『十年後のある日』


















 スープの煮えるいい香り、まな板の上で踊る包丁の心地よいリズム。食事の準備をする

時間は、真那の一番好きな時間だった。美味しい料理ができた時には嬉しいし、それを誉

めてくれる人がいるのは、もっと嬉しい。



 そして何よりも嬉しいのは――



「真那、お塩とってくれる?」

「は〜い」



 当たり前のように手を動かしながら喋る父親に、待ってましたと言わんばかりに、さっ

と塩を渡す。受け取った塩を振りスープの味を見ると、彼は大きく頷いて真那の頭を大き

く撫でた。



「うん、いい出来だよ。真那が手伝ってくれたおかげだね」

「ありがとう、パパ」



 自分でもとびきりと思える笑顔で見せて、『パパ』に頷き返す。料理ができて優しくて、

世界で一番かっこいい男性(ひと)……相川真那は、パパが大好きだった、











「じゃあ、いただきます」

『いただきます』



 家族三人で手を合わせて食事を始めるのは、相川家の習慣であった。何かと忙しい身の

両親であるが、週に三度は必ず三人揃った食事をしてくれる。それが娘としては何よりも

ありがたかった。



「すごいね……真那ちゃん、上達が早いよ。私が真那ちゃんくらいの時は、こんなことで

きなかったもん……」

「凄いでしょ? もっと誉めて、ママ」



 ふふん、と胸を逸らしてみたり。もっとも、母親の遺伝子をしっかりと受け継いだせい

なのか、何とも成長の見込みがなさそうなのが、悩みの種だったりするが……



「このペースで行けば、中学に入る頃には俺達の手伝いもできるんじゃないかな?」

「ほんと!?」



 勢い込んで、テーブルに乗り出す真那。それもそのはず、真那の両親である相川真一郎

と小鳥夫妻は海鳴市でも一二の人気を誇る料理屋、春風の料理人なのである。元々の会社

勤めを止めてオープンした店、それにも関わらず生来の二人の料理の腕前のせいか、オー

プン当初から客足は好調だったと聞いている。



 小学校のクラスメートに『高校生になったらアルバイトしてみたいお店』アンケートを

取っても、常にあの翠屋とは半々くらいの結果を出しているのだ。そんな店をほとんど二

人きりで切り盛りしている両親は、まさに真那の誇りであった。



「こらこら……あまりはしゃぎすぎても駄目だよ。ちゃんと俺達の手伝いとかして、もっ

と勉強してもらわないと」

「なんかお勉強って言葉きらい……」



 耳を塞いでいやいやをすると、真一郎は女性のような柔和な顔に苦笑を浮かべた。



「そりゃあ、俺も好きじゃないけどさ。努力してみるってのもいいものだよ、時にはさ」

「……でもでも、お料理するのは嫌いじゃないんだよ? むしろ好きだもん」

「分かってるよ。真那はあんなに楽しそうに料理するもんね。だからちゃんと勉強した後

に作った真那の料理が、俺は今から楽しみなんだ」

「私がちゃんと春風で働けるようになったら、パパ、最初に私の料理食べてくれる?」

「もちろん。喜んで食べさせてもらうよ」

「ありがとう!!」



 感激のあまり抱きつ……きたかったのだが、テーブルを挟んで向かいに座っている父親

に抱きつけるほど、真那の手足は伸びきっていないのだった。



 とりあえず頭を撫でてもらうことで納得して食事を再開。春風のメニューを決める場で

もある相川家の食卓はとにかくバリエーションに富んでいて、飽きることはない。たまに

父が茶目っ気を出して、常識では考えつかないような料理を出したりもするが、不思議な

ことにそんなものまで含めても、真那は一度も両親の失敗作というものを目にしたことは

ない。



 前にそれを誉めたら二人には笑われてしまったが、真那の前ではそれほどに二人は完璧

な夫婦だった。



「そう言えば真くん。もう少しであの日だよね?」



 それまでは父娘のやりとりをほにゃっとした笑顔で眺めていた小鳥が、ふいにそんな話

を切り出す。当たり前のように切り出された話題であったが、真一郎は唐突には思い当た

る節がなかったのか、首をわずかに傾げて考え――



「……ああ、そう言えばもうそんな時期か。そうなると、そろそろ臨時休業のお知らせっ

て出しておいた方がいいかな?」

「翠屋さんみたいにお料理できる人が他にもいればお休みにしなくてもいいんだけどね…

…」

「まあ、ない物ねだりしてもしょうがないよ。とにかくその日は春風は休業。それは不動

ってことで……」

「ちょ〜っと待って、パパにママ。私は話が見えないんだけど……」

「ありゃ、真那は覚えてないのかな? 定休日と年末年始の他に必ず休業にしてる日があ

るでしょ?」



 真一郎に問われ、真那は首を傾げながら壁にかけられたカレンダーに目をやった。二人

の示すその日には既にマジックで大きく赤い花丸が記されている。母はかわいいもの好き

だが、この花丸はよほどのことがない限りは描き込んだりしない。だからよほどのことが

あるはず、と真那は腕を組んで考え――



「…………あっ!!」



 それに思い至った時には、いつのまにか立ち上がっていた。何故、こんなにも大切なこ

とを忘れてしまっていたのだろう。突然立ち上がった愛娘を微笑ましく眺める両親も、今

は眼に入ってもいない。それくらい、目の前が真っ暗になった。



「ごちそうさま……」



 まだ少し残っていたが、このテンションでは食べ切れる気はしなかった。食卓を離れ、

部屋に戻ろうとする自分を引きとめようとする父を、母が止めているのが視界の隅に入っ

た。小さく振り返ると、小さくて可愛らしい母はかっこいいけれども鈍感な父にはばれな

いように、ウィンクをしてくれた。



 それで、大切なことを忘れていたことも、少しだけ救われた気がした。




















 でもまあ、救われたのはあくまで少しであった訳で……




















「……真一郎達の結婚記念日? そう言えばもうそんな時期だねぇ」

「愛される娘としては、忘れずにプレゼントとかしたかったのに……娘失格かも」

「そんなことで相川も小鳥も、君を責めたりはしないよ」



 場所が相川家から移っても、真那の気持ちは沈んだままだった。普段は両親の料理に勝

るとも劣らないはずの翠屋のシュークリームも、何だか今日はあまり味がしない。学校も

終わった夕暮れ時……学生で賑わう翠屋の奥の席を占領してまで『彼女達』に相談に乗っ

てもらっている訳なのだが、かれこれ十分くらい、真那の愚痴を彼女らは励ますという状

態が続いている。



「そうそう。真那ちゃんの倍は真一郎達と付き合ってる私達だって、言われるまで忘れて

たんだから、気にすることないわ」

「それを言うなら千堂先輩、私なんていまだにその日が来るたびに胸が締め付けられる思

いなんですけど……」

「それは私だって同じだよ。せっかく根性でこっちまで戻ってきたのに、真一郎君ってば

いつの間にかパパしてるんだもん」



 もっとも、彼女達も彼女達で会うのが久しぶりなためか、相川夫妻の昔の話などで勝手

に盛り上がっていたりしている。それでも真那の相談には乗っているのだから、器用とい

うか何と言うか……それでも、心強いことには違いないので、相談してよかったなとは思

う。



「という訳ですので、私から心を込めたプレゼントを贈ってパパとママに喜んでもらいん

ですけど、何かいいあいであはないものでしょ〜か」

『あいであねえ……』



 そう言って、真剣に考えてくれるのは、両親の共通の友人である女性達。全員、同性で

ある真那から見てもはっとするほど美人さんなのに、揃いも揃って独身なのだ。理由は…

…真那が聞いても教えてくれない。ただ、一度相川家で彼女達を交えたパーティーをした

時にその質問をしたところ、子供の身に理解しがたい空気がその場を満たしたことは記憶

している。その場で同じ質問をする勇気は真那にはなかったが、今でもそうであるところ

を見ると、よほど大事な理由が皆にはあるのだろう。



(もしかして、今でもパパのこと諦めてないとか?)



 ふと、そんな考えが浮かんだが、真那は言葉には出さなかった。



(本当だったら、怖いしね……)



「真一郎達のためにお料理でも作ってみたら? 真那ちゃん、得意でしょ」

「うん。愛娘の手料理とあれば、相川あたりだったら泣いて喜ぶかもしれないな……」



 一般的な案を出してくれたのは、この女性達の中では比較的会う機会のある、鷹城唯子

と御剣いづみのペア。中学校の先生と忍者というよく分からない組み合わせの二人である

が、真那の両親達と一緒に卒業した時に始めた同居が今でも続いているという、筋金入り

の仲良し組だ。



「それは……ごめんなさい。私的にパスです」

「どうして? 得意な物があるんだったら、唯子はそれでいいと思うけど……」

「だって、パパやママの料理の方が美味しいじゃないですか」

「味はこの際あまり問題じゃないと思うけどなぁ……」

「じゃあ、贈り物でもしてみたら? 私でよければ買い物に付き合うけど」



 汗をかいたアイスティーを掻き混ぜながら言うのは、この中で最も『大人な女性』、千堂

瞳。学生時代から得手としていた護身道を一生の職とし、現在では海鳴大で専属のコーチ

をしている。父真一郎に似た面差しをしていて、昔は良く彼と姉弟に間違えられたそうな。



「持ち合わせがあんまりないし……それに、何か私! って物を贈りたいんです」

「真一郎と小鳥さんと同じで可愛い顔してるからかしら? あの子達と一緒ね、真那ちゃ

んも」

「じゃあ、真一郎に似てる瞳も頑固なのね」

「芯が強いってことですよ、七瀬先輩」



 やんわりと窘めたのは綺堂さくら。この海鳴市に住む小説家である。読書と動物を愛す

る静かな女性で、真那がもっと小さい時には、何度も絵本を読んでもらったりもした。両

親と同年代であるが、真那に取ってはお姉さんでもある。



対して、瞳をからかっていたのは一条七瀬。彼女とは小学校に入学した時からの付き合

いで真那の一番の親友でもある。言葉の端々に見える『大人っぽさ』がクラスの中でも少々

浮いているが、それを全く気にさせない彼女独特の雰囲気は、学年の中でも人気だった。



 雰囲気的にあうところはあると思う。でも、いくらさくらが年齢よりも極端に若く見え

るとは言え、親子ほども年の離れているのは事実である。それでもさくらは七瀬のことを

先輩と呼び、小学生であるはずの七瀬はそのようにさくらに接するのだ。この不可思議さ

は、おそらく一生の謎になると思う。



「じゃあ、七瀬ちゃんは何がいいと思う?」

「私? 私だったら……そうね、リボンを探してきて、身体に巻いて――」

「それはいくら何でも駄目ですよ、七瀬先輩」

「私を食べてって展開、男だったらぐっとこない?」

「それは先輩が結婚する前に私が試しました。だから、真新しさはないと思います」

「……綺堂さん、参考までに聞いておきたいんだけど、その時真一郎はどうしたの?」

「秘密です……」



 あくまで隠そうとするさくらを中心に、こういう話好きの瞳や七瀬がかぶせてくる。『食

べて』のくだりで既についていけなかった真那は、しばらく小さな頭に指を当てて考えて

いたが、



「いや、真那ちゃんは気にしないほうがいいと思うぞ。娘がそんなことしたら、相川はと

もかく小鳥の方が倒れかねない」

「ママ、倒れちゃうんですか?」

「もしかしたらの話だよ。小鳥を心配するんだったら、間違ってもさっき言ったことを実

行しないように」

「え……でも唯子、昔真一郎の部屋で女の人がリボン巻いた本見たことあるけど」

「だからそういう余計なことを言うんじゃない。小鳥に旦那の闇討ちを依頼されたらどう

してくれるんだ」

「いづみちゃん、殺し屋さんもしてたの?」

「だ・か・ら・例えばの話だ。先生が小学生と同じレベルでどうする?」

「…………それで、私はどんなプレゼントを贈ればいいんでしょうか」

「相談に乗られた人間の言う言葉じゃないが、この際何でもいいんじゃないか? 君から

のプレゼントだったら、相川も小鳥も喜ぶと思うけど」

「そう……でしょうか」

「愛される娘、なんだろう? だったら、もう少し自信を持て。君は自分で思っているほ

ど安い人間じゃない」

「何か、難しい話ですね」

「なら、文句は相川に言ってくれ。学生の時分に落ち込んでいたとき、似たようなことを

あいつに言われたんだから」



 ふっと微笑んで、いづみは真那の頭を撫でた。その言葉は、真に心の中に刻み込まれて

いるのだろう。いづみの顔は、それは穏やかなものだった。
























 結局、真那の呼びかけで彼女らに集まってもらった訳だが、最終的にこれといった案は

出なかった。瞳やさくらなどは、一緒にプレゼントでもと言ってくれたが、それは謹んで

辞退させてもらう。



 年に一度しかない日。この世で最も愛する両親の結婚記念日なのだ。義務でなく、本当

に何かをしてあげたいと思うし、そんな日を忘れていたことは申し訳なく思っている。



 だから、真那は考えた。両親のこと、相談に乗ってくれた唯子達のこと。自分に何がで

きて、何をしたら、最も喜んでもらえるのか。



 いづみの言った通り、何をしても二人は喜んでくれるかもしれない。だからこそ、考え

なければならないのだろう。相手の気持ちと自分の気持ち。愛している人に通じてくれれ

ば、これほど嬉しいことはないのだから。



(よし、がんばろう!)



 愛するパパとママに喜んでもらえますように……唯子達に自宅まで送ってもらった真那

は、心の中で拳を握ったのだった。































「真君……こっちはもうできたよ」



 今晩のメインディッシュを作っていた小鳥が、台所から出てくる。今の今まで手先に神

経を集中していた真一郎は、ん、と小さく唸ることでそれに応え、そのまま作業を続ける。



「……よし、こっちもできたよ」



 近年稀に見る傑作……料理人として意匠の限りを尽くしたケーキを眺めて、拙作ながら

感嘆のため息を漏らす。ただ家族で食べるためだけにしては、何とも頑張ったものだ。こ

こまでのできだったら写真にでも収めて唯子辺りにでも自慢したところだが、残念ながら

それは今回見送らなければならない。



 これは、このケーキは、愛する妻と娘と自分達の結婚記念日を祝うため『だけ』に作っ

たもの。作られた食べ物としては不遇の一生かもしれないが、このケーキには相川家の皆

にのみ見られ、食されるという運命が待っているのだ。例えケーキに泣きつかれたとして

も、その考えを変えるつもりはない。



「三人で食べるにはちょっと大きくないかな?」

「そう……かな? まあ、真那もいるし大丈夫でしょ。育ち盛りなんだし」

「でも、真那ちゃん女の子だよ。確かに甘い物は好きだけど、いっぱい食べたら太っちゃ

うよ」

「むむ……でも、パパとしてはちゃんと食べてくれた方が嬉しいな。タダでさえ俺達の遺

伝子を受け継いでるんだ。食べないで背が低いままだったら、親として責任感じる」

「ちっちゃくても真那ちゃんかわいいよ〜」

「それは俺も依存はないけどね。でも、俺達だって高校生の時までは気にしてたんだから、

せめて親と同じ悩みは持ってほしくないっていう、パパの気持ち」



 背の低い部類だった真一郎は、背の並び順ではいつも前の方だった。女の子では逆に背

が大きいのを気にしたりするのだろうが、小鳥のような悩みを持つ者だっている。要は適

度に、ということなのだが、人間これが難しい。



「俺としては、素敵な女の子にでも育ってもらって手伝いをしてくれるってのが理想なん

だけどね」

「駄目だよ。私は真那ちゃんのドレス姿見たい――」

「それは駄目。うちの可愛い娘をどこの馬の骨にあげられますか」

「じゃあ馬の骨じゃなければいいの? 今から耕介さんや恭也君に予約しておいたら?」

「確かに馬の骨ではないんだけどね……できが良すぎるんだよね、彼らの場合」



 およそ十年以上の付き合いになる耕介や恭也の息子ら、小鳥の現に上ったのは彼らのこ

とである。真那と同年代でまだまだ子供であるが、真一郎の目から見ても彼らは男として

できすぎていたのだった。



(絶対親御さんのせいだよね。あんなに素敵な親父とお袋じゃ、息子は絶対ああなる)



「ともあれ、うちの娘は渡せません。どうしても欲しかったら、俺を倒してからね」

「あの子達だったら、真君でも負けちゃうんじゃない?」

「……父親は強いのさ」

「親ばかだね、真君」

「かわいい娘をかわいがって何が悪い」



 道具を片付け、最終的な飾りつけ。力作のケーキに加えて、小鳥の料理にも気合が入っ

ている。そんじょそこらの一流レストランにだって負けない豪華さだ。これなら真那も目

を輝かせて喜んでくれるだろう。愛する娘の喜ぶ姿を思い浮かべ、真一郎の顔を思わず綻

ぶ。



「ねえ、真君。気にするのは真那ちゃんのことだけ?」

「忘れてないよ。はい」



 いつまで経っても子供臭さの抜けない顔いっぱいに不満を浮かべた小鳥に苦笑しながら、

真一郎は懐から小さな箱を取り出して、開けた。



「結婚、十年目かな。あまり高いものじゃないけど、これからもよろしくね、小鳥」

「ありがとう、真君。これは私から……」

「井関さんから? これだと随分したんじゃない?」



 小鳥が取り出したのは、蓋の透けたケース。中に納められているのは、業物の包丁であ

る。先の耕介や恭也と違い、剣術の類を学ばなかった真一郎に刀剣の確かな価値など分か

るべくもないが、目に見えかねないオーラに当てられれば、嫌でも気付かざるを得ない。



「井関さんがね、うちのファンなんだって。だからおまけしてもらっちゃったの」



 小鳥は渡された指輪を嬉しそうに手にはめる。



「確か、恭也君とこの小太刀もあそこなんじゃなかったっけ? 井関さんも節操がないと

いうか……」

「おまけしてもらったんだから、それでよしだよ」

「まあ、それもそうだね。とにかくこれ、ありがとう」

「どういたしまして」

「さ、準備もできたことだし夕食にしましょうか。真那は――」

「おまたせ!!」



 立ち上がろうとした真一郎の言葉を遮るように、部屋に飛び込んできた。



「真那ちゃん、急がなくてもご飯は逃げないよ。今日は私と真君が腕によりをかけて作っ

たから、しっかり食べてね」

「それだと、いつも適当に手を抜いてるみたいじゃないか?」

「いつもだって手なんて抜いてないよ。今日はいつにも増して腕によりをかけたの」



 小鳥がからかうとむきになるのは、子供の時から変わらずだ。変わったのは、そういう

時には必ずと言っていいほど、もう一人の幼馴染が近くにいたことだけか。付き合い始め

た当初は感じていた違和感も、今では随分と払拭された。いまだに女性と間違えられるこ

ともある自分にとっては、時間の流れていることを自覚する数少ない一瞬である。



「あの……ご飯食べる前に、パパとママに渡したい物があるの」



 ぷんすかしている小鳥を黄昏つつ眺めていた真一郎は、娘のその声で現実に引き戻され

た。小鳥も、むくれるのを止めて真那の方を向く。



 緊張しているのは、真那は胸に手を当てて大きく深呼吸を繰り返した。愛する娘のいつ

にない様子に、何事かと真一郎達は目を見張る。



 やがて、真那の決心もついたようだった。可愛らしい目にきっと決意を漲らせ――



「パパ、ママ、結婚記念日おめでとう!」



 ――娘のその言葉を理解するのに、真一郎は恥ずかしながら数秒を要した。真那はまだ

小学生だ。何にもプレゼントをくれない、と思っていた訳ではないが、自主的にお祝いの

言葉を貰えるとも思っていなかっただけに、嬉しさよりも先に驚きの方が立ってしまった。



 だが、時間が経つと、じんわりとした嬉しさが真一郎を満たしていく。小さな娘からの

お祝いの言葉――ささやかなことではあるが、真一郎は幸せを感じていた。



「ありがとう、真那ちゃん」

「覚えていてくれてるとは思わなかったからね。すごく嬉しいよ」

「お祝いの言葉だけじゃないよ。お手紙書いたんだから」



 表紙に大きく『パパとママへ』と書かれた少女趣味の封筒を、真那は誇らしげに掲げて

みせる。この段階で、真一郎は冗談でなく泣きそうになっていたのだが、娘の前で泣くわ

けにはいかないと根性で堪え、小鳥に促されるまま食卓の椅子に座る。



「何にしようか色々考えたんだけど、結局お手紙になったの。来年は、もっと凄いプレゼ

ント用意するから、楽しみにしててね」

「手紙でも十分に嬉しいよ。どれ、中身は――」

「ああ! それはママと二人の時に見てくれないかな? 目の前で読まれると恥ずかしい

から……」



 こちらを止める真那は本当に恥ずかしそうだ。生来のいじめっ子である真一郎にとって、

それはとてもとてもおいしい状況であったが、やりすぎて泣かれてしまっては一生物のト

ラウマになってしまう。予期せぬプレゼントのおかげで気分もいいのだし、ここは我慢…

…と、真一郎は手紙をポケットにしまった。



「分かった。真那が言うなら、ね。じゃあ、乾杯しようか」

「真那ちゃんのグラスはこれだよ」

「……これってお酒じゃないの?」

「これは、アルコールの入ってないシャンパンなの。少しお酒みたいな味はするけど、酔

っぱらったりはしなから、大丈夫だよ」



 ママのお勧めなら、と真那もグラスを受け取る。相川家の女性陣にグラスが行き渡った

のを見ると、真一郎は自分のグラス――こちらは本物のシャンパンであるが――を掲げ、



「じゃあ真那、乾杯の音頭をとってもらえるかな」

「恥ずかしいんだけど……ママ、代わりにやらない?

「私も真那ちゃんにやってもらいたいなぁ」

「……分かった。じゃあ……パパとママの結婚記念日に――」

『乾杯!!』

















「大好きなパパとママへ……か」



 ベッドに仰向けに寝転がり、窓からの光に手紙を翳す。あの封筒の中身なだけあって便

箋まで可愛らしい。加えてその内容も、だ。



 真那の言いつけ通りに夕食後、小鳥と寝室に戻ってその手紙を読んだのだが、真一郎は

不覚にも読みきる前に泣いてしまった。小鳥にいたっては読むなり部屋を飛び出して、真

那のところに行ってしまっている。今頃は親子仲良く風呂にでも入っているのだろう。



 小鳥と結婚してもう十年、真那が生まれてからは九年が経った。その間に色々な経験が

あって、風芽丘にいた時には予想だにしなかった自分の店まで持つにいたっている。日々

の生活には何の不満もなくて、できた妻と可愛い娘がいて、ともすれば今が夢と疑うほど

に幸せだった。



 自分の額を指で弾いてみる。軽い痛み……それは、本物だった。小鳥も真那も、そして

この手紙も全てが本物なのだ。



 また、涙が零れた。だが、守るべき家族がいるのだから、泣いてばかりもいられない。

手紙をサイドテーブルに置き、袖で涙を拭って立ち上がる。



 そのうち二人が風呂から出てくる。その時には、甘いミルクでも入れてあげよう。真那

には好きなお菓子もサービスだ。いつもは遅い時間に甘い物を食べるのをよしとしてない

が、今日くらいはいいだろう。こんなに素敵なプレゼントを貰ったのだから。









 ベッドから立ち上がり、部屋を出て行く真一郎。すると、窓から吹き込んだ風がサイドテー

ブルの手紙を吹き上げた。









『大好きなパパとママへ。

 いつも美味しいご飯を作ってくれてありがとう。 真那はまだまだ修行不足だけど、もっと頑張

ってパパやママに負けないご飯が作れるようになったら、一緒にお仕事手伝うんだから。

今でも休みの日にはお買い物に行ったりしてくれるけど、お手伝いができるようになれば、もっと

一緒にいられるもの。パパとママと一緒にお家を出て、一緒に働いて、一緒にご飯食べて、一緒に

寝るの。大きくなったらそうするつもりだから、二人とも忘れないでね。

私はずっと、パパとママのこと考えてるから……だから、これからも私のこと大切にしてね。

 



                         パパとママの結婚記念日を祝って、相川真那』





















後書き

何とか書きあがりました……

パソコンを落っことすなんて災害に見舞われましたが、どうにかここにお送りすることが

できます。

という訳で、二万ヒットのリクエスト第一段、『十年目のある日』です。筆者がサブキャラ

嗜好であるためか、よくよく考えたら主人公とそのメインって組み合わせは今までに書い

たことが皆無だったり……でも、そのおかげでいい経験ができました。



リクエストしていただいたkさんに深く感謝するとともに、ここで結ばせていただきます。