだけに、才能は有り余ってるのに、その程度なのが」

「その程度……だと?」

「ああ、あたしからすれば、お前なんてのはその程度だよ。戦い方そのものは、大分士郎

に似せてはいるが、腕前は比べるなんてのも馬鹿らしいくらいに差がある上に、膝には爆

弾を抱えてると来た。人事ながら、踏んだり蹴ったりだな」



 酷い言われようだが、不思議と腹は立たなかった。



「ああ、別にお前の人生を否定してる訳じゃないぞ? さっきも行ったが、お前の腕前は

奇跡のようなもんだ。教える人間もいない中で、よほど努力したんだろうってことは分か

るさ」

「簡単にあしらわれた人間にそう言われても、嬉しくも何ともない」

「人の賛辞は素直に受け取っておけよ。自分が剣士としては出来損ないだってのは、お前

も解かってることだろう? 自分のことを理解できないようじゃ、外に出ても死ぬだけだ。

その点、お前は十分に合格点に達してる。技術も、警防隊の連中と比較したって、十分上

位に食い込むことができるレベルだと思う」





 言葉だけを聞けば慰めてくれているようにも思えるが、夏織は単に事実を口にしている

だけに過ぎない。昨日の天気は晴れだった、と言っているのと、大差がないのだ。戦場に

出れば死ぬだろう、この連中と比べた場合の力量はこの程度だろう、というのは、ある程

度の実力を持ったものならば、当たり前のように備わっているはずのものだ。





「俺は、貴女に勝てない?」

「百回やっても、百回あたしが勝つ。基礎的なものはお前の方が強いかもしれないが、そ

れ以外を見れば、お前があたしに勝てる要素は何一つない。言っておくが……」





 そこで夏織は初めて、構えらしい構えを見せた。両足を肩幅に広げて、右手を日本刀の



に添える。





「あたしは士郎と戦ったって、一度も負けはしなかったぞ?」





 一瞬。今度は、反応する間も与えられなかった。

 油断はしていなかった。眼を離してもいなかった。それなのに、その言葉と恭也が共に

聞いたのは、夏織が日本刀を『鞘に納める音』だった。





「どうだ? 母の偉大さを、少しは理解したか?」



 ぐらり、と体が傾く。斬られたと認識したのは、それからだった。



 血はどれくらい流れているのか、致命傷なのか、その程度のことも分からない。ただ、

意識が急速に遠退いていく中、相変わらず皮肉な笑いを浮かべている母の姿が目に入った。

































ep,




「あれを育ててくれたこと、感謝します……と、言えた義理もないのでしょうが、言わせ

てください」










 深夜。高町家の居間。気を失った長男を担いできた、その長男にそっくりな女性に高町

家の主、高町桃子は面食らったものだが、その恭也が傷を負った様子もなく、本当に気を

失っているだけであったこと。そして、その女性が誰であるのか、何となく察しの付いた

彼女は、深夜の無遠慮な来訪にも嫌な顔一つすることもなく、彼女を居間へと招き入れる

と――その間、無事と分かった長男は適当に部屋に転がされる運びとなった――自慢の紅

茶を振舞った。





 その紅茶に軽く口を付け、しばらく無言の時間を過ごした後、夏織は頭を下げた。



 そこには、恭也を相手にしていた時のような皮肉げな態度はどこにもない。自分のした

こと、そして自分の立場を理解した、ある種の達観した空気がそこにはあった。





「私はあれを捨てました。士郎のことも捨てました。貴女の前に、恭也の前に現れる資格

は、ないことは分かっているつもりでした。しかし……久しぶりに会った美沙斗の話を聞

いて、居ても経ってもいられなくなりました。私が捨てた……息子が、成長したとあれは

言っていました。その成長を、見てみたいと思いました」

「恭也の成長は、どうでしたか?」

「……正直、私どもの基準からすれば、大したことはありませんでした。喧嘩を売られた

ので叩きのめしてやりましたが、その程度です。ですが、すごく、努力しているのは分か

りました。剣士としては、今の恭也の状況は目を覆うばかりですが……」





 夏織は顔を上げ、桃子の瞳を真っ直ぐに見据えた。





「あれを生んだ人間としては、正直に言って、嬉しかったです。あれがどんな道を歩んで

きたのか知りません。ですが、あれは真っ直ぐに育ってくれました。今の自分の状況に満

足することなく、前に進むことができるような、強い人間になってくれました。それはき

っと、貴女のような方が母親になってくれたからなのでしょう」

「私は、何もしていませんよ。あの子が強くなったというなら、それがきっと、あの子の

才能だったんですよ」





 そしてそれは、夏織のおかげでもある、と桃子は言外にそう言っているのだ。度量の大

きい女性だ、と思う。甘い物に眼がなかったあの男のことだ。切欠は自分が想像している

よりもずっと些細なことなのだろうが、あの男が最終的にこの女性を選んだことは、夏織

にも得心がいった。



 自分とは全くタイプの違う女性であるが……桃子はあの男の好みそうな、強い女性だっ

た。同じくらいに出会って、あの男の取り合いでも演じてみれば、さぞかし面白いことに

なっただろう。狼狽するあの男の姿が、手に見て取れるようだ。




「そろそろ、お暇させていただきます」

「何もお構いできませんで」





 桃子は引き止めるということはしなかった。こちらの意を汲んでくれているのだろう。

本当に、できた女性だ。





「一つ、聞いてもいいですか?」


 ずっと受け手になっていた桃子が自分から口を開いたのは、その晩、それが初めてだっ

た。立ち上がり、戸にてをかけていた夏織は、内心で意外に思いながらもそれは顔に出さ

ず、振り返り、



「どうぞ。あたしに答えられることだったら、何なりと」

「恭也の名前は、貴女が付けたと聞きました。どうして、恭也という名前をつけようと思

ったんですか?」





 思わず、苦笑する。なるほど、あの男が連添いに選んだ女性だ。痛い処を突いてくる。

 

 恭也の名前の由来は、実を言えば夏織だけしか知らない。あの男は閃きとか、そんな風

に思っていたのだろうが、その名を選らんだことにはちゃんとした理由があった。





「私の刀は、私が駆け出しの頃に手に入れた無銘のものなんですが、それでも良い出来の

ものなんですよ。ですが、無銘なだけに名前がない。若かった私は、それが我慢ならなく

てですね……」





 夏織は、恥ずかしそうに頬を掻いた。





「それで恥ずかしい話なんですが、職人に無理を言って名前を彫らせました。その名前が

響夜と申しましてですね……字面は違いますが、まあ、自分がいつも持ち歩いているもの

ですから、あれの名前にしても……面白いんじゃないかと……」



 桃子はおかしそうに、くすり、と笑った。



「素敵な由来じゃあないですか」

「恐れ入ります」





 この女性には勝てそうにはないな、と思いながら、夏織は一度、深く頭を下げて、高町

の家を後にした。














 




















「結局、偽恭ちゃん事件はどうなったの?」

「……聞くな」



 放課後、クラスメートも帰ったがらんとした教室の中で、夕日に赤く染まった校庭を見

ながら黄昏ている恭也の返答は、そもそも答えるつもりがないのか、殊更ににべもない。





 これは、常に面白いことに飢えているタイプの忍からすれば、面白くない。何とかして

恭也から聞き出そうと、物で釣って見たり、色仕掛けをしてみたり、色々と手はつくして

みたのだが、恭也から返ってくる答えは、聞くな、の一点張りだった。





「答えてくれないなら、美由希ちゃんにでも聞いちゃうから」

「勝手にすればいい。だが、あれは多分俺以上に今回のことを知らんだろうから、聞くだ

け無駄だと思うが」

「桃子さんにも聞いちゃうもんね」

「普段だったら口も軽かろうが、信じられないことに今回だけは口は堅いようだな。聞い

ても多分、はぐらかされるだけだ」

「……忍ちゃん、つまんない」

「かわいこぶっても無駄だからな。これは話さない。決めたことだ」

「どうしても……だめ?」



 忍の少々演技の入った上目遣いに、決めたと言ったばかりの恭也の心は、早速ぐらつい

た。だが、鉄の意志で持ち直すと、ため息をつき、どうせ聞かれるだろうと、兼ねてから

その対抗のために用意していた考えを口にする。





「駄目だ。だが、その代わりと言っては何だが、俺の叶えられる範囲だったら、何でもお

前の願いを聞き届けよう。それで、今回のことは忘れてはもらえないだろうか?」

「何でも? 本当に?」

「予め断っておくが、できる範囲でだからな。ついでに言えば、何でもというのはその相

手であるお前を信用しての言葉であるので、できることならそれなりに手を抜いてくると

ありがたい――」

「どうしようかな? 恭也は何でもきいてくれるって――」



 女装とか、バツゲームとか……忍の口からは不穏な単語ばかりが聞こえる。先の件に関

しては口を噤んでくれる桃子であるが、こういうことなら話は別だろう。自分の息子が女

装させられる、なんて愉快な催し物が開催されるとなったら、店を臨時休業にしてでも乗

ってくるに違いない。





 今からでも撤回できないものかと、ちら、と視線だけを動かして忍の顔を覗いてみるが、

彼女の精神は、もはやここには存在していないようだった。本当に嬉しそうである。





(慣れないことは、するもんじゃないな……)





 やれやれ、と心中でため息をつくと、マナーモードにしていた携帯電話が、震えた。ポ

ケットから取り出して見ると、メール着信あり、の文字。



 手早く操作にしてそのメールを見ると、そこには簡潔に、こう書かれていた。







『気が向いたら、また来る』







 あの女らしい、と恭也は苦笑した。


















「次に来たら、手ずから茶でも入れてやろうか」

「恭也、何かいった?」
「いや。忍は優しいから、俺のことを慮った企画を立ててくれるのだろう、と独り言を言

っていたところだ」

「優しいなんてそんな……忍ちゃんはただ、恭也に着せるなら、風高制服かゴスロリ、ど

っちがいいかなって」

「一度、信頼という言葉の意味について、話し合わなければならないようだな……」