目覚めたのは白い部屋だった。わずかに鼻につく薬品の香りと憎らしいまでの清潔さを
保ったここは、とても居心地が悪かった。

 この息苦しさはまるで監獄……起きていても眠っていても、藤乃は罪の意識に苛まれる。
これは、罰だ。許されざる罪を犯したこの身に与えられた、罰。





「――――やっと起きてくれたね」

 白ばかりのその部屋で、そこだけが唯一違う色を持っていた。黒――移ろい易い白とは
違い、個としての強さを内包した色。その色を着こなした存在が、ベッドの隣りで微笑んで
いる。 

「ああっと……一応、僕も関係者なんだ。君を叩きのめした女の子がいたろ? それが僕
の知り合いで……見舞いに来るようには言ったんだけど、興味ないみたいなこと言われて」
「それで……先輩が?」

 まるで子犬のようなその姿に、藤乃は口元を綻ばせた。話の上で、彼に藤乃に関する責
任は一切無い。それでも彼は、自分のせいでないことのために藤乃に頭を下げる。それも、
本当にすまなそうに。不謹慎かもしれないが、藤乃にはそれが嬉しかった。

「先輩?」
「いえ、何とお呼びしたらいいのか分からなかったものですから」
「ごめんね。僕の名前は黒桐幹也。黒桐鮮花って知ってるかな? それの兄なんだけど」
「鮮花は私の友人です。だから、『幹也』先輩のことは存じています。何でも、鮮花のお師
匠様の所に勤めてらっしゃるとか」

 時々寮を抜け出してまで通うそのお師匠様が一体何のお師匠様なのか藤乃は知らなかっ
たが、この無害そうな男性のいる場所だ。まさか剣道だの空手だの、お嬢様らしからぬお師
匠様ではあるまい。

 藤乃の言葉を聞き、幹也は笑みを浮かべた。

「まあ、そんなところ。式のやつ、むきになると手加減なんてしないだろうから」
「たしかに、手加減はしてくれませんでしたけど、私の方もそうでしたからおあいこです
よ」

  こちらは心身ともに散々打ちのめされたが、藤乃は藤乃で式の腕を凶げた。あのまま病
院に行けばどうにかなったかもしれないが、戦いの過程で彼女は腕そのものを切り落とし
ていた。入院をしているとは言え、五体満足の藤乃と比べれば、彼女の方が痛い目を見て
いるのは明らかだ。あの戦闘に関して言えば、むしろ彼女の方が被害者だったはずだが、
こちらを痛い目を見たのも事実。決して、謝ってなどはやらない。

「ごめんね……」

  幹也はもう一度謝る。いえ、と小さく答えて会話はそれきり途絶えた。藤乃からは何
も言わない。彼が自分を見舞いに来ただけでないことを、何となく知っていたから。幹也
は探し物が得意なのだと、鮮花から聞いている。きっと彼は、全てを探してきた上でここ
にいるのだろう。

「湊啓太……うちで保護しているよ。まだ、警察には引き渡していない」

 その名は、藤乃が血眼になって探していた男の名前だった。復讐という名のパズルの最
後の一ピース。それをはめ込むことで、それまでに戻れると信じていた。何もなかった。それ
でも――いや、それだからこそ幸福だった、あの頃に。

 だが、その幸福が幻想でしかないことを、藤乃は知ってしまった。教えてくれたのはあ
の少女。自分のしたことは復讐でも殺人でもない、ただの殺戮であると、式という名の少
女は藤乃に思い知らせた。

 もう、この手は汚れてしまっている。だから、戻ることはできないのだ。

「彼らが君にしたことは、許されることじゃない。状況を鑑みれば、あの場で啓太を除い
た四人が君に殺されたのは、必然だ。でも、幸か不幸か啓太は逃げおおせてしまったんだ。
今もうちで、何時来るともしれない君の影に怯えているよ。君の意思については、まだ知
らせていない。僕は、それを聞きにきたんだ」

 選択は君に委ねる、幹也の瞳はそう言っていた。それを受け入れれば、労することもな
く、あの男の首を捻じ切り、復讐を終えることができる。あの日以降、そのためだけに生き
てきたと言っても過言ではない。式に出会う前の藤乃なら、一も二も無くその言葉に飛
びついていただろう。だが――

「先輩は、どうしたらいいと思いますか?」
「……僕は君の意見を聞いたんだけどな」
「同じように、私は先輩の意見を聞いてみたいんです」

 まっすぐ、幹也の方を向く。それが戯言ではなく本気であることを解してくれたのか、幹
也はため息をついて、口を開いた。

「僕は、君に復讐なんてしてほしくないよ。人を殺すのは悪いことだ、なんて言うつもり
はないけど、それでも君の心の中には人を殺してしまった蟠りみたいなものが残ってしま
ったと思うんだ。今までしてきたことはもう取り返しがつかないけど、せめてこれからは、
そんな道を歩んでほしくはない」
「先輩は優しいんですね。他人である私に、そこまで言えるなんて」
「一般論を言ったつもりだよ、僕は。それに君は鮮花の友達だし、いつかの晩の時のこと
もある。他人っていうほど知らない仲ではないつもりだよ」

 押し付けがましくてごめんね、と幹也は嬉しそうに笑う。

「復讐、する?」
「やめておきます。それが、先輩のお勧めでもある訳ですから」
「ありがとう。おせっかいを焼いた甲斐があったよ」

 看護婦の置いていった花以外には何もない机の上に見舞いセットを置き、後ろ手にパタ
パタとて手を振りながら、幹也は踵を返した。

「湊啓太は適当に扱っておくよ。これで君は、あの事件とは何の関係もない。当面は、こ
れまでの生活を営むといい」
「…………私は、戻れますか?」

 答えの分かりきっている問を、あえて問いかけてみる。幹也は肩越しに振り返って、苦
笑して見せた。

「君しだいだよ。日常とそれ以外の境界は自分で引くもの。君がどう思うかで、世界はそ
の姿を変える……らしいよ。もう少し、自分の未来には希望を持ってみるといいんじゃな
いかな」

 その方が楽しいだろう? と言い残し、幹也は病室を出て行った。

 その背を見送った藤乃は、全身の力を抜きベッドに身体を投げ出した。結局、あの人は
自分の言いたいことだけを言って帰ってしまった。心の中に無遠慮に踏み込んでくる割に
不快感はない。むしろ藤乃の中にあるのは『見られた』ことに対する満足感。

 なるほど、確かに幹也は人間として魅力がある。あの女性が行動を共にし、あの鮮花が
惹かれているというのも頷ける。高校時代は、男女問わずさぞかし人気があったことだろ
う。ただし、女性に限って言えばその好意はおそらく潜在的なものだったはずだ。彼と同
じ時間を共有しているうちにその感情に気付いた女性が、果たして何人いたことだろうか。

 そして……幸か不幸か、藤乃は感情に限らず有形無形の存在するもの全ての『動き』に
敏感になっていた。早鐘のような鼓動は、自分の心臓。熱くなっているのは、自分の頬。
眩暈にも似た感覚は想像していたよりも苦しかったが、その苦しさは悪くなかった。

 枕に顔を押し付けて、目を閉じる。鼓動がおさまり、頬の熱も引いた頃には藤乃は小さ
な寝息を立てていた。

















「所長、聞いてもいいですか?」
「何だ、社員。金の無心以外なら大抵のことには答えてやるぞ」

 相変わらず愛想のない仕事場でいつもどおり黒一色に身を固めた幹也は、暢気に自分の
デスクで煙草を吸っている唯一の上司に胡乱な目を向ける。

「この書類の山はなんですか? 僕が出ていた間に溜まっていたにしては多すぎますよ」
「ああ、例の件を調べるためにうちの資料を漁っていたら、未整理のそいつらをごまんと
見つけてな。どうしたものかと思っていたんだが、ちょうどいい具合に仕事も片付いた上、
有能な社員も帰ってきたから、任せてやろうかと思った」
「要するに、橙子さんの尻拭いな訳ですね?」
「仮にも女性に対して尻とは、黒桐も存外に破廉恥なのだな」
「…………もういいです。何でも言っちゃってください」
「うん。勤労は青少年の義務だぞ」

 言って、橙子は煙草をぷかりと燻らせる。

「…………ってことは橙子、働いてないお前は青少年じゃないってことだな」

 それまで、部屋の隅の椅子に腰かけて目を閉じていた着物姿の少女が、ふいに口を開い
た。幹也が書類整理に追われているため何時にも増して暇な式は、欠伸を噛み殺しながら
さらに続ける。

「どうせすることもないんだろう? だったら仕事くらいしたらどうだ。魔術師とは言え、
何もしないとあっという間に老け込むぞ」
「二、三……と言うか、発言全てが聞き捨てならんかったな。式、私は仕事を放棄してい
るつもりも老け込んだつもりもないぞ?」
「じゃあ、そんなもの加えながらぼ〜っとしてるのは、仕事だって言うのか?」
「こいつをそんなもの呼ばわりするとは、お前も子供だな」

 短くなった煙草を灰皿に押し付け、橙子は最後の紫煙を式の方に向かって吐き出した。
迷惑そうな顔をして手を払う式に満足したのか、橙子は椅子に深く座り直し、足を組み直
す。

「社会に貢献する代わりに賃金を得る……一般にこのシステムを仕事を呼び、前者のみを
目的としたものをボランティアと呼ぶ。今、黒桐は仕事に勤しんでいる。その姿は個人的
には滑稽に見えなくもないが、社会に貢献しているその姿は実に美しい……はずだ。私に
はよく分からんが」
「悪かったですね、滑稽で」
「まあ、黙って聞け。生きるために必要なエネルギーを自らの内部で補完し、かつ求める
物が思索だけで補えるのならそれは結構なことだが、生憎と人間と言う生物はそこまで高
尚にできてはいない。生きるためには食物が必要で、何かを求めるためにはほぼ例外なく
先立つ物が必要となってくる。つまるところ、仕事をするという行為は生きるためには必
要な行動だ。本人が生きがいを感じるかというのはまた別の話だが……」
「じゃあ、生きるために僕の仕事を手伝ってくれませんか?」
「最後まで聞け……だが、仕事の形態というのは一つではない。黒桐のように働いて金を
稼ぐ人間もいれば、バットを振りスタンドにボールを飛ばすことで金を稼ぐ連中もいる。
私の場合、それは経営だ。この伽藍の堂という会社の経営こそが私の仕事にあたる」
「要するに、何がいいたいんだお前は……」
「私は社長で、黒桐は社員だということだよ。社長の仕事は社員を使うこと……私が黒桐
を働きバチにして何が悪い」
「…………ええ、何となくそういう結論に行き着くんじゃないかなとは思ってたんですけ
どね」

 話を聞きながらも動かしていた手を止め、幹也は大きくため息をついた。式は橙子の答
えを聞いたことで満足したのか、また目を閉じて瞑想を始める。書類の山を脇にどけ、お
茶でも入れようかと腰を上げたところで、幹也の目に時計が入った。

「そう言えば、今日は鮮花が来るんでしたっけ?」
「そうだ。ついでに言えば、今日の鮮花は仕事を持ってくるぞ。いや……むしろボランテ
ィアというべきか。何とも判別しかねるところだ」
「今度は何なんです? できれば、僕の手をあまり煩わせないものだと嬉しいですね。こ
れ以上仕事を溜めたくないですから」
「いや、非常に残念なことだが、これは伽藍の堂ではなく私個人に依頼されるものだ。黒
桐の領域にはないから、安心して今の仕事に励んでくれ」
「興味本位ですけど、その仕事って何ですか?」

 入れたお茶を橙子と式の前に置き、幹也は自分のデスクに戻る。建物の設計に人形造り、
果てはこの前のような依頼など、橙子の仕事内容は実に幅が広い。さすがにこの前のよう
な厄介ごとは稀らしいが、どんな仕事が来たところで必ず自分の所にしわ寄せは来るのだ
から、その仕事はなるべく早めに把握しておいた方がいい。

 ふむ、と橙子は視線を中空に彷徨わせ、

「一言で表すならお守りといったところか。まあ、面倒な仕事だよ」
「よくもまあ、そんな仕事を引き受けますね」
「依頼主には義理があってね、私個人は面倒くさい仕事は請けない主義なんだが、無碍に
断わりきれなかったんだ」

 たいして面白くもなさそうに橙子は息をつき、ポケットから煙草を取り出し――それを
握りつぶして、灰皿に放り投げた。

「どうやら、来たようだな」

 橙子は本当に面倒くさそうに椅子から腰をあげ、机に放り出してあった眼鏡をかけた。
すると、今までの気だるげな雰囲気が霧散し、代わりにその顔には微笑みすら浮かんだ。

 幹也が心の中で『おでかけ』モードと呼ぶ、何となく優しそうな上司の姿。やさぐれた
感じのする普段の印象の方が強いため、それほど見ていなかった訳でもないのに、何時見
ても久しぶりに感じてしまう。

「粗相のないようにね、黒桐君」
「じゃあ、取っておきのお茶を入れることにしますよ」

 そう言うと、幹也は自分のデスクからこの前遠出した時に見つけた秘蔵の紅茶を取り出
し、カップも来客用の値の張るものを用意した。紅茶の缶の蓋を開けると、殺風景なこの
場には似つかわしくない香りが広がる。ティーセットまで引っ張り出し、どうにも本格的
である。

奇跡的に存在していた来客用の茶菓子と共に、ティーセットをテーブルの上に置き、そ
の前のソファに橙子が座る。それらの準備が整ったところで――事務所のドアが開いた。

「失礼します」

 流れるような黒髪に、楚々とした服装。歩くというただそれだけの動作にも、彼女には
完成された光がある。お嬢学でならす礼園にあっても、ここまで威厳のような物を持った
生徒はそういまい。

「こんにちは、兄さん、橙子師…………それに、式」

 幹也が上、橙子が中、最後の式は下と見事なまでに声のトーンが分かれている。式の部
分には明らかに敵意が混じっていたが、石になると決めたらしい式はその言葉に取り合わ
ない。

「こんにちは、鮮花ちゃん。お客さんは連れてきてくれた?」
「ええ、仰せの通りにしましたけど……それにしても、何時の間に彼女に繋ぎを? ここ
に案内してくれと頼まれた時には、さすがに私も驚きました」
「彼女のお父さんと私が知己なの。その関係で、用事があるのよ」

 そうですか、と答え鮮花は脇に退いて、後ろの『彼女』のために道をゆずった。

「ごきげんよう」

 客の対応は橙子に任せ溜まりに溜まった仕事を片付けるつもりだった幹也は、聞き覚え
のあるその声に顔を上げ、その全ての動きを止めた。式も、その声には聞き覚えがあった
らしく、閉じていた目を開け彼女に目をやっている。二人の意識を知ってか知らずか、彼
女は薄い微笑みを浮かべて、橙子の正面に腰かけた。

「はい、ごきげんよう。早速だけどお仕事の話をさせてもらうわね。私は、お父様から貴
女のカウンセリングを依頼されたのだけれど、その話は聞いている?」
「話は聞いていませんが……何も聞かされず、ただここに行けと言われた時点で、そのよ
うなことではないかと思っていました」
「そう。それで、カウンセリングは受けてみる? こう見えても一応カウンセラーの資格
は持ってるけど」
「私はこれでもあの人の娘ですよ? 普通の人よりは父を見ているつもりですし、あの人
が何を思って私をここへ寄越したのか、察しが付く程度には子供でないつもりです。です
から、そういった気遣いは無用に願います」
「じゃあ――」

 微笑を消し、眼鏡を外す。取っ付き易そうな空気が消えた代わりと、橙子は射るような
視線を藤乃へと向けた。

「解かっているんだな? 浅上の社長が君の監視を私に依頼したことを」

 その豹変に大した驚きも見せず、藤乃はええ、と短く答え頷いた。幹也は仕事の手を止
めて二人を見、鮮花は急に展開した同級生の込み入った事情に目を丸くしている。唯一、
式だけが何の変化も見せずに座したままであったが、集中せずに話を聞くことなど彼女に
してみれば朝飯前の芸当である。

 雑然とした事務所の中で、すべての人間が藤乃の発言に耳を傾けている。

「解せないな。すると、君は私に束縛されることが分かっていてなお、ここに足を運んだ
ことになる。心情的なものは既に克服したものと思っていたのだが、君はまだ度を過ぎた
自虐を持っているのか?」
「自虐とはまた手厳しいですね。でも、何かに束縛されることは、悪くないと思います。
他者に自分の心を預けることだって、束縛と言えなくもないのですから」
「実に若者らしい発言だ。いや、羨ましいよ」
「私がそんなことを言うのはおかしいですか?」
「いや、今さっきは本当にそう思った。私自身はとうの昔にそういったことに情熱を傾け
られなくなってしまってね。まあいい、とにかく異論がないのならこれからここに来ても
らうことになる。浅上社長からは、常に私の目の届くところに君を置いておくようにとい
われているが、君に礼園を辞める気はあるまい? 君の都合のつく時で構わんから、そう
だな、最低でも週に二度くらいはここに来るようにしてくれ。リーズバイフェ女史には、
私の方から話を通しておこう」
「すると、私もこれから鮮花のように自由に外出できるようになるのですか?」
「まるで私が遊び歩いているような言い方だけれど……私が通っているのも概ねここよ。
まさか、貴女まであんな低レベルな話を信じているのではないでしょうね?」
「それこそ、まさかよ。礼園にあんな噂を信じている人なんていないわ。大部分は貴女へ
のやっかみでしょう。色々な意味で、礼園での鮮花は目立っていますから。ですから、そ
んなに心配そうにしなくてもだいじょうぶですよ、先輩」

 急に水を向けられて、思わずぎょっとなる幹也。そんなに顔にでていただろうかと、頬
をぐにぐにしてみるが、くすっと小さな笑い声が聞こえたので、止めにした。

「何はともあれ、話はついたな。私から君に話しておくことは以上だよ。では、本題であ
る君からの依頼だが――」
「ちょっと橙子さん、待ってください」
「何だ? 所員の黒桐兄。所長は商談の最中なんだから、手短にな」
「手短も何も…………藤乃ちゃんがここに来てる時点でもう反則なのに、その彼女から依
頼ってなんですか? ただでさえうちは火の車なんですよ? それなのに仕事まで曖昧に
されちゃたまりません」
「金に汚いと人生損をするぞ? 黒桐」
「お金に大雑把だとさらに損をしますよ。ただでさえ僕のお給料滞り気味なんですから、
せめてどんな仕事があるかくらいは教えてくれたっていいじゃないですか」
「確か言ったはずだが? ボランティアと境界線上の仕事があると」
「だから、それが大雑把だって言ってるんです」
「どうにもうちの社員は注文は多いな」

 やれやれ、と盛大にため息をつき、橙子はポケットから煙草を取り出した。藤乃に目を
やり別段止める様子がないのを見ると、遠慮なく火をつけ事務所に紫煙を吐き出し始める。

「では、最初から説明してやろう。今回は、浅上親子から一辺に依頼が来た訳だが、接触を
図ってきたのは、そっちのお嬢さんの方が先なんだ。昨日は特別に休暇をくれてやったな?
 彼女からの依頼が来たのはその時だ。父親の方の依頼内容は、さっき説明した通り、カウ
ンセリングという名の監視だな。払いはいいが、実につまらない仕事だと言っていい。それに
引き換えこっちのお嬢さんの払いは学生だけに皆無と言っていいが、その実ひどく魅力的だ。
幸い、同時に受けても問題はなさそうだったからな、両者にそれらの依頼を受ける旨を返し、
その上でこちらのお嬢さんにはここに来てもらったという訳だ。理解したか? 黒桐」
「事情は概ね。それで、藤乃ちゃんの依頼ってなんなんですか?」
「言った通り、ひどく魅力的なものだよ。喜べ、黒桐。伽藍の堂に二人目の所員が誕生し
たぞ。しかも泣かせることに誰かと違い無償で働いても構わないという。いや、今日は実
にめでたい日だな」
「社員? 二人目のって…………」
「血の巡りが悪いな。展開的に、そこにいる藤乃嬢以外にありえるはずがないだろう」

 それはあまりな展開というやつではないだろうか?

 呆然とする黒桐兄妹を放って、橙子と藤乃は雇用条件がどうとか浅上の内情がどうとか込み
入った話を始めている。誰が何を横流ししているなど何やら黒い会話も聞こえたような気もした
が、今の幹也には理解できるはずない。

「藤乃をお雇いになるって、本気なんですか、橙子師」

 立ち直って問い詰める鮮花は、幹也の前では珍しく取り乱している。橙子の元で働くと
いうことは、彼女の内面までも知るということ。つまり、魔術師である彼女にも直面する
ということだ。

そして、鮮花はその魔術師である橙子に師事をしている。魔術師の卵であるという事実
は鮮花の秘密の中でも二番目に重要度が高く、それを同級生にして親しい間柄でもある藤
乃に知られることは、できれば避けたい事態であった。

もっとも、ここで藤乃と橙子が会話をしているということは、既に手遅れである公算の
方が高い。鮮花もそれは解かっているが、理性と心情を完璧に切り離せるほど、自己の制
御に自信があるでもない。鮮花にすれば、その質問は最後の抵抗だったのだ。だが――

「魔術のことを心配しているのか? だったら、それには及ばないぞ。一般的な常識の範
囲外の力を有しているという点で、お前と藤乃嬢は似ていると言っていい。その力が先天
的なものに寄る、というところもな。類は友を呼ぶというのでもないが、これからはより
深い友情を結べるかもしれないな」
「藤乃も…………魔術師なの?」
「私は、ただ力を扱うことができるだけ。そういった学問は修めていませんよ」
「才能があるかどうかまでは知らんがね。そのうち魔術を学ばせてみるのもいいだろう。
相手がいた方が鮮花、お前の勉強も捗るだろう?」

 鮮花の最後の抵抗があっけなく却下された。彼女の渋面を見て、橙子は愉快そうに喉の
奥で笑う。

「そんな顔をするな。秘密がばれるというのは魔術師にとって由々しき事態だが、なに、
秘密を共有できる仲間が増えたと思えばいい」
「簡単そうに言ってくださいますね、橙子師」
「まあ、人事だからな。藤乃嬢の件は私にとってプラスになりこそすれ、マイナスにはな
らない」
「……そういう人なのだということは知っていたつもりなのですけどね。何だか今日は、
橙子師の新たな一面を見たような気がします」
「何かを発見するのは、進歩だよ。よかったじゃないか、鮮花。真理にまた一歩近付いた
ぞ」
「その話はもういいです。それで、差し支えなければ藤乃、貴女の力について聞いておき
たいのだけれど、よかったら見せて――」

 もらえないかしら? と鮮花の言葉が紡がれる前に、いくつもの音が重なった。

 いくらか離れてみていた幹也にすらいつの間に近付いたのか分からない式。その手には、
半ばから折れ曲がったモップが握られていた。それらをぼ〜っと眺めている橙子、鮮花は
何が起こったのか理解できず、呆然と立ち尽くしている。

「まったく、どうして力だけは健在なんだ。勝手に澄ましやがって……不公平だ」
「どうしてもお望みというなら、また相手を務めますけれど? 私には、その提案を受け
入れる義務がありますから」
「いらない。今のお前は戦っても全然つまらない。こいつの力はこういうことだよ、鮮花。
行使に距離を選ばないから、ある意味俺よりも性質が悪い。喧嘩を売る時には気をつける
んだな」

 折れたモップをゴミ箱に放り投げ、スタスタとドアに向かう式。

「どうした、帰るのか? 式」
「興がそがれた。散歩でもしてくる。もしかしたら、殴り甲斐のある相手でも見つかるかも
しれないからな」

 そんな本気とも冗談ともつかない言葉を残して、式は事務所を出て行った。おそらく、
今日彼女をナンパでもしようものなら、その男は地獄をみることになるだろう。せめて
そんな不幸な人間がでませんように、と幹也は心の中で祈りを捧げた。

 鮮花は依然、呆然としたまま。橙子は煙草をふかしている。その中で唯一平静を保って
いた藤乃は、幹也に顔を向け、首を傾げた。

「私、何か気に障ることを言ってしまったのでしょうか?」
「……いや、式はいつもあんな感じだよ」
「でも私、モップを壊してしまいました」
「壊さなきゃ藤乃ちゃんが叩かれてたんだから、それは正当防衛だよ。それより、僕はこ
の事務所にモップがあったことの方が驚きなんですけど」
「あちらではモップは掃除用具の基本だよ。特売で安かったからこちらに来た時に買った
んだが、使う機会がなくてな、向こうに放り投げておいたんだ。あのままだったら日の目
を見ることはなかったろうし、モップもここで使われて本望だろう。色々あったが、黒桐
兄妹はそういうことで了解してくれ。藤乃嬢、今日はご苦労だった。もう帰ってもいいぞ」
「では、近いうちにまたうかがわせていただきます。鮮花、私はもう失礼するけど、貴女
はどうするの?」
「私は講義がありますから。ここでしばらく勉強して、それから帰ります。瀬尾には、そ
のように伝えて」
「分かりました。では蒼崎さん、失礼いたします。先輩――」

 お嬢様らしい、優雅な物腰で一礼。踵を返してドアに向かう途中、藤乃はちらりと幹也
を見て、微笑んだ。

「ごきげんよう。先輩と一緒に仕事をするの、楽しみです」

 空耳かと疑うほどの、微かな言葉。当の本人は一瞬、それが誰に向けられた言葉なのか
分からなくて、えっと声をあげた。だが、藤乃は答えない。答えないまま、もう一度ごき
げんよう、と軽く頭を下げ、事務所を出ていった。

 その姿は、まるで春風のよう。こちらを包んだかと思えば、腕をすり抜けていく。拍子
抜けはするが、その心地は悪くない。彼女にも、まだまだ振り切れぬことは多いだろうが、
ああして笑えている。いいことだ。

「おや、黒桐。去っていった女の余韻を追うとは、中々風情のあることをしているな」
「そういう勘ぐりはやめてください……ってどうした、鮮花。そんなに怖い顔して」
「知りません! ご自分の胸に手を当てて考えてください!」

 何が気に入らないのか幹也には知れないが、鮮花は一抱えもある洋書を何冊か見繕って
隣りの部屋へと足音も高く消えて行った。しょうがないなぁ、と苦笑しながらその背を見
送り、幹也は放ってあった仕事に戻る。

 客も帰りすることもないのか、橙子は咥え煙草のまま本棚に歩み寄り、鮮花が持ってい
ったものよりも一回りは小さな洋書を取り出し、再びソファに腰を落ち着けた。

 ボールペンで字を書く音と、本のページを捲る音。その二つが事務所の中を支配し、時
計の長針も一回りする頃、幹也は思い出したかのように口を開いた。

「ありがとうございました、橙子さん」
「浅上家に貸しを作っておくのも悪くはない。私の行動は、全て打算から生まれたものだよ。
別にお前から礼を言われる筋合いはないが、どうしてもと言うならその言葉、受け取って
おこう」

 あまり乗れなかったのか、橙子はしかめっ面で洋書を閉じテーブルの上に放り投げた。
その振動で置きっぱなしだったカップが跳ね、飲みかけだった紅茶が零れそうになる。

 幹也は無言で椅子を立ち、それらと茶菓子の残りを回収して流しに置いた。そのままに
したところでどうせ誰も手をつけないだろうからと、その場で袖をまくり水で軽くカップ
を濯ぐ。すると、手持ちの煙草を吸い尽くしたらしい橙子が立ち上がり、

「で、誰が狙いなんだ?」
「どうして貴女は綺麗に終わらせられないんですか……」
「綺麗なだけでは、物事はつまらないだろう?」

 この状況なら、幹也達の関係もいつかはあるべき様へと変化するだろうが、それもいつ
かの話だ。その時には、橙子はここからいなくなっているかもしれないし、最悪、幹也達
のうちの誰かがこの世を去っているかもしれない。いつかを待っていては遅い。幹也達の
終着を見たいのなら、今この時から行動を起こすのは悪くない選択に、橙子には思えた。

「お前の話を聞いた限りでは式と過去に何かあったのかと思っていたが、ここしばらくの
お前達を観察した結果、友達以上と呼べても恋人とは呼べぬ関係と判断した。ここまで特
殊な状況が揃えば、何かあってもよさそうなものだが、それは私の認識が甘いのか?」
「その理屈だと、僕にはこの先何人も恋人とやらができそうですね……」
「そうなってくれると実に面白いが、お前にそこまでの甲斐性がないことは理解している
よ」

 そこまでの甲斐性が幹也にあるのなら、鮮花の感情に気付いてしかるべきだ。背徳を孕
んだ鮮花の思いは、何よりも純粋である。それ故に彼女は『時が来るまで』とその思いを
ひた隠しにしているのだろうが、このままではその思いは潜在したままで終わってもおか
しくない。

 その潜在的な思いを顕在化させる。そのための式であり、そのための藤乃だ。三つ巴で
あってこそ、この戦いは面白くなる。ここで参加数を減らすのは、得策ではない。

「日頃から真面目に働いている黒桐には、社内恋愛を許してやるぞ。仕事に支障をきたさ
ない程度なら、何をしてもいい。だから、安心して恋愛に励んでくれ」
「そんな許可はいりませんから、僕のお給料なんとかしてください」
「無い袖は振れぬ。そろそろ黒桐も事実を認識すべきだな。未知に挑むは魔術師の本義だ
が、ない物ねだりは見苦しいだけだぞ?」
「とにかく、そんな口車にのって見世物になんてなりませんからね。色恋沙汰が見たいな
ら、自分でやってください」

 濯いだカップを拭いて棚に戻し、放ってあった携帯電話を掴むと、幹也は事務所を出て
行った。幹也のデスクの上の処理しかけの書類の中に、特別外に出る用事のあるものは見
当たらなかった。

「これは、怒らせてしまったか?」

 心の狭いことだ、と橙子は大きく息をつき、幹也のデスクに腰を降ろした。何かないも
のかと引き出しを漁ってみると、本人すら忘れていそうな奥の方に、煙草を見つけた。日
本製で、しかも一本だけ吸われているという、橙子にとっては実に中途半端極まりない一
品だったが、口寂しさには代えられない。

 箱から一本だけ煙草を取り出し、残りを引き出しに戻す。火をつけて吸ってみるが……
まだ許容範囲の不味さだったので、よしとした。

「両儀式、黒桐鮮花、浅上藤乃…………」

 それらは、この場においてカードの名前だった。誰と勝負をしても見劣りしない輝きを
持つ、それら全ては切り札。しかし、その輝き故にどれもが致命的な欠点を抱えている、
それら全てはジョーカ。

 勝機と、それに匹敵する敗因を同時に持ったそれらのカードで行う勝負は、まさにギャ
ンブルだった。アトラシアの名を冠する錬金術師であったとしても、その勝負の行方は予
測しきれまい。

 そのゲームに立ち会えることは、まさに幸運。カードの放つ輝きもさることながら、何
よりも注目すべきは、そのプレイヤーである。誰よりも平凡である彼は、平凡であると同
時に誰よりも異彩を放っている。それらのカードを使いこなす権利を有しているのは、こ
の世界において、彼の他にはいないだろう。

「久しく忘れていたな……もはや私の中には存在しないものだと思っていたのだが……」

 この興奮……一つの事柄に強く惹き付けられ、それさえあれば事が足りてしまう。理不
尽な衝動。人はそれを、『情熱』と呼んでいる。